関東連合の友好団体の1つであった不良集団「用賀喧嘩会」ですが、過去に「芦花公園殺人事件」を起こすなど洒落にならないワル集団でした。
この記事では、用賀喧嘩会を結成した初代メンバー高村有柾さんや歴代メンバー、4代目総長・清水(酋長)さんがデニーズで襲撃された事件、起こした凶悪事件の1つである芦花公園殺人事件、そして現在をまとめました。
この記事の目次
「用賀喧嘩会」とは…「ブットバース」の初代メンバー・高村有柾が結成
「用賀喧嘩会」は、世田谷区立用賀中学校の出身者たちが集まって結成された不良集団であり、地元の用賀・砧周辺を拠点に活動していました。
「用賀喧嘩会」の創設者については、チーマーグループ「ブットバース」の初代メンバー・高村有柾さんだったようですね。
「ブットバース」は、1990年代初頭頃に、世田谷区や新宿区の番長格の不良少年たちが集まって結成されたドリームチームだったらしく、チーマー狩りや暴走族狩りに勤しむ武闘派集団でした。
活動はチーム狩り・暴走族狩りがメインで、渋谷などの繁華街を中心にチーマーに片っ端から絡んだり、ワゴン車に分乗して不良のたまり場を巡回していた。凶器は使わない(相手が凶器を持っていた場合や大多数の場合は別だった)、囲み(多数で少数を囲み威嚇すること)をしないなど、喧嘩は正々堂々と行う。または相手がチーマーでも女連れの場合は自分から絡まないなど、初代リーダーが決めた約束事があった。
引用:ブットバース
そんな「ブットバース」も3代目の時代に、敵対勢力のケツモチのヤクザから追い込みをかけられOBたちに泣きつくといった醜態を晒したため、初代リーダーの判断で強制解散させられてしまいました。
高村さんが「用賀喧嘩会」を結成したのは、友好勢力であった「三軒茶屋愚連隊」と共に「全日本狂走連盟」や「北関東狂走連盟」と抗争するためだったと言われております。
とはいえ、代替わりと共にコウモリのような行動を取る習性があった「用賀喧嘩会」は、1990年代中盤頃になると「三軒茶屋愚連隊」を裏切り、「全日本狂走連盟」と集会三昧な日々を送っていたそうですね。
「用賀喧嘩会」と「関東連合」の関係性…4代目総長・清水(酋長)がデニーズで襲撃された
「用賀喧嘩会」に関しては、創設者である高村有柾さんの所属していた「ブットバース」が「関東連合」とは距離を置いていたこともあり、結成初期はあくまで独立勢力だったそうですね。
ブットバースは、「俺らは誰もケツには付けないし、付かない」を信条とし、喧嘩や揉め事の際はたとえヤクザが出張ってきた際も、誰にも頼らず全て現役メンバーだけで対処した。チーム結成当初、「関東連合」の川名毅に「俺がケツ持ってやるから渋谷を仕切れ」と持ち掛けられるも断っている。
引用:ブットバース
そのため、1990年代後半に起こった「関東連合」と「全日本狂走連盟」との抗争の際には、「用賀喧嘩会」が仲介役を務めたこともありました。
とはいえ、そんな「用賀喧嘩会」も5代目総長・西川さんの代になると、「関東連合」に飲み込まれてしまい友好勢力化しています。
そんな後輩たちの姿に怒りを覚えた「用賀喧嘩会」の4代目総長・清水(酋長)さんは、西川さんに「関東連合とつるむな!」と説教をしたこともあったとか。
しかしながら、この説教は逆効果だったようで、西川さんから事の顛末を聞いた「関東連合」傘下の暴走族「永福町ブラックエンペラー」の面々が、「デニーズ」で休憩していた清水さんを金属バットで襲撃する事件が起こってしまいました。
中学時代から喧嘩自慢だった清水さんでしたが、この時襲撃して来た「永福町ブラックエンペラー」のヒットマンたちは7~8人いたため、逃げるのに精いっぱいだったと言われております。
ちなみに、この頃の関東連合は既に「残虐王子」との異名を持つ見立真一さんがリーダーを務めていたこともあり、清水さんが報復に動くことはありませんでした。
その結果、清水さんの威名は大きく落ちてしまうことになり、東京アウトロー界でも「終わった人」扱いされてしまったそうですね。
「用賀喧嘩会」の歴代メンバーとは…ヤクザ系の大物OBが多かった
用賀喧嘩会の歴代メンバー① 田丸大
「用賀喧嘩会」の歴代メンバーには、田丸大さんがいます。
1977年生まれの田丸さんは、中学時代からチーマーグループに出入りをする生粋の不良だったそうで、高校進学と前後して相棒の井上勇さんと一緒に「TOP-J」を結成することになりました。
「TOP-J」時代の田丸さんは、高校を3日で退学した他、強盗致傷事件や器物損壊事件などを起こしたせいで、16歳にして少年院送りになるほどワルの王道を歩んでおります。
その後17歳で少年院から出所した田丸さんは、「TOP-J」を解散させて「用賀喧嘩会」に合流したそうですね。
「用賀喧嘩会」合流後の田丸さんは、チームの方針を無視して「関東連合」の面々との交流も深めており、「関東連合」の最高幹部の地位まで得ていたとか。
成人以降は住吉会系幸平一家の構成員となった田丸さんは、極道の世界でも頭角を現すようになり、事務局長の地位を得るなどエリートヤクザ人生を送っていました。
とはいえ、「関東連合」が準暴力団認定された2013年3月以降は、「関東連合」の元最高幹部との肩書が原因で警察に目を付けられる状況となってしまい、幸平一家内でも厄介者扱いされていたそうですね。
そのため、2013年5月になると、関東連合OBの父親の経営する会社に銃弾を撃ち込み「関東連合」との決別をアピールする羽目になった田丸さんは、そのまま自首をして「銃刀法違反(加重所持)」の容疑で逮捕されています。
そんな田丸さんの現在については服役中となっており、出所するのは2030年頃だろうと予想されている状況となります。
用賀喧嘩会の歴代メンバー② 清水(酋長)
「用賀喧嘩会」の歴代メンバーには、前述の「デニーズ襲撃事件」の被害者となった酋長こと清水さんもいます。
ちなみに、酋長とのニックネームの由来については、小学時代に学芸会で酋長役をしたところ、友達内で大ウケとなりそんな異名がついてしまったとか。
田丸大さんとは世田谷区立砧南中学校の同級生だった清水さんは、喧嘩の腕っぷしは田丸さん以上だったらしく、清水さんが番長で田丸さんが副番長といった関係だったそうですね。
そんな2人の関係性は「用賀喧嘩会」時代も変わらずに、清水さんが4代目総長の地位を得ることになりました。
その後は、「デニーズ襲撃事件」のせいで失脚してしまった清水さんは、飲食店を経営したりキャバクラの付け回しの仕事をしたりしていた他、海外留学に行ったこともあったそうですが、どれもパッとせずに終わっているとの噂になっています。
用賀喧嘩会の歴代メンバー③ 山田大輔
「用賀喧嘩会」には、5代目総長・西川さんと並ぶ存在だった山田大輔さん(1978年生まれ)もいます。
「用賀喧嘩会」が「関東連合」に飲み込まれていった世代ということもあり、「関東連合」OBとみなされることも多い山田さんですが、「関東連合」では幹部クラスの地位までは得られなかったようですね。
成人後の山田さんに関しては、2010年代にデート商法で集団訴訟を起こされた不動産投資会社「カノーバホールディングス」の関係者だったことで話題となりました。
こちらの騒動については、「カノーバホールディングス」の社員らが、婚活サイトを通して知り合った男女たちに対して、結婚を餌に投資用マンションを売りつけたといった事件でした。
山田さんは、その実行犯ではなく創業者兼社長だった松尾真一さんの秘書という立場でしたが、「関東連合」OBとして知名度があったため、事件に関連付けられて話題となってしまったようですね。
用賀喧嘩会の歴代メンバー④ 吉村良介
「用賀喧嘩会」の歴代メンバーの中で最も有名な存在が吉村良介さんです。
1980年生まれの吉村さんは、「用賀喧嘩会」の6代目総長に加えて「関東連合」のリーダーに就任した経験もあるなど、東京アウトロー界のビッグネームでした。
そんな吉村さんの狂犬エピソードには、東京・渋谷にある格闘技道場「飛車角道場」を襲撃したり、格闘家の山本KID徳郁さんと喧嘩になった際に拳銃を突き付けて脅したといったものがあります。
成人後は、稲川会系三本杉一家の構成員となった吉村さんでしたが、副業として「DJ RIMERIME」を名乗りDJ活動をしていた時期もあったため、「日本初のヤクザDJ」との異名まで持っています。
ちなみに、吉村さんのDJイベントにはZeebraさんやAK-69さんといった有名ラッパーたちが顔を出すなど、エンタメ方面にも人脈があったようですね。
「用賀喧嘩会」の起こした凶悪事件とは?…芦花公園殺人事件では死者も出た
「用賀喧嘩会」は、日本の不良少年たちが最も凶悪だった時期に活動していたこともあり、一般人を相手に殺人事件まで起こしています。
「用賀喧嘩会」関連の凶悪事件に関しては、1998年4月に発生した「芦花公園殺人事件」が有名となります。
1998年4月26日午前1時40分頃、世田谷区粕谷一丁目の芦花公園内の公衆トイレにて、山梨県韮崎市内の食品製造販売業手伝いA(40)が暴走族風の集団に刃物で左大腿部を刺され、病院に運ばれたが、まもなく出血多量で死亡した。
引用:用賀喧嘩会
こちらの事件については、「芦花公園殺人事件」が都内の有名なハッテン場だったことから、ゲイカップルを狙った犯行だったと言われており、亡くなったAさんは襲撃される直前までBさん(38)と一緒に話し込んでいたそうですね。
ちなみに、Aさんと一緒に「用賀喧嘩会」から襲撃されたBさんも重傷を負ってしまいました。
少年犯罪ということもあり、「芦花公園殺人事件」の実行犯たちの名前などは不明となっておりますが、「用賀喧嘩会」の6代目(1980年生まれ世代)の時代に起こった事件でした。
「用賀喧嘩会」の現在…創設者の高村有柾がコロナに感染していた
用賀喧嘩会、創設者である高村有柾が詐欺容疑で逮捕されていた
「用賀喧嘩会」の現在については、創設者である高村有柾さんが次々と騒動に巻き込まれているそうですね。
1974年生まれの高村さんは、「用賀喧嘩会」を離れた後は本職のヤクザになっており、稲川会佃政一家系馬場組の組長を務めている他、稲川会代表理事や佃政一家の本部長の地位まで得ていました。
そんな大物ヤクザまで成り上がっていた高村さんですが、2019年5月に「詐欺容疑」で逮捕されたことで話題となりました。
この時の高村さんは、運営していた空手道場の運転資金を確保するために、身分を偽って銀行から1000万円の融資を受けたことが詐欺認定されてしまったとか。
とはいえ、この時の逮捕劇は警察の勇み足だったようで、高村さんは不起訴処分となり前科が付くことはありませんでした。
ちなみに、この時の騒動により高村さんの本名が高村有柾ではなく高村努であることも発覚しました。
高村有柾、コロナに感染したことが発覚していた
詐欺騒動については不起訴で乗り切った高村有柾さんですが、2020年3月になると、今度は新型コロナウイルスに感染しています。
「東京都が3月23日に発表した16人の新型コロナウイルスの感染者のなかに、稲川会の都内に拠点を置く名門組織の本部長が含まれているとの情報が駆け巡りました。三次団体の組長でもあるこの幹部の感染情報を機に、警察当局は他の暴力団組織についても感染状況の確認に追われました」(警察関係者)
当時40代中盤だったため、本来は感染しても重症化しにくい年齢だった高村さんでしたが、刺青により肝機能が弱っていたせいか入院する羽目になってしまったそうですね。
その後訃報のニュースは聞かないため、回復して現場復帰したと思われる高村さんですが、大物ヤクザも感染症の前には無力だったことになります。
「用賀喧嘩会」についてまとめてみると…
「用賀喧嘩会」に関しては、大物ヤクザを多数輩出した不良集団であり、凶悪な少年犯罪に手を染めた過去もあったことになります。
現在は、同時代の有名不良グループ同様に現役組織としては存在しておらず、過去の武勇伝のみが残る状況になっています。