俳優の舘ひろしさんは若い頃に岩城滉一さんと出会い、バイクチーム「クールス」を結成していました。さらには早見優さんとの痙攣事件などの都市伝説もあります。
舘ひろしさんの結婚した嫁と子供情報や都市伝説の真相など昔から現在までを総まとめしました。
この記事の目次
舘ひろしのプロフィール
名前:舘ひろし(たち ひろし)
本名:舘廣(たち ひろし)
出身地:愛知県名古屋市中区千代田
生年月日:1950年3月31日
身長:181cm
デビュー年:1975年
所属事務所:石原プロモーション
舘ひろしさんといえば、石原軍団を背負って立つ人気俳優としてお馴染みの存在です。
2018年で68歳となる舘さんですが、「ロマンスグレーが似合うダンディな俳優」として、ドラマや映画では現役の社会人役で活躍する機会が多い俳優だったりします。
2018年もドラマ「60 誤判対策室」に主演し、実年齢より10歳近く若い定年間際の刑事・有馬英治役を演じている舘さん。
所属する「石原プロモーション」においても舘さんは、若手・中堅俳優たちを押しのけて、一番の稼ぎ頭というポジションにいます。
60歳を過ぎても第一線で活躍が続く舘さんとなりますが、若手時代から代表作に恵まれている俳優でもあります。
舘さんの20代30代の頃の代表作には、「西部警察シリーズ」の 鳩村英次役や「あぶない刑事シリーズ」の鷹山敏樹役などが挙げられます。
「あぶない刑事シリーズ」は、連続ドラマとしての展開が終了後もSPドラマや映画などで度々復活しており、2016年には映画「さらば あぶない刑事」が興行収入16億円のヒットを飛ばしているため、いまだ世間の認知度が高い作品と言えますね。
舘ひろしの若い頃~バイクチーム「クールス」を結成していた
舘ひろしは進学校に通うスポーツマン(ラガーマン)だった
舘ひろしさんといえば、ラグビー関連のイベントでお目にかかる機会が多い人物ですが、実は高校時代にラグビー部だった過去があります。
代々続く開業医の家系に生まれた舘さんは、愛知を代表する進学校の1つである県立千種高等学校(偏差値69)に進学しておりますが、ラグビー部のキャプテンになるほどスポーツに打ち込んでいたせいで、学業面はイマイチだったとか。
ただし、実家の跡取りというポジションにいた舘さんには、両親から医学部進学の使命が課せられていたため、学業面がイマイチでも医学部進学を目標に受験に挑み、2浪という苦い経験もしております。
医学部進学を諦めた舘ひろしは千葉工業大学に進学
医学部を目指す場合、昔ほど多浪が当たり前な環境だったりしますが、舘ひろしさんの場合は弟がいたため、2浪時点で跡取りの使命からは開放されたとか。
医学部受験から開放された舘さんが進学した先は、千葉工業大学となりました。
ロボット工学の分野で有名な千葉工業大学ですが、受験難易度的にはせいぜい中堅私大といったレベルなため、医学部合格にはだいぶ遠い学力だったことが伺える舘さん。
多浪が当たり前な医学部受験において、2浪時点で両親から医学部以外への進学が許可された理由には、「医学部進学のためには(舘さんの)学力が足りなすぎた」なんて裏事情もあったりしたのかもしれませんね。
受験地獄から開放され、晴れて大学生となった舘さんでしたが、理系大学に進学した割には学業面に打ち込むという方向には進まずに、バイクチームを結成して青春を謳歌することになってしまったようですね。
舘ひろしは岩城滉一と出会い、バイクチーム「クールス」を結成
舘ひろしさんがバイクチーム「クールス」を結成したのは、後に俳優となった岩城滉一さんとの偶然の出会いがきっかけとなります。
1974年、それぞれバイクチームを組んでいた20代前半の舘と岩城が、都内の飲食店で鉢合わせた。眼光鋭い男たちのニアミスに、緊張が走る。だが、店の外に見知らぬ黒いバイクがズラッと並んでいるのを見た舘は、岩城にこう話しかけた。
「あのバイク、きみたちの?」
以来、1才違いの2人は意気投合し、「少数精鋭で面白いチームを作ろう」と、原宿を拠点にしたバイクチーム『クールス』を結成する。
結成後の「クールス」は、原宿にあった「レオン」という芸能業界人の集まる喫茶店を溜まり場としていたため、芸能界隈では話題の一般人となっていったようですね。
そんな「クールス」が表舞台に出るきっかけとなったのが、1975年4月に開催された伝説のロックバンド「キャロル」の解散コンサートでした。
「キャロル」の中心メンバーだった矢沢さんからのオファーを受けて、親衛隊として解散コンサートに参加した「クールス」でしたが、このことがメンバーたちの運命を大きく変えることになりました。
75年4月13日に東京・日比谷野音で行われた伝説のキャロル解散コンサート。クールスは会場のガードを務め、その夜、舘、佐藤、以前からギターの弾き語りをしていたジェームス藤木(64)が打ち上げの2次会に飛び入りでセッションに参加し、その演奏を目撃したレコード会社のスタッフがオファー。
予期せぬ芸能デビュー話が舞い込んできた「クールス」ですが、20人以上いたメンバー全員でバンドを組むことは不可能だったため、7人の選抜メンバーを選びバンドを結成しました。
芸能デビュー直前に岩城滉一とケンカ別れをした舘ひろし
運命的な「クールス」の芸能デビューの裏では、もう1人の中心人物であった岩城滉一さんの俳優デビューの話も進んでいました。
親分気質だった岩城さんは、デビュー話を持ちかけてきた東映と交渉し、「クールス」の他のメンバーたちも映画に出れるように段取りをつけていたそうです。
本来ならば美談として語り継がれるはずの岩城さんの男気でしたが、同時期に「クールス」の芸能デビュー話が舞い込んできたことで、仲間内での予期せぬトラブルへと発展することになりました。
滉ちゃん(岩城)は役者として東映から映画デビューが決まっていて、“なんとか他のメンバーも出られないか”って東映に掛け合ってくれていたらしい。でも舘は“バンドもやって、映画にも出たら、メンバーに驕りができてチームがまとまらなくなる”って心配したんだと思う。だから“バンドはやるけど、映画には出ない”って断りを入れた。滉ちゃんにしてみれば、“せっかく東映に話したのになんだよ”となった。その頃から、2人の気持ちにズレが出始めた
「クールス」の方向性をめぐり対立することとなった舘ひろしさんと岩城さんでしたが、バンドの方に岩城さんが合流しなかったこともあり、そのまま喧嘩別れするという結末となってしまったとか。
デビュー早々にメンバー同士の内紛が起こった「クールス」
「クールス」は、1975年9月にシングル「紫のハイウェイ」にて芸能デビューを果たしております。
ちなみに舘ひろしさんは、「クールス」にてボーカルを担当することになりました。
1970年代中盤から後半にかけて、全国の不良少年たちに多大な影響を与えたと言われているロックバンド「クールス」ですが、世間的なヒット曲には恵まれなかったバンドでもあります。
そのため、マネジメント側が「クールス」のファン層拡大のためにと、映像関連の仕事を取ってくるようになったとか。
デビュー前は役者業を否定していた舘さんでしたが、芸能の世界の厳しさを知ったため、考えを翻して映画に出演することとなります。
舘さんの俳優デビュー作は、1976年7月に公開された松田優作さん主演の映画「暴力教室」となりましたが、舘さんとバンドメンバーたちは生徒役で出演しております。
しかしながら、このマルチ活動路線が「クールス」の不協和音の原因となってしまいました。
具体的には、舘さんがメインで他のメンバーは脇という構図での映画出演に、反発を覚えたメンバーたちが多かったということになりました。
その感情が、いざ映画に出てみると華やかな世界にすっかり魅せられてしまった舘さんと音楽活動に専念したかった他のメンバーたちとの軋轢にも繋がり、バンド内で舘さんが孤立することになってしまったようですね。
1977年に「クールス」を脱退した舘ひろし
「クールス」内の軋轢は、デビュー2年目の1976年には修復不能なレベルまで広がっていたようですね。
1976年9月に公開された舘ひろしさん主演の映画「男組~少年刑務所」では、「クールス」の一部メンバーが出演を辞退するなど、舘さんの孤立は深まっていきました。
そんな経緯もあり、デビュー3年目となる1977年4月に、舘さんは「クールス」を脱退することとなりました。
クールスを脱退後の舘さんですが、しばらくの間は俳優として「東映」に所属しており、高倉健さん主演の名作映画「野生の証明」にも、主要キャストの1人として出演していたりもします。
舘さん脱退後の「クールス」に関しては、メンバーの入れ替えこそあったものの、現在まで現役のロックバンドとして活動が続いており、ある意味Win-Winとなった舘さんと「クールス」の別途だったと言えるのかもしれませんね。
舘ひろしに早見優との痙攣事件とは?~ネットに広まった原因は北野誠
神田正輝の「カツラ疑惑」に匹敵する舘ひろしの有名な都市伝説とは?
男の中の男たちというイメージのある硬派な石原軍団となりますが、その2枚看板といえる舘ひろしさんや神田正輝さんは、ネット上で都市伝説の餌食となっています。
神田さんの有名都市伝説といえば、「カツラ疑惑」となります。
神田さんの「カツラ疑惑」に関連する都市伝説にはいくつかのパターンがあり、ゲストで出演した「関口宏の東京フレンドパークII」の収録中に神田さんのカツラが外れて、収録スタジオにいた観客が騒然となったという具体的すぎる噂話まであります。
挙句には、「カツラを外した神田正輝」とされるコラージュ画像がネット上で出回っていたりと、悪意に満ち溢れた扱いをされている神田さん。
舘さんの都市伝説に関しても、クールでダンディな舘さんのイメージに傷がつく、かなり悪質と言えるものだったりします。
舘ひろしと早見優は合体したまま離れられなくなり病院に運ばれた?
舘ひろしさんの都市伝説の舞台はかなり古く、1980年代中盤頃の話とされています。
石原軍団の看板俳優として活躍中だった舘さんは、当時の人気アイドルだった早見優さんと交際をしていたそうです。
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スター俳優と人気アイドルという華やかなカップルだった舘さんたちでしたが、たまたま入った六本木のホテルでの性行為中に、とんでもないアクシデントが発生することになりました。
プレイボーイとして名高い舘さんとハワイ育ちの開放的な女性であった早見さんだけに、ホテルでの行為などは手慣れたものだったことでしょうが、その日に限って早見さんの身に膣痙攣が起こってしまいました。
この症状の特徴は、突然の外発的な刺激や、精神的な動揺により女性の膣が不随意な収縮を起こす点にある。性交の際に起きると挿入不可、或いは挿入した男性の性器が抜けなくなるという。
引用:膣痙攣
その結果、合体したまま体が離れられなくなってしまった2人は、やって来た救急隊員によりストレッチャーに乗せられて、旧防衛庁近隣の病院に運ばれることになったというのが、この都市伝説の概要となります。
ちなみに、すべては都市伝説上での出来事なため、実際に舘さんと早見さんが交際していたという事実すら確認されておらず、かなり眉唾な話だと言えます。
舘ひろしの都市伝説はいつから広まり始めたのか?
舘ひろしさんの「痙攣事件」の都市伝説ですが、実は1980年代頃から巷で広まっていたメジャーな噂話の1つでした。
コメンテーターとして活躍しているデーブ・スペクターさんもこの都市伝説を知っており、早見優さんに会った際には、噂の真相を問いただしたい誘惑に駆られたこともあったとか。
かつては、芸能関連のゴシップネタを暴露するというイベントを主催していた北野さんは、2000年代中盤頃のイベントで、舘さんと早見さんの「痙攣事件」を取り扱ったようですね。
そのイベントに参加した観客の一部が北野さんの話を真に受けてしまい、「芸能界のマル秘ネタ」としてネット掲示板やSNSなどに拡散していった結果、「痙攣事件」がネットの有名都市伝説ネタへと躍り出てしまったという流れとなりました。
舘ひろしの結婚した嫁は13歳年下の一般人女性~交際期間は10年で子供はなし
昔は外国人女性好きで有名だった舘ひろし
早見優さんとの都市伝説がすっかり有名になってしまっている舘ひろしさんですが、元々は「外国人女性好きなのではないか?」と噂されている人物でした。
舘さんの一族は、英国好きが高じて家族でミルクティーを飲む「ティータイム」まで設けていた祖父がいたなど、元々海外かぶれが強い気質はあったそうですね。
舘さん本人も大の英国文化好きなそうで、愛車も「モーガン」や「ジャガー」といった英国車だとか。
舘さんに外国人女性好きとの噂が流れたきっかけは、実は本人が外国人女性と結婚寸前まで行き、プロポーズまでした過去があることをカミングアウトしたせいだったりします。
渾身のプロポーズをしたものの恋人からは断られてしまったため、外国人女性と結婚する機会はなくなってしまった舘さんでしたが、一歩運命が違っていれば、今頃はハーフの子供を持つ父親となっていたのかもしれませんね。
1996年に13歳年下の一般人女性と結婚
舘ひろしさんは、1996年に、13歳年下の幸子さんという一般女性と結婚をしております。
幸子さんは学習院大学を卒業した才媛であり、結婚当時はCAをしていたとの噂も流れていたりもしました。
舘さんと幸子さんの交際期間は10年にも及んでいたそうなので、よほど相性の良い関係性だったのでしょうね。
結婚当時33歳と、妊活にはそれなりの猶予が残されていた幸子さんでしたが、現在までに舘さんとの間に子供は生まれていません。
これに関しては、「家庭的な女性よりも、ベタベタしてこない冷たい感じの女性が好き」という舘さんの女性観が影響していた可能性があります。
とにかく妻には所帯じみて欲しくないという舘さんは、幸子さんを積極的に外に連れて出かけるタイプの男性らしく、妻が女ではなく母となってしまう妊活などには意欲的ではなかったなんて裏事情もあったのかもしれませんね。
舘ひろしの現在!~岩城滉一と数十年ぶりの和解をした
「クールス」時代の仲間の死をきっかけに和解をした舘ひろしと岩城滉一
1975年頃に、「クールス」の方針をめぐり喧嘩別れをした舘ひろしさんと岩城滉一さんですが、実はその後も長い間絶縁状態が続いていたそうですね。
舘さんと岩城さんが復縁したのは、バイクチームの方の「クールス」メンバーであり、舘さんのマネージャーを務めていたこともあった玉川雅巳さんが、心筋梗塞で倒れたことがきっかけとなりました。
2017年の秋頃に病魔に倒れた玉川さんは、闘病生活の末に同年の12月15日に亡くなることとなりましたが、玉川さんを見舞うために、往年の「クールス」メンバーたちが次々と病院を訪れることになったとか。
そんな時でも舘さんと岩城さんはタイミングをズラして見舞いに訪れていたため、顔を合わせることはなかったと言われております。
しかしながら、疎遠になっていたメンバーたちも玉川さんの通夜に集まるようにと、岩城さんが連絡をつけていたことを知った舘さんは、長年のわだかまりを解消して、岩城さんと和解することを決意したようですね。
玉川さんの通夜の席で顔を合わせた舘さんと岩城さんは、それまでの恩讐を乗り越えて、肩を抱き合いながら号泣して故人を偲ぶことになりました。
まとめ
・舘ひろしは大学生の時、岩城滉一らとバイクチーム「クールス」を結成。その後選抜メンバーでバンドデビューするもメンバーとの軋轢により脱退している。
・舘ひろしとの性行為中に早見優が痙攣したという眉唾ものの都市伝説がある。この噂を広めたのが北野誠。
・舘ひろしは1996年に13歳年下の一般人女性の幸子さんと結婚。子供はいない。
誰もが羨む人生を歩んできている舘ひろしさんでしたが、青春時代を共にした仲間たちとのトラブルがあったりと、細かい部分では思うように行かないこともあったということになります。
近年は、所属する「石原プロモーション」に解散の噂が流れているなど、60代にして新たなゴシップに巻き込まれている観もある舘さん。
周囲の雑音を気にしすぎてストレスを溜め込んで倒れたなんてことが起こらないように、マイペースで役者業に励んで欲しいものです。
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