藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人である藤間静波は、逮捕時の顔写真や生い立ちも注目を集めています。
今回は藤沢市母娘ら5人殺害事件の被害者と犯人、事件の経緯、藤間静波の父親と母親など家族と生い立ち、判決や現在を紹介します。
この記事の目次
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件とは
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の被害者は5人
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人は藤間静波
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細① 第1の事件「平山勝美殺人事件」
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細② 第2の事件「藤沢市母娘3人殺害事件」
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細③ 第3の事件「岸純太郎殺害事件」
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波が逮捕されたきっかけ
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の裁判と判決
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の顔写真が話題に
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の家族(父親・母親)とは
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の生い立ちとは
- 藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の現在
- まとめ
藤沢市母娘ら5人殺害事件とは
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」とは、1981年(昭和56年)10月6日~1982年(昭和57年)6月5日の間に、神奈川県・兵庫県にて男女5人が殺害された連続殺人事件です。
犯人である藤間静波(ふじま・せいは)は、1982年5月27日の夜に、神奈川県藤沢市辻堂神台2丁目の民家にて、当時16歳の女子高生・畑真輝子さんとその母親、妹を殺害。
この事件と前後して、神奈川県横浜市・兵庫県尼崎市のそれぞれで、金銭トラブルになった元少年院仲間の男性2人を殺害しています。
藤間静波が逮捕された直後、警察庁は一連の連続殺人事件を「警察庁広域重要指定112号事件」に指定しました。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の被害者は5人
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藤間静波に殺害された被害者等は、以下の5人です。
1981年10月6日未明 元少年院仲間で、窃盗共犯者の平山勝美(神奈川県横浜市戸塚区中田町で殺害)
1982年5月27日夜 畑真輝子さんとその母親と妹(神奈川県藤沢市内で殺害)
1982年6月5日夜 藤沢事件の共犯者で元少年院仲間の岸純太郎(兵庫県尼崎市内で殺害)
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人は藤間静波
1960年8月21日生まれの藤間静波は、犯行当時21歳でした。
当時は神奈川県平塚市上平塚11番地4号に住んでおり、工場従業員を辞めて無職となっていました。
藤間静波は中学卒業後に就職したものの長くは続かず、職を転々と変えながら窃盗などの悪事を繰り返し、度々少年院に入所していました。
少年院の中でも、藤間静波は問題ばかり起こすトラブルメーカーだったようです。
出所した後に被害者となる畑真輝子さんと出会った直後から、立て続けに5人を殺害する一連の「藤沢市母娘ら5人殺害事件」を起こして逮捕されています。
藤間静波は裁判で死刑が確定し、当時法務大臣だった鳩山邦夫が発行した死刑執行命令により、2007年(平成19年)12月7日に東京拘置所内で死刑が執行されました。享年47歳でした。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細① 第1の事件「平山勝美殺人事件」
藤間静波と平山勝美は少年院仲間であり、窃盗の共犯者
1980年春から1980年春までの約1年間、久里浜特別少年院に入っていた藤間静波は、ここで平山勝美と知り合いました。
平山勝美は藤間静波よりも先に少年院から退院し、自宅近くにあった空調設備会社の会社で配管工として働き始めました。
それから約5ヶ月後に退院した藤間静波は、平山勝美の社員寮に居候するようになり、流れで同じ会社で働き始めています。
ところが、 藤間静波は真面目に働かず平山勝美を誘ってはひったくりなど繰り返し、わずか5日で会社を辞めてしまいました。
その後、2人はひったくりで得た金でアパートを借り、同様の犯行を繰り返してお金を得ていました。
平山勝美が藤間静波の金を盗み、自首を匂わせる
1980年8月5日の夜、平山勝美は藤間静波の財布から20万円を抜き出して、姿を消します。
藤間静波は怒り狂って平山勝美を探し始め、8月下旬頃に平山勝美の自宅に押しかけたところ、自宅に隠れていた平山勝美を発見し、働いて20万円を返すように要求。
また、平山勝美が覚醒剤の販売などで得ていた売上金を奪うなどして一部回収したようです。
その後、平山勝美がこれまでの2人の犯行を警察に自首することを匂わせたため、藤間静波はいよいよ怒りが頂点に達し、平山勝美の殺害を決めました。
藤間静波は平山勝美を殺害した
同年9月上旬から下旬にかけて、殺害に使うための操り小刀や刺身包丁を購入した藤間静波は、平山勝美を殺害した後に身を隠すための住居として池袋にアパートを借ります。
さらに、殺害時に血痕を残さない方法として焼き殺すことを思いつき、ジュースの空き瓶にガソリンを入れるなど準備をしていました。
殺害準備が整ったと考えた藤間静波は、平山勝美を彼の自宅付近で発見すると、10月6日の午前3時過ぎ頃に、横浜市戸塚区中田町にある人気のない畑に連れて行きました。
藤間静波は包丁で平山勝美を脅し、道路脇にうつ伏せにさせ、空き瓶に入れたガソリンを背中にかけて焼き殺そうとしました。
上手くガソリンに火がつかず、藤間静波が手間取っている隙に平山勝美は逃げ出すものの、藤間静波は平山勝美のふとももに包丁を突き刺し、逃走を食い止めています。
平山勝美が重傷を負いながらも抵抗しようとしたため、藤間静波は「俺が悪かった、医者に連れて行ってやる」と言って油断させ、近づいてから操り小刀でメッタ刺しして殺害しました。
夜が明けた頃に、平山勝美の遺体は通行人が発見しています。
藤間静波はこの日の22時頃に道路交通法違反で逮捕され、直前に平山勝美と金銭トラブルを起こしていたことから、容疑者として取り調べを受けました。
しかしこの時は、証拠不十分として釈放されています。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細② 第2の事件「藤沢市母娘3人殺害事件」
畑真輝子さんに告白するも振られる
平山勝美を殺害した約40日後となる1981年11月20日、藤間静波は、同級生と自転車で帰宅中だった当時神奈川県立茅ヶ崎高校2年生・畑真輝子さんをナンパします。
この時、畑真輝子さんは自宅の住所や電話番号を藤間静波に教えたようで、後日藤間静波からデートに誘う電話をかけました。
そして、12月15日に2人は熱海後楽園でデートをしています。ちなみに、この時の費用は全て藤間静波がひったくりなどの犯罪で得たお金から賄ったようです。
それから10日ほどが経った12月27日、藤間静波は突然、畑真輝子さんの自宅にバイクで押しかけました。
びっくりした畑真輝子さんは「なんで急に来るのよ」と怒り、帰るように促したそうです。
後日、電話で大晦日のデートを取り付けた藤間静波は、デート当日に告白しましたが、畑真輝子さんから「他に好きな人がいる」と断られています。
藤間静波は畑真輝子さんにストーカーを始めた
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年が明けて1982年に入っても、畑真輝子さんの自宅や高校に何度も電話をかけて、藤間静波はストーカー行為をし続けました。
そして、熱海後楽園に行った時のデート代を全て返せと言い始め、両親にもお金を返すように言い始めました。
電話を受けた畑真輝子さんの父親で当時会社員の畑光治さん(当時46歳)は、藤間静波の話を真に受けることなく、お金を払うことはしませんでした。
これに怒りを爆発させた藤間静波は、21時頃に畑真輝子さんの自宅に押し掛け、玄関先で畑真輝子さんと口論となります。
父親が光治さんが見かねて間に入り、デート代として要求されていた3000円を藤間静波に渡し、帰るように諭しました。
この時は身を引いた藤間静波でしたが、その後も真輝子さんに対してお金を返すように迫ったり、交際するように迫るなど、相変わらずストーカー行為を繰り返しました。
通報をきっかけに畑真輝子さん一家への殺意が芽生えた
1982年4月頃になると、藤間静波は少年院時代の仲間などを誘い、畑真輝子さんの自宅に無言電話をかけるようになりました。
畑真輝子さんが自分に振り向かないことを悟った藤間静波は、畑真輝子さんの殺害を考え、犯行に使うための文化包丁や操り小刀などを万引きするなど準備を始めます。
5月8日、真輝子さんの自宅に押しかけた藤間静波は金を返せと騒ぎ続けたため、父親の光治さんはたまらずに警察に通報しました。
警察に通報されたことに気づいた藤間静波はその場から逃走しますが、これがきっかけで家族全員の殺害を決意します。
同月24日の深夜に、藤間静波は新宿歌舞伎町のゲームセンターを出たところで、少年院仲間で施設から脱走してきたという岸純太郎(当時19歳)と偶然出会いました。
岸純太郎から犯罪で食べていくことを提案された藤間静波は、その日以降一緒に行動するようになっています。
藤間静波は岸純太郎と共に畑真輝子さんの自宅を襲撃
1982年5月26日、藤間静波が畑真輝子さんとその家族を殺害する計画を岸純太郎に話したところ、岸純太郎はこの計画に賛同しました。
翌27日の20時頃、顔を知られていない岸純太郎に新聞屋を名乗らせて玄関のベルを押させます。
実はこの日の昼、たまたま本物の新聞屋が集金のために畑家を訪れていて、その時に母親が不在で新聞代を払いそびれていたことから、疑うことなく玄関のドアを開けてしまったようです。
玄関ドアが開くと、藤間静波と岸純太郎は打ち合わせ通りに家の中になだれ込み、玄関を施錠した上で、包丁と操り小刀を使って電話回線を切断しました。
そして藤間静波と岸純太郎は、真輝子さんと母親、妹を凶器を使って刺し殺しました。
なお、父親の光治さんは事件発生当時は不在で、犯行時刻から30分ほど後に帰宅して畑真輝子さんら3人の遺体を発見しています。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の詳細③ 第3の事件「岸純太郎殺害事件」
藤間静波と岸純太郎は、畑真輝子さんら3人を殺害した後、タクシーで藤間静波の実家へ向かいます。
さらに、犯行前に置いておいたバイクを回収し、着替え直してから電車で逃走しました。
2人は犯行時に着ていた衣類を大阪や兵庫で処分しながら、5月29日に博多駅へ到着しています。
福岡市内に潜伏した2人は、事前にひったくりなどで得ていた逃走資金30万円を使って、旅館や深夜営業のポルノ映画館で過ごしたりしたようです。
裏切られるのを警戒して、岸純太郎を殺害
藤間静波は岸純太郎と一緒に逃走しながらも、以前殺害した平山勝美と同様、裏切られて警察に自首されるのを警戒して、岸純太郎を殺害する機会を見計らっていました。
しかし、福岡市内に潜伏中はそのチャンスが無かったようです。
その後、6月5日に藤間静波は岸純太郎とともに関西に戻り、さらに阪神梅田駅から兵庫県尼崎方面に移動しました。
そして、強盗に入る家を物色すると岸純太郎に嘘をつき、手頃なマンションに入り、屋上に続く階段の踊り場で、突然岸純太郎に襲いかかって操り小刀を突き刺します。
驚いた岸純太郎は、慌てて階段を駆け下りて逃げようとしましたが、重傷を負っているため藤間静波に追いつかれてしまい、さらに背中や脇腹を刺されて殺害されてしまいました。
犯行時刻は21時頃で、21時45分頃にマンションの住人が岸純太郎が倒れているのを発見し、警察に通報しています。
しかし、25か所も刺されていたことから、岸純太郎は出血多量で既に死亡していました。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波が逮捕されたきっかけ
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」のうち、第2と第3の事件の現場の状況がよく似ていたことから、同一犯の見立てで、合同捜査本部が置かれました。
藤間静波はタクシーを使って6日に名古屋市へと逃走、7日には静岡市へ電車で移動して東京駅で降りました。
8日になると、藤間静波は池袋西口公園で手配師に声をかけられた縁で、埼玉県大宮市三橋町の建設現場で働きながら、作業員宿舎に身を寄せました。
藤間静波は潜伏している間、警察の捜査状況や金策のために、両親や少年院時代の仲間に電話を度々しています。
これが仇となり、少年院時代の仲間の1人が警察に通報したため、警察は特別捜査班を埼玉県全域に送り、徹底的に藤間静波の潜伏先を洗いました。
そして、藤間静波が潜伏していた作業員宿舎のすぐ近くにある菓子店で、藤間静波によく似た男が度々訪れていることを突き止めた警察は、張り込みをスタート。
6月14日15時35分頃、張り込まれていることを知らない藤間静波は、無防備に菓子店を訪れたところを、警察によって脅迫容疑で別件逮捕されました。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の裁判と判決
1988年3月10日、第1審裁判が横浜地裁で行われ、藤間静波は死刑判決を受けました。
藤間静波側は東京高裁に控訴しましたが、藤間静波が精神不安に陥って控訴を取り下げたため、その有効性が最高裁まで争われることとなりました。
この結果、実に控訴審判決まで12年近く、 2004年に死刑が確定するまで16年の歳月を要する長期裁判となっています。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の顔写真が話題に
藤間静波と言えば、当時逮捕された後の護送車の中で、カメラに向かってVサインをする姿が話題になりました。
藤間静波は、現場検証に立ち会う際や裁判などでも度々Vサインを見せており、罪を犯したことをまるで意に介していないような素振りで、被害者遺族の感情を逆なでしています。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の家族(父親・母親)とは
藤間静波の父親について
藤間静波の父親は、1926年10月7日生まれで、平塚市西北部の神奈川県中郡の金目村にて藤間家の長男として誕生しました。
藤間家は豪農で商店の経営をしていたため比較的裕福でしたが、妻(藤間静波の母)と結婚した後は妻と実家の折り合いが悪かったため、実家を出て平塚市内にアパートを借りています。
父親は親戚の会社でしばらく働いていましたが、そのうちパチンコや競輪などのギャンブルにはまるようになって借金がかさみ、妻が金を出し渋ると暴力を振るうようになりました。
しかし、父親は子供嫌いではなかったため、藤間静波は幼少期に可愛がられていたようです。
例えば、藤間静波が小学2年生の頃、小学校のジャングルジムから落ちて大怪我をしたことがありましたが、父親は寝ずに看病をしくれたとのこと。
藤間静波が少年院に入った時に「これまでに最も嬉しかった事」を聞かれて、このエピソードを挙げていたと言われています。
しかし、荒れた家庭内で育った藤間静波も次第に暴力的になっていき、中学卒業の頃には父親も腕力で息子に勝てなくなったため、藤間静波の家庭内暴力はエスカレートしていきました。
藤間静波の母親について
藤間静波の母親は、1930年3月21日に富山県富岡市で生まれました。
当時としては行くのが難しかった高等女学校を卒業したとされていますので、 藤間静波の母親は比較的教養の高い女性だとされています。
1955年9月の25歳の頃に母親は神奈川県平塚市へ移住して、当時実家が経営していた自転車店で働いていた藤間静波の父親と知り合い、1957年12月12日に結婚しました。
この時、2人の結婚に父親の実家家族は反対していたようです。
親戚の証言によれば、藤間静波の母親はとても気が強い性格だったようで、そのことが農家である父親の実家家族とうまくいかなかった原因のようです。
31歳で第1子となる藤間静波が誕生。「静波」という名前の由来は古典文学と言われていますので、母親の教養の高さがうかがえます。
しかし、藤間静波の妹が生まれると、母親は妹の世話につきっきりになり、藤間静波の教育は全て父親に任せるという取り決めがされたようです。
藤間静波の母親は虐待していた
藤間静波が小学2年生に上がった頃、藤間静波が寝ている妹を起こすことに腹を立てた母親は、藤間静波を縛って押し入れに閉じ込めるなどの虐待をしていました。
次第に精神が歪んでいった藤間静波は、学校の同級生とトラブルを起こすようになり、それが原因でいじめられるようになりました。
いじめられていることを聞きつけた母親は、元々は藤間静波に非があることに全く聞く耳を持たず、すぐに学校に駆けつけて猛抗議していたようです。
こうした母親の態度に、藤間静波は何をしても母親が守ってくれると勘違いしたのか、態度が増長して行き、小学4年生の時には同級生の女児の頬に鉛筆を突き刺す事件を起こしています。
それまでは盾になってくれていた母親も、この事件をきっかけに藤間静波の言うことを信じなくなって突き放すようになりました。
その後藤間静波のトラブルでどんな苦情が入っても、「煮るなり焼くなり好きにしてください」と全く愛情を感じない対応になっていきます。
この母親の極端で無責任すぎる性格が、藤間静波の精神をさらに歪ませる結果となり、手のつけられないトラブルメーカーとなっていったことは言うまでもありません。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の生い立ちとは
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藤間静波は1960年8月21日、神奈川県茅ヶ崎市内の病院で生まれました。
その後は平塚市内に転居しましたが、前述のように妹が生まれた後は両親が妹ばかりを溺愛するため、藤間静波は次第にひねくれていきました。
横浜地検の冒頭陳述書によれば、 藤間静波は幼少期から姓の読みをもじった蔑称でいじめられており、「大きくなったら徹底した悪になりひねくれてやる」と固く決意していたそうです。
また、幼少期から強者には弱く、弱者には強い性格だったと言われています。
藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人・藤間静波の現在
藤間静波は死刑判決が確定した後、東京拘置所の独居房に収監されていました。
子供時代には藤間静波の教育を半ば放棄していた母親でしたが、唯一面会に訪れたと言われています。
藤間静波は逮捕から26年間も独居房に収監されていたことから、裁判中から精神不安となり、次第に痩せ衰えて、自分の足でも立つことができなくなっていったと言われています。
そして、死刑確定から3年後となる2007年12月7日に死刑が執行されました。享年47歳でした。
藤間静波が死刑直前、どんな最期の言葉を残したのかは不明です。
まとめ
1981年10月6日~1982年6月5日までに起きた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」は、犯人・藤間静波によって5人が殺害された連続殺人事件です。
藤間静波が凶悪殺人犯になった背景には、ギャンブル狂いでDVを働く父と、極端で過保護な教育を行い、手がつけられなくなると放棄というゆがんだ性格の母親の存在があったと言えます。
藤間静波の生い立ちを知ると、同情の余地も無くはないですが、だからといって身勝手に5人も殺害した罪が消えるわけではありません。
最後に、「藤沢市母娘ら5人殺害事件」で亡くなった5人の方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。