伝説の殺人鬼・栗田源蔵ですが、死刑確定後の行動も酷いと話題です。
今回は栗田源蔵の家族や生い立ち、殺人事件(生き残りは長女のみ)など犯罪歴、死刑執行や最後の言葉などその後、結婚や子孫の有無と現在を紹介します。
この記事の目次
- 栗田源蔵はおせんころがし殺人事件などを起こした殺人鬼
- 栗田源蔵の生い立ちや経歴① 貧乏な大家族育ちだった
- 栗田源蔵の生い立ちや経歴② 小学校を中退して丁稚奉公に出ていた
- 栗田源蔵の生い立ちや経歴③ 炭鉱夫時代に不良化していた
- 栗田源蔵の生い立ちや経歴④ ヤミ米ブローガーとして一時代を築く
- 栗田源蔵の犯罪歴① 最初の殺人事件はヤミ米ブローガー時代だった
- 栗田源蔵の犯罪歴② ヤミ米ブローカー引退後に小山事件を起こす
- 栗田源蔵の犯罪歴③ おせんころがし殺人事件で4人を殺傷・生き残りは長女のみ
- 栗田源蔵の犯罪歴④ 検見川事件で女性2人を殺害
- 栗田源蔵が逮捕されたきっかけ
- 栗田源蔵のその後① 死刑判決が下るも反省の色なし
- 栗田源蔵のその後② 1959年に死刑執行済み
- 栗田源蔵の最後の言葉は?
- 栗田源蔵は結婚しておらず直系の子孫はいない
- 栗田源蔵が起こした「おせんころがし殺人事件」の現在
- 栗田源蔵のまとめ
栗田源蔵はおせんころがし殺人事件などを起こした殺人鬼
栗田源蔵とは、「おせんころがし殺人事件」の他、3件の強姦殺人事件に関与し、8人もの人間を殺害した犯罪者です。
1956年の「第24回国会法務委員会公聴会」で死刑制度の是非を議論した際に、死刑制度が必要な実例として名前が出てくるほど昭和を代表する殺人鬼として有名だった栗田源蔵。
ちなみに、栗田源蔵の名前を出した人物は、当時の最高検察庁検事だった安平政吉さんで、「これが果して人間であろうかと思うような人間」との評を下していました。
議論を進めていく前に、論より証拠、実際今日裁判所におきましてどういう被告人の行為に対しまして死刑を言い渡しているか一つ紹介いたしたいと思うのであります。事件は宇都宮地方裁判所の判決が確定いたしておりますから、これは名前も具体的な内容もこの席で申してもいいと思うのでありますが、被告は栗田源蔵と言うのであります。
中略
これは一つの例でありますが、かくのごとき事件は、裁判の上におきましては相当に出ておるのでありまして、われわれ記録を見ましただけても実に憤慨にたえない。これが果して人間であろうかと思うような人間もいるのであります。
栗田源蔵の生い立ちや経歴① 貧乏な大家族育ちだった
栗田源蔵(くりた げんぞう)
生年月日:1926年11月3日
出身地:秋田県羽後町
栗田源蔵の実家は秋田県羽後町にあり、12人兄弟の三男だったと言われています。
父親は川漁師でしたが病弱で、母親が働いて家計を支えていたとか。
また、子沢山家庭だった上に、父親の稼ぎが少ない状況だったため、幼少期の栗田源蔵は、食事も満足に食べられない極貧生活に喘いでいたようです。
おまけに、両親から放置されて愛情を受けずに育ったため、夜尿病を患っていたといいます。
家にお風呂なんてついていない家庭が当たり前だった時代ですから、おねしょをすれば悪臭は避けられません。
そのせいで、小学校では尿臭を原因としたいじめに遭うなど、栗田源蔵の少年時代は暗い記憶ばかりだったと言われています。
栗田源蔵の生い立ちや経歴② 小学校を中退して丁稚奉公に出ていた
少年時代はいじめられっ子だった栗田源蔵は、小学校は3年生で中退しています。
その後、農家に下男として雇われますが、丁稚奉公先でも夜尿病が原因で追い出されたようです。
この頃の栗田源蔵の逆境ぶりは凄まじく、1年で10回以上も奉公先が変わったと言われています。
また、戦中世代だったため、19歳の時に弘前の歩兵第31連隊に徴兵されるなど、暗い青春時代を過ごしました。
ちなみに、歩兵第31連隊時代も夜尿病は治っておらず、おねしょが原因で2か月で除隊になっています。
栗田源蔵の夜尿病は生涯治ることはなかったらしく、後の荒んだ人生の一因となったと見る向きもあります。
栗田源蔵の生い立ちや経歴③ 炭鉱夫時代に不良化していた
終戦後の栗田源蔵は、本土を離れ、北海道美唄市にある美唄炭鉱で働いていたようです。
栗田源蔵が闇落ちしたのはこの頃で、周囲の荒くれ者たちに染まり、粗暴な言動が目立つようになっていったとか。
また、栗田源蔵が初めて犯罪に手を染めたのも炭鉱夫時代だったそうで、1946年8月には、近くの農家から米を盗み、ヤミ市で売りさばいた罪で警察に逮捕されています。
ちなみに、この時は懲役1年6か月の実刑判決を受けました。
栗田源蔵の生い立ちや経歴④ ヤミ米ブローガーとして一時代を築く
出所後の栗田源蔵は、本格的に闇社会の人間に転落し、ヤミ米販売ブローカー集団「総武グループ」の中心メンバーとして活動していきます。
当時の日本は物資不足だったため、他の食料品まで扱うほど順調だったそうです。
しかし、この頃になると、完全に悪に染まっていた栗田源蔵は、物価統制令違反だけではなく、傷害や窃盗、殺人未遂などあらゆる犯罪に手を染めていました。
栗田源蔵の犯罪歴① 最初の殺人事件はヤミ米ブローガー時代だった
恋愛問題がこじれて少女を殺害した
「総武グループ」時代の栗田源蔵は我が世の春を謳歌しており、メンバーの1人だった当時20歳のAさんと交際しており、結婚の約束までしていました。
しかし、他にも栗田源蔵を狙う女性メンバーがいたらしく、Bさんという17歳の少女にも言い寄られていたそう。
そんなBさんを憎からず思っていた栗田源蔵は、Bさんを愛人にしたものの、あまりにもしつこく結婚を迫ってくるため、疎ましく思った栗田源蔵は、性交後にBさんを絞殺しています。
事件が起こったのは1948年1月で、事件現場は静岡県沼津市だったと言われています。
この時、栗田源蔵は21歳の若さでした。
通報されそうになり恋人も手にかけた
Bさん殺害後の栗田源蔵ですが、初めて人を殺した動揺などは見られず、平然としていたそう。
そのため、栗田源蔵がBさんを匿っていると勘違いしたAさんが、今度は「Bをどこに隠したの!あの女と別れて!」と詰め寄って来たといいます。
そんなAさんの追及も疎ましく思った栗田源蔵は、Bさんを殺害し近くの海岸に埋めたことをAさんに告げます。
恋敵の死を知ったAさんは、栗田源蔵に自首を勧めますが、まったく罪の意識を感じていなかった栗田源蔵は、事件を通報されることを恐れてAさんの殺害を決意。
絞殺後のAさんを死姦した後、近くの海岸に埋めています。
栗田源蔵の犯罪歴② ヤミ米ブローカー引退後に小山事件を起こす
ヤミ米ブローガーとして成り上がった栗田源蔵ですが、終戦直後の混乱が収まるにつれて、日本の物資不足は回復していきました。
そのため、ヤミ米ブローガーを廃業し、泥棒稼業を飯の種にするようになります。
この時代の栗田源蔵は、土地勘のある福島や郡山、白川や宇都宮などで犯行を繰り返していたと言われています。
また、酒に酔った勢いで殺人未遂事件を起こし、秋田県内の刑務所に服役していた時期もあったようです。
小山事件で24歳女性を殺害
出所後の1951年8月8日、栃木県小山市に足を運んだ栗田源蔵は、盗みに入る家を物色していた際、とある民家で、24歳の母親と赤ん坊が昼寝をしているのを目撃します。
栗田源蔵は欲情して、その家に押し入り、悲鳴を上げる母親をものともせず、手慣れた手口で母親を強姦しながら首を絞めて殺害。
その後は、タンスの中を物色しタンスや帯を盗んだ挙句、勝手口で大便までした栗田源蔵ですが、赤ん坊には手をかけずに家を後にしています。
栗田源蔵の犯罪歴③ おせんころがし殺人事件で4人を殺傷・生き残りは長女のみ
小山事件後は行きずりの犯行だったためか、栗田源蔵は警察に逮捕されることもなく、1951年10月11日になると千葉県鴨川市に足を運んでいます。
昼間は盗みに入る家を物色するために、自転車でふらふらと街をまわり、深夜になると、上総興津駅の待合室で好みの女性と鉢合わせたといいます。
当時29歳だった女性は、行商に行ったまま行方不明となった夫を探しに向かった帰りだったらしく、7歳の長女と5歳の長男、2歳の次女を連れていました。
3人の幼い子供を抱える女性に欲情した栗田源蔵は、「家まで送ってあげる」と声をかけ、帰り道に付き添うことに成功します。
上総興津駅からの帰り道、栗田源蔵は女性の長男を乗せた自転車を押して歩きながら、女性のことを口説き始めました。
しかし、女性は本気にせずに受け流していたといいます。
そんな女性のつれない態度に癇癪を起した栗田源蔵は、「おせんころがし」と呼ばれる崖の上の道に差し掛かったところで、自転車を停めて女性に襲いかかったのです。
異変を感じ取った子供たちが泣きだしたため、まずは長男を自転車から引きずり下ろし、足元に落ちていた石で滅多打ちにして崖下に投げ飛ばします。
怒りが収まらなかった栗田源蔵は、長女を殴りつけて崖から突き落とした後、女性が背中に背負っていた次女も引きはがし、地面に何度も叩きつけた後、崖下に投げ飛ばしています。
栗田源蔵の凶行に恐れおののいた女性は「何でもするから助けて!」と懇願しますが、その場で強姦された後、絞殺されて、崖下に投げ飛ばされる末路が待っていました。
用心深い栗田源蔵は、犯行後、女性たちの遺体がちゃんと海に落ちているか確認までしていたといいます。
女性たちの遺体は崖の中ほどの位置で引っかかっていたそうで、栗田源蔵は自転車のランプを手に取り、崖まで降りて行って女性たちの遺体を海に投げ捨てました。
そんな中、唯一軽傷で意識があった長女は、とっさに物影に隠れ、栗田源蔵に発見されずに生き延びることができました。
150名無しさん@お腹いっぱい。2015/03/07(土) 23:46:10.63ID:???
「戦後日本の大量猟奇殺人」斎藤充功 本体1204円+税ちょっと高かったけど面白かったよ!
おせんころがしの栗田源蔵は逮捕後、栗田を連れた現場検証の写真もあった。
現場検証に唯一の生き残り長女も一緒に立ち会わせたんだよ。当時の毎日新聞千葉版(昭和28年12月22日)より抜粋
「泣く子を次々にがけ下に投げ母親に暴行し、風呂敷で絞殺、石で滅多打ちにしたうえ、3人の死体を引き寄せ草をかけた安房郡小湊町内浦の現場をいちいち指さしならすらすらと、異常な姿で当時の残忍な模様を再現する栗田の様子をじっとみつめていた事件唯一の生き残りS子ちゃんは、当時の恐怖を思い出してか目を覆って突然泣き出し、実地検証に立ち会った捜査陣は”うむ”とうなった」あと、殺された母親は妊娠9ヵ月だったそうです。
引用:おせん転がし殺人
栗田源蔵の犯罪歴④ 検見川事件で女性2人を殺害
とんでもない凶悪事件に次々に手を染めた栗田源蔵ですが、またしても警察の追及を逃れ、1952年1月13日になると、千葉県千葉市花見川区に姿を現しています。
この時の栗田源蔵は、以前盗みに入った際に着物が大量にあった家に、再度空き巣に入るつもりでした。
しかし忍び込んだところ、その家の当時24歳だった主婦と鉢合わせ、絞殺。さらに騒ぎを聞きつけて駆け付けた当時63歳の叔母も刺殺しています。
そんな状況下でも冷静だった栗田源蔵は、主婦を死姦してから家を立ち去るなど、相変わらずの鬼畜ぶりだったようです。
栗田源蔵が逮捕されたきっかけ
検見川事件後の栗田源蔵は、これまでの殺人事件で逮捕されなかったことで油断が生じたのか、逃走することもなく、花見川区内にある妹夫婦の家に居候していました。
しかし、警察側も近隣で多発していた盗難事件と検見川事件の関連性を疑っており、この辺りの不良グループのリーダー格だった栗田源蔵をに目星をつけていました。
そして、1952年1月16日には、警察が妹夫婦の家に踏み込み、栗田源蔵の身柄を確保しています。
ちなみに逮捕時の栗田源蔵は、秋田県内で起こった窃盗事件の容疑者として指名手配中でした。
逮捕後も反省の色なしだった
栗田源蔵は犯行を否認していたものの、妹夫婦の家から血の付いた包丁が発見された他、検見川事件の事件現場に指紋を残してていたため、警察の追及を逃れることはできませんでした。
その後の栗田源蔵は観念したのか、過去の殺人歴についても自供を始めます。
ただし、反省の色はまったく見られなかったようで、収容された東京拘置所では看守に対して暴言や暴行を繰り返していたようです。
また、室内の感知器を何度も手動で作動させ看守の手を煩わせるなど、傍若無人ぶりは留まるところを知らなかったといいます。
栗田源蔵のその後① 死刑判決が下るも反省の色なし
逮捕後も我が物顔で暴れていた栗田源蔵ですが、世の中はそんなに甘くなく、1952年8月、検見川事件関連の罪状で死刑判決が下っています。
1953年12月には、検見川事件以外の殺人事件に対する罪状でも死刑判決が下るなど、栗田源蔵は、日本で初めて複数の死刑判決を受けた人物となりました。
栗田源蔵は死刑判決を不服とし、控訴をしますが、1954年頃より拘禁ノイローゼを発症し、体調や精神に異常をきたすようになり、同年の10月には控訴を取り下げています。
懺悔録を売り出そうとしたことも
控訴を取り下げた後の栗田源蔵は、懺悔録を書いて出版社や新聞社に売り込むなどと、相変わらず反省の色はなかったようです。
また、突然冤罪を主張し始めて、「おせんころがし殺人事件」や「検見川事件」の再審請求をするなど、迷走した行動が目立つようにもなりました。
・「おせんころがし殺人事件」は、取り調べ中に自白を強要された。事件当日は、秋田で窃盗事件を起こしていてアリバイがある。
・「検見川事件」は、妹の夫やその友人と一緒に家に押し入った。殺人を犯したのもそいつらだ。
この頃になると、「おせんころがし殺人事件」の被害者たちが夢枕に立つようになったらしく、睡眠薬がないと眠れない夜が増えていったそう。
そんな事情もあり、栗田源蔵は、1955年12月にプロテスタントの洗礼を受けています。
ただし、牧師の差し入れ回数に文句を言っていたため、差し入れ目当てで改宗しただけではないかとの説も存在します。
栗田源蔵のその後② 1959年に死刑執行済み
栗田源蔵は1956年2月になると、宮城刑務所仙台拘置支所に移監されています。
東京拘置所において死刑場設備が整う1966年以前は、宮城刑務所で死刑を執行(収容は当所。執行設備のみ宮城刑務所敷地内にある)しており、「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。
引用:仙台拘置支所
いよいよ死刑執行が現実味を帯びてきたこともあり、移監後の栗田源蔵は、死刑執行を回避するために、再審申立や抗告申立、即時抗告申立などを繰り返していたようです。
また、死刑執行に対する栗田源蔵の怯えようは尋常ではなく、仙台拘置支所に移監されて以降は、心労でガリガリになっていたと言われています。
そして1959年10月14日、栗田源蔵の死刑が執行されました。享年33歳でした。
ちなみに、犯行内容や逮捕後の自己保身全開の言動からか、ネット上でも、栗田源蔵に対する同情の声は一切見受けられません。
49皮蛋2008/04/18(金) 09:52:06ID:rmqjUXMj
最悪の事件。
起こした事件も最悪だけど、死刑の判決受けてからの往生際の悪さも最悪
50名無しさん@お腹いっぱい。2008/04/18(金) 17:19:18ID:DKn81ChQ
光市母子殺害事件の常習犯バージョンなんだな引用:おせん転がし殺人
栗田源蔵の最後の言葉は?
有名死刑囚である栗田源蔵だけに、死刑執行直前の最後の言葉などについて、気になるネットユーザーたちは多いようです。
しかし、栗田源蔵の最後の言葉は特に残されていません。
1957年頃、精神科医の加賀乙彦さんが、死刑確定者の調査のために仙台拘置支所を訪れた際は、お迎えが来た死刑囚を何度も見て来た栗田源蔵は、精神的にかなり消耗していたそう。
そして、加賀乙彦さんにしきりに冤罪を主張したうえ、「死にたくない」と訴えたそうです。
また、自分の体に重たい物が乗ってきて、押しつぶされそうになる悪夢も度々見ていたと言われています。
「ガキが8人死んでくれたから俺が死ねる!!」宅間守の異常な発言・狂言 – NAVER まとめ https://t.co/IHtWOZvO1a
— firk12 (@__firk12) September 28, 2018
「こんなことになるとは」オウム死刑囚・井上嘉浩の最後の言葉… – NAVER まとめ https://t.co/0I0QBEKCct
— firk12 (@__firk12) September 28, 2018
栗田源蔵は結婚しておらず直系の子孫はいない
昭和史に残る凶悪犯である栗田源蔵は、結婚の約束をした女性や、交際していた女性はいたものの、結婚はしていませんでした。
そのため、直系の子孫は誕生していません。
ただし、12兄弟の大家族育ちなため、兄弟の子孫などは多く残っていると思われます。
栗田源蔵が起こした「おせんころがし殺人事件」の現在
栗田源蔵が起こした事件の犯行現場の1つであった「おせんころがし」は現在、心霊スポット化しているようです。
ちなみに、現地を訪れるオカルトファンの中には、「おせんころがし殺人事件」を知らない人間も多いとか。
#心霊スポット #おせんころがし
— Ghost Night TV (@cYCKtDE7pCDiPok) July 23, 2020
明日の夜20時に心霊スポットおせんころがしをアップ予定です‼️
ただ、霊障(ノイズ)がはんぱないのでご注意😱 pic.twitter.com/HVGy7R6ty8
心霊ツアー
— 栗原 亨(廃墟&樹海探検家) (@GSX1100SSSL) December 14, 2019
13日の夜、千葉の心霊スポットへ行ってきた。
先日リリースされた「ばけたん改」のテストを兼ねるため最怖のスポットを選定。
ダルマ神社→お蛇ヶ池→ホテル〇魚→おせんころがし→東京湾観音旧隧道
残念ながら恐ろしい体験は無し、またばけたんも緑か青のみ。
しかし画像には無数の霊が! pic.twitter.com/GAsgfBl01J
おせんころがし殺人事件で生き残った長女のその後については情報がなく不明となっています。
栗田源蔵のまとめ
栗田源蔵は、血も涙もない凶行を繰り返した殺人鬼でありながら、死刑判決が下った後は死の恐怖から逃げようと必死だった死刑囚です。
何の罪もない弱い立場の人たちを容赦なく殺害し、自分の身の安全だけを図って、最後にはかくまってくれた妹夫婦まで貶めようとした栗田源蔵。
すぐに死刑執行されず、数年生きながらえたことで、被害者の苦しみを少しでも味わうことができたのでしょうか。
事件被害者たちのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させていただきます。