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高倉健の若い頃と死因!養女の小田貴月や遺産・江利チエミとの結婚や子供も総まとめ

2014年に亡くなった名俳優の高倉健さんですが、晩年に養女・小田貴月さんと暮らしていたことが死後に判明し話題です。

 

今回は高倉健さんの若い頃の経歴、江利チエミさんとの結婚や離婚、子供の有無、死因や遺産もまとめてみました。

高倉健のプロフィール

 

高倉健(たかくら けん)
本名:小田剛一(おだ ごういち)※「たけいち」との説もあり
生年月日:1931年2月16日
出身地:福岡県中間市
身長:180㎝

 

高倉健さんと言えば、日本を代表する映画スターとして多くの名作で活躍した俳優・歌手です。

 

元々は「日本侠客伝シリーズ」や「昭和残侠伝シリーズ」といった任侠映画でブレイクを果たした高倉健さんですが、キャリアを積むにつれて様々な映画に出演していきます。

 

 

その結果、「幸福の黄色いハンカチ」や「鉄道員(ぽっぽや)」といった邦画史に残る名作を残しました。

 

 

高倉健さんが出演する映画は続々とヒットを飛ばし、邦画の年間興行ランキング1位を4度も獲得しています。

 

高倉健の邦画年間興行ランキング1位獲得作品
・網走番外地 大雪原の対決(1966年)
・八甲田山(1977年)※当時の邦画の興行記録を更新
・野生の証明(1978年)
・南極物語(1983年)※当時の邦画の興行記録を更新

 

晩年も映画スターとして存在感を発揮し、2012年に公開された遺作「あなたへ」も興行収入23.9億円のヒットとなりました。

 

国際的な評価も高い名優だった高倉さんは、「ミスター・ベースボール」や「ブラック・レイン」といったハリウッド映画にも出演歴があります。

 

 

高倉健の若い頃の経歴① 生い立ち

幼少期には結核に罹患

 

高倉健さんの実家は福岡にあり、鎌倉幕府の執権・北条氏の血を引く一族のようです。

 

鎌倉幕府滅亡後は西国に逃れた先祖は、戦国大名の大内氏に仕えた後に商人に転身し、江戸時代は筑前国藩で両替商を営んでいたといいます。

 

そんな歴史ある家に、高倉健さんは次男(第2子)として生まれました。兄弟は2男2女だったようです。

 

 

 

高倉健さんの父親は元海軍軍人で、地元・福岡県中間市の宝珠山炭鉱で炭鉱夫の取りまとめ役をしていたようです。母親は教師でした。

 

両親が共働きだったため、実家は比較的経済力があり、裕福だったようです。

 

しかし、高倉健さん本人は小学2年生の時に肺結核を患い、学校を1年間休学するなど、幼少期は辛い思いもしていました。

 

 

高倉健の若い頃の経歴② 高校時代は英語とボクシングに打ち込む

 

少年時代は病弱だった高倉健さんですが、中学時代は陸上部に入部したり合気道を習ったりと、体を鍛えようと努力していました。

 

そして14歳の時に終戦を迎えると、津波のように流入してくるアメリカ文化に魅せられた高倉健さん。

 

 

 

その中でも高倉さんの関心を特に惹いたのが、英語とボクシングでした。

 

地元の近くにできた進駐軍基地の将校の息子と知り合いになった縁を利用し、週末に家に押しかけて英語を習得したそう。

 

県立東筑高校に進学後はESS部を創設し、さらなる英語力向上に励みました。

 

また、東筑高校に掛け合いボクシング部を結成し、打ち込むことになりました。

 

ちなみに当時、高倉健さんはフェザー級で通算6勝1敗の成績を残すなど、ボクシングセンスがあったようです。

 

 

高倉健の若い頃の経歴③ 明治大学に進学

 

高校時代の高倉健さんは芸能界にまったく興味がなく、貿易商を目指していたといいます。

 

 

 

そのため、高校卒業後は東京へ上京し、明治大学商学部に入学することになりました。

 

ただ、かつて力士を目指していた父親の言いつけを守り、入学後は相撲部に入部してマネージャーを務めていたようですが、性に合わずに1年で退部してしまったとか。

 

その後、都会に染まり過ぎたのか大学の講義にもほとんど出ずに、渋谷をたまり場として酒と喧嘩三昧の日々を送っていました。

 

ボクシング経験者であり身長180cmという恵まれた体格だった高倉健さんは、当然ながら腕っぷしが強く、渋谷でも一目置かれる不良学生でした。

 

そのため、暴力団・住吉会の幹部たちとも交流が生まれるなど、一歩間違えれば極道になっていたかもしれない危うい状況だったようです。

 

ちなみに、大学の1年後輩だった直井二郎さんは本職のヤクザとなり、住吉会の幹部まで上り詰めたようです。

 

 

高倉健の若い頃の経歴④ 俳優になったのは偶然だった

 

不良学生ながらも大学は卒業できた高倉健さんですが、希望する会社の内定は取れず、就活に失敗。そのため、いったん故郷である福岡県中間市に戻っています。

 

この頃、父親が砕石業を起業していたため、帰郷後の高倉さんは家業を手伝って生活していました。

 

ただし、東京に残して来た彼女との結婚を両親に大反対されたようで、家出同然で東京に舞い戻り、実家暮らしは半年程度だったようです。

 

 

偶然、役者デビュー

 

東京へ出戻った後、大学時代の恩師から、高島屋やノースウエスト航空などを就職先として紹介してもらえた高倉健さんでしたが、大企業勤務は性に合わないと面接には行きませんでした。

 

大学時代の後輩の家に居候をしながら、暇を持て余していた高倉健さんにとって転機となったのが、先輩の友人から芸能事務所「新芸プロ」のマネージャー見習いを紹介されたことでした。

 

その後、「新芸プロ」の面接に向かったところ、たまたま居合わせた東映関係者に見初められ、マネージャーではなく、俳優として芸能界デビューを掴みます。

 

東京・京橋の喫茶店で紹介者と会っていると、階上にある東映の専務が横を通りかかった。「俳優になる気はないか?」。

「(俳優人生は)そんな偶然から始まったんです。後輩の下宿に居候していたのですが、後輩から『ものすごく合っているか、その正反対かどちらかですね』なんて言われました」。

引用:健さん「もう50年?」/06年インタ1

 

スカウトされた翌日、撮影所でカメラテストを受けて「東映ニューフェイス第2期生」となったのです。

 

 

高倉健の若い頃の経歴⑤ 当初は落ちこぼれの役者だった

 

1955年に東映に入社した高倉健さんは、まずは俳優座養成所でレッスンを積むことになりました。

 

これまでに演技歴がまったくない状況での俳優転身だったため、苦労の連続だったといいます。

 

「みんなが白い目でじろっと見るんです。バレエをやってもみんな笑うし、日本舞踊をやっても、またみんな笑う。そのうちみんなが笑って授業が進まないからって、僕は見学になってしまったんですよ。屈辱の毎日が続きました」。

 

引用:健さん「もう50年?」/06年インタ1

 

また、そんな逆境下の高倉健さんを励ますような存在もおらず、講師の先生からは「お前は向いていない。悪いことは言わないからやめなさい」と追い打ちをかけられこともあったそうです。

 

 

東映からは厚遇されるも結果が出ない日々が続いた

 

養成所では散々な扱いを受けた高倉健さんですが、長身で見栄えも良かったことから東映の期待は高く、入社後すぐに映画「電光空手打ち」の主演に抜擢されています。

 

その後も様々なジャンルの現代劇に出演し、萬屋錦之介さんや美空ひばりさんといったスターと共演する機会も多かったそうです。

 

ただ、現場の評判は低く、美空ひばりさんなどは、「地味で陰気な演技しかできない」と高倉健さんとの共演に不満を持っていたと言われています。

 

また、当時のスーパースター・石原裕次郎さんとロケ地が重なった際、撮影現場を取り巻いていた女子たちが、一目散に石原さん側に駆け出してしまうという屈辱的な経験もしていました。

 

 

 

ちなみに、石原裕次郎さんとは所属会社こそ違えど同期デビューだったため、高倉健さんの落胆ぶりは人一倍だったようです。

 

 

 

高倉健の若い頃の経歴⑥ 任侠映画路線でブレイク

 

現場の低評価ぶりを無視して高倉健さんをプッシュしていた東映でしたが、高倉健さんの演技力がイマイチなことから、「話す姿よりも立ち姿に魅力がある」と方針転換。

 

演技力を必要としないアクションスター路線に舵を切り、台詞もどんどんカットされました。

 

自身の演技力の拙さに自覚があった高倉健さん側も、会社の期待に応えるために筋トレに励み、見栄えの良いアクションシーンを撮るための努力を続けたそうです。

 

そんな高倉健さんの努力が実り、1964年に「日本侠客伝」が邦画の年間興行ランキング5位に輝く大ヒットを記録し、初の代表作を持つことになりました。

 

 

仕事にマンネリ感を感じていた時期も

 

33歳で遅咲きのブレイクを果たして以降、「日本侠客伝」がシリーズ化した他、「網走番外地」や「昭和残侠伝」といった映画シリーズもスタートしています。

 

この時期の高倉健さんはとにかく忙しく、年間10本以上の映画を撮影していたそう。

 

また、1965年から1969年にかけては毎年、高倉健さん主演作が邦画の年間興行ランキングTOP10にランクインするなど黄金期となりました。

 

ただし、内容も似たり寄ったりの任侠映画ばかりだったため、高倉健さん自身がマンネリ感を感じてモチベーションが上がらなくなり、不本意な演技をしてしまうこともあったそうです。

 

しかし、お忍びで自分が出演する映画を観に映画館に足を運んだ際、観客の熱狂ぶりに心を動かされ、大衆の求める役柄を演じ続けることを決意したといいます。

 

 

高倉健の若い頃の経歴⑦ 独立2年目に大ヒットを飛ばした

独立の約束を反故にされている

 

任侠映画路線で大スターとなった高倉健さんですが、1970年頃になると、ヤクザ映画以外にも出演したいという欲求を抑えきれなくなり、独立を意識するようになっていきました。

 

高倉健さんの独立話は、当時の社長だった大川博さんの了承は得られていたものの、大川さんの病死後、独立話は反故にされてしまったといいます。

 

一方で、「仁義なき戦い」シリーズのヒットにより、実録映画ブームがやって来ると、「もう鶴田浩二や高倉健の時代じゃない」と、東映側から手の平を返されて冷遇されるように。

 

そのため、1973年以降は仕事が激減してしまったそうで、困り果てた高倉健さんはキャバレーの営業の仕事を引き受けたことまであったようです。

 

 

独立2年目に大当たりを引いた

 

東映から冷遇されたことを機に、1976年に念願の独立を果たした高倉健さんでしたが、フリー1作目の「君よ憤怒の河を渉れ」は、興行的に失敗に終わってしまいます。

 

 

 

しかし、続く1977年に公開された「八甲田山」は、配給収入25.9億円の大ヒット作となり、当時の邦画の歴代興行記録を更新する大成功を収めています。

 

なお、同じ年に代表作の1つである「幸福の黄色いハンカチ」も公開されており、1977年は高倉健さんのキャリアにおいても特別な1年となりました。

 

その結果、1978年4月に初めて開催された「日本アカデミー賞」では最優秀主演男優賞に輝くなど、任侠映画スターのイメージから脱却しています。

 

 

高倉健の若い頃の顔画像を紹介

 

 

 

 

 

任侠映画スターとしてスターダムにのし上がっただけあって、若い頃の高倉健さんは「爽やか」な好青年イメージよりも、「渋さ」や「男っぽさ」が溢れていますね。

 

ですが、やはり180cmの高身長でスタイルが良く、かっこいいです。

 

30歳を過ぎて男の渋みが生きる年代にブレイクしたのは、必然だったのかもしれませんね。

 

 

高倉健の人格者エピソード① 礼儀正しすぎると絶賛

 

高倉健さんは人格者としても有名です。

 

 

高倉健さんの人格者エピソードは数々の著名人が語っており、中国との合作映画「単騎、千里を走る。」に出演した際は、現地の映画関係者にも絶賛されていました。

 

高倉のファンである映画監督・張芸謀は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している

 

引用:高倉健

 

また、ビートたけしさんなども、映画で共演した際の高倉健さんの言動を絶賛しています。

 

『夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井県ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉が激励をしにロケ現場へ現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。

 

引用:高倉健

 

 

高倉健の人格者エピソード② 後輩思いで有名

そんな高倉健さんは、後輩の面倒見も良いタイプでした。

 

まだ駆け出し時代の俳優・千葉真一さんを頻繁に食事に誘っていた他、洋服などもプレゼントしていたそうです。

 

 

 

千葉真一さんが東映の労働組合の委員長とトラブルになった際は、俳優引退を決意していた千葉真一さんを思い留まらせ、謝罪行脚に同行してくれたといいます。

 

 

 

 

高倉健の人格者エピソード③ 義理を優先して黒澤監督のオファーを断る

 

高倉健さんは1983年頃、映画監督・黒澤明さんから映画「乱」への出演をオファーされました。

 

しかし、当時の高倉健さんは主演映画「居酒屋兆治」の撮影を間近に控えていたため、義理人情を優先し、黒沢明監督の出演オファーを断っています。

 

黒澤は当初から高倉を想定してこの役をつくり、自ら高倉宅へ足繁く4回通った。「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗康男君(『居酒屋兆治』の監督)のところへ謝りに行きます」と口説いたが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが、僕には出来ない。本当に申し訳ない。」と丁重に断った。

 

引用:高倉健

 

ちなみに、1985年に公開された映画「乱」は仲代達也さんが主演を務めました。

 

 

高倉健が結婚した元嫁は歌手・江利チエミ

1959年に江利チエミと結婚

 

高倉健さんは1959年、6歳年下の歌手・江利チエミさんと結婚しています。

 

江利チエミさんと言えば、日本のジャズ・ブームのけん引役であり、「テネシーワルツ」や「ツゥー・ヤング」といったヒット曲で知られている伝説的歌手です。

 

また、同じ1952年デビュー組だった美空ひばりさんや雪村いづみさんとともに「3人娘」と呼ばれ、アイドル的な存在でした。

 

さらに、女優としても活躍し、映画やドラマなどに多数出演しています。

 

 

 

中でも、アニメに先駆けて1956年より映画やドラマなどで展開された「サザエさんシリーズ」の磯野(フグ田)サザエ役は、江利チエミさん最大の当たり役と評されています。

 

そんな2人の馴れ初めは、1956年に公開された映画「恐怖の空中殺人」で共演した際、江利チエミさんが高倉健さんに一目ぼれをしてしまったそうです。

 

ただ、当時江利チエミさんはまだ19歳で、当時26歳だった高倉健さんに直接告白できず、親しくしていた女優の清川虹子さんに頼み込んで、仲を取り持ってもらったんだとか。

 

交際を開始するものの、既に人気歌手だった江利チエミさんは仕事が忙しすぎて、高倉健さんと会う時間すら作れなかったため、仮病を使って入院したことまであったそうです。

 

そうとは知らず、心配して病院にお見舞いに駆けつけた高倉健さんは、病室で種明かしをされた結果、大胆すぎる江利チエミさんの行動にびっくりしたといいます。

 

 

高倉健と元嫁・江利チエミの離婚原因…子供は流産している

 

結婚後も、江利チエミさんが人前で高倉健さんのことを「ダーリン」と呼ぶほど熱々の夫婦でした。

 

しかし、江利チエミさんの異父姉であり付き人だったAという人物が、マスコミに虚偽の不仲情報を流すなど、2人の仲を裂くために色々と暗躍していました。

 

Aが2人に嫌がらせをした背景には、別家庭に育った江利チエミさんの成功ぶりに嫉妬していたと言われています。

 

また、江利チエミさんは1962年に妊娠しますが、芸能活動が忙しすぎた結果、「妊娠高血圧症候群」を患い、子供を諦めざるを得なくなるなど、スターゆえの悲劇も味わいました。

 

その後も、1970年に世田谷区瀬田にあった自宅が火事で全焼し、2人の結婚生活は不幸が続きます。

 

そんな2人の結婚生活が破綻した決定打となったのが、前述のAが江利チエミさんの個人事務所のお金を使い込み、高利貸しから多額の借金をしたことでした。

 

現在の貨幣価値で10億円相当もの借金を背負う羽目になった江利チエミさんは、高倉健さんに迷惑をかけられないと離婚話を切り出し、2人は破局しています。

 

 

高倉健は元嫁・江利チエミを生涯弔い続けていた

 

離婚後、離婚を後悔した江利チエミさんから「健さん、もう一度一緒になれないかしら」と、電話がかかって来ることもあったといいます。

 

しかし高倉健さんにも面子があったのか、「もっと早くになんでそう考えなかったんだ。こうなった以上はもう一緒になれない」と、江利チエミさんを突き放したようです。

 

その後の江利チエミさんは、孤独感からお酒におぼれ、1982年に45歳の若さで脳卒中で急死してしまいます。

 

江利チエミさんの急死は、高倉健さんの大きな心の傷となったようで、以降は女性から結婚を迫られても首を縦に振ることはありませんでした。

 

「報じられてはいないんですが、ある大物女優が若かりし頃共演した健さんにゾッコンになってしまったことがありました。しつこく結婚を迫ったそうなんですが、健さんは決して首を縦に振ることはなかったそうです。それはチエミさんへの思慕があったからだといわれています」(別の芸能関係者)

 

引用:高倉健さん 大物女優に結婚迫られたが江利チエミへの想い貫いた

 

また、1986年に全焼した後に放置していた自宅跡地に豪邸を新築し、命日になると近所にある江利チエミさんの菩提寺にお墓参りに行っていたといいます。

 

 

 

高倉健の晩年① 元女優・小田貴月を養女にしていたことが死後判明

 

83歳で病死した高倉健さんですが、晩年は養女と暮らしていたことが死後明らかになっています

 

 

 

高倉健さんの養女となっていた女性は、33歳年下の小田貴月さんという元女優でした。

 

小田貴月さんは、元々は「貴倉良子」名義で女優活動をした後、ホテルジャーナリストとして活動していたようです。

 

そんな2人が出会ったきっかけは、1996年頃で、小田貴月さんが取材で香港に出張していた際に、現地のホテルのレストランで高倉健さんと偶然鉢合わせたとのこと。

 

その際、カメラ機材を持って近くの席に座るのは失礼だと考えた小田貴月さんと仕事仲間たちは、いったん外に出た後、レストランの隅で食事を取ることにしました。

 

そんな小田貴月さんたちの行動に気が付いた高倉健さんは、わざわざ小田貴月さんたちのテーブル席まで足を運び、お礼を言ってレストランを後にしたといいます。

 

高倉健さんのこの気遣いに感激した小田貴月さんは、日本に帰国後、礼状と共に取材記事が載った雑誌を高倉健さん宛に送ったそうです。

 

高倉健さん側もそんな小田貴月さんの心遣いに感謝し、2人の間で手紙のやり取りが生まれました。

 

 

高倉健の晩年② 晩年に小田貴月と同棲したきっかけ

 

高倉健さんと小田貴月さんは法律上は養父と養女ですが、実際は恋人関係だったと言われています。

 

そして、2人が同棲生活をスタートさせるきっかけは、小田貴月さんのイラン取材旅行だったそう。

 

映画「ゴルゴ13」の撮影でイラン滞在経験があった高倉健さんは、イランの女性差別の酷さを熟知しており、イランにいる小田貴月さんを案じて宿泊先に電話やFAXをくれたといいます。

 

その結果、プライベートの話まで語り合う仲となった2人は、同棲するまでに関係が発展していきました。

 

同棲前までの高倉健さんは、外食がメインで1日1食しか食べなかったそうですが、同棲後は自宅で1日3食食べるようになるなど、小田貴月さんのおかげで安らげる場所を得たようです。

 

 

高倉健の晩年③ 小田貴月を養女にした理由

 

小田貴月さんとの同棲後、すでに高齢だった高倉健さんは映画の仕事が入るたびに「何かあったらこれを出しなさい」と、自分の署名入りの婚姻届を置いて家を出ていたそうです。

 

小田貴月さんと結婚まで考えていた高倉健さんが、小田貴月さんとの養子縁組に踏み切ったのは、2012年頃に小田貴月さんの母親が病気に倒れたことがきっかけでした。

 

その際、患者の親族以外は医者の説明すら聞けないことを知った高倉健さんは、小田貴月さんと養子縁組をして法的な家族関係を持つことにしたのです。

 

ちなみに、高倉健さんが結婚ではなく養子縁組を選んだ背景には、自分が結婚したと発覚した場合の世間の反響を考慮したと言われています。

 

 

 

高倉健の死因は悪性リンパ腫

 

 

高倉健さんは2009年に「前立腺がん」が発覚しています。

 

ただし、前立腺がんは年配の男性に多いがんで、予後も比較的良好なケースが多く、手術を受けた結果、寛解しました。

 

ただ、その後の定期健診で「悪性リンパ腫」が発覚。投薬治療を受け続けますが、リンパ腫が転移して、2014年夏頃には入退院を繰り返しています。

 

そんな中でも、病気であることを周囲に知られることもなく、俳優としてCMに出演するなど仕事をこなしていました。

 

しかし、2014年11月上旬頃に容態が急変し、意識不明になった後、11月10日に亡くなりました。享年83歳でした。

 

 

高倉健の遺産は40億円

 

高倉健さんの死後、40億円とも言われている高倉健さんの遺産はすべて小田貴月さんが相続したようです。

 

ただ、高倉健さんが死去した後、小田貴月さんと親族との間で確執が発生しています。

 

小田貴月さんが高倉健さんの養女になっていたことはごく少数の関係者しか知らされておらず、小田貴月さん側から親族に連絡を取り辛い状況で、高倉健さん死去の連絡も遅くなったそう。

 

そのため、高倉健さんの個人事務所の専務に親族への連絡をお願いしたところ、トラブルになってしまったようです。

 

その他、小田貴月さんが高倉健さんの葬儀や遺品整理なども独断で実施したことで、親族側が小田貴月さんに不信感を抱く結果になりました。

 

高倉健の死後の小田貴月の行動
・火葬場で密葬した
・生前の高倉健は鎌倉霊園に墓地を購入していたのに散骨した
・高倉健が生前購入していた墓地を水子供養の石仏ごと更地にした
・高倉健の愛車やクルーザーをすべて処分した
・高倉健の死後に自宅を取り壊し新築した

 

ただし、高倉健さんの愛車やクルーザーなどは、小田貴月さんが利用して事故を起こした場合、故人の名誉を汚してしまうといった考えから処分したようです。

 

また、お骨を散骨したことも、高倉健さんの考えが変わり、生前から小田さんが託されていたことでした。

 

以上のことから、小田貴月さんが故人の遺志に背いたというわけではなかったと言われています。

 

 

高倉健のまとめ

 

高倉健さんは、俳優として大成功を収めた映画界のスターです。歌手の江利チエミさんとの結婚や離婚を経て、再婚は生涯しなかったものの、晩年は信頼できるパートナーを得ていました。

 

高倉健さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。

 

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