美智子様は第125代天皇明仁さまの皇后です。2019年5月の代替わりより、明仁様とともに上皇・上皇后陛下となりました。は、常にさまざまな注目を浴びてきました。
ここでは民間人から初めての皇太子妃、皇后、上皇后となった美智子様のご実家や学歴、若い頃の画像、バッシング報道、雅子様との仲、そして性格についてまとめています。
この記事の目次
美智子様のプロフィール
上皇后美智子様
旧名:正田美智子(しょうだみちこ)
生年月日:1934年10月20日
出身地:東京府東京市本郷区
お印:白樺
勲等:勲一等宝冠大綬章
配偶者:明仁(上皇)
第一子:徳仁(第126代天皇)
第二子:秋篠宮文仁親王
第三子:黒田清子(紀宮清子内親王)
美智子様は民間から嫁がれた初のプリンセス
美智子様は第125代天皇明仁様の皇后で、陛下の譲位にともない現在は上皇后陛下となりました。子供には第126代天皇徳仁さま、秋篠宮文仁さま、黒田清子さんがいます。
美智子様は1957年8月に軽井沢のテニス大会で上皇陛下と出会い親交を深めました。
そして1958年11月にふたりの婚約が内定し、1959年4月10日に成婚すると、「民間からの初めてのプリンセス」に湧いた日本国民の間でミッチー・ブームが巻き起こりました。
当時、皇太子妃は”皇族か五摂家”から選ばれるのが習わしでしたが、美智子様は日清製粉グループ会長の正田英三郎さんの長女で、いわゆる民間の出です。
そのため当初から皇族や旧華族などから反対の声も根強くあり、それは結婚後もしばらくは続いていたとされます。
そんな美智子様の心の支えとなったのが、子供たちの存在です。
1960年2月23日 第一子 徳仁様誕生
1965年11月30日 第二子 文仁様誕生
1969年4月18日 第三子 清子様誕生
(1963年に一度流産していますが、美智子様は約半年程度で公務に復帰)
美智子様は子育て面でもこれまでの皇室の慣習を改め、宮中御産殿での出産や乳母、傅育官を廃止し、子供たちを自らの手で育てました。
昭和の終わりころにもなると、結婚時に反対していたとされる姑・香淳皇后等との仲も好転する兆しを見せるなどしています。
1989年1月に明仁様の天皇即位にともない、美智子様は皇后に。30年間の平成の時代に陛下を傍で支え続けた美智子さまには様々なことがありました。
子供たちの独立や結婚、孫の誕生、週刊誌等によるバッシング、多くの公務、ご自身の病気、また平成の時代に起きた多くの自然災害時にはご夫婦で被災地を訪れるなどして国民に寄り添ってくださいました。
そして2019年5月1日に明仁様が譲位し上皇になったことより、美智子様は上皇后となりました。
美智子様の実家と家族~父親は日清製粉創業者の三男・正田英三郎
美智子様、ルーツは新田義重の重臣
美智子様の輿入れ前に正田家のルーツは、遡り徹底的に調べられています。
それによると、ルーツは平安〜鎌倉期を生きた武将・新田義重の重臣の生田隼人だと言われています。
郷土史家によれば「正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人までいきあたる」というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。
この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は「米文」の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場を動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、「亀甲正」という商号で新しく醤油醸造業を始めたという。
美智子様、日清製粉創業家の家族は皆エリートだった
美智子様は、旧名:正田美智子(しょうだみちこ)さんと言います。ご実家の正田家は美智子様を含めて6人家族です。
父親:正田英三郎…日清製粉創業者・正田貞一郎さん三男で、自身も同社社長・会長を歴任。
母親:正田富美子…副島家の生まれ(中支那振興会社常務理事・副島綱雄の長女)。
兄:正田巌…日本銀行監事、夫人は濱口雄幸元首相の孫娘。
妹:正田恵美子…昭和電工で専務などを歴任した安西孝之さんの夫人。
弟:正田修…日清製粉グループ社長、会長、相談役を歴任。夫人は華族野津鎮之助の孫娘。
日清製粉創業者の孫娘である美智子様は、婚姻当時「粉屋の娘」という悪口まで言われていたとか。
本当の平民からすると美智子様のご実家もたいそうなものだと思いますが、時代的な理由や前代未聞の「平民からのプリンセス」ということで、誰がなろうともそういった見方は少なからずあったのかもしれませんね。
美智子様、正田家は美男美女揃いだった
正田家の家族写真①
ご両親と4人兄弟姉妹。
特に母親の富美子さんは、当時の女性から見ると背が高くその整った顔立ちなどから、ネットではまことしやかに囁かれるハーフ説も。ただ真偽は不明です。
正田家の家族写真②
美智子様結婚の朝、お見送りする正田家。
美智子様はこの時のことを以下のように回想。
「嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に、同じ朝”陛下と殿下の御心に添って生きるように”と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした」(皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)より)
正田家の家族写真③
こちらは祖父母も一緒の美智子様が幼い頃の家族写真ですね。美男と評判の弟・正田修さん(写真中央)の記念日でしょしょうか。
美智子様の実家は現在「ねむの木の庭」公園に
正田家のご実家
東京都品川区東五反田の高級住宅街にあった正田家。昭和初期に建てられた洋風モダンなお館でしたが、2003年に老朽化を理由に解体され、現在は区の公園となっています。
正田家跡地は「ねむの木の庭」公園に
公園名の由来は美智子様が高校時代に詠まれた「ねむの木の子守歌」という詩に由来。ねむの木やプリンセスミチコ(薔薇)など、美智子様にゆかりある木花が植えられています。
美智子様はご実家跡地であるねむの木の庭公園には、陛下とともによく訪れています。
退位前でお忙しかったであろう2019年4月にも足を運び散策していました。やはり思い出ある場所なのでしょう。両陛下、ねむの木の庭を散策=旧正田邸跡、親族宅も訪問
美智子様の学歴~聖心女子大学を首席で卒業
美智子様の学生時代
美智子様の学歴は以下の通りです。
小学校:雙葉小学校
中学校:聖心女子学院中等科
高校:聖心女子学院高等科
大学:聖心女子大学文学部外国語外国文学科ー主席で卒業
(※小学校時代には戦争疎開のため、乃木高等女学校附属小学校(現湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現館林市立第二小学校)、長野県の軽井沢第一国民学校など転校を繰り返しますが、入学・卒業は雙葉小学校)
美智子様は大学在学中にテニス部、合唱部、英語劇クラブに所属。さらに成績は優秀で主席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読みました。
美智子様が学生時代を過ごしてきた雙葉学園や聖心女子は、いわゆるキリスト教カトリック系の学校です。こういった背景も、やはり結婚時に懸念材料になりました。
美智子様はカトリック信者ではなく洗礼なども受けていないそうですが、祖母と母親がが信者だったそうです。
美智子様の若い頃の画像集~清楚で気品に溢れた正統派美人だった
正田家の家族写真
左の赤ちゃんが美智子様。天然パーマで、この頃からかわいい顔立ちです。
美智子様の幼い頃
文句なしに美少女です。
小学校の卒業式
後列真ん中が美智子様です。
中高時代の美智子様
真ん中の少女が美智子様。ややふっくらしている感じがします。
美智子様の大学卒業式
主席で聖心女子大を卒業されました。
上皇陛下と美智子様の出会いのコート
真ん中のふたりです。
若い頃の美智子様
美人な横顔。
婚約時の写真の一つ
和装もよくお似合いです。
婚約時の美智子様
会見では陛下について「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに、魅力を感じ致しました。」と発言。これは当時の流行語にもなったそうです。
1959年 結婚
お美しいの一言につきます。
結婚〜和装バージョン〜
十二単、重さ約15kg。
ご成婚パレード
約8.8kmのパレードコースには約53万人がお祝いのため沿道にかけつけました。また1958年に完成した東京タワーよりモノクロで生中継され、街頭テレビには約1500万人が集まったといいます。
(時代が違うので比較するものではありませんが、現在の天皇皇后両陛下の成婚パレードで沿道に駆けつけた祝い人は約19万人とされる。)
1960年 現天皇陛下誕生
初の民間からのプリンセスとなった美智子様は、時にはこれまでの皇室の慣習を変えることも。その最も有名なものの一つが我が子達との関係性です。
美智子様は皇室の伝統であった親子別居をやめ自らの手で子育てし、また自身不在の際も他の皆が同様の接し方ができるよう躾方針を記した「ナルちゃん憲法」が有名です(※ナルちゃん=徳仁様愛称)。
1960年頃の美智子様
美智子様といえば顔立ちの美しさだけではなく、そのファッショナブルな装いも注目のまとでした。
1960年代の美智子様
ドット柄のワンピースが素敵です。
昔の上皇陛下と美智子様。
夏のワンピース姿がキマっていますね。
美智子様の若い頃
昔の美智子様の写真
1967年頃の美智子様
御髪をアップしているイメージが強い美智子様ですが、どんなヘアスタイルでも似合っています。
1972年の美智子様と清子さん
美智子様にとって娘の清子さんは、女同士ということもあり、大きな心の支えとなったそう。
1980年代の美智子様及びご家族
1980年代頃もそのファッションセンスは健在?
1990年代の美智子様
画像は1994年。
2000年代の美智子様
画像は2005年末娘・清子さんの結婚に関連する儀式にて。
2019年5月 上皇・上皇后陛下となったお二人
画像は令和時代に初めてのお出かけを目撃されたところです。
美智子様へのバッシング~民間初のプリンセスへのいじめと孤立
美智子様へのいじめは婚約会見時からはじまっていた
出典:http://hiromihiromi.sakura.ne.jp
民間初のプリンセスへのいじめは結婚会見時からはじまっていました。
皇太子妃決定に際する記者会見でのこと。美智子さまはVネックに七分袖の象牙色のドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。
ところがドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかった。
「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」
早くも宮中からクレームが入る。しかし、この手袋は美智子さまが用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだった。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたと思わずにはいられない話である。この“手袋事件”は、“美智子妃いじめ”の第一幕ともいうべき出来事だった。
また、第2子ご懐妊時に流産してしまった原因も、いじめや孤立による精神的な疲労によるものだったといわれています。
「ご結婚以降、民間出身の美智子さまは、いじめにも近い孤立した状況に追いやられました。唯一の支えは当時皇太子だった陛下だけ。お世継ぎをお産みになったとはいえ、その頃の美智子さまは結婚当時より10kg近く体重が減っていたといいます。ある女性皇族は、“せっかく東宮さま(皇太子さま)のお子を宿しながら、流産するとは何事か。(平民の娘だが)立派なお子を産むだろうと、お妃になるときに賛成したんですよ”と言葉を投げかけられたこともあったそうです」(ベテラン皇室記者)
香淳皇后と美智子様の間に起きた嫁姑問題で有名なものといえば、やはり美智子様スルー事件。
これは1975年に昭和天皇と香淳皇后が米国訪問の際、おふたりが空港にお見送りにきた皇族方それぞれお一人ずつに挨拶して回りましたが、香淳皇后は美智子様だけをスルーした事件です。
それ以前より宮中内の保守派による美智子様”いじめ”問題が囁かれていましたが、このスルー事件によってそれはより現実味を帯びました。
美智子様、1990年代前半の皇室バッシングで失声症に
美智子様は1993年10月20日、59歳の誕生日を迎えたまさにその朝に倒れ、失声症になってしまったこともありました。原因は度重なる週刊誌などの美智子様及び皇室バッシング記事だったと言われています。
この年の春ごろから、週刊誌では皇室を批判する記事が相次いでいた。特に美智子さまをめぐっては、名指しで「女帝」を連想させるような記事。いわゆる「皇后バッシング」が渦巻いていた。現役の宮内庁職員とされる人物が、両陛下は夜遊びに耽って「快楽主義的」であると批判する記事をはじめ、「美智子皇后のご希望で昭和天皇が愛した皇居自然林が丸坊主」などの過激な言葉が踊った。
このバッシングの背景には1989年に代替わりし、平成の時代が始まったことがあります。新たな時代に対する保守派の批判だったとも言われますが、そのなかには美智子様を名指しで中傷するようなものがありました。
その後、美智子様はご家族の支えもあり回復。一部メディアでは1994年の硫黄島訪問時に声を取り戻したと報じています。
美智子様と雅子様の関係性~かつては絶縁状態といわれた嫁姑戦争の噂
美智子様、雅子様との間に確執があった噂も
美智子様と雅子様は、ともに民間から皇后という立場になったただ二人の女性たちです。しかし違う見方をすれば、ふたりは嫁姑関係でもあります。
週刊誌には嫁姑戦争と題する記事も…。
ただ内容的にはおおかた互いを忌み嫌いあっているという過激なものではありません。
たとえばある週刊誌では、ふたりが途絶状態にあったという見方があります。
両陛下と皇太子ご夫妻は「途絶状態にある」とまでいわれた。美智子さまは「あちらの様子が伝わってこなくて」と漏らされたこともあったという。
仮に美智子様と雅子様の関係がそんなに好い関係ではなかったとしても、かつて美智子様が香淳皇后との間で起きた嫁姑問題に比べるとかなりかわいいものに感じます。
苦しい経験をした美智子様が、同じく”民間からの妃”となった雅子様に同じような思いをさせるのは、なんとも効率的ではないです。
美智子様、確執の噂もあれど雅子様へのコメントは愛に溢れていた
美智子様と雅子様
2018年に開催された日本赤十字社の全国大会では、美智子様が壇上で雅子様を近くに招き、その手をとっている姿が目撃されました。その様はまるで、雅子様へのバトンタッチを暗に示しているようだったとも。
人間同士ですので合う合わないはあると思います。しかし美智子様の雅子様に対するコメントはいつでも優しいものに感じます。
雅子妃は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。
美智子さまは66歳の誕生日の文書で、「流産は、たとえ何人の子どもがあったとしても悲しいものであり、初めての懐妊でそれを味わった東宮妃の気持ちには外からは計り知れぬものがあったと思います。体を大切にし、明るく日々を過ごしてほしい」
美智子様の性格~最高の日本人女性と評する声も
美智子様、瀬戸内寂聴は「私が出会った中で最高の日本人女性」と絶賛
美智子様の素顔とは…
美智子様の性格を、小学校時代の担任は「真面目・活発・勝気・神経質」と表しています。
小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった。
実際に面識のある瀬戸内寂聴さんは、上皇陛下との恋愛エピソードも含め、美智子様を”最高の日本人女性”と語りました。
-前天皇陛下と前皇后美智子さまは天皇家で初めてのいわゆる恋愛結婚でした
寂聴 美智子さまは、学生時代、恋愛したことがなく、「あなたが好きです」と初めて直接男性から言われたのが陛下だったそうです。「うれしくて、舞い上がってしまったのよ。何が何でも、どんな反対があってもこの方と結婚しようと思いました。ただ1人、愛したお方が陛下です」とおっしゃっていました。私は男をいっぱい作ったけど(笑い)、ただ1人というのも、素晴らしいと思いました
-陛下の後ろにそっと立つお姿は控えめで穏やかなお人柄がにじんでいました
寂聴 だいぶ前ですが、「今日のドレスは本当にお似合いで、すてきですね」と申し上げると、小さな声で「これは6年前に作ったものなの。そのまましまってあったけど、6年もしたら、みんな忘れているだろうと思うから、今日、着てみたの」とおっしゃっていたの。倹約家で本当にご立派な方。私が出会った中で最高の日本人女性です
また美智子様が皇室に入ってからの出来事を知ると、結婚反対派の存在や革新的な子育て、象徴としての天皇を支える皇后としての役割など、一般人からは想像もできないような苦労が多くあったことと思います。
そんな経験をされてきた美智子様はかなり気概のある人ではないでしょうか。
美智子様についてまとめると…
・美智子様の性格は真面目で、瀬戸内寂聴は最高の日本人女性と評した
・美智子様は聖心女子大学を首席で卒業、卒業式では総代をつとめた
・美智子様は民間出身故に皇室内で陰湿ないじめを受けた過去や、バッシングにより失声症になったこともあった
・美智子様と雅子様は嫁姑関係が芳しくない時期があったといわれている
上皇・上皇后両陛下
令和時代に突入し、皇室に入ってからの日々を美智子様は以下のように振り返っています。
皇太子妃,皇后という立場を生きることは,私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ,その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて,60年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が「経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように」と云われたことを,幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間,昭和天皇と香淳皇后の御姿からは計り知れぬお教えを賜り,陛下には時に厳しく,しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。3人の子ども達は,誰も本当に可愛く,育児は眠さとの戦いでしたが,大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。
公務からは身を引かれましたが、テニスや音楽界などの移動の際などにお姿を見る機会があるかもしれませんね。