日本には稲川会や住吉会など指定暴力団が多く存在しますが、その中でも最大勢力を誇ってきたのが山口組です。
この記事では、山口組の歴代組長について最強ランキングTOP6にまとめてご紹介します。
この記事の目次
山口組組長歴代最強ランキング 1位 弘道会・司忍
司忍(つかさ しのぶ)
本名: 篠田 建市(しのだ けんいち)
生年月日: 1942年1月25日
出身地: 大分県
出身校: 大分県立水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)卒業
肩書: 六代目山口組組長
司忍さんは日本最恐の2次団体と呼ばれる”弘道会”の元組長で、現在は6代目山口組組長を務めています。
”司忍”というのは博徒が通り名として付ける渡世名で、仲の良かった実弟・司が小学校時代に亡くなったことから、偲ぶ意味を込めて付けたと言われています。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際には、司忍さんは五代目組長・渡辺芳則さんの所にヘリコプターで駆けつけ、 共に被災者救援活動を行ったことは有名なエピソードとして知られています。
義侠心の強い司忍さんは六代目山口組組長に最もふさわしい男として就任しましたが、先代の渡辺芳則さんのやり方に不満を持ち、クーデターを起こしての政権交代でした。
山口組傘下で最恐の2次団体と呼ばれた弘道会組長時代から、司忍さんは関西を拠点に4000人の構成員と圧倒的な資金力、他を凌ぐ武闘派として名を馳せていました。
また、司忍さんを山口組組長に押し上げた人物として有名なのが高山清司さんです。
”超武闘派”と言われる最恐の若頭・高山清司
「殺しの高山」の異名を持つ超武闘派として知られ、閉じられている右目は抗争時に日本刀で切りつけられたものだと言われ、山口組の三次団体である「高山組」の初代組長を務めていました。
「高山組」は山口組随一の武闘派集団で、二代目組長を務めた高山清司さんの腹心・竹内照明さんは現在弘道会組長を務めています。
高山清司さんは弘道会の若頭時代に、組織の徹底した秘匿性と反警察の体制づくりに務め、警察の取り調べや任意の対話に対しては完全に黙秘を貫き、事務所の出入り口を封鎖して捜査員の行動を妨害するなど警察に真っ向から対立する姿勢を取り、組織を強固にしていきました。
弘道会を最恐に仕立て上げた手腕を山口組にも持ち込んだ高山清司さんは、引き続き司忍さんを支える若頭として、時期組長候補として活動しています。
アメリカ政府によるビトフィネックス対策、楽観的な方も居たようですが、自分が真っ先に思い浮かべたのは、日本のヤクザに対するアメリカの大攻撃です。おそらく暴排条例制定に影響力を行使し、山口組の司忍組長や高山若頭、住吉会の海外資産を凍結しました。
— 仮想通貨新聞 (@kasou_shinbun) July 17, 2019
山口組組長歴代最強ランキング 2位 山健組・山本健一
山本 健一(やまもと けんいち)
生年月日:1925年3月5日
死没日: 1982年2月4日
肩書:元三代目山口組若頭 山健組組長
1961年に山健組を立ち上げた山本健一さんは、司忍さんが尊敬していた三代目山口組組長・田岡一雄さんのボディガード兼秘書を務めて寵愛を受け、山口組の抗争の矢面に立ち続けた超武闘派の人物です。
山健組が武闘派として名を知らしめたのが1978年に大阪の松田組との抗争「大阪戦争」で、京都のクラブ「ベラミ」にて田岡一雄さんが松田組から襲撃を受けたことに激怒した山本健一さんは、保釈中の身ながら大量殺戮を厭わない全面戦争を仕掛けました。
後の五代目山口組組長の渡辺芳則さんが会長を務めていた健竜会や山健組の幹部連中が、松田組の組員を次々と襲撃して銃殺しました。
この功績から山本健一さんは田岡一雄さんの後継として四代目山口組組長の座に就任するものと思われていましたが、田岡一雄さんが1981年に死去すると、その後を追うように山本健一さんも1982年に肝臓の病気で死去しました。
しかし、山健組幹部らは山本健一さんの遺志を受け継ぎ、山口組の幹部など中核を担い、渡辺芳則さんは山健組の組長を継いだ後に、山口組の五代目組長に上り詰めました。
その後、渡辺芳則さんは司忍さんらのクーデターにより山口組組長の座を明け渡したことで、弘道会は山健組を凌ぐ影響力を行使するようになり、それに不満を抱いた山健組組長を継いだ井上邦雄さんは山口組の離脱を表明し、神戸山口組を立ち上げ本家との対立をしています。
「わしの願いは日本一の親分の下で、日本一の子分になることや」三代目山口組山健組組長・山本健一
— ナックル系 パラダイス (@N5803Sereso) September 25, 2019
山口組組長歴代最強ランキング 3位 章友会・石田章六
石田 章六(いしだ しょうろく)
本名:朴泰俊(パク テチュン)
生年月日:1932年10月30日
死没日:2016年10月23日
肩書:元六代目山口組顧問、章友会会長、旧柳川組舎弟
石田章六さんは超武闘派で知られた柳川組を経て、章友会(前身は石田組)の会長や六代目山口組顧問を務めていました。
山口組の二次団体だった柳川組は、最盛期には2800人の構成員を抱える大組織で、石田章六さんは「柳川組四天王」と呼ばれた最側近の一人でした。
二次団体でありながら警察から広域暴力団に指定されていた柳川組は、1958年に起きた大阪での縄張り争いにおいて、敵対勢力100人に対してたったの8人で日本刀を持って殴り込みをかけた伝説を残しており、「殺しの軍団」と呼ばれて恐れられていました。
「柳川とは喧嘩をするな」とトップから忠告されるほど他の組織に恐れられた柳川組は、山口組の勢力拡大に最も貢献した組織だと言われており、特に石田章六さんは「柳川組四天王」の中でもカリスマ的な信奉を集めていました。
超武闘派として知られた石田章六さんは普段はきさくで穏和な人物として知られており、一般人には腰が低くて丁寧な対応をし、山口組と袂を分かった神戸山口組の初代組長・井上邦雄さんも「おじさん」と呼んで慕っていました。
2016年3月に、石田章六さんは病身にムチを打って、六代目山口組定例会に司忍さんらを激励するために出席していましたが、2016年10月23日に大阪市内の病院で83歳で死去しました。
これにより、石田章六さんを信奉していた神戸山口組の組員は山口組に配慮をする必要が無くなったため、抗争が激化しました。
「100人相手に8人で」伝説の武闘派が死去(´・ω・`)
— 青空雪希️ (@72XLW90Hm43jVUp) July 3, 2019
六代目山口組顧問で章友会・石田章六会長
伝説の武闘派は、最後まで「現役」として男の生きざまを貫き通した。
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山口組組長歴代最強ランキング 4位 弘道会・竹内照明
竹内 照明(たけうち てるあき)
生誕: 1959または1960年
住居: 愛知県
肩書: 山口組若頭補佐、弘道会会長(2013年 – )
竹内照明さんは前述の山口組若頭である高山清司さんの補佐役であり、一番の腹心として弘道会の会長を務めています。
そのため、現在の山口組はトップに司忍さん、2番手の高山清司さん、3番手に竹内照明さんと直系の3人が揃っていることになり、磐石な体制が築かれています。
竹内照明さんは山川一家の三代目総長で母体である稲川会の理事長を務めている内堀和雄さんと2006年に五分の兄弟の盃を交わした際に、「絶対に出世する人物」だと目されており、実際にその通りに権力を握ってきました。
竹内照明さんは高山組で若頭だった中野寿城さんを弘道会若頭に昇格させ、高山清司さんの息のかかった構成員で弘道会は支えられています。
平成29年1月24日(火)午前中に稲川会が総本部に到着しました。昨年の初夏に稲川会の清田次郎会長と内堀和也理事長が弘道会竹内照明会長と竹内会長の愛人を箱根に招待しました。竹内会長の愛人が煙草を吸い清田次郎会長にその煙が掛かりましたが謝りもせず吸い続けました。失礼極まりますね。 pic.twitter.com/RUoo9LQm3W
— 大阪とし(ToshiOsaka) (@ts121083909) January 24, 2017
山口組組長歴代最強ランキング 5位 後藤組・後藤忠政
後藤忠政(ごとう ただまさ)
本名: 後藤 忠正(ごとう ただまさ)
生誕: 1942年9月16日
出身地: 東京府東京市荏原区
国籍: カンボジア
別名: 得度名:忠叡
肩書: 後藤組組長、四代目山口組直参、五代目山口組直参、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟
後藤忠政さんは五代目山口組時代に若頭補佐を務め、六代目時代に舎弟を務めた後藤組の組長 です。
五代目山口組組長の渡辺芳則さんの時代に、後藤忠政さんが組長を務める後藤組は構成員と準構成員合わせて1200人を超える影響力を持った二次団体でした。
しかし、六代目山口組組長である司忍さんの時代には舎弟となるも、2008年に不義を働いたという理由で除名処分を受け、後藤組は解散、後藤忠政さんはヤクザを引退しました。
除名処分を受けた理由は、後藤忠政さんが病気を理由に山口組本部での定例会を欠席しながら、細川たかしさんら有名芸能人らとゴルフコンペに出かけていたためでした。
後藤忠政さんはクーデターを起こして政権交代した司忍さんに対する忠義が無かったことから、後藤組を含めた8つの反対勢力の二次団体が処分されました。
後藤忠政さんは山口組から除籍処分を受けた際にあっさりとヤクザを引退し、2009年に神奈川県伊勢原市にある天台宗の寺院・無常山浄発願寺にて出家しました。
カンボジアで爵位「オンニャー」を取得
そして、後藤忠政さんは地元で起きた「袴田事件」を題材とした2010年公開の映画『BOX 袴田事件 命とは』の制作に3億円のポケットマネーをつぎ込み、冤罪被害者とされる袴田巌さんの支援をしていました。
その後、後藤忠政さんは東日本大震災やミャンマーなどのチャリティーに参加し、2011年に移住したカンボジアでは養鶏場を経営しながら学校を建設して貧しい子供たちの学びの場を提供するなどボランティア活動に専念してきました。
そうした功績が認められてカンボジアの爵位に相当する「オンニャー」の称号が与えられ、カンボジアの政界進出を目指しているとも言われています。
カンボジアでは政府に50万ドル献上したらオクニャーという貴族の称号を貰えるが、社会貢献するどころか、その地位を悪用して不法伐採、土地不法占拠したりして私腹を肥やしたり、犯罪を犯す貴族が跡を絶たない。ヤクザの後藤忠政元組長もオクニャーhttps://t.co/Idq1fb43Yz
— ザビエル古太郎 (@XavierKotaro) September 12, 2019
山口組組長歴代最強ランキング 6位 竹中組・竹中武
竹中 武(たけなか たけし)
生誕: 1943年(昭和18年)8月6日
出身地: 兵庫県
死没日: 2008年3月15日(64歳没)
出身校: 中学校卒業
肩書: 二代目竹中組組長
竹中武さんは2代目竹中組組長を務め、1961年に三代目山口組の二次団体となってからはその10年後の1971年に三代目山口組若頭補佐にまで上り詰めました。
竹中武さんは「異端児」「最後の極道」という呼ばれ方がする特殊な存在で、家族の中で三男、四男、五男、六男がヤクザという生粋の極道家系で育ちました。
竹中武さんの実兄・竹中正久さんは四代目山口組組長であり、その兄で親でもある組長が殺害された「山一抗争」の際には、「兄貴が殺られたから言うとんの違う。山口四代目が殺られとるんじゃ。よう親の敵も討てんのやったら、ヤクザやめとけ、ボケーッ!」と激怒しました。
竹中武さんは孤立無援の中で部が圧倒的に悪くても敵対勢力に乗り込み、ついに敗れなかった超武闘派としても知られており、兄が殺害された時に山口組から退きました。
一方で、竹中武さんの信条は一般人を絶対に泣かさないというもので、ヤクザながら金儲けが下手ということでも親近感を持たれやすいヤクザでした。
今日は2冊の本を買いました!
— やすだ (@ysdykht) March 8, 2019
「代償」を読んでからファンになった伊岡瞬氏の小説「痣」
私が尊敬している山口組三代目「田岡一雄」親分の後継者「竹中正久」親分の実弟「竹中武」の「叛骨」。
本当に読むのが楽しみです pic.twitter.com/Svz9rYtLDI
山口組組長歴代最強ランキングについてまとめると…
・山口組で超武闘派と呼ばれたヤクザがのし上がっている
世間に恐れられてきた国内最大の指定暴力団・山口組の組長歴代最強ランキングについてご紹介してきました。
山口組と袂を分かった神戸山口組が離反した理由は、司忍の金集めの激しさだと言われており、その年収額は海外マフィアと比べてもダントツの1位で、2位のロシアマフィア「Solntsevskaya Bratva」の年収約2558億円に対し、約2.4兆と言われています。