第99代内閣総理大臣を務められていた菅義偉さん。そのプロフィールや経歴にも注目が集まっています。
ここでは菅義偉さんの身長などのプロフィールや生い立ちや学歴、若い頃の経歴、父親や母親、兄弟、結婚した嫁や子供などその家族などについてまとめました。
この記事の目次
菅義偉のプロフィール
菅義偉(すがよしひで)のプロフィール
生年月日:1948年12月6日
出身地 :秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現在の湯沢市秋ノ宮)
血液型 :O型
2020年9月16日に第99代内閣総理大臣に就任した菅義偉さんは、これまでに総務大臣、内閣府特命担当大臣、郵政民営化担当大臣、自由民主党幹事長、内閣官房長官などを歴任した超大物政治家です。
安倍政権の内閣官房長官時代の2019年4月1日に、新年号「令和」を発表した事から「令和おじさん」の愛称を持っています。
2021年9月の自民党総裁選には出馬せず、同月末をもって任期満了により退任しています。
今回はこの菅義偉さんの若い頃や家族などを中心に紹介します。
菅義偉の推定身長
菅義偉さんの身長にも興味が集まっているようです。
菅義偉さんは身長を公開されていませんが、推定で身長は165cm〜167cmではないかと言われています。
菅義偉さんの身長を推測するためによく用いられているのが下の画像です。
写真正面から見て、菅義偉さんの左側2人目に立っているのは、元女優の参議院議員・三原じゅん子さんです。三原じゅん子さんの公称身長は164cmなので、それより若干高く見える菅義偉さんの身長は165cm〜167cmくらいではないかと推測されています。
菅義偉の生い立ち
菅義偉さんの生い立ちについても見ていきます。
菅義偉さんは、雪深い土地として知られる秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現在の湯沢市秋ノ宮)で太平洋戦争が終わって間もない1948年12月6日に長男として生まれました。
父の菅和三郎さんは、イチゴ農家として成功した人物で、子供時代の菅義偉さんも家の手伝いをしながら成長したそうです。
しかし、菅義偉さんは、高校卒業後(学歴については後述)の1967年3月、農家を継ぐのは嫌だとの反発心から上京し、東京都板橋区内にあったダンボール工場に住み込みで働き始めました。
しかし、ダンボール工場での労働は思った以上に過酷で、わずか2ヶ月で退職しています。「東京で自分の好きな事をやろう」という気持ちで上京したものの、現実の厳しさを痛感したと、菅義偉さんは後に語られています。
ダンボール工場退職後、菅義偉さんは「このまま一生終わるのは嫌だな」との思いから、大学進学を目標にし、昼間は築地市場の台車運び、夜は新宿の飲食店での皿洗いのアルバイトしながら、受験勉強に勤しんだのだそうです。
そして、上京から2年後の1969年4月、菅義偉さんは法政大学の法学部政治学科に合格し入学しています。
菅義偉の学歴や学生時代のエピソード
菅義偉さんの学歴や学生時代のエピソードについて紹介します。
菅義偉の学歴① 小・中学校
菅義偉さんの出身小・中学校は、実家のすぐ近くにあった「雄勝町立秋ノ宮小学校(現在の湯沢市立雄勝小学校)」、「雄勝町立秋ノ宮中学校(現在の湯沢市立雄勝中学校)」です。
中学時代は野球部に所属し、三塁手・1番バッターとして活躍されたそうです。
当時、野球部で一緒だったという元湯沢市議会議長の由利昌司さんは、当時の菅義偉さんについて、菅義偉さんは少し変わった打撃フォームで、顧問の先生に直すように言われても「こっちの方が打ちやすい」と決してフォームを変えなかったが、出塁率が4割近くあるなど、結果を残していたので先生も何も言わなくなったというエピソードを明かされています。
菅義偉の学歴② 高校
菅義偉さんの出身高校は「秋田県立湯沢高等学校」で、最新の偏差値は「58」です。
この高校は自宅からは最も近かったという事ですが、それでも通学に2時間かかったのだそうで、遠すぎて部活動は続けられなかったのだとか。
また、菅義偉さんは高校時代は目立たない大人しい生徒だったようで、当時の同級生でもあまり覚えている人は少ないようでした。
週刊誌「フライデー」は、菅義偉さんは高校では、北海道教育大学を受験したが不合格だったと書いていますが。菅義偉さんは北海道教育大学を受験しておらず、これはデマ情報だったようです。
菅義偉の学歴③ 大学
生い立ちでも触れましたが、菅義偉さんは高校卒業後は、上京して一時ダンボール工場に就職されています。しかしその後、退職してアルバイト生活をしながら受験勉強し、1969年4月に法政大学法学部政治学科に入学しています。法政大学法学部の最新の偏差値は「60」です。
法政大学を選んだ理由は、菅義偉さんの言葉によれば、「授業料が最も安かった」からだそうで、「別に法政大学でなくてもよかった」のだそうです。
菅義偉さんは大学時代も生活費や学費を稼ぐためにアルバイトを続け、ガードマン、新聞社の雑用、カレー屋などでアルバイトしたとの事。また大学時代には空手に打ち込み、空手部副主将として三段を取得されています。
一部メディアは、菅義偉さんは大学時代にはこのような苦労はしておらず、裕福な実家からの仕送りで暮らしていたが、それだとイメージが悪いので苦労して授業料を稼ぎながら勉強していたストーリーにしていると書いていますが、この真偽は不明です。
また、法政大学の夜間部に通っていたとの情報もありますが、これについては菅義偉さん本人がそれを否定して「昼です」と訂正されています。
菅義偉の若い頃の経歴① サラリーマンから政治家秘書へ
菅義偉さんは1973年に法政大学卒業し、電気設備の会社「建電設備株式会社(現在の株式会社ケーネス)」に就職しています。
この頃、菅義偉さんは自分の本当にやりたい事は何かをずっと思案していたそうで、あるときに人生は一回きりだか自分の思うように生きたいと思い、それは政治の世界に入る事だと思い至ったのだそうです。政治は世の中の根幹であり、それが一番面白そうだと感じ、日本を変えたいと思ったという事でした。
しかし、菅義偉さんは政治の世界にツテを持っていなかったため、出身大学の法政大学の就職課を訪ね、法政大学卒の政治家を紹介して欲しいと頼み込んだそうです。
そして、菅義偉さんは法政大学就職課から、すぐ近くにあった法政大学OB会の事務局の局長を紹介されたそうです。
その当時の法政大学OB会の事務局長が、法政大学出身の衆議院議員・中村梅吉さん(元法務大臣、第57代衆議院議長)の秘書の方と知り合いで、その紹介で、菅義偉さんは中村梅吉さんの事務所で働きはじめました。
菅義偉さんが事務所で働きはじめて程なくして、中村梅吉さん政界を引退したため、同じ派閥に属していた衆議院議員・小此木彦三郎さんを紹介してもらい、菅義偉さんはこの小此木彦三郎さんの秘書になり、以後11年間にわたって秘書として働かれています。
菅義偉さんは後に、この11年間について「小此木さんには箸の上げ下げまで教えてもらった恩人です」と振り返られています。
1983年には、小此木彦三郎さんが通商産業大臣に就任したため、菅義偉さんも大臣秘書官として起用されています。菅義偉さんはこの時に初めて本格的に政治の世界を勉強されたと言います。
実は、この小此木彦三郎さんの秘書時代、30歳前後の頃に菅義偉さんは1度、「事務所を辞めて秋田に帰ろうと思います。」と切り出された事があったそうです。
しかし、菅義偉さんはよほど小此木彦三郎さんから目をかけられていたのか、なんと、小此木彦三郎さんは菅義偉さんを連れて、菅義偉さんの秋田の両親を訪ね、「もう少し鍛えさせてもらえませんか」と両親に頭を下げられたのだそうです。
ここまでされては、両親も菅義偉さんもノーとは言えず、菅義偉さんは政治の道を続ける事を決められたという事でした。
菅義偉さんは、この小此木彦三郎さんから遺品として譲り受けた腕時計を現在も大切に使われているそうです。
菅義偉の若い頃の経歴② 横浜市議選に当選し「影の横浜市長」と呼ばれる
1987年4月、37歳になった菅義偉さんはついに自ら政治家になろうと決断し、横浜市議選に出馬しています。
菅義偉さんが出馬した選挙区には、77歳になる自民党の長老議員がおり、その長老議員が息子に後を譲って引退すると表明したのですが、なんとその直後に息子が急逝してしまったのだそうです。
菅義偉さんはそれで横浜市議選に出馬する事を決断されたそうなのですが、息子の急逝を受けて長老議員がやっぱり自分が出馬すると言い出したのだそうです。
これを受けて、菅義偉さんは自民党横浜市連から出馬を断念するように求められたそうなのですが、菅義偉さんはこれを頑なに拒否します。
その結果、菅義偉さんは自民党からの公認を受けられず、後援会長のなり手もなかなか見つからないまま、孤立無援で選挙戦を戦う事になったのだそうです。
出典:https://data.smart-flash.jp/
しかし、菅義偉さんは朝6時から夜の9時まで1日300軒も有権者の元を回り、選挙までに合計3万軒を回り、正月の箱根駅伝で沿道に集まった人に名刺を配って歩くなど、靴を6足履き潰したというほどの過酷な選挙戦を戦い抜き、見事初当選を果たしています。
元々、師である小此木彦三郎さんは横浜市の出身で、横浜市に強い地盤を持たれていました。菅義偉さんはその小此木彦三郎さんの死後(1991年逝去)、その代役として辣腕を振るい、当時の高秀秀信横浜市長から度々相談を受けるなどし「影の横浜市長」とも呼ばれました。
菅義偉の若い頃の経歴③ 衆議院議員として国政の場へ
横浜市議会議員として高い実績を残した菅義偉さんは、国政に挑戦するため、1995年に横浜市議会議員を辞し、1996年に第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認候補として出馬し、初当選を果たしました。
47歳での遅咲きとも言える国政への進出でしたが、その後連続で小選挙区当選を果たしており、国政の中枢でその実力を振るい、2020年9月についに総理大臣の座へと上り詰めました。
菅義偉の家族① 父親 菅和三郎
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続いては、菅義偉さんの家族について見ていきます。
菅義偉さんの父親は菅和三郎という人物で、19歳の頃、太平洋戦争が勃発する直前の1941年に、満蒙開拓団として満州国へと渡り、南満州鉄道の職員として終戦まで満州で鉄道員をされていたようです。妻(菅義偉さんの母親)も呼び寄せ、同地で娘2人(菅義偉さんの姉)が誕生しています。
日本の敗戦によって戦争が終わると、菅義偉さんの父親・菅和三郎さんは、ソ連軍の侵攻から逃れながら日本へと引き揚げています。この引き上げの時の事について詳しくは知られていませんが、相当な苦労をされた事だと思います。
菅義偉さんの父親・菅和三郎さんはその後、地元の秋田県秋ノ宮村へと帰還し、そこで農業に従事されていましたが、1955年頃、「これからは米だけでは食っていけない」として、地域振興のためにもと、イチゴの栽培に挑戦しました。これは見事成功し、新品種「ニューワサ」を開発して「秋の宮いちご」のブランド化に成功。
この功績により、菅和三郎さんは地元の名士と呼ばれる存在になり、「秋の宮いちご生産出荷組合組合長」、「雄勝町議会議員」、「湯沢市いちご生産集出荷組合長」などを歴任されています。
菅義偉さんの父親は菅和三郎さんは、2010年に93歳で逝去され、その生前の功績から旭日単光章を叙勲されています。
菅義偉の家族② 母親 タツ
菅義偉さんの母親はタツさんという方で、元々父親の菅和三郎さんとは秋田県秋ノ宮村で近所に住んでいる知り合いだったそうなのですが、その後お見合いをして結婚されたそうです。
夫の菅和三郎さんを追って満州へと渡り、大変な苦労をされたという事でした。満州でか帰国後かは不明ですが、学校の教員として働かれていたそうです。
そんな菅義偉さんの母親のタツさんの性格は気さくで楽しい人という事です。現在もご健在ですが、2017年頃に高齢者施設に入所されたという事でした。
菅義偉の家族③ 兄弟
菅義偉さんは、姉が2人と弟が1人の4人兄弟です。
菅義偉さんの兄弟のうち姉2人は満州国で生まれています。長姉は純子さんという名前だそうです。この長姉の純子さんは、上京して父親に反発して自らの道を進む菅義偉さんを「間違った道に進みさえしなければいい」と応援してくれたのだそうです。
菅義偉さんの次姉の名前は不明ですが、日本の敗戦直後に満州で生まれており、ソ連軍が侵攻する中、奉天という場所でこっそりと隠れての大変な出産だったそうです。
菅義偉さんの姉2人は、北海道教育大学へと進学しており、卒業後高校の先生になっています。
菅義偉さんの弟については情報はなく不明でどのような人物なのか不明です。長男の菅義偉さんが実家の農家を継がずに政治家になったので、もしかするとこの弟さんが農家を継がれたのかもしれません。
菅義偉の家族④ 結婚や嫁・真理子さんについて
菅義偉さんは30歳頃、小此木彦三郎さんの議員秘書をされていた頃に結婚されています。
菅義偉さんの嫁は真理子さんという女性で、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)の出身で、菅義偉さんの5歳年下です。
この嫁の真理子さんの妹が、小此木彦三郎さんの秘書をされており、その手伝いのような形でよく事務所に顔を出されていたのが2人の出会いだったそうで、菅義偉さんは真理子さんを一目見て「なんとなく、結婚する」と直感されたとの事で、どうやら菅義偉さんの一目惚れだったようです。
菅義偉さんの嫁の真理子さんは、あまり表に出るのが好きではない方だという事ですが、選挙の際には菅義偉さんをよく支えられているとの事で、菅義偉さんの当選が確実であった前回の衆議院選挙ですら、前夜には緊張で眠れないと漏らされていたそうです。
週刊女性自身の記事によれば、過去に菅義偉さんの秘書をしていた、横浜市会議員の遊佐大輔さんは、菅義偉さんの嫁の真理子さんの人柄を「とにかく奥ゆかしくて、本当に優しい方」だとして以下のように語っていたそうです。
秘書時代、菅さんの事務所で会うたびに『遊佐くん、いつも菅のためにありがとうね』と毎回のように言ってくれるんですよ。夫の秘書にそこまで丁寧に接するって、すごいことですよね。 選挙のときはいつも不安みたいで、開票日は真っ白な顔をしていたのが印象的です。テレビで当確が出てみんなが『やったー!』と言って盛り上がるなか、奥さんは安堵から目に涙を浮かべているんです。
その後、嫁の真理子さんは支援者やスタッフの前で深々とお辞儀をし、「みなさん、ありがとうございました」と述べられるのだそうです。
また、菅義偉さんと交流が深く、現在群馬県知事を務める山本一太さんは、過去に菅義偉さんと食事をした時に、普段は嫁のことを全く話さない菅義偉さんがポロリと「妻のことをすごく信頼している」とこぼされた事がとても印象に残っていると話されています。
山本太一さんは、さらに、菅義偉さんが官房長官に就任された際に、嫁の真理子さんに「官房長官になられて大変ですね」と声をかけたところ、真理子さんは静かに「必ず大きな仕事をすると思っていました」と答えられたのだそうです。
菅義偉さんと嫁の真理子さんがとても強い信頼関係で結ばれている事を示すエピソードだと感じます。
菅義偉の家族⑤ 子供は息子が3人
菅義偉さんは嫁の真理子さんとの間に、3人の子供を儲けています。
菅義偉の子供① 長男・菅正剛
菅義偉さんの子供のうち長男は、明治学院大学卒で学生時代は柔道に打ち込んでいたそうです。
卒業後は一時人手不足だった菅義偉さんの事務所で働いていたそうですが、その後は大手広告代理店に就職されています。
2021年には週刊文春でスキャンダルが報じられました。詳細は以下の記事をご覧ください。
菅義偉の子供② 次男
菅義偉さんの子供うち次男は、東京大学法学部卒で、中学生時代にはサッカー部で、大学時代にはアメフト部で活躍されました。この方も現在は民間企業で働かれているそうです。
この菅義偉さんの次男は、山本一太さんの東大の3学年上の先輩に当たるのだそうです。
菅義偉の子供③ 三男
菅義偉さんの三男は、法政大学を卒業されています。大学時代は強豪と名高い法政大学アメフト部に所属され活躍されたそうです。
ちなみに、ロックバンド「RADWIMPS」の中心人物・野田洋次郎さんは、この菅義偉さんの三男の中学・高校時代(松蔭中学・高校)の同級生で親友だそうです。
野田洋次郎さんは、菅義偉さんの令和発表会見時に、以下のツイートをされて話題になりました。
新元号の発表は菅官房長官なんだね。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) March 31, 2019
菅さんは俺の中学、高校時代の友達のお父さん。菅の家に泊まりに行くとお父さんが帰ってきてあれこれ酔っぱらいながら話をしてくれた。少し目が怖いけど優しい人だった。
菅はずっと同じバスケ部だった。
このツイートは、菅義偉さんの耳にも入りインタビューで以下のように答えられていました。
三男の中学高校の同級生ですね。うちは3人とも運動部だから、それぞれの友達がいつも大勢泊まりに来ていたんです。でも、ひとつ訂正すると、酔っぱらってなかったですよ(笑)。
菅義偉さんは子供達が友達を連れてくると必ず会話の中に入っていったという事で、親子仲はとても良かったようです。
まとめ
今回は、第99代内閣総理大臣・菅義偉さんについてまとめてみました。
菅義偉さんは秋田県の生まれで高校卒業と同時に実家の農家を継ぐのが嫌で上京、学生時代は政治家を目指していなかったものの、社会に出た後に政治家を目指そうと志し、小此木彦三郎さんの議員秘書を11年勤めたのち、横浜市議会議員になって政治の世界へと入りました。
その後、衆議院議員となって国政に進出して政権の中枢で活躍してついに総理大臣にまで上り詰めました。
内閣総理大臣としてその手腕を振るった菅義偉さんの今後にも期待したいと思います。