昭和を代表する人気俳優、名司会者の高島忠夫さんの豪華すぎる家族が話題です。
この記事では高島忠夫さんの家系図や家族、嫁の寿美花代さんとの結婚エピソードや3人の子供、長男が殺害された「高島忠夫長男殺害事件」の概要や犯人の家政婦のその後と現在などにつてまとめました。
この記事の目次
- 高島忠夫のプロフィール
- 高島忠夫の家系図
- 高島忠夫の家族① 1963年結婚の嫁は女優の寿美花代
- 高島忠夫の家族② 子供3人だが長男の道夫は生後5ヶ月で事件により死去
- 高島忠夫の家族③ 2人目の子供(次男)は俳優の高嶋政宏
- 高島忠夫の家族④ 3人目の子供(三男)は俳優の高嶋政伸
- 高島忠夫の家族⑤ 弟の高嶋弘之はビートルズの仕掛け人として有名
- 高島忠夫の家族⑥ 姪っ子はヴァイオリニストでタレントの高嶋ちさ子
- 高島忠夫の家族⑦ 次男・高嶋政宏の嫁は女優で歌手のシルビア・グラブ
- 高島忠夫の家族⑧ 三男・高嶋政伸の元嫁は女優でモデルの美元
- 高島忠夫の家族⑨ 三男・高嶋政伸の再婚した現在の嫁は14歳年下の女医
- 高島忠夫の家族⑩ 孫が2人いる(高嶋政伸と再婚相手との子供)
- 高島忠夫の長男が家政婦に殺害された事件「高島忠夫長男殺害事件」の概要
- 高島忠夫の長男が殺害された事件の犯人の家政婦のその後や現在
- 高島忠夫の現在…2019年88歳で死去
- まとめ
高島忠夫のプロフィール
高島忠夫のプロフィール
本名 :高嶋忠夫(読みは同じ)
生年月日:1930年7月27日
没年月日:2019年6月26日(没年88歳)
出身地 :兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区御影町)
身長 :181cm
血液型 :O型
高島忠夫さんは主に1950年代から1990年代にかけて活躍した俳優、タレント、テレビ司会者です。
高島忠夫の若い頃の経歴
高島忠夫さんは1930年に兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市)の大地主の家に生まれました。姉妹弟の4人姉弟の長男で、父親は琵琶の師匠でしたが、祖父の代からの大地主だっため、生活のための労働をする必要のないほどの裕福な家庭で育ちました。
旧制の兵庫県立第一神戸中学校時代の同級生にはSF作家の小松左京さんがおり、学生時代は一緒にバンドを組んだ仲でした。戦後の学制改革で新制神戸高校へと進級するもジャズにのめり込んで退学し、翌年に関西学院高等部へと編入学しています。高校時代にも軽音楽クラブに所属しバンド活動をされています。
高校卒業後は関西学院大学法学部へと進学するも、1951年に「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界に入り、大学2年の時に中退しています。
その後、上京した高島忠夫さんは、俳優座に所属して演技や歌を学び、22歳になる直前の1952年6月公開の映画「恋の応援団長」にてスクリーンデビューを飾っています。
その年には映画「チョイト姐さん思い出柳」で初主演も果たし、以降は新東宝のスター俳優兼歌手として人気を得て、1950年代から60年代にかけて100本以上の映画に出演されています。
当たり役となったのは、1956年から1960年代終わりにかけて主演した「坊ちゃんシリーズ」でした。
高島忠夫さんは、そのよく通る声と歌唱力の高さにも定評があり、東宝ミュージカルに多数出演した他、1963年には日本初のブロードウェイミュージカルとして上演された「マイ・フェア・レディ」にも出演。また、ミュージカル色を前面に打ち出した映画「君も出世ができる」や東宝系の宝塚映画、コミカルな演技が話題になった「キングコング対ゴジラ」などにも出演し、国内を代表するエンターテイナーとしての地位を確かなものとしました。
1966年スタートのワイドショー番組「土曜ショー」のメイン司会者を務めたのをきっかけにテレビ司会の仕事を増やし、1970年代にはテレビ司会者といえば高島忠夫と言われるほどの存在感を放ちました。
司会を務めた代表的な番組としては料理番組「ごちそうさま」、クイズ番組「クイズ・ドレミファドン!」などが挙げられ、「ゴールデン洋画劇場」では映画の解説役を長年にわたって務めました。
そんな昭和の時代を代表する名俳優、名司会者として知られる高島忠夫さんですが、その家族も豪華すぎる芸能一家としてよく話題になっています。続けて、高島忠夫さんの家系図や家族、結婚エピソード、長男を亡くした過去の悲しい事件などを紹介していきます。
高島忠夫の家系図
高島忠夫さんの家系図です。
次の見出しから、高島忠夫さんの家族について1人ずつみていきます。
高島忠夫の家族① 1963年結婚の嫁は女優の寿美花代
高島忠夫の嫁・寿美花代のプロフィール
本名 :高嶋節子(旧姓は松平)
生年月日:1932年2月6日
出身地 :兵庫県西宮市
身長 :162cm
血液型 :AB型
高島忠夫さんは1963年に、宝塚歌劇団の元星組男役のトップスターで女優の寿美花代(すみ・はなよ)さんと結婚されています。
高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんは芸能界でも指折りのおしどり夫婦として知られ、過去にはバラエティやテレビCMでも共演して仲睦まじい様子が度々話題になっていました。
高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんの馴れ初めは結婚の2年前の1961年で、当時、寿美花代さんが司会をされていた「季節のミュージカル」というテレビ番組に高島忠夫さんがゲストとして出演したのがきっかけでした。
当時は2人とも人気絶頂で忙しく収録は深夜になったそうなのですが、昼間から働き詰めで空腹に耐えていた寿美花代さんに気がついた高島忠夫さんが「ファンからの差し入れがあるのでいっしょに食べましょう」とさりげなく声をかけてくれたのだそうです。
また、番組では寿美花代さんが作詞し、高島忠夫さんが作曲した曲を一緒に歌うという企画があったのですが、寿美花代さんが収録前にその歌を練習しておこうとしていると、高島忠夫さんが「伴奏してあげましょう」と言ってその場ですぐピアノで合わせてくれたのだそうです。
寿美花代さんはそうした高島忠夫さんのさりげなくスマートな優しさに惹かれて「結婚するならこの人」と出会ってすぐに心に決められたのだそうです。
その後、寿美花代さんの方から高島忠夫さんをデートに誘い、その帰り道に収入や実家の事、恋人の有無など質問攻めにされたそうです。その後、2人は約2年の交際を経て結婚されています。
ちなみに、プロポーズも寿美花代さんの方からだったそうで、「私と結婚してくれませんか。してくれないなら他の人と結婚しますけどいいですか」と唐突に畳み掛けて、高島忠夫さんは驚きのあまり、目を泳がせながら固まってしまったのだそうです。
ただ、この時、突然の事に動揺しながらも心の中では「この人と生きていこう」と思っていたと高島忠夫さんは後に明かされています。
高島忠夫の嫁・寿美花代の若い頃から現在までの経歴
高島忠夫さんの嫁の寿美花代さんは、徳川家と縁のある名家の出身で、名門のお嬢様学校として知られる芦屋高等女学校(現在の芦屋学園中学校・高等学校)を卒業されています。
16歳だった1948年に宝塚歌劇団に第35期生として入団しました。入団時の成績は46人中35位でしたが、1951年に「蜜蜂の冒険」で代役として主役のペーアを演じたのをきっかけに人気を上げ、1952年の「猿飛佐助」にて代役ではない初主演を飾りました。
当時はブロマイド売上1位を記録するほどの人気で、1953年の「アンニー・ローリー」で宝塚新人演技賞に選ばれています。
その後も男役トップスターとして活躍を続け、1958年の「三つのワルツ」では、芸術祭奨励賞(大衆芸能の部)を受賞。1960年の「華麗なる千拍子」で芸術祭賞、テアトロン賞に選ばれています。
また、寿美花代さんは宝塚の舞台だけでなく一般の映画(代表作は1961年の「新源氏物語」)にも多く外部出演しており、国民的に高い人気を集める存在でした。1961年末のNHK紅白歌合戦(第12回)にも歌手として出場しています。
そして1963年に高島忠夫さんとの結婚により、宝塚歌劇団を退団。その後は、料理番組「ごちそうさま」に高島忠夫さんと夫婦司会を務めた他、「平成教育委員会」、「ちちんぷいぷい」などバラエティ番組にも活躍の場を広げました。
2014年には「宝塚歌劇の殿堂」の最初の100人のうち1人に選ばれています。
高島忠夫の家族② 子供3人だが長男の道夫は生後5ヶ月で事件により死去
高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんとの間には3人の子供が誕生しています。
1人目の子供である長男の道夫さんは結婚2年目の1964年に生まれています。
しかし、長男の道夫さんは1964年8月24日に生後5ヶ月で亡くなっています。当時、高嶋家で働いていた17歳の家政婦によって浴槽に沈まれて溺死させられた殺人事件で「高島忠夫長男殺害事件」として知られています。
当たり前ですが、突然幼い長男を殺害された高島忠夫さんも寿美花代さんも心に深い傷を負い、特に寿美花代さんは現在も浴槽に浸かる事ができずにシャワーで済ませる日々が続いている事を明かされています。
「高島忠夫長男殺害事件」については後半で改めて紹介します。
高島忠夫の家族③ 2人目の子供(次男)は俳優の高嶋政宏
高島忠夫の子供(次男)の高嶋政宏のプロフィール
生年月日:1965年10月29日
出身地 :東京都世田谷区
身長 :185cm
血液型 :B型
高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんの2人目の子供(次男)は、人気俳優の高嶋政宏さんです。
高嶋政宏さんはテレビ出演時に父の高島忠夫さんとの子供時代のエピソードをよく明かされています。
高嶋政宏さんによると、優しいイメージのあった高島忠夫さんは家では厳しい父親だったそうです。
テレビのイメージとは異なり、父・忠夫さんは家では非常に厳しかったと語る政宏。来客時に騒いでいると、客が帰った後に直立不動の姿勢にさせられたままビンタをされたり、小遣い制で買いたいものも自由に買えなかったという子供の頃の思い出を振り返る。
また、高嶋政宏さんや三男の高嶋政伸さんの子供時代には学校の行事にも寿美花代さんと夫婦で積極的に参加するなどよき父親でもあったようです。
両親は学校行事に来ることはあったのかと聞かれると、「来てたんですよ」と回答した。「毎回来てて、で、結構行事とかで歌歌ったりなんかして。いっつも(友人から)“なんで高嶋のお父さんとお母さん歌ってんの?”とかよく言われて。その時僕分かんなかったから“分かんない”って」と振り返ってスタジオを驚かせると、「積極的でしたね」としみじみと語った。
その他にも、子供時代に野球をしていた高嶋政宏さんの誕生日のプレゼントとして、庭に200万円をかけてプロの職人にピッチャーマウンドを設営してもらい、プロのコーチを呼んで指導してもらったエピソードなども明かされています。
長男を理不尽な形で亡くしていた分、高島忠夫さんは子供達2人が可愛くて仕方がなかったのかも知れません。
高島忠夫の子供(次男)の高嶋政宏の経歴
高島忠夫さんの2人目の子供である高嶋政宏さんは、子供時代は両親が多忙な事から、東京の自宅と神戸の祖父母宅を行き来して成長されたそうです。
高嶋政宏さんは、私立の名門校であるトキワ松学園小学校、同じく私立の名門、成城学園中学校高等学校を経て、成城大学法学部へと進学しています。法学部を選んだのは、音楽関係の仕事を志望していたため、著作権関係の勉強をする目的だったそうです。大学進学後には本格的に弁護士を志した事もあったそうです。
しかし、大学2年生の文化祭の時にモデル事務所にスカウトされ芸能界入り(スカウトは高島忠夫さんの子供とは知らずに声をかけた)、それを知った東宝から声が掛かり、大学在学中の1987年に映画「トットチャンネル」に出演して俳優としてデビューしています。
同年には映画「BU・SU」にも出演し、この2作品でキネマ旬報ベスト・テン新人男優賞、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、ブルーリボン賞新人賞、日本アカデミー賞新人俳優賞、報知映画賞新人賞など、その年の新人賞を総なめにし、俳優としてこれ以上ないスタートを切りました。
その後も1989年のNHK朝ドラ「純ちゃんの応援歌」や、1993年ドラマ「同窓会」での演技が高く評価されるなど俳優としての人気を上げ、2時間ドラマ「山岳救助隊・紫門一鬼」シリーズや、舞台「レ・ミゼラブル 」、1993年映画「ゴジラvsメカゴジラ」、1994年映画「ヤマトタケル」、2002年のNHK大河「利家とまつ」など、数々の話題作に出演し演技の幅を広げています。
近年も、2017年NHK大河「おんな城主 直虎」、2019年映画「キングダム」などをはじめ数々の話題作に出演し現在も人気俳優として活躍されています。
高島忠夫の家族④ 3人目の子供(三男)は俳優の高嶋政伸
高島忠夫の子供(三男)の高嶋政伸のプロフィール
生年月日:1966年10月27日
出身地 :東京都
身長 :180cm
血液型 :B型
高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんの3人目の子供(三男)は、人気俳優の高嶋政伸さんです。
高島忠夫の子供(三男)の高嶋政伸の経歴
高嶋政伸さんも兄の高嶋政宏さんと同じく、トキワ松学園小学校、成城学園中学校高等学校を経て成城大学へと進んでいます。ただ、高嶋政伸さんは芸術志向で文芸学部芸術学科へと進みました。
学生時代の高嶋政伸さんは映画監督を志望しており、大学時代にかなり力を入れて自主制作映画を制作しヒットを目指しています。
しかし、こだわりすぎたために総編集費用が280万円もかかってしまいます。高嶋政伸さんは映画の興行収益で返そうと映画館に売り込みに行きますが、映画の内容があまりにもシュールだっため全ての映画館で上映を断られてしまったそうです。
高嶋政伸さんは色々なアルバイトをして借金を返そうとするも、首が回らなくなり最終的に父親の高島忠夫さんに土下座をして借金の肩代わりを頼みます。
高島忠夫さんは、高嶋政伸さんには俳優の才能があると見抜いており、「自分の付き人となって俳優の修行をする」のを条件に借金を返済してくれたのだとか。
これをきっかけに高嶋政伸さんは俳優の道へと入り、既に俳優として人気を得ていた兄の高嶋政宏さんの紹介もあって、1988年のNHK朝ドラ「純ちゃんの応援歌」にて俳優デビューしています。
その後、1989年12月公開の映画「ゴジラvsビオランテ」で、日本アカデミー賞新人俳優賞と石原裕次郎新人賞を受賞。
1990年にスタートしたドラマ「HOTEL」でのホテルマン・赤川一平役が当たり役となり、同ドラマは2002年まで放送される人気シリーズとなり高嶋政伸さんの代表作となっています。
1996年のNHK大河「秀吉」では、秀吉の弟の秀長役として全編通して活躍。お人好しなナンバー2の役を好演して高い評価を得ました。2002年にスタートの「こちら本池上署」では主演し、2005年のパート5まで続く人気作となっています。
映画でも活躍し2007年の「釣りバカ日誌18」、「マリと子犬の物語」、2008年の「L change the WorLd」、2009年の「ジェネラル・ルージュの凱旋」、2011年の「探偵はBARにいる」、2015年の「暗殺教室」など代表作は多数に上ります。
近年も活躍を続けており、2018年の「ラプラスの魔⼥」、「響-H I B I K I -」、2020年「アパレル・デザイナー」、「犬鳴村」、「仮面病棟」、2021年「ボクたちはみんな大人になれなかった」など、数々の話題作に出演しています。
若い頃は好青年の役を演じる事が多かった高嶋政伸さんでしたが、年齢を重ねて悪人役でも存在感を放つようになり、ドラマ「DOCTORS最強の名医」シリーズでの主人公に敵対する外科医の森山卓役や、2016年のNHK大河「真田丸」での北条氏政役のアクの強い演技などでも話題を呼んでいます。
高島忠夫の家族⑤ 弟の高嶋弘之はビートルズの仕掛け人として有名
高島忠夫の弟・高嶋弘之のプロフィール
生年月日:1934年5月18日
出身地 :兵庫県神戸市
高島忠夫さんの実弟は、「日本でのビートルズの仕掛け人」として知られる音楽プロデューサー、ディレクターの高嶋弘之さんです。
高島忠夫さんは弟の高嶋弘之さんととても兄弟仲が良かったようで、「新東宝スターレット」の募集記事を見つけて受けるように兄に勧めたのも高嶋弘之さんだったそうです。この時、高嶋弘之さんは兄の俳優としての芸名まで考えて提案したのだとか。
また、高嶋弘之さんは早稲田大学に進学してから卒業まで兄の高島忠夫さんと東京で一緒に暮らしていたのだそうです。
高島忠夫の実弟・高嶋弘之の経歴
高嶋弘之さんは、兵庫県立神戸高等学校から早稲田大学第一文学部へと進み、卒業後の1959年に東京芝浦電気(現在の東芝)に入社してます。
1960年に分社化された東芝音楽工業(後の東芝EMI)へと移籍し、洋楽担当ディレクターを務めました。
1964年にビートルズの担当ディレクターとなり、あらゆる手を使ってビートルズの販促を行って日本国内でのブームを(半ば強引に)作り出しました。
1969年に東芝音楽工業を退職した後、1970年からキャニオン・レコード取締役制作部長を務め、1976年にポリグラム・グループ(現在のユニバーサルミュージック)のチャペル・インターソング社長を経て、1991年に高嶋音楽事務所を設立し、クラシック音楽のアーティストのプロデュース、マネジメントを手掛けています。
高島忠夫の家族⑥ 姪っ子はヴァイオリニストでタレントの高嶋ちさ子
高島忠夫の姪・高嶋ちさ子のプロフィール
本名 :盛田知佐子
生年月日:1968年8月24日
出身地 :東京都
身長 :158cm
血液型 :A型
高島忠夫さんの弟・高嶋弘之さんには3人の子供がいて、次女がヴァイオリニストでタレントの高嶋ちさ子さんです。つまり、高島忠夫さんにとって高嶋ちさ子さんは姪っ子にあたります。
高嶋ちさ子さんは6歳の頃にヴァイオリンを習い始めていますが、当時の高嶋ちさ子さんがテレビ番組の司会で活躍していた高島忠夫さんに、松田聖子さんや田原俊彦さんにも会うのかと尋ねると、高島忠夫さんは「バッハとか弾いている人は俗世間のものに耳を傾けてはいけない」と真面目にアドバイスをしてきたんだとか。
幼い頃からヴァイオリンを始めたちさ子さんにも忠夫さんから真面目な一面がうかがえるアドバイスがあったという。それは、「『ヴァイオリンやっているんだったら、もっと芸に没頭しなきゃいけない』って言われて。私が、『おじちゃまって、聖子ちゃんとかトシちゃんとか会うの?』って聞くと、『バッハとか弾いている人は、そういう俗世間のものに耳を傾けちゃいけない。バッハを弾く時は正座をしろ』って言われたの」
そんな高嶋ちさ子さんは、青山学院初等部・中等部、桐朋女子高校音楽科、桐朋学園大学音楽学部を経てイェール大学音楽学部大学院修士課程アーティスト・ディプロマコースを修了し、1995年からプロのヴァイオリニストとして活躍されています。
高島忠夫の家族⑦ 次男・高嶋政宏の嫁は女優で歌手のシルビア・グラブ
高嶋政宏の嫁のシルビア・グラフのプロフィール
本名 :高嶋沙絵子(旧姓は土橋)
生年月日:1974年7月17日
出身地 :東京都
身長 :164cm
血液型 :O型
高島忠夫さんの子供(次男)の高嶋政宏さんの嫁は女優で歌手のシルビア・グラフさんです。
父親がスイス人で母親が日本人のハーフで、日本での本名は沙絵子さんです。聖心インターナショナルスクールからボストン大学へと進み、卒業後の1997年にミュージカル舞台「Jerry’s Girls」に出演したのを皮切りに本格的にミュージカル女優として活動を開始。
出典:https://www.nikkansports.com/
高嶋政宏さんとは、2000年のミュージカル舞台「エリザベート」での共演をきっかけに交際をスタートし2005年7月17日に結婚されています。京都で開かれた披露宴や、ハワイマウイ島での結婚式では高島忠夫さんも嬉しそうな笑顔を見せていました。
高島忠夫の家族⑧ 三男・高嶋政伸の元嫁は女優でモデルの美元
高嶋政伸の元嫁・美元(みをん)のプロフィール
本名 :裕子・チャン(旧姓は芦澤)
生年月日:1979年6月29日
出身地 :東京都
身長 :173cm
血液型 :O型
高島忠夫さんの子供(三男)の高嶋政伸さんの元嫁は女優やモデルとして活動する美元(みをん)さんです。
高嶋政伸さんと美元さんは特番のドラマ「大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち」で共演して知り合い、2008年9月に結婚しています。交際わずか6日で高嶋政伸さんの方からプロポーズしてのスピード結婚でした。
ところが、結婚2年目の2010年8月頃から夫婦関係が破綻して別居状態になり、高嶋政伸さん側から離婚調停を起こすも美元さんは離婚に応じずに泥沼裁判に発展。マスコミがセンセーショナルに報じた事で世間を騒がせました。
2012年11月にようやく離婚が成立し、美元さんはその後、2013年にシンガポール人の資産家男性と再婚し、2014年には子供も誕生しています。
高島忠夫の家族⑨ 三男・高嶋政伸の再婚した現在の嫁は14歳年下の女医
出典:https://tokyo-sports.ismcdn.jp/
2012年11月に元嫁の美元さんと離婚した高嶋政伸さんは、3年後の2015年9月に14歳年下の女子と2度目の結婚をしています。
俳優の高嶋政伸(48)が再婚したことが17日、わかった。所属事務所が書面で発表した。 お相手は、都内の大学病院で医師をしている34歳の女性。共通の友人の紹介で知り合い、一年間の交際経て、きのう16日に婚姻届を提出した。
高嶋政伸さんの現在の嫁であるこの女性については、都内の大学病院で皮膚科が専門である事などが明かされています。また、勤務している病院は順天堂大学の附属病院だと言われていますが真偽不明の噂です。
高島忠夫の家族⑩ 孫が2人いる(高嶋政伸と再婚相手との子供)
高嶋政伸さんと現在の嫁との間には2人の子供が誕生しています。高嶋政宏さんには子供がおらず、高島忠夫さんの孫はこの2人のみです。
高嶋政伸さんの最初の子供は2017年8月21日に生まれた長男で、高島忠夫さんにとっては初孫です。
俳優の高嶋政伸(50)に第1子となる男児が21日に誕生していたことが分かった。22日、所属事務所が書面を通じて発表した。
高嶋にとっては初の子供となり、「今日21日、3時のおやつの時間に、我が家に新たな命が誕生いたしました。私と家内の両親にとっての初孫で、ちょっと大きめの男の子です」と報告。
高嶋政伸さんの2人目の子供は2022年3月16日に生まれた次男で、高島忠夫さんにとっては2人目の孫にあたります。
俳優高嶋政伸(55)に第2子となる次男が16日に誕生した。
ただ、高島忠夫さんは2019年に亡くなっているので、この2人目の孫との対面は叶いませんでした。
高島忠夫の長男が家政婦に殺害された事件「高島忠夫長男殺害事件」の概要
続けて、高島忠夫さんと嫁の寿美花代さんの初の子供である長男が殺害され、当時の社会に大きな衝撃を与えた事件「高島忠夫長男殺害事件」についても見ていきます。
事件発覚時の状況
1964年8月24日の午前2時40分頃、高島忠夫さん宅に住み込みで働いていた当時17歳の家政婦が「道夫ちゃん(高島忠夫さんの長男)がいない。男の人影を窓越しに見た。強盗だ」などと騒ぎはじめました。
この時、高島忠夫さんと寿美花代さん夫妻は2階の寝室で眠っていましたが、家政婦の声で目を覚まし一緒に長男を探し回りました。当時、高島忠夫さんの自宅には、家政婦の他に世話係の29歳の看護師と、お手伝いさんとして親戚筋にあたる69歳の女性も住み込みで働いており、一緒になって長男を探しています。
自宅内には荒らされた形跡があり、玄関の鍵も開けられていました。高島忠夫さんは鉄棒を持って庭へ出て犯人を探し、寿美花代さんや家政婦ら他の全員で長男の姿を探しましたが、犯人も長男もどこにも見当たりませんでした。
寿美花代さんが念の為、浴室の浴槽のふたを開けてみたところ、水の中に沈んで口から大量の泡を吐いている長男の姿を見つけます。寿美花代さんはショックのあまりその場にへたり込んで動けなくなってしまいました。
長男は死亡しており、警察は殺人事件として捜査開始
高島忠夫さんは、すぐに長男を湯船から抱き上げると、パジャマ姿のまま近所の病院へと駆け込みました。しかし既に手遅れの状態で長男は心肺停止しており、蘇生措置が行われるも程なくして死亡が確認されました。
通報を受けて警察官が駆けつけ、状況から殺人事件と断定して捜査を開始。刑事が家族と住み込みの3人全員に事情聴取を行っています。
警察の取り調べにより家政婦が犯行を自供
最初に長男がいない事を騒ぎはじめた家政婦は、「不審な男を見た」、「道夫ちゃん(長男)の泣き声を聞いた」などと証言しましたが、他の人は誰も不審な男は見ていないし、長男の泣き声も聞いていませんでした。また、高島忠夫さん宅には不審者に吠える犬が飼育されていましたが、この犬も吠えていませんでした。
さらに、玄関の鍵は開かれていたものの、外部から侵入した事を示す形跡は見つからず、長男が発見された湯船の湯を抜くのはこの家政婦の役割でした。
こうした点から、警察はすぐに犯人は家政婦ではないかと疑って追及。24日の正午には家政婦は「自分が長男を殺害した」と自供し、事件はスピード解決に至っています。
自供内容によると家政婦は、29日の午前1時過ぎに風呂を済ませた後、長男のぐずる声が聞こえたため、看護師と添い寝していた長男を抱き抱えて庭へ出てしばらくあやしています。しかしその後、再び風呂場へと戻り、湯を抜いていなかった浴槽に長男を沈めて溺死させたのでした。
犯人の家政婦が長男を殺害した動機は嫉妬
犯人の家政婦は新潟県の佐渡島の出身で、1963年に中学校を卒業した後、集団就職で上京して墨田区の工場で働きはじめました。その職場に偶然、高島夫妻の関係者がいたため、その縁で1963年の暮れから高島忠夫さん宅に住み込みの家政婦として働く事になったのでした。
高島夫妻はこの家政婦をとても可愛がり、信頼しており、家政婦の方もそれを嬉しく思い、周囲に自慢したりしていました。
高島忠夫さんはこの家政婦を自分の付き人として仕事にも連れて行くようになりますが、その結果、長男の世話をする手が足りなくなり、高島家では新たに遠戚の69歳の女性と、看護師資格(当時は看護婦資格)を持つ29歳の女性を新たに住み込みのお手伝いさんとして雇います。
高島夫妻はこの29歳の看護師女性に信頼を寄せて、長男の世話を一任するようになりました。
犯人の家政婦はこれに嫉妬心を覚えるようになり、「高島夫妻は看護師ばかりを可愛がり自分は除け者にされている」などと考えるようになって被害妄想を募らせ、挙句には「道夫ちゃん(長男)さえいなければ看護師は用無しになって再び自分が信頼される」などと考えるに至りました。そして、犯人の家政婦は衝動的に犯行に及んだのでした。
高島忠夫の長男が殺害された事件の犯人の家政婦のその後や現在
高島忠夫さんの長男の道夫さんが殺害された事件の犯人は当時17歳の住み込みの家政婦でした。
この家政婦はその後、逮捕起訴されて裁判を受けています。ところが事件当時未成年だった事なども影響し、実刑には処されたものの判決は懲役3年から5年という、罪の重さから見てかなり軽いという印象を受けるものでした。
さらにその後、犯人の家政婦は1968年に仮出所しており、1970年には結婚もしています。しかもこの犯人の家政婦はメディアに登場し、事件に関する発言を繰り返していました。
模範囚だった美恵は昭和43年に仮出所し、45年に結婚した。彼女の過去も知った上での結婚だったという。その後、美恵はいくつかのメディアに登場し、当時のことや高島夫妻に対する懺悔を告白している。「高島さんに詫びる気持ちは生涯変わりません」「(命日には)道夫ちゃんの写真の前にお花とかお菓子を添えて深くお詫びしているのです。これだけは一生欠かしません。道夫ちゃん、高島さん、奥さま、本当にごめんなさい」
犯人の家政婦は反省の弁を口にし、高島忠夫さんと寿美花代さん、自身が殺害した長男に対する謝罪の言葉も口にしていますが、こんな事をされては高島忠夫さんも寿美花代さんも傷をさらに抉られるような気分だったのではないかと想像されます。
さらにその後、高島忠夫長男殺害事件から20年以上が経過したある日、三男の高嶋政伸さんの前に、この犯人の家政婦を名乗る不審な中年女性が現れるという事件があったようです。
この女が本当に犯人の家政婦だったのかはわかっていませんが、高島忠夫さんや家族らにとっては、なんとも不快で不気味な出来事だったろうと思われます。
政伸が成人した20余年後のある日、再び高島家に戦慄が走る出来事が起こった。道夫ちゃんを殺害した女性が政伸の前に現れたのだという。 高島家を知る人物は語る。「“犯人は、私、私”ってあっけらかんと話しかけてきたようです。政伸さんは“普通のおばさんだった”といっていました。その女性が本当に犯人だったのか、ただの嫌がらせだったのか、いまになっては確かめようもありませんが、驚いたでしょうね」
この犯人の家政婦についてはその後は情報がなく、現在どうしているのかはわかっていません。2023年の現在も生存していれば、犯人の家政婦は70代半ばを過ぎているはずです。
高島忠夫の現在…2019年88歳で死去
高島忠夫さんは2019年6月26日に88歳で亡くなっています。死因は老衰と発表されており、都内の自宅で息を引き取ったとの事です。
葬儀は家族のみの密葬で執り行われています。
俳優高島忠夫(たかしま・ただお)さん(本名・高嶋忠夫)が26日、午後1時1分、老衰のため自宅で亡くなっていたことが分かった。88歳。
まとめ
今回は、昭和の時代を代表する名俳優、名司会者として活躍した高島忠夫さんの家族を中心にまとめてみました。
高島忠夫さんの家族は芸能一家として知られ家系図も話題です。嫁は元宝塚の男役トップスターで女優の寿美花代さんで、1963年に結婚されています。子供は3人で長男は生後5ヶ月に殺人事件により死去。次男は俳優の高嶋政宏さん、三男も俳優の高嶋政伸さんです。
また、弟はビートルズの火付け役として知られる音楽ディレクターの高嶋弘之さん、その子供で高島忠夫さんにとって姪っ子にあたるのが、プロヴァイオリニストでタレントの高嶋ちさ子さんです。
「高島忠夫長男殺害事件」については、当時住み込みで働いていた17歳の家政婦が嫉妬と被害妄想によって当時5ヶ月の高島忠夫さん長男を殺害したという理不尽な事件で世間を騒がせました。この犯人の家政婦はその後、仮出所して結婚もしていますが、現在については不明です。
高島忠夫さんは2019年に88歳で亡くなられており、現在はこの世にいません。