宝塚歌劇団の黒歴史の1つである「宝塚胴体切断事故」ですが、被害者となった香月弘美さんは代役を務めたせいで事故に巻き込まれてしまいました。
この記事では、香月弘美さんが死亡した「宝塚胴体切断事故」の原因と真相など詳細情報、その後の対応、そして墓や慰霊碑についてまとめてみました。
この記事の目次
香月弘美が死亡した「宝塚胴体切断事故」とは
「宝塚胴体切断事故」とは、1958年に「宝塚歌劇団」で起こった舞台公演中の死亡事故となります。
衝撃的な事故だった一方で、故人の尊厳を守るためにテレビや雑誌で振り返られる機会も少なかったこともあり、芸能史から封印される形となった「宝塚胴体切断事故」ですが、ネット社会化の影響もあり近年は注目を集めています。
今まで見聞きした死亡事故・事件で特に悲惨だった案件
— 廣嶋🗾 (@hiroshima_kobe) August 17, 2020
1.八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故
2.三毛別羆事件
3.エキスポランドジェットコースター脱輪事故
4.宝塚女優胴体切断事故
この記事では、「宝塚胴体切断事故」の被害者・香月弘美さんの経歴や事故の詳細について紹介させて頂きます。
香月弘美の経歴…お嬢様育ちだった
香月弘美(かつき ひろみ)
生年月日:1936年8月21日
出身地:神奈川県藤沢市
香月弘美、宝塚入りのきっかけは同級生の松島三那子だった
香月弘美さんに関しては、本名は小笠原弘恵といい、湘南白百合学園に小学部から通うようなお嬢様育ちだったそうで、実家は東京都墨田区内で工場を営んでいたと言われております。
そんな香月さんが宝塚歌劇団を目指したきっかけについては、同級生の松島三那子さんが中学を卒業後に宝塚音楽学校に進学したことに刺激を受けたそうですね。
その後、高校在学中に受験倍率が数十倍とも言われている宝塚音楽学校を受験することとなった香月さんですが、幼少期より日舞を習っていたこともあり、難関を突破することが出来ました。
宝塚音楽学校では51人中17位と平均よりはちょっと上の成績だった香月さんは、1954年に「宝塚歌劇団41期生」の一員として宝塚歌劇団月組に入団し、娘役を任されることになりました。
ちなみに、「宝塚歌劇団41期生」には、後に政治家に転身して国土交通大臣や運輸大臣を歴任した扇千景さんもいたそうですね。
香月弘美「宝塚胴体切断事故」の詳細と真相…設備の古さが原因だった
宝塚胴体切断事故、セリで降下中の事故が原因で香月弘美が死亡した
「宝塚胴体切断事故」に関しては、1958年4月1日に旧宝塚大劇場にて開催された宝塚歌劇団花組公演「花の中の子供たち」の舞台上で起こりました。
当初は「花の中の子供たち」に参加する予定はなかった香月弘美さんでしたが、日夏有里さんが公演期間中に風邪をひいた影響により、前日から代役で舞台に出演していました。
そんな香月さんが「宝塚胴体切断事故」に巻き込まれた理由については、場面転換のためにセリ(役者や大道具用の昇降装置)に乗り奈落へ降下した際のアクシデントが原因でした。
役柄の都合上、円形スカート状のドレスを着用していた香月さんは、スカートの裾がセリの脇にある駆動シャフトに巻き込まれてしまったそうですね。
本来ならば、スカートをねじ切って難を逃れられる場面でしたが、スチーム製ベルトを使用した衣装を着用していたことが裏目に出てしまい、香川さんは胴体が切断され即死する憂き目となりました。
香月の衣装ドレスにはすそを広げるための幅2センチ、厚さ1ミリのスチールベルトが腰まわり、ひざ、すその三カ所にそれぞれ直径約60センチ、70センチ、1メートルの輪になって取り付けられていた。衣装ドレスの裾がセリのシャフトに巻き込まれたため、セリ台のワクの鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ、腰まわりのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、身体が真っ二つに切断され即死してしまったのである。
引用:香月弘美
宝塚胴体切断事故、事故の原因は設備の古さだった
「宝塚胴体切断事故」の被害者となってしまった香月弘美さんですが、事故の原因については本人の不注意というわけではなかったようですね。
事故現場となったセリは、1924年製という古さもあり、両脇にあるらせん状の駆動シャフトの間を昇降する曰くつきの代物でした。
その他、セリ自体も縦1m横3m程度の面積しかなかったため、西洋貴族のような円状スカートを着用しなければならない娘役の面々にとっては、衣装が駆動シャフトに巻き込まれて事故にならないかと不安を覚える日々だったとか。
実際の話、事故後調査に当たった兵庫労働局西宮労働基準監督署は、香月さんを労災被害者に認定したうえで、剥き出しの駆動シャフトが事故の原因と結論づけ、設備を改善するまでの間、旧式のセリを使用することを禁止しています。
宝塚胴体切断事故、偶然という名の不運も重なっていた
「宝塚胴体切断事故」では、旧宝塚大劇場の設備の古さの他にいくつかの不運が重なったことも悲劇的な結末を迎えた原因となっていたようですね。
急遽代役を務めたこともあり、香月弘美さんが「花の中の子供たち」出演時に着用していた衣装は、本人のサイズより大きめな日夏有里さん用に仕立てた代物だったそうで、普段よりも駆動シャフトに巻き込まれやすい状況にありました。
その他にも、香月さんの胴体切断原因となったスチーム製ベルトについても本公演で初めて導入されたものだったそうで、以前までは竹製のベルトを使用していたと言われております。
そのため、兵庫労働局西宮労働基準監督署より、スカートが駆動シャフトに巻き込まれた場合でも自力で切れるベルトを使用するようにとの指導が入っています。
香月弘美「宝塚胴体切断事故」のその後…事故翌日から公演が再開されていた
宝塚胴体切断事故、事故翌日から公演が再開されていた
「宝塚胴体切断事故」後の宝塚歌劇団の対応に関しては、事故翌日には「花の中の子供たち」の公演が再開しています。
この辺の事情については、「花の中の子供たち」は1か月近い公演予定を残していたため、中止によるチケット払い戻しの負担を避けたかった大人の事情があったのかもしれませんね。
とはいえ、「宝塚胴体切断事故」では、兵庫県警宝塚警察署の取り調べの結果、宝塚歌劇団側の責任者に業務上過失致死傷罪で罰金5万円(現在の貨幣価値で80万円相当)の処分が下っていることを踏まえると、現在ならば大バッシングを浴びそうな判断と言えます。
宝塚胴体切断事故、目撃者・松島三那子は干されていた?
香月弘美さんにとって生涯最後の舞台となった「花の中の子供たち」では、香月さんの宝塚入りのきっかけとなった松島三那子さんが恋人役を演じている偶然もありました。
そのため、事故時に香月さんと一緒にセリに乗っていた松島さんですが、男役だったためスカートではなくズボンを履いていたことが功を奏し、衣装が駆動シャフトに巻き込まれることはありませんでした。
しかしながら、香月さんの死亡の瞬間はがっつりと目撃してしまったそうで、ショックのあまり数日間ほど行方知れずとなってしまったとか。
松島はこの日、セリより飛び降りて三歩ぐらい走った時、背後で「ヤメテー」という叫びがしたのと同時にバリバリという音、何かが飛び散る音がしたのを聞いた。驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえた。この間一秒程度であった。
引用:香月弘美
その後職場復帰し、1959年には北米公演にまで参加している松島さんでしたが、1960年9月に出版した「ヅカむすめのアメリカ日記」という本で「宝塚胴体切断事故」を回想した後は活動が停滞しており、1962年に宝塚歌劇団を退団しています。
そのため、松島さんには、「宝塚胴体切断事故」について公の場で触れたことで、宝塚歌劇団幹部の顰蹙を買い干されてしまったのではないかとの噂も存するようです。
とはいえ、実際の宝塚歌劇団では、1992年に旧宝塚大劇場が取り壊されるまでの間、毎年4月1日になると事故現場となったセリに献花をして香月さんを慰霊していたため、「宝塚胴体切断事故」を黒歴史扱いしているわけではないとか。
松島さんが若くして宝塚歌劇団からフェードアウトした原因に関しては、凄惨な事故現場を目撃したことでPTSDなどを発症してしまったのかもしれませんね。
香月弘美のお墓はどこにある?…慰霊碑も存在した
「宝塚胴体切断事故」後の香月弘美さんに関しては、現在のように交通網が発達した時代ではなかったことも手伝い、1958年4月3日に下宿先で密葬が営まれたそうですね。
その後の香月さんは、宝塚音楽学校内の講堂で行われた劇団葬後に荼毘に付され、ようやく実家に戻ることが出来ました。
当然ながら香月さんの実家の方でも葬儀は営まれたようで、宝塚歌劇団からは380人もの関係者が参列したと言われております。
葬儀後の香月さんの遺骨については、東京都足立区にある東岳寺の墓地内に眠っています。
また、宝塚音楽学校内にも慰霊碑が設置されていた時代もあり、毎年4月1日になると在校生による献花が恒例行事となっていたそうですが、1998年に校舎を移転して以降は、新校舎駐車場の一角に安置される程度の扱いに留まっているそうですね。
香月弘美「宝塚胴体切断事故」についてまとめてみると…
「宝塚胴体切断事故」に関しては、旧宝塚大劇場の設備の古さが原因で起こってしまった事故ということになります。
亡くなった香月弘美さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。