「格闘マシーン」「ニホンオオカミ」の異名で呼ばれた伝説的空手家・黒澤浩樹さんが話題です。
ここでは黒澤浩樹さんの経歴を振り返ると共に、伝説的武勇伝の数々、激しい事で知られたトレーニング、嫁や子供、死因やステロイド使用の噂などについてもまとめました。
この記事の目次
黒澤浩樹のプロフィール
黒澤浩樹のプロフィール
生年月日:1962年9月6日
没年月日:2017年3月25日
出身地 :東京都品川区
身長 :174cm
体重 :88kg
血液型 :不明
黒澤浩樹さんは、「格闘マシーン」、「ニホンオオカミ」の異名でも呼ばれた有名空手家で、総合格闘技イベント「PRIDE」や「K-1」にも参戦した人気格闘家でした。
黒澤浩樹さんは少年時代にはバイオリンや剣道を習う裕福な家庭の生まれで、中学時代に「極真会館総本部」に入門して空手を始め、中村辰夫氏が師範を務める「座間中村道場」への移籍を経て、極真空手「東京城西支部」へと再移籍。
黒澤浩樹さんはこの極真空手道場への再移籍の頃から頭角を現しはじめ、全日本、全世界選手権で好成績を次々と収め活躍しました。
黒澤浩樹の空手家としての主な成績
黒澤浩樹さんの空手家としての主な成績を見ていきます。
- 1984年、「全日本空手道選手権大会」初出場初優勝。
- 1985年、「全日本空手道選手権大会」準優勝。
- 1987年、「全世界空手道選手権大会」6位入賞。
- 1987年、「全日本ウェイト制空手道選手権大会」準優勝
- 1991年、「全世界空手道選手権大会」3位。
- 1993年、「全日本空手道選手権大会」6位入賞。
- 1993年、「全日本ウェイト制空手道選手権大会」3位。
- 1995年、「全世界空手道選手権大会」6位入賞。
- 1995年、「全日本ウェイト制空手道選手権大会」3位。
以上が黒澤浩樹さんの空手家としての主な成績です。
優勝は1984年の「全日本空手道選手権大会」での初出場初優勝のみであり、黒澤浩樹さんはそれから10年以上にわたって、好成績を残しながら優勝に届かない悔しい時代を送りました。
1998年には、自らの道場「黒澤道場」を設立しています。同道場は2011年に「聖心館空手道」に改称されています。
プロの格闘家としても活躍
1997年、黒澤浩樹さんは総合格闘技イベント「PRIDE」に参戦し、プロ格闘家としてデビューしています。同年10月11日「PRIDE.1」にて身長203cm、体重130kgというロシアの巨漢選手、イゴール・メインダートと総合ルールで対戦し、1Rで右膝十字靱帯断裂の重傷を負いながら試合を続行しますが、3RTKO負けを喫しています。
「PRIDE」では2試合を戦い、1勝1敗(1試合は空手ルールで角田信朗氏に勝利)の成績を残しました。
2000年には「K-1」に参戦してキックボクシングを戦い、9試合3勝4敗2分の戦績を残しています。
黒澤浩樹の武勇伝
黒澤浩樹さんにはいくつかの武勇伝が伝説的に語り継がれています。
黒澤浩樹さんの武勇伝を紹介します。
薬指が開放骨折した状態で戦い続けた
薬指が折れた時の黒澤浩樹
黒澤浩樹さんの最も有名な武勇伝は「薬指を開放骨折(骨が外に飛び出していた)しながら試合を戦い続けた」という伝説です。
この武勇伝は、1991年6月に大阪府立体育会館で行われた極真会館「オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」での出来事でした。
黒澤浩樹さんはその日、極真空手沖縄支部の「怪物」の異名をとる強豪選手・七戸康博さんと準決勝で対戦。これに勝利した方が世界選手権大会日本代表メンバーに選抜されるという重要な意味を持つ試合でした。
互いに一歩も譲らぬ試合が続き、本戦は0-0引き分け、延長戦も0-0で決着がつかず、際延長戦まで進みますが、これでも決着はつかず、勝敗は試割り判定へ(試合前に割った杉板の枚数を競う)。これは七戸康博さんが24枚、黒澤浩樹さんは21枚を割っており、七戸さんの勝利が決まりました。
しかし、ここで会場が騒然となる出来事が起こりました。黒澤浩樹さんが審判の元へと歩み寄り、おもむろに自分の左手を見せると、そこからはおびただしい鮮血が溢れ落ち、薬指からは骨が飛び出していたのです。
慌ててドクターが走り寄り、患部に消毒液をかけるとここでようやく黒澤浩樹さんは苦痛の叫び声をあげ、騒然としてた場内は一瞬にして静まり返りました。
つまり、黒澤浩樹さんは左手薬指から骨が飛び出すほどの大怪我を拳に負いながら表情一つ変えずに、激しい試合の中で渾身の突きを打ち続けていたのです。
さらにその後、担架で運ばれそうになった黒澤浩樹さんでしたが、なんとそれを拒んで自らの足で控室まで歩いて行きました。この一件により、黒澤浩樹さんの凄まじいまでの精神力は一気に伝説となったのです。
この武勇伝以降、黒澤浩樹さんには「格闘マシーン」、「ニホンオオカミ」という異名で呼ばれるようになりました。
この武勇伝は、当時の格闘技雑誌で大々的に取り上げられ、これをきっかけにして黒澤浩樹さんの知名度と人気は急上昇する事になりました。
対戦相手の脚を回し蹴りでへし折って慰謝料を取られた事がある
黒澤浩樹さんには、試合で下段回し蹴りを放って対戦相手位の足の骨を折ってしまい、慰謝料を請求されて16万円を支払ったという武勇伝も伝えられています。
この出来事以降、黒澤浩樹さんが下段回し蹴りを放つと、周りから「16万円!」というヤジが飛んだという逸話も伝説的に語られています。
その他にも多数の武勇伝あり
この他にも黒澤浩樹さんにはいくつも武勇伝があり、東海大中国拳法部の主将の腕をへし折ったという話や、東京の路上で絡んできた不良を片手で掴んで投げ飛ばした後、同行していた記者に「ああ怖かった」と呟き、それを不思議に思った記者が問うと「だって下手したら殺しちゃうじゃないですか」といったという話。
車の運転中に絡んできた暴走族を全員ボコボコにして謝罪させたという武勇伝。「PRIDE」に初参戦した際に試合中右膝十字靭帯を断裂する大怪我を負いながらも無理やり試合続行して3RTKO負けを喫した武勇伝などなど、様々な武勇伝が伝説的に語られています。
黒澤浩樹のトレーニングが凄いと伝説に
数々の武勇伝を持つ黒澤浩樹さんですが、そのトレーニングも壮絶だったと伝説的に語り継がれています。
黒澤浩樹さんはかなりウェイトトレーニングを重視していた事がよく知られています。
下の動画には黒澤浩樹さんのウエイトトレーニングの様子がたっぷり収められています。
相当な重量(300kg以上)をハーフスクワットであげている様子も収められています。相当な負荷がかかっているはずです。
下の動画も黒澤浩樹さんのトレーニングの様子を紹介する貴重な動画です。
かなりの重量のウエイトトレーニングのほか、自宅の練習場や、鉄パイプをひたすら蹴るという珍しいトレーニングをの様子も紹介されています。トレーニングの内容だけでなく、黒澤浩樹さんがいかに努力家だったかがよくわかる動画になっています。
黒澤浩樹さんが常人であれば立っている事すらも難しい重傷を負いながらも試合を戦い続けられたのは、こうした限界に挑むような凄まじいトレーニングによって培われた素晴らしい精神力が理由だったのだと感じます。
黒澤浩樹の嫁は現聖心館空手道代表・黒澤弘美氏
ネット上には何故か黒澤浩樹さんが未婚で嫁はいなかったという情報が流れていますが、こちらはガセネタです。
黒澤浩樹さんの嫁は、黒澤浩樹さんの訃報を発表した、当時の聖心館空手道事務局長・黒澤弘美さんその人です。
黒澤浩樹さんの嫁の黒澤弘美さんは、黒澤浩樹さんの死去後、聖心館空手道の代表に就任され、現在も務められています。こちらは当時の報道にも書かれているので間違いありません。
会の最後には黒澤氏の妻・弘美さんの、聖心館の代表就任が発表された。弘美さんは黒澤館長他界後、聖心館から身を引こうとしたが、道場関係者、道場生、父兄の勧めもあり代表に就任することを承諾。「空手家ではございません私ですが、黒澤が遺しました大切な道場生たちを守り抜きながら大切な道場を守っていく所存でございます」と弘美代表が挨拶。
黒澤弘美さんは、聖心館空手道の経営に力を注ぐと共に、黒澤浩樹さんの遺した言葉を道場生たちに伝えているようです。
黒澤浩樹の子供
現在の聖心館空手道の代表・黒澤弘美さんと結婚していた黒澤浩樹さんですが、2人の間に子供がいたのかについては明らかにされていません。
黒澤浩樹さんが設立した空手道場「聖心館空手道」では、下は3歳の子供から道場生をとっており、特に子供に対しては「心の空手」の指導を徹底して行う事を重要な指針として掲げています。
この事からは黒澤浩樹さんが子供の教育に非常に熱心な想いを持っていた事が伝わってきます。
黒澤浩樹さん自身に子供がいたのかは不明ですが、自らの道場に通う子供達を育てる事を非常に大切に思われていた事だけは確かでしょう。
黒澤浩樹の死因は「急性心不全」
数々の伝説を残してきた黒澤浩樹さんですが、2017年3月25日に54歳という若さでこの世を去りました。
黒澤浩樹さんの死因は「急性心不全」と発表されています。
当時の報道によれば、黒澤浩樹さんは1997年10月に総合格闘技イベント「PRIDE」に参戦した際に右膝十字靭帯断裂の重傷を負い、それからその後遺症に悩まされており、2016年に膝の手術に踏み切りました。その後、黒澤浩樹さんはリハビリの生活を続けていたものの、以降、血圧が高い状態が続いており、その影響から「急性心不全」が引き起こされたというのが死因だったようです。
また、葬儀については、聖心会館の公式フェイスブックから「黒澤浩樹の性格を察し密葬を内々で行い荼毘に伏しました」とのメッセージが発表されています。
葬儀後、黒澤浩樹さんの遺骨は、聖心館空手道の道場に安置され、弟子たちの稽古を見守っている事も合わせて発表されています。
また、黒澤浩樹さんは死の前日までリハビリ中の体でありながら気丈に指導を行なっていたという事で、あまりにも突然の死だったようです。
黒澤浩樹の死にステロイドが影響したという噂も
黒澤浩樹さんの死因は「急性心不全」だったという事ですが、これがステロイドの副作用によるものではないかとの噂があります。
黒澤浩樹さんはウエイトトレーニングを重視し、大きな筋肉を作り上げましたが、ステロイドを使用しているのではないかという疑惑がその当時から上がっていました。
ただ、このステロイド疑惑については証拠は示されておらず単なる噂にすぎません。ステロイドを使用していたという噂は黒澤浩樹さんの名誉を傷つける事にもなるため、これ以上の詮索は無用というものでしょう。
また、黒澤浩樹さんが亡くなったのは現役を引退してからかなりの期間が経過していたので、当時もステロイドを使用していたとは考えにくいと思われます。
ネットでは、激しいウエイトトレーニングを積んだ人は急性心不全で亡くなる例が多いという見方もあり、ステロイド云々ではなく、そもそも現役時代の激しいトレーニングが原因だったのではないかという意見も出ているようです。
まとめ
今回は、数々の武勇伝を持つ伝説的空手家・黒澤浩樹さんについてまとめてみました。
黒澤浩樹さんは、「全日本空手道選手権大会」や「全世界空手道選手権大会」で何度も好成績を収めた空手家で、「PRIDE」や「K-1」などの総合格闘技イベントにてプロ格闘家としても活躍しました。
激しいトレーニングを積むことで知られ、その鍛錬で培った精神力によって、常人であれば試合続行不可能なほどの怪我を負っても平然と戦い続ける姿から「格闘マシーン」「ニホンオオカミ」の異名で呼ばれました。
数々の武勇伝を残した黒澤浩樹さんでしたが、2017年に54歳という若さでこの世を去っています。死因は「急性心不全」でした。死因にはステロイドが関係しているとの噂もありましたが、これはあくまでも噂です。
最後に黒澤浩樹さんのご冥福を祈りたいと思います。