1990年代末頃にサブカル界隈で人気を博した高校生ネットアイドルの南条あやさんですが、最期は自殺という衝撃的な末路となりました。
この記事では南条あやさんの経歴や病名の他、薬での自殺騒動の詳細や死因、現在も生きてるサイト「南条あやの保護室」についてまとめてみました。
この記事の目次
南条あやとは…メンヘラ日記で人気を博したネットアイドルだった
南条あや(なんじょう あや)
本名:鈴木純(すずき じゅん)
生年月日:1980年8月13日
出身地:東京都世田谷区
身長:153㎝
南条あや、マニア的人気を博したネットアイドルだった
南条あやさんに関しては、1998年から1999年にかけて人気を博したネットアイドルとなります。
平凡な女子高校生だった南条さんがネットアイドル化した理由については、ウェブサイト「町田あかねのおクスリ研究所」に掲載されていた「心の病について吐露した日記」が人気を博すことになったそうですね。
高校3年生の頃に町田あかね(薬事ライター)のウェブサイト「町田あかねのおクスリ研究所」(現在閉鎖)上に「精神病と向精神薬に関する体験談募集」に対してメールを送ったところ、その文才が評価されたことから1998年5月28日〜1999年3月17日まで日々を綴った日記を公開し始める(実際の公開は自身が行っていたわけではなく、日記の文章をEメールで町田に送信し、その日記メールを受信した町田が南条あやの日記として「町田あかねのおクスリ研究所」内にアップロードしていた)。
引用:南条あや
そんな重すぎるコンテンツが人気となった背景には、インターネット黎明期特有のアングラ文化が影響していたとか。
リストカットはかねてからサブカルファッションの文脈で語られることの多かったが、その風潮は加熱。
ネット上には南条さんを追うようなメンヘラホームページが溢れ、僕の彼女様もご多分に漏れずに自分の手首から流れる血をインスタントカメラの『チェキ』でコレクションしたり、自分のホームページを作って他のメンヘラ仲間とリンクを張り合って、オフ会に顔を出してみたりしていた。
南条あやの生い立ち…学校のいじめが原因でメンヘラ化していた
南条あや、3歳の時に両親が離婚しており父子家庭育ちだった
南条あやさんの生い立ちについては、3歳の頃に両親が離婚しており、父子家庭で育つことになりました。
その後、母親の再婚をきっかけに母親の元で暮らすこととなった南条さんでしたが、義父との関係が上手く行かずに結局父・Aさんの元へ戻ったそうですね。
ちなみに、Aさんは都内でイタリアンレストランを経営する実業家だったそうですが、店の経営は好調というわけではなく、都内のアパート暮らしだったとか。
そんな不安定な少女時代を過ごした南条さんがメンヘラ化したきっかけについては、家庭環境のせいではなく、小学校6年の時に受けたいじめが原因でした。
南条さんが小学校で受けたいじめ内容の詳細については不明となりますが、登校拒否状態に陥るなどかなりハードなものだったようですね。
南条さんのいじめ問題に対しては、Aさんも真剣に対応していたらしく、小学を卒業後は地元の公立中学ではなく都内の私立中学に進学させています。
南条あや、中学時代もイジメを受けてリストカットに手を染めていた
いじめっ子のいる地元を離れて私立中学に進学した南条あやさんですが、新天地でもクラスメイトから嫌われてしまい、激しいいじめを受けてしまったそうですね。
そんなストレスを解消するために、南条さんは中学1年頃よりリストカットに手を染めてしまうことになりました。
その後の南条さんは、たまたま本屋で購入された「完全自殺マニュアル」に影響され、精神安定剤を利用した服薬自殺を試みたこともありました。
とはいえ、物凄い吐き気に襲われてトイレで胃の内容物を全部吐き出した結果、死なずに済んだとか。
南条あや、高校時代には精神病院に入院したこともあった
中学を卒業後の南条あやさんは、下北沢成徳高校に進学しています。
高校進学後の南条さんは、いじめから解放されていたらしく、放課後に一緒にカラオケに行く友達も出来た他、20歳になったら結婚を約束していた年上の恋人までいたそうですね。
ちなみに、南条さんのお気に入りは、Coccoさんやモーニング娘、Kiroroといった当時流行していたアーティストたちでした。
しかしながら、それまで受けたいじめのダメージからメンヘラ化が進んでいた南条さんは、高校時代も習慣的にリストカットや自殺未遂を続けていました。
その後、PCを手に入れたことをきっかけに「町田あかねのおクスリ研究所」へメールを送り始め、自分の心の闇を他人に吐露することとなった南条さんでしたが、それでも精神の状態が回復することはなく、1998年7月末には精神科の閉鎖病棟に入院しております。
南条あや、高校を卒業後はフリ-ターになる予定だった
南条あやさんの入院生活については案外長かったようで、1998年10月頭に退院するまで2か月以上も病院へ閉じ込められることになりました。
退院後の南条さんに関しては、「町田あかねのおクスリ研究所」内に掲載された日記が人気を博した結果、ネットアイドル化してファンクラブまで誕生していたそうですね。
ちなみに、当時既に高校3年生になっていた南条さんでしたが、受験勉強や就活などはせずに、卒業後はフリーターになる予定でした。
とはいえ、だからといって当時の南条さんが自暴自棄になっていたということはなく、献血に通って血を抜くことでリストカット癖を改善しようと努力していた形跡もあります。
南条あやの病名は?…実は本人がカミングアウトしていなかった
リストカット癖や自殺願望があり、精神科の閉鎖病棟に2か月以上も入院した経験を持つ南条あやさんだけに、何らかの精神病持ちだったのではないかと推測出来ます。
一方で、自身の病名をカミングアウトすることまでは抵抗があったのか、南条さんは「町田あかねのおクスリ研究所」に掲載されていた日記内でも、精神科医から告げられた病名を一切公表していません。
とはいえ、一般的にリストカット癖などの自傷行為のある女性は境界性パーソナリティ障害を患っていることが多いために、南条さんの病名もそちらなのではないかと思われます。
南条あやは1999年に自殺した…死因は意外なものだった
南条あやさんについては、1999年3月30日になると、下北沢成徳高校近くのカラオケボックスにて18歳の若さで死亡しています。
この時の南条さんは、親友のBさんに携帯電話で居場所を告げずに自殺予告した後、向精神薬を大量服用していたそうですね。
とはいえ、南条さんは本気で自殺するつもりはなかったらしく、死後の司法解剖の結果、服用した向精神薬は致死量には至っていないことが判明しております。
本来なら狂言自殺で済んだはずの騒動が最悪の結末を迎えてしまった理由については、度重なる自傷行為の結果、南条さんの心臓の弁に穴が開いたとか。
ちなみに、後日行われた南条さんの葬儀にはファンたちも多数参列した他、ネット葬も行われることになりました。
南条あやのその後と現在…活動の証は今も生きてる
南条あや、死後に「卒業式まで死にません」が出版された
南条あやさんのその後については、父・Aさんが奔走した結果、急死から5年たった2004年2月に「町田あかねのおクスリ研究所」にて公開されていた日記に加筆を加えた著書「卒業式まで死にません」が発売されています。
父親は彼女の死後、リタリンなどの処方薬による薬物依存症の恐ろしさや自殺で家族を失った遺族の悲しみを何度かテレビや誌面などの媒体を通して語っている。また、戒名はペンネームをそのまま使用した「南条あや信女」とされ父自身の身体を位牌とするべく、戒名が刺青によって父の身体に刻まれている。
— おの あき (@6___ph) December 12, 2014
南条さんとAさんの関係については、南条さんが中学時代より向精神薬や睡眠薬の依存症状態だったため、日常生活ではぶつかることが多かったそうですね。
とはいえ、娘想いの良い父親だったAさんは、経済的に豊かではない中で南条さんを私学に通わせたり出来る限りのサポートはしていました。
南条さんが急死した1999年3月30日に関しても、Bさんから連絡を受けたAさんは、娘の恋人Cさんと一緒に南条さんの行方を捜して回っていたと言われております。
南条あや、有志により「南条あやの保護室」が作成されていた
南条あやさんの現在については、死後に有志たちの手で「町田あかねのおクスリ研究所」内の日記が独立してHPとなっています。
「南条あやの保護室」と名付けられた独立サイトは、2008年に閉鎖されてしまいましたが、アーカイブされた結果、現在でも南条さんの日記を読むことが出来る状況です。
また南条あやさんの日記夜読み返してるのであーる\(^o^)/
— みあ@双極性障害 (@nana_si_5353) March 19, 2021
南条あやさんの日記面白いの\(^o^)/
もうすぐ南条あやさんの命日なんだな…物心着いてたらちょっと話を聞いてみたかったな。
— Rui@病 (@xxruixx92) March 26, 2021
この方知ってる人居るかな
南条あやについてまとめてみると…
インターネット黎明期において伝説的な存在となった南条あやさんですが、最期は予期せぬ死を迎えてしまったことになります。
南条さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。