1976年に「ぼくたちの失敗」が大ヒットした森田童子さんは2018年4月24日に亡くなっていますが、2022年に父親がなかにし礼さんの兄であったことが判明しています。
森田童子さんの素顔や性別と本名、父親や結婚した旦那など家族、そして死去や死因について現在までの情報を総まとめしました。
この記事の目次
森田童子は本名も生い立ちも一切不明の謎のシンガーとして話題だった
森田童子さんは本名と同様に生い立ちや家族についても現役当時から現在までに明かしたことはなかったようです(※後述しますが、後に生い立ちや父親が明らかになtっています)
また、森田童子さんはさる有名作詞家の姪だという噂が流れていたようですが、本人が認めたわけではないためあくまで噂に過ぎないようです。
本名: 非公開
生年月日: 1953年1月15日
出身地: 東京都
死没: 2018年4月24日(65歳没)
ジャンル: フォーク、J-POP
職業: シンガーソングライター
活動期間: 1975年 – 1983年
レーベル: ポリドール(1975 – 1979)、ワーナー・パイオニア(1980 – 1983)
事務所: 小澤音楽事務所、海底劇場
森田童子さんは高校生だった1970年頃に巻き起こった学生運動で友人が逮捕されてしまったことをきっかけに高校を中退しました。
しばらく何をすることもなく自由な生活をしていた森田童子さんですが、友人が若くして亡くなったことをきっかけにして歌を作り始め、この友人を歌った歌「さよならぼくのともだち」がデビュー曲となりました。
同曲により森田童子さんは1975年10月にポリドール(現・ユニバーサルミュージック合同会社)からシングルレコードで歌手デビューを果たしています。
森田童子さんは1980年には同レーベルからワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍しましたが、テレビなど表舞台にはほとんど姿を見せずライブハウスを中心にコアなファンを獲得して活動していました。
森田童子の性別は女~引退後は西荻窪で専業主婦として子育て生活?
最期まで露出を拒み続けた森田童子
森田童子さんは1975年に「さよならぼくのともだち」で歌手デビューを果たすと、当時の若い世代の生き苦しさを代弁するような歌詞と、囁きかけるような切ない歌声が絶大な支持を呼び、「孤立無援の唄」「男のくせに泣いてくれた」などヒット曲を連発したシンガーソングライターでした。
森田童子さんは徹底して露出を拒み、本名などプライベートな情報は不明の謎のシンガーで、基本的にライブハウスを中心に活動をしていました。
また、森田童子という変わった芸名の由来は、当時ラジオドラマで放送された『笛吹童子』から来ているそうです。
1983年までにシングル4枚とアルバム7枚をリリースして、同年に最後のアルバム「狼少年 wolf boy」を発売するとともに同年に新宿ロフトでのライブを行い、それを最後に音楽界から引退してしまいました。
引退後の森田童子さんは結婚して主婦として子育て中心の生活をしていたと言われていますが、プライベートの実生活について徹底して秘密主義を貫いていたため、トレードマークとなっていたサングラスにカーリーヘアー以外に素顔は見られておらず、本名すら明るみに出たことは一度も無いようです。
ちなみに、森田童子さんは一部ファンの間では東京・杉並区の西荻窪周辺に住んでいると噂されていました。
引退後となる1988年には森田童子さんのアルバム『GOOD BYE グッドバイ』『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』『A BOY ボーイ』『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』の初期4作がCD化されてリリースされました。
1989年9月には学生運動と恋愛をテーマにした映画『グッドバイ』に森田童子さんの楽曲が使用され、映画の音楽と合わせてサウンドトラックCDが発売されています。
若者の心情を代弁するような歌詞も森田童子さんの実体験を元にしたわけではなく、自らのこう在りたいという願望を書いたものであり、性格は非常に大人しく寡黙で、曲に対して自分の生活感を入れ込むことは避けていました。
以下のYouTube動画は森田童子さんの代表曲である「ぼくたちの失敗」です。
YouTube: 【Music Video】森田童子「ぼくたちの失敗」
森田童子の家族~結婚した旦那はマネージャーの前田亜土
音楽界からフェードアウトした森田童子
森田童子さんのレコーディングの編曲を担当したのはアコースティックギター奏者の石川鷹彦さんがしており、マネージャーを担当していた前田亜土さんとその後結婚して子供にも恵まれたと言われていますが、旦那は2010年に他界しています。
森田童子さんは音楽界を引退してからは主婦として子育てをしながら生活しており、二度と表舞台には姿を見せませんでした。
その理由の1つとして2010年5月に朝日新聞の取材に対し、音楽活動をできない理由として旦那である前田亜土さんが同年に死去したことによるショックと、持病を抱えているからだと明かしています。
【追悼】森田童子
— 先輩のハト🇯🇵 (@senpai_hato) 2018年6月13日
さっきTVで特集してた。ロフトの平野さんが出ていた。この方が森田童子を見いだしたんだね。#新宿ロフト#森田童子#高校教師 pic.twitter.com/kbzbKx01b3
森田童子は『高校教師』の主題歌起用で一躍メジャーに
森田童子、1993年ドラマ『高校教師』の主題歌が大ヒットに
メジャーを嫌った森田童子
森田童子さんはメジャー化することを嫌っていたためライブハウスでの活動にこだわり、コアなファンにはカリスマ的な人気を得ていましたが広く知られたミュージシャンではありませんでした。
しかし、1993年1月から放送されたドラマ『高校教師(TBS系)』の主題歌に森田童子さんのヒット曲『ぼくたちの失敗』が起用されたことで、そのシングルCDはミリオンヒットに迫る売上げを記録しました。
1993年版ドラマ『高校教師』
真田広之と桜井幸子が演じ大ヒットに!
同ドラマの脚本を務めた野島伸司さんは、高校時代に友達に誘われて行ったライブハウスで森田童子さんの歌を聴いて衝撃を受けたため自身のドラマで起用したようです。
同ドラマは高視聴率を記録したため、同年3月には森田童子さんのベストアルバムとなる『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がリリースされました。
これにより森田童子さんの曲は多くのファンを獲得することになり、同年4月にはオリジナルアルバム7枚全てがCD化(4枚は再CD化)されて、当時の若い世代にも人気を集めましたが、それによりメディアがこぞって取材を申し込むも森田童子さんは露出を嫌い受けることはありませんでした。
同年11月には映画『高校教師』で森田童子さんの楽曲『たとえばぼくが死んだら』が主題歌に起用されました。
森田童子さんの楽曲について当時リアルタイムに心酔していたファンは以下のように述懐しています。
1976年発売のシングルに光があたり、採用されたわけだが。まるで90年代前半、その時代のリアルタイムの曲のようだった。まさに、私たちのために存在するかのような詩の世界観、空気感だった。思わず、シングルだけでなく、当時、リリースされたアルバム(ベスト盤を中心に聴いたのだが)も入手したが、ますますその想いを強くした。
森田童子、2003年に上戸彩が演じた『高校教師』でも主題歌に
同ドラマに合わせて森田童子さんは2003年にもベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』をリリースしましたが、アルバム『ラスト・ワルツ』収録曲である「海が死んでもいいョって鳴いている」の歌詞を一部変更、「ひとり遊び」は森田童子さんが自宅でギターとハーモニカの演奏をしながら新しくレコーディングされたことで最後の作品となりました。
森田童子さんの音楽活動は完全に途絶えましたが、2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』では「ラスト・ワルツ」が挿入歌に起用されています。
1993年版ドラマ『高校教師』のアルバムは廃盤となっていたため市場に出回らず入手困難な状況が続いていましたが、23年ぶりとなる2016年7月に再発売がされています。
森田童子の楽曲は様々なアーティストがカバー
様々なアーティストによって楽曲がカバー
森田童子さんの楽曲は多くのアーティスによってカバーされてきました。
森田童子さんの楽曲はドラマ『高校教師』によりメジャーとなり、代表曲である「ぼくたちの失敗」は音楽グループ「YMCK」や歌手・cheeさんなどによりカバーされています。
「たとえばぼくが死んだら」はロックバンド「eastern youth」や歌手の山中さわおさん、YO-ENさんなどにカバーされています。
また、ノイズ系ミュージシャンのJOJO広重さんが率いるユニット「スラップ・ハッピー・ハンフリー」でもカバーされており、多種多様なミュージシャンに愛されてきました。
森田童子さんの話題性に乗っかって多くのメディアが出演依頼などをオファーしましたが、森田童子さんは「今は普通の主婦なのでそっとしておいて欲しい」と表舞台に出ることを拒否し続けてきました。
森田童子さんがここまで露出を拒んだ理由をファンは以下のようにコメントしています。
なぜか。それは、彼女の歌が「時代の痛み」を共有するものだったからだ。
デビュー曲の「さよならぼくのともだち」は70年安保の学生運動で挫折した若者たちへの哀切に満ちた挽歌であり、明るいラブソングは、ドロップアウトした孤独な若者の痛みに寄り添っていた。
そんな彼女が時代に合わせた歌を歌うわけがない。
森田童子は65歳の若さで死去~死因は心不全
森田童子、2018年4月24日に死亡していたことが判明
森田童子は2018年4月24日に亡くなった
森田童子さんが2018年4月24日に亡くなっていたことが6月1日に分かり報じられました。享年65歳でした。
森田童子さんの死因は心不全だと報じられていますが、6月1日に発行された「日本音楽著作権協会(JASRAC)」の会報に訃報が掲載されていたことから明らかとなりました。
森田童子さんの亡くなる前の様子を音楽関係者が語っており、2017年頃から体調不良のため入退院を繰り返していたようですが、退院して間もなく心不全を起こして亡くなったそうです。
森田童子さんの訃報は芸能界にも波紋を広げ、有名芸能人らが追悼のコメントを出しています。
森田童子への追悼コメント エドはるみ
エドはるみは森田童子の大ファンだった
お笑い芸人のエドはるみさんは2018年6月13日に自身のオフィシャルブログを更新して森田童子さんの訃報にコメントを掲載しました。
エドはるみさんは森田童子さんの全盛期に聴いていた世代のようで、突然の訃報に落胆した様子を綴っています。
森田さんの訃報に触れ「森田童子さんが亡くなったと、昨夜遅くに帰宅して知った。とてもショックだった」とつづった。
「森田童子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。魂を揺さぶる歌を本当にありがとうございました」と感謝の言葉で結んだ。
エドはるみさんが初めて森田童子さんの曲に触れたのは小学校6年生の頃だったようで、「雷に打たれたような衝撃だった」と語っています。
それからは森田童子さんのレコードを買い漁ったようで、エドはるみさんは当時小学生ながら森田童子さんの繊細な感性に心を癒されて虜になっていたこと、17歳の時に初めてコンサートをで生歌に触れて涙が止まらなかったことを明かしました。
エドはるみさんの実家には現在も森田童子さんのレコードがすべて残っているそうで、追悼の意味も込めて帰郷した際には森田童子さんの世界に浸ろうと思っていることを綴っています。
森田童子への追悼コメント 東国原英夫
番組で訃報にコメントした東国原英夫
2018年6月13日に放送されたバラエティ番組『ゴゴスマ~GOGO!Smile!(TBS系)』でコメンテーターとして出演した東国原英夫さんは森田童子さんの訃報に眉をしかめながらコメントしました。
東国原英夫さんは当時森田童子さんに魅了されたひとりであることを明かしています。
「僕はコンサート行きました。超有名でしたから。あの頃はみんな行っていますよ。吉田拓郎さんとか井上陽水さんとかも行った」という。「僕は昭和51年に高校卒業して大学に入った。(森田さんは)昭和50年デビューでフォーク全盛時代でしたから」と振り返った。
東国原英夫さんは学生運動で傷ついた若者を癒す歌も歌っていた森田童子さんについて「暗い、重たい感じでした」と感想を述べる一方で、フォークソングは対照的に聞きやすい良い歌詞、歌であったことを語っています。
森田童子への追悼コメント 福島瑞穂、小室みつ子
その他著名人が森田童子の訃報にコメント
芸能界のみならず政界からも森田童子さんの訃報にツイッターなどでコメントを出しています。
社民党の福島瑞穂さんや作詞家の小室みつ子さんなどがツイッターで森田童子さんの訃報にコメントを投稿しています。
社民党の福島瑞穂参院議員(62)はライブハウスに足を運んでいたそうで「つぶやくような、語りかけるような透明な歌声。たくさん歌を聴いていた」。作詞家の小室みつ子氏(60)は「透明な声も、歌詞もメロもサウンドも心の奥深くまで突き刺さる力があった」とそれぞれツイッターで悼んだ。
まだまだ多くの著名人が森田童子さんの訃報にブログやツイッターなどSNSでコメントを出しているようで、露出は極端に少なかったもののその存在の大きさを物語っているようです。
森田童子への追悼コメント 海外の反応
森田童子は中国でも人気だった
森田童子さんの訃報は中国でも報じられ、ファンはSNSなどで悲痛な思いを投稿しています。
世界でのツイッターに当たる中国のSNS「微博(ウェイボー)」では、森田童子さんの訃報が伝えられたことで『高校教師』などのドラマを観ていたファンらが悲しみの声を投稿していました。
「愛する日本の女性シンガー、森田童子さんをしのぶ」とする記事を12日未明に投稿した中国のファンは、「森田さんの訃報を友人から伝えられた」とし、森田さんの「たとえばぼくが死んだら」を聞きながら朝まで過ごすつもりだとつづっていた。
森田童子さんは日本でも決して有名なミュージシャンではありませんでしたが、その繊細で心に訴えかけるような歌声は国外でも愛されていたようです。
森田童子、死去後にカバーやファンイベントの動きも…
森田童子を偲んでファンがイベントを企画
森田童子さんの追悼イベントとしてファンらがカバー音源などを持ち寄って追悼イベントを企画しているようです。
多くのファンにカバーされてきた森田童子さんの楽曲ですが、メジャーシーンでも有名アーティストらがカバーアルバムで追悼の意を表す動きがあるようです。
「森田さんを尊敬しているアーティストは多いので、イルカ、中森明菜、谷村新司などがカバーアルバムを出す可能性があると聞いています。名曲もたくさんありますし、潜在的なファンも多いですから」(音楽ライター)
そして、森田童子さんが亡くなったという情報が広がると同時にYouTubeなどでの動画再生回数は軒並み急上昇しているようで、実店舗、通信販売問わずCD販売店ではベストアルバムの予約が殺到しているそうです。
その勢いは森田童子さんのベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』がオリコンチャートのベスト10入りを果たすかもしれないと言われています。
森田童子さんを曲が再注目されることで、高視聴率を稼ぐことができるドラマ『高校教師』も再びリメイクされる可能性があるようです。
#森田童子さん安らかに
— じゃど〜る(いいねが消える。ごめんちゃい) (@jadore_injoy) 2018年6月12日
高校の時
先生と恋をしました
春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだよね
ぼくがひとりになった部屋にきみの好きなチャーリー・パーカー 見つけたよ
ぼくを忘れたかな
ドラマ『高校教師』主題歌
森田童子/ぼくたちの失敗 pic.twitter.com/ULqpql6NyB
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像特集
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像①
森田童子さんはカーリーヘアーに丸型サングラスがトレードマークでミステリアスな雰囲気を漂わせていました。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像②
素顔をほとんど見せることが無かった森田童子さんですが、美人の雰囲気を持っていることが分かります。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像③
森田童子さんは容姿ではなく歌そのものに没頭して欲しいと思って素顔を見せなかったのかもしれませんね。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像④
この画像が森田童子さんかどうか確証はわりませんが、素顔で検索すると出てきます。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像⑤
この画像も森田童子さんの素顔で検索すると出てきますが本人かどうかはわかりません。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像⑥
この画像は森田童子さんによる弾き語りと言われていますが、比較的近年撮影されたものかもしれませんがやはり本人かどうか確証はありません。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像⑦
この画像が昔の若い頃の森田童子さんならかなり美人だったことが伺えます。
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像⑧
森田童子さんを検索すると出てくるこの女性は月蝕歌劇団の役者の白永歩美さんという人で別人です。
森田童子さんの素顔について完全に本人を特定できる写真は無かったようですが、6枚目は鼻の特徴が似ていることから本人なのかもしれません。
Jun.16 🎶⌒♬
— yumiko☘⌒♡ (@yumikostats) 2018年6月16日
Ⓖⓞⓞⓓ Ⓔⓥⓔⓝⓘⓝⓖ
最近、森田童子さんの
素敵な曲、詩の数々を知りました。
何とも言えない
触れると壊れてしまいそうな
ガラス玉のような声
とても繊細で惹かれています
~☆
🎼 ~G線上にひとり・森田童子
https://t.co/0eqmjmzPNK pic.twitter.com/CYiYpLWqO7
影響を受けた シンガーの森田童子さんが 亡くなられたそうです あのひとが いなかったら 『享年十六歳』は 作れませんでした やりきれない気持ちは ありますが 安らかに 眠ってください#森田童子https://t.co/fhJWxDkZ93 pic.twitter.com/iBWwB25IXr
— 柴田太尊(しばたたいそん) (@sibata_taison) 2018年6月11日
森田童子の現在…死後に父親がなかにし礼の兄・中西正一であることが判明
森田童子の父親はなかにし礼の兄・中西正一
2022年1月、森田童子さんの父親はなかにし礼さんの兄・中西正一さんだったことが判明しています。
2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。82歳没。
なかにしの没後、遺稿を整理し出版された『血の歌』が刊行されている。この中で謎の歌手とされていた森谷王子がなかにしの姪(兄・正一の子)であったとあるがあくまでも創作上の事であることに留意されたし森田のマネージャーで夫と思われている前田亜土は、前述のアド・プロモーションの社長でもあった。
兄正一とは異母兄弟、異父兄弟の説もあり、礼は青島幸男の弟子でもあったことはあまり知られていない事実である。
なかにし礼さんの兄・中西正一さんは「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きていました。森田童子さんはそんな父親のもとで育ったようで、壮絶な生い立ちであったようです。その生い立ちがヒット曲に結び付いたのかもしれません。
◆荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)
森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。
また、森田童子の件については以前からツイートしている人がいて、熱狂的なファンには承知の事実であったようです。
出典:https://togetter.com/li/1642482
森田童子について総まとめすると…
・森田童子は1983年、新宿ロフトでのライブ最後に音楽界から引退した。
・森田童子はマネージャーだった前田亜土さんと結婚。子供にも恵まれたようで引退後は専業主婦をしていた。
・森田童子は2018年4月24日に65歳で死去。死因は心不全だった。
・森田童子の死後、父親がなかにし礼の兄・中西正一であったこと、父親が戦争を経験していた家庭で育った壮絶な生い立ちが判明している。
1970年代から若者の心の葛藤を代弁するような歌詞と歌声でカリスマ的な人気を誇ったシンガーソングライター・森田童子さんについて総まとめしてきました。
森田童子さんは2018年4月24日に心不全のため亡くなっていることが同年6月1日に分かりましたが、訃報を機に知って曲を聴き始めた人も少なくないようです。
森田童子さんは65歳という若さで亡くなりましたが、子供は現在20、30歳代くらいだと思われます。
日本の音楽シーンの中でも特に森田童子さんは稀有な存在でしたが、またひとり昭和のカリスマが亡くなり世代交代が進んでいるということでしょう。