佐田啓二さんは「松竹戦後の三羽烏」と呼ばれた昭和の人気俳優で、俳優の中井貴一さんの父親です。
今回は佐田啓二さんの家系図や実家の家族、ハーフ説、結婚した嫁と子供、運転手が起こした事故の経緯と死因、その後の家族を紹介します。
この記事の目次
- 佐田啓二は昭和のイケメン俳優で中井貴一の父親
- 佐田啓二のプロフィール
- 佐田啓二の性格
- 佐田啓二の家系図や実家の家族 【ハーフ説と真相】
- 佐田啓二が結婚した嫁は小津監督のお気に入りの女性
- 佐田啓二の子供① 長女は女優の中井貴恵
- 佐田啓二の子供② 長男は俳優の中井貴一
- 佐田啓二が芸能界に入ったきっかけは佐野周二
- 佐田啓二の出演作品3選① 映画「不死鳥」
- 佐田啓二の出演作品3選② 「君の名は」
- 佐田啓二の出演作品3選③ 「鐘の鳴る丘」
- 佐田啓二の死因は交通事故死だった
- 佐田啓二の遺体は手が付けられないほどの損傷だった・・・
- 佐田啓二の事故死のその後① 嫁は運転手を責めなかった
- 佐田啓二の事故死のその後② 中井貴一が父親と母親を語る
- 佐田啓二の事故死のその後③ 中井貴恵が父親を語る
- まとめ
佐田啓二は昭和のイケメン俳優で中井貴一の父親
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中井貴一の父親として知られる俳優の佐田啓二
中井貴一さんといえば、ダンディな風貌と高い演技力、朗らかな雰囲気が特徴のベテラン俳優ですよね。
そんな中井貴一さんの父親である佐田啓二さんは、「松竹戦後の三羽烏」と呼ばれて1940年代後半から1960年代前半の日本映画界を牽引したスターであり、今で言うイケメン俳優でした。
佐田啓二のプロフィール
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佐田 啓二(さだ けいじ)
生年月日: 1926年12月9日
没年月日: 1964年8月17日
出身地: 京都府京都市下京区
身長: 173.2cm
死去した1964年からかなりの年月が経過しているため、佐田啓二さんをご存知ない方もいるかもしれません。まずはプロフィールを紹介します。
子供である中井貴一さんや中井貴恵さんと苗字が異なるのは、「佐田啓二」が芸名だからです。
佐田啓二さんの本名は「中井寛一」さんといい、監督や共演者からは「寛ちゃん」と呼ばれていたのだとか。
第二次世界大戦後の1947年に俳優デビューして以降、その端正な顔立ちが人気を博し、死去した1964年まで俳優として活動を続けました。
佐田啓二の性格
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売れっ子俳優と聞くと、華やかで明るい性格の人物では?と思う方も多いのではないでしょうか。
しかし、佐田啓二さんの学生時代の友人の証言によると、「真面目で物静かであまり笑わなかったが、とても冷静に物事を見ているタイプだった」とのこと。
さらに、「世の中を知っていたというか、大人だった。それでいてどこか寂しげなやつだった」という意外な証言もあります。
どうやら佐田啓二さんは、少し影のある青年だったようで、見た目の派手さと内に秘めた寂寥感が、役者としての魅力になっていたのかもしれませんね。
佐田啓二の家系図や実家の家族 【ハーフ説と真相】
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目鼻立ちがくっきりとした日本人離れの顔立ちをしている佐田啓二さんは、ハーフの噂がありますが本当でしょうか。
ここでは、実家の両親や家族の生い立ちについて調査しました。
父親は京都の商人
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佐田啓二さんは、京都府京都市下京区にある商屋に生まれました。父親と母親、そして5歳年上の兄と2歳上の姉の5人家族でした。
父親は商人だったことが判明しているのですが、どういった商品を扱う店だったのかなど詳細な経歴は公表されていません。
両親は日本人と言われているため、ハーフというのは欧米人のような目鼻立ちから出た単なる噂に過ぎないようです。
ただ、もしかしたら祖父母など家系に外国人の血が混じっている可能性はあるかもしれませんが、証拠となる情報は今のところありません。
若い頃に両親が他界
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地元の京都で生まれ育ち、京都市立西陣商業高等学校に進学した佐田啓二さんでしたが、高校3年生の頃に母親が他界、その2年後に父親も他界したようです。
若くして両親と死に別れ、兄と姉が親代わりとして佐田啓二さんの生活を支えてくれたことをインタビューで明かしています。
佐田啓二が結婚した嫁は小津監督のお気に入りの女性
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佐田啓二さんの大事な家族と言えば、やはり嫁は外せません。
嫁は一般人でありながら、小津監督と懇意にしていた女性とのことで、どんな女性なのか気になりますよね。
結婚相手は食堂の娘だった
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結婚式を挙げた佐田啓二と嫁
佐田啓二さんが結婚したのは1957年です。
嫁は大船撮影所の近くにある食堂の看板娘・益子さんで、結婚式の写真がネット上で出回っています。
売れっ子女優と言っても差し支えないほどの美貌の持ち主で、撮影所に頻繁に出入りしていたため、「撮影所のマドンナ」という異名を取っていたそうです。
佐田啓二さんが益子さんの食堂に通い詰めて、仲を深めたことが2人の馴れ初めです。
実は益子さんも京都出身で、お互い離れた土地で京都弁で会話ができることにより、心の距離が縮まったようです。
この時代の女性には珍しく、170cmという高身長でもあった益子さんでしたから、2人の結婚式の全身写真は、まるでモデル夫婦のようにも見えますね。
小津監督との噂もあった
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映画監督の小津安二郎
嫁の益子さんが「撮影所のマドンナ」と呼ばれた理由の1つには、映画監督の小津安二郎さんが、益子さんをとても気に入っていたことも影響していました。
息子である中井貴一さんが、以下のエピソードを語っています。
「原節子さんの髪型あるじゃないですか、『シニョン』。
あれはうちのお袋の髪型なの。
最初に原さんが映画にお出になるときに、(小津監督が)メイクさんを呼んで『原くんの髪の毛は益子(中井の母親の名前)にしてくれ』って」
引用:中井貴一が語った「母と佐田啓二と小津安二郎」- FLASH Smart https://smart-flash.jp/
小津安二郎さんが、益子さんに目をかけているのは誰が見ても明らかだったようです。
中井貴一さんは周囲からこの話を聞いていたので、母親と小津安二郎さんの関係を長年疑っていたほどでした。
そしてストレートに母親に向かって質問をぶつけてみたところ、即座に「ない」と返ってきたので安心したといいます。
佐田啓二さんと益子さんは10年に渡る交際を実らせて、婚約が決まった時には小津安二郎さんに「益子さんと結婚したい」と告げたそうです。
小津安二郎さんが「いいよ。もちろんだよ」と答えたことで、佐田啓二さんと小津安二郎さんは義理の父親と息子のような関係だったといいます。
ちなみに、小津安二郎さんは結婚式の仲人も務めました。
このことからも、益子さんとの関係は男女の仲というよりは、父親と娘という関係に近いものだったのかもしれませんね。
佐田啓二の子供① 長女は女優の中井貴恵
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佐田啓二さんは益子さんとの結婚後、2人の子供に恵まれました。
長女は、女優やエッセイストとして活躍中の中井貴恵さんです。
中井貴恵のプロフィール
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中井 貴恵(なかい きえ)
生年月日: 1957年11月27日
出身地: 東京都世田谷区玉川田園調布
血液型: O型
身長: 167cm
佐田啓二さんの第1子で長女として誕生した中井貴恵さんは、6歳の時に父親を亡くしています。
父親の記憶は薄く、成長してから生前の作品を観ることで、俳優として活動していた佐田啓二さんの仕事ぶりを知ったそうです。
そんな中井貴恵さんは、早稲田大学文学部在学中に、映画「女王蜂」のヒロインとしてデビューを果たしました。
1982年に「あゝ野麦峠 新緑篇」、「制覇」に出演し、日本アカデミー賞助演女優賞にノミネートされ、女優としてのポジションを確立しています。
結婚後は家庭を優先している
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中井貴恵さんは1987年に一般人男性と結婚しました。そして、旦那の仕事先であるアメリカのニューハンプシャー州に移住し、2人の娘に恵まれています。
芸能界の仕事は休業して、旦那と子供を支える生活を送っているようです。
近年は、絵本の朗読会である「大人と子供のための読みきかせの会」の活動を行っています。
幼稚園や小学校、小児病棟を周り、絵本の読み聞かせをするというボランティア活動で、1200回を超える会を開催しているようです。
佐田啓二の子供② 長男は俳優の中井貴一
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長男で俳優の中井貴一
佐田啓二さんの第2子で、長男として誕生したのが俳優の中井貴一さんです。
俳優になってから、父親の存在をより身近に感じることが多くなったといいます。
中井貴一のプロフィール
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中井 貴一(なかい きいち)
生年月日: 1961年9月18日
出身地: 東京都世田谷区玉川田園調布
血液型: A型
身長: 181cm
佐田啓二さんが死去した時、中井貴一さんは2歳でした。
地元の成城中学校と成城高校を経て、成城大学の経済学部を卒業しています。
幼い頃から赤面症だったことから、俳優になることは一切考えていなかったようで、趣味のテニスに夢中の学生時代だったとのこと。
佐田啓二さんの17回忌の法要で、映画監督の松林宗恵さんからスカウトされたことがきっかけで、1981年公開の映画「連合艦隊」で俳優デビューを果たしました。
翌1982年にはNHK水曜時代劇「立花登 青春手控え」で初主演、1983年にはTBSの人気ドラマ「ふぞろいの林檎たち」で主演したことによって人気は急上昇。
その後は、大河ドラマや映画に舞台と、数多くの有名作品に次々に出演し、演技派俳優として知られています。
俳優になったのは父親が背中を押したから?
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佐田啓二さんの記憶は全く残っておらず、俳優になるつもりもなかった中井貴一さんは、松林宗恵さんからスカウトの話を聞いても、最初は受ける気はなかったそう。
義理で話を聞いただけのはずが、気が付いたら「イエス」と言っていたそうで、もしかしたら父親に背中を押されたのでは・・・という不思議な感覚を覚えたといいます。
その時に感覚について、以下のように述べています。
それ以来『俺がやれなかった役を代わりにやってくれ』と父から言われてるような気がして俳優を続けている。
これまで公に話したことはないけど、40年間ずっとそう思い続けてきた。と後年語っている
引用:中井貴一 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
佐田啓二さんの記憶はなくても、俳優活動をすることで父親を身近に感じているようです。
いつも作品に全力で取り組んでいる
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高い演技力と抜群の存在感で視聴者を魅了する中井貴一さんは、天性の才能だけではなく、作品のリアリティを大事にする俳優としても有名です。
2008年にフジテレビで放送された「風のガーデン」では、有名医大に勤務する医師で、末期がんで死去するという役柄を演じました。
監督から「何キロ落とせる?」と聞かれた中井貴一さんは、半年間キャベツダイエットを継続して9kgの減量に成功したんです。
炭水化物を一切摂らず、本当にキャベツだけの生活だったようで、病院に行ったところ怒られてしまったことを明かし、「医師なのに医師に怒られてしまった」と苦笑していました。
さらに、2011年に公開された映画「麒麟の翼」では、中井貴一さんが演じた青柳武明役は既に死亡した人物として登場します。
主演の阿部寛さんが舞台挨拶で語った仰天エピソードによると、中井貴一さんは撮影初日、共演者に挨拶をせずに棺の中で出番を待っていたそうです。
佐田啓二が芸能界に入ったきっかけは佐野周二
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関口宏の祖父である俳優の佐野周二
佐田啓二さんが芸能界に入ったきっかけは、佐田啓二さんが上京した時に、人気俳優の佐野周二さんと出会ったことでした。
佐野周二さんは、佐田啓二さんにどんな影響を与えたのでしょうか。
佐野周二のプロフィール
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佐野 周二(さの しゅうじ)
本名: 関口正三郎
生年月日: 1912年11月21日
没年月日: 1978年12月21日
出身地: 東京都千代田区
佐野周二さんは、1930年代後半から1970年代にかけて活躍した松竹の二枚目スター俳優であり、タレントの関口宏さんの父にあたります。
1937年には準幹部に昇進し、名実ともに松竹を担う人物でした。
戦後になるとそれまでの爽やかな青年役だけでなく、荒っぽい性格の人物役にも挑戦するなど、役の幅が広がった演技力が評価されました。
1953年にフリーの俳優として独立し、この時に設立した芸能事務所「まどかグループ」は、佐田啓二さんも共同経営者として参加しています。
独立後は映画の制作にも挑戦し、ドラマでは温厚な父親の役を演じることが多かったそうです。
1978年12月21日、急性心不全のため死去しました。享年66歳でした。
佐野周二の名前を芸名に付けていた
地元の京都の高校を卒業した佐田啓二さんは、早稲田大学に進学が決まり、兄弟の援助を受けて上京しました。
親族に紹介してもらった下宿先は佐野周二さんの実家で、佐田啓二さんの方が13歳下でしたが、2人は気が合ったそうです。
大学2年生の時、勤労動員として海軍の工場で勤務していたので一時期は愛知県で暮らしましたが、戦後再び東京に戻ると、佐野周二さんのつてで松竹大船撮影所へ入社しました。
そして、佐野周二さんの「佐」と「二」をもらって、「佐野啓二」という芸名で俳優デビューが決まったのです。
佐田啓二の出演作品3選① 映画「不死鳥」
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佐田啓二さんのデビュー作品は、1947年に公開された映画「不死鳥」です。
既にスターとして名を馳せていた田中絹代さんの相手役に抜擢され、2人のラブシーンが話題に。
女性からの人気を獲得して、デビュー作品でいきなり注目を集めた佐田啓二さん。
同じ頃にデビューした高橋貞二さんと鶴田浩二さんと共に「松竹戦後の三羽烏」と呼ばれ、松竹の新しい風となりました。
佐田啓二の出演作品3選② 「君の名は」
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1953年9月に公開された映画「君の名は第一部」は、2億5000万円を超える配給収入を上げて、1953年の配給収入ランキング第2位に輝く大ヒット作品です。
なお、1953年のランキング第1位は、同年12月に公開された「君の名は第二部」であるため、同一シリーズの作品が1位と2位を占めたことになりますね。
なお、「君の名は」は、第二次世界大戦まっただ中の東京大空襲下の日本を舞台にしたラジオドラマが原作で、ラジオから火が付き、実写化されました。
焼夷弾が降り注ぐ中で出会った真知子と春樹は、助け合いながら戦火を一晩逃げ続け、半年後の再会を約束して別れますが、互いに過酷な運命に見舞われてすれ違いが続くというストーリー。
佐田啓二さんは主人公の春樹を、大物女優の岸恵子さんが真知子を演じ、作品は第3部まで制作されました。
多くの人々を魅了した「君の名は」は後年、舞台やNHKの朝ドラで実写化されています。
佐田啓二の出演作品3選③ 「鐘の鳴る丘」
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1949年に公開された映画「鐘の鳴る丘」も、人気のラジオドラマを実写化した作品です。
戦後、空襲で家も家族も失った戦災孤児が集まる信州の山里の集落で、戦争から復帰した佐田啓二さん演じる主人公が共同生活を通し、前向きに生き抜く様子を描くヒューマンストーリー。
当時の日本も戦後復興真っ最中だったことから、多くの共感を呼び、作品は子供からお年寄りまで世代を問わず愛されました。
佐田啓二の死因は交通事故死だった
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老若男女問わず、2枚目俳優として愛された佐田啓二さんでしたが、1964年8月17日、信州蓼科高原から東京への戻る途中で、自動車事故に遭い死去しています。
大人気俳優の突然の訃報は、日本中のファンを驚きと悲しみに包みました。
ここでは、死因となった事故の経緯について見ていきましょう。
交通事故の詳細
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事故が起きたのは1964年8月17日の早朝でした。
佐田啓二さんは家族と共に信州蓼科高原に避暑で訪れていましたが、事故当日はNHKドラマ「虹の設計」の撮影のために、東京へと車で向かいます。
車には運転手と佐田啓二さんの他に、義理弟の新聞記者とその同僚の4人が同乗していました。
佐田啓二さんは前日の夜、別荘の水漏れが気になり、あまり眠ることができなかったといいます。そして、後部座席に乗り込むとすぐに眠り始めました。
別荘と東京を既に何往復もしていた運転手は慣れたもので、午前6時30分には韮崎市に入っていました。
そして、前にいた個人タクシーを追い抜こうと、反対車線に出たようです。
しかし、その場所はちょうど塩川橋に差し掛かるポイントで、幅が狭くなっており、追い越してすぐに車の前方に橋柱が迫っていました。
これに気がついた運転手は、慌ててハンドルを左へ切って、車が柱に激突するのを避けようとしましたが、急な切り替えが上手く行かず、車は右側へ大きく横滑りしてしまいます。
結局、車は橋柱に激突し、佐田啓二さんが乗っていたクラウンの右側は無残な状態に破損してしまったようです。
さらに柱に激突した衝撃で、車は左側に跳ね飛ばされ、後ろから来たタクシーに追突されてようやく止まったといいます。
佐田啓二の遺体は手が付けられないほどの損傷だった・・・
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事故直後、橋の下にの河原にいた人が異変に気が付いて駆け付けると、大破した車の中で、頭から血を流し、不自然な方向に腕がねじ曲がっている佐田啓二さんが発見されます。
さらに、同乗していた新聞記者の2人も、顔の骨と肩の骨を折るなど負傷。衝突した個人タクシーの運転手も怪我を負う大事故になったのです。
事故を起こした運転手は肩の骨を折るなど重傷を負っていましたが、命の危険はなく、クラウンから降りて地面にしゃがみこんでいたようです。
佐田啓二さんが最も重体で、韮崎市立病の病院に救急車で運ばれましたが、頭蓋骨が骨折するほどケガは酷いもので危篤状態でした。
開頭手術を試みましたが、心臓の衰弱が激しく、治療ができないまま、事故当日の午前11時に息を引き取っています。
佐田啓二さんは日頃から、車で移動する際は構造上一番安全だと言われている右側の後部座席に座るようにしていたそうです。
しかし、今回の事故では右側の破損が特に激しく、右側の後部座席に座っていた佐田啓二さんだけが亡くなるという皮肉な結果になりました。
佐田啓二の事故死のその後① 嫁は運転手を責めなかった
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佐田啓二さんの死去後、警察による事故の検証が行われ、事故原因は運転手の居眠りだったことが判明します。
佐田啓二さんの嫁である益子さんは、事故で旦那だけが亡くなり、やりきれないものがあったことでしょう。
残された嫁の益子さんは、まだ幼かった中井貴恵さんと中井貴一さんを女手1つで育てました。
そして、子供たちが成長すると、父親の死因や事故原因について質問してくるようになりました。
益子さんは決して自分の口から真実を明かさず、「運命だったのよ。理由はない。お父さんの運命は37という歳だったのよ」と諭し、1度たりとも誰かのせいだとは言わなかったそうです。
中井貴一さんは「人を恨まないで育つことができた。『あの人のせいで死んだ』と思ったら、その人に対する恨みを持って生きることになる」と、母親の対応に感謝しているようです。
思わず本音を漏らしたことも
中井貴一さんが18歳になった時に、反対されるだろうと思いながら自動車の運転免許取得について益子さんに相談したそうです。
すると、反対はされなかったものの、益子さんはポツリと一言「人に運転されて死ぬより、自分で死ぬ方がいいわ」と呟きました。
これを聞いた中井貴一さんは、「これが事故に対するおふくろの本当の気持ちだ」と痛感したといいます。
運転手を責める素振りを見せない益子さんでしたが、やはり心の中で大なり小なり恨めしく思うことがあったということですね。
佐田啓二の事故死のその後② 中井貴一が父親と母親を語る
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佐田啓二さんが事故死してからは、益子さんが1人で2人の子供を育て上げたのですが、かなり躾に厳しい母親だったことを中井貴一さんが明かしています。
母親から厳しく育てられた
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益子さんは夫の死後、中井貴一さんを将来の大黒柱として育てる教育を開始しました。
食事の時は、佐田啓二さんが座っていた席に座り、うっかり醤油をこぼそうものなら「食べなくていい」と食事を下げられ、時には手が出ることもあったそうです。
特に叱られていない時でも、益子さんが動くと条件反射で体がビクッと反応してしまうほどだったといいます。
勘違いするな!と叱られた
中井貴一さんは大学生の時に芸能界デビューをしていますが、撮影現場に入ると、記憶にすら残ってない偉大なる父親と演技力で比べられ、二言目には「2世俳優」とささやかれたそうです。
そんなゲンナリする日々が続く中、家で益子さんと喧嘩になり、中井貴一さんは自分の力でデビューできたという態度を取ったところ、益子さんがブチ切れたといいます。
益子さんは「あんたが佐田啓二の息子って言われるのは当たり前だ。勘違いするな!」と一喝したのです。
その後も何かと「勘違いするな」と言われ続け、どんな演技をしても褒められることはなかったといいます。
益子さんとしては、中井貴一さんを立派な中井家の跡継ぎにするための教育の一環だったようですが、中井貴一さんは寂しい思いを抱えていたようです。
最後のお願いをした
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体を壊し、しばらく入院生活をした後、益子さんは2016年に死去しました。
母親の死が近いことを悟った中井貴一さんは、最後のお願いとして、益子さんに頭を撫でてもらったそうです。
俳優人生を送る中で、母親から1度も褒められたことがなかったため、「おふくろ、1回だけ頭を撫でてくれよ」とお願いし、撫でてもらった中井貴一さんは泣き崩れてしまいました。
これまで長年、佐田啓二さんが父親という重い荷物を背負ってきた中井貴一さんでしたが、頭を撫でてもらうことで、「これからもその荷物を背負い続けられる」と思えたそうです。
佐田啓二の事故死のその後③ 中井貴恵が父親を語る
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長女の中井貴恵さんも、佐田啓二さんについて思い出を語っています。
娘に対する佐田啓二さんの愛の深さが分かるエピソードを紹介します。
佐田啓二は子供にメロメロだった
中井貴恵さんがお腹の中にいる時、何回も佐田啓二さんは「生まれてくる子は男の子じゃなきゃ承知しないぞ」と言っていたそうですが、中井貴恵さんが産まれるとメロメロだったそうです。
「将来は外交官に嫁がせたい」と言ってみたり、左手の甲にできたアザを見て「女の子にアザは可哀そうだけど、黒い手袋してるのはカッコいい」と言ったりと、何かと気にかけていたそう。
中井貴恵さんは、「大人になった私の姿を想像していたんだと思います。どんな風に育てたかったか知りたかったですね」とコメントしています。
まとめ
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佐田啓二さんは、1946年から1964年まで活躍した映画俳優で、俳優の中井貴一さんと中井貴恵さんの父親です。
スラリとしたプロポーションと目鼻立ちのハッキリした端正な顔立ちのため、ハーフ説も出ていますが、どうやら純日本人のようです。
甘いマスクと演技力でデビュー早々に注目を集め、「君の名は」に出演したことで押しも押されぬトップスターの地位を確立しました。
プライベートでは、大船撮影所の近くの食堂の看板娘だった益子さんと10年に渡る交際を経て結婚し、2人の子供に恵まれています。
1964年8月17日、避暑先の別荘から撮影のために東京へ向かう道中、運転手の居眠りが原因の交通事故で、37歳という若さで死去しました。
嫁の益子さんは、運転手を責めることもせず、2人の子供にも自身の口から事故の真相を語ることはなかったといいます。
佐田啓二さんが死去した後、嫁の益子さんは心を鬼にして子供たちを厳しく育てあげ、2016年に病気で死去しました。
中井貴一さんも中井貴恵さんも、佐田啓二さんと過ごした時間は少なかったものの、両親から愛されて育ったことを明かしており、素敵な俳優として活躍されています。
佐田啓二さんもきっと天国で子供たちの活躍を喜んでいることでしょう。