天台宗の尼僧で、小説家としても知られていた瀬戸内寂聴さんは、若い頃は波乱万丈な人生を歩み、「クズ」と呼ぶ厳しい声も聞かれていました。
今回は瀬戸内寂聴さんの本名や若い頃、結婚と離婚した元旦那や子供(娘)、そして死去した現在などについてまとめました。
この記事の目次
瀬戸内寂聴の本名などプロフィールと生い立ち
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瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)
出生名:瀬戸内晴美(せとうち はるみ)
生年月日:1922年5月15日
出身:徳島県徳島市
瀬戸内寂聴、出生名は瀬戸内晴美
瀬戸内寂聴さんは徳島県徳島市に生まれ、「晴美」と名付けられました。
出家した際に戸籍上の氏名も瀬戸内寂聴に変更したため、本名も瀬戸内寂聴ということになりますが、それまでは瀬戸内晴美という名で生きてきました。
瀬戸内寂聴さんが生まれた1922年は大正時代。西洋のものがどんどん入ってくる大正ロマンと呼ばれる時代でした。仏壇店を営む父と母の元に生まれ、5歳上の姉がいたそうです。
姉の影響でよく本を読んで過ごし、友人もあまりいなかったため一人遊びをしていたことで想像力が養われたと言います。
瀬戸内寂聴、女子大生の時に9歳年上の男性と見合い結婚
瀬戸内寂聴さんは女学校を卒業後、東京女子大に進学。とても成績優秀な瀬戸内さんでしたが、それでも当時は女子大に進学するというのはとても難しいことでした。
なんとか進学を果たし、大学3年の頃に9歳年上の男性と見合い結婚をしました。翌年には第一子となる女児を出産し、その後は旦那の仕事のために北京に同行。
ちょうど第二次世界大戦中で、中国にいた瀬戸内さんは空襲を経験せずに済み、終戦後は強制送還されました。
戦後は徳島で夫と娘と3人で暮らしていましたが、1950年に離婚し、小学生の頃の夢であった作家を志すようになります。
1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮雑誌同人賞を受賞、1963年には「夏の終わり」で女流文学賞を受賞し、人気作家として知られるようになりました。
瀬戸内寂聴が「クズ」と呼ばれる理由…若い頃の不倫で旦那と娘を捨てる
瀬戸内寂聴、旦那の教え子との不倫で家族を捨て京都へ
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尼僧として、深みのあるお言葉を説き、たくさんの人々の心を救っていた瀬戸内寂聴さんですが、出家する前の若い頃は波乱万丈で破天荒な生き方をしていました。
瀬戸内寂聴さんは1950年に旦那と離婚したと先述しました。この離婚は瀬戸内さんの不倫が原因でした。
戦後、徳島県で家族3人で暮らしていた瀬戸内さんでしたが、25歳の頃に夫の教え子である21歳の青年と恋に落ちてしまいます。
旦那と娘のいる身でありながらその青年と深い関係になってしまった瀬戸内さんは、罪悪感からついに不倫の事実を旦那に打ち明けてしまいます。これに激怒した旦那は、2人の中を引き裂くために東京に引越しを決断しました。
携帯電話がある時代でもないですから、2度と会うことはない状況に立たされ、このまま彼を忘れることができれば良かったのですが、瀬戸内さんは離れ離れになったことでより一層その青年への想いを募らせました。
青年への気持ちを抑えられなくなり、瀬戸内さんはついに旦那と当時3歳だった娘を置いて青年に会うため京都に渡ったのです。
この過去については、瀬戸内寂聴さん本人がテレビや著書などでも明かしており、これを知った視聴者からは「クズ」などとバッシングを受けることもありました。
若さゆえの破天荒な生き方なのかもしれませんが、昔であっても今であっても許されることではありません。
娘を一緒に連れて出られなかったのは、経済的に自立していなかったことが理由だったようですが、それについては長い間後悔の念に駆られたと言います。
それでも、恋焦がれどうしても忘れられなかった青年のもとへ渡った瀬戸内寂聴さんは親からも勘当されたった1人で、その青年と生きることを選んだのです。
しかし、京都でその青年と再会を果たしたものの、旦那と幼い娘を捨ててまで自分を選んだ瀬戸内さんの思いがあまりに重すぎて青年はあっさりと破局。
悲劇はこれだけでは止まらず、その青年はその後事業に失敗したことを理由に自殺したと言います。
瀬戸内寂聴、作家・井上光晴との7年間に及ぶ不倫
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青年との不倫により旦那と娘を捨て、最終的には青年との恋もあっけなく終わってしまった瀬戸内寂聴さんですが、その後、再びある男性と不倫関係になります。
そのお相手は、直木賞作家・井上荒野さんの父・井上光晴さんでした。
瀬戸内さんは彼との関係を終わらせるために出家したと語っていて、2人の不倫関係は7年にも及んだと言います。
この事実は、娘の井上荒野さんが書いた「あちらにいる鬼」で明かされていて、荒野さんから見れば実の父親と母親、そして愛人である瀬戸内寂聴さんとの赤裸々な三角関係を描いています。
この作品を書くために、荒野さんは何度も京都にある瀬戸内さんの自宅・寂庵を訪れたと言います。
本来であればあり得ないことですが、瀬戸内さんは井上荒野さんと良い関係を築き、そして井上光晴さんが亡くなった後には妻とも仲良くしていたそうです。
「あちらにいる鬼」で明かされた内容によれば、瀬戸内さんと井上光晴さんが不倫関係なったのは、井上荒野さんが5歳の頃からでした。
7年にも及ぶ不倫でしたが、娘である荒野さんはその関係について全く気づかなかったと言い、それは家で両親が女関係のことで言い争ったり、母が父を責め立てるような場面も一度もなかったからだそうです。
井上光晴さんは、とても女性からモテたと言い、瀬戸内さん以外にも様々な女性と関係がありました。
文才に溢れ、本当に素晴らしい作品を世に送り出してきた作家さんですが、どこか「放って置けない」ところがあるらしく、瀬戸内さんもそんな井上光晴さんに惹かれていったようです。
井上光晴さんの奥様はとっても美人で、井上さんも奥様を自慢して回るほどだったと言いますが、愛人がいることを知りながら奥様は一度だって井上光晴さんを責めたり、怒ったりはしませんでした。
そして、愛人であった瀬戸内寂聴さんもまた、深く井上光晴さんを愛していましたが、決して「奥さんと別れて」などと口にせず、長く愛人として連れ添いました。
瀬戸内寂聴、作家・井上光晴との不倫関係を断つために出家
ある日、瀬戸内さんは井上さんとの長い不倫関係を終わらせるために「出家しようかな」と漏らしました。
すると井上さんは「そういう手もあるな」とほっとした顔を見せたそうで、瀬戸内さんはその顔を見て、「あぁ、それしかないな」と思ったそうです。
中尊寺で出家する日、奥さんは井上さんに「行ってやれ」と言ったそうで、井上さんが駆けつけてくれたそうですが、その日から男と女ではなくなったと瀬戸内さんは語っています。
「行ってやれ」と言える妻の懐の大きさと、不思議な三角関係は、きっと井上光晴さんという男性を愛した2人の女性の間に「同士」のような思いが生まれていたからなのかもしれませんね。
当時、井上さんは美人で料理上手な奥様を自慢したいがために、瀬戸内さんを家に招いて奥様の手料理を食べさせたり、瀬戸内さんの着物を見て「妻に似合いそうだ」と言って、奥さんにプレゼントするなど、普通では考えられない行動ばかり。
愛人という立場で考えると耐えがたい話のはずですが、きっと本当に愛が深くなると、「愛する人の愛したもの」は全て愛おしく思えるのかもしれません。
だからこそ、瀬戸内寂聴さんと井上光晴さんの奥様は分かり合える親友のような関係を築くことができたのでしょうか。
結婚しているのに夫と子供を捨てて不倫した挙句、その相手と駆け落ちした瀬戸内寂聴を絶賛しているマスコミなんだから。あんなん人間のクズだよ
— いしかわ えいじ (@eiji_ishikawa) July 27, 2017
瀬戸内寂聴と子供の関係…3歳で捨てた娘とは和解
瀬戸内寂聴さんが、不倫相手の青年のもとへ渡った当時、娘さんはたったの3歳でした。最愛の母親が自分の前から消えた娘さんにとって、母親という存在は憎しみの対象だったかもしれません。
瀬戸内さんの元旦那は、残された娘に「お母さんは死んだ」と伝えて育てたと言います。それが、娘にとって一番傷が浅く済むと考えたのでしょう。
最愛の母は死んだと思って生きてきた娘さんでしたが、自身が結婚する時になって、母親である瀬戸内寂聴さんから嫁入り道具一式が届いたと言います。
自分を置いて家を出た母親からの今更すぎる贈り物に、娘さんは全て送り返したそうです。
瀬戸内さんは嫁入り道具が送り返されたことに深く傷つきましたが、仕方のないことであるとも思いました。
自分は死んだものとされている、それなのにいまさら母親ヅラをされても娘さんが受け入れられないのは当然です。
しかし互いに歳を重ねた2人は和解したと言います。
瀬戸内さんが出家して数年後、長い絶縁状態だった親子は再会を果たし、その時には娘さんはすでに出産し、瀬戸内さんはお孫さんにも会うことができたそうです。
瀬戸内寂聴の現在…99歳で心不全により亡くなる
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波乱万丈な人生を歩んできた瀬戸内寂聴さんですがが、2021年11月9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなられました。99歳でした。
瀬戸内寂聴さんは90代になってからは、腰椎の圧迫骨折や胆のうがんの手術などが相次いだものの、メディアに出演した際にはお肉を食べたり飲酒したりと、豪快で元気な姿を見せていました。
しかし、2021年10月に肺炎で入院。一度は退院したものの再び体調を崩し、病院で療養していたとのことです。
親族や秘書に見守れながら99年間の激動の人生に幕を閉じた瀬戸内寂聴さん。生前、瀬戸内寂聴さんを慕い救われてきた人たちからは、その死を悼む多くの声が聞かれました。
瀬戸内寂聴の名言・格言…不倫は究極の愛とも語る
壮絶な人生を駆け抜け、尼僧として様々な場所に赴いて、若者たちに向けていろんなお話をしていた瀬戸内寂聴さん。その中で筆者が特に心に残ったものをご紹介します。
瀬戸内寂聴の恋愛の名言・格言
「恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。」
瀬戸内寂聴さんは、自身が情熱的に、自分の感情に正直に恋愛してきたことで、失ったものもたくさんあり後悔の念もありました。
しかしそのような経験を通じて、若者たちに対して積極的に恋愛をするようにと説いています。
これは賛否両論あるかもしれませんが、瀬戸内寂聴さんは「不倫でもなんでもいい」とまで言っていて、若いうちにたくさんの恋愛をして、本気で誰かを好きになることが人生を豊かにすると考えていたのです。
瀬戸内さんならではの、深い思いが伝わるのが、「恋を失ったことのない人はもっと不幸」という言葉。また、世間では許されることのない「不倫」は、瀬戸内さんから言わせれば「究極の愛」なんだとか。
世間一般で言う「幸せ」を諦めてでも、一緒にいたいと思えることは、辛く苦しいのと同じだけの幸せがあったのかもしれません。だからこそ、夫と幼い娘を捨てでも手に入れたかったのかもしれません。
瀬戸内さんの思いが、現代の恋愛に消極的な若者たちに響くといいですね。
寂聴マジでクズ RT @areyoume17: 不倫している人のお悩み相談に対する瀬戸内寂聴さんのアドバイス、明快でとてもよい pic.twitter.com/qGIDJtC364
— にこごり (@nico_golli) December 14, 2015
瀬智内寂聴の人生の名言・名言
「自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。」
瀬戸内寂聴さんは「人は誰しもが孤独である」と説いていました。生まれてくる時も死ぬ時も「孤独」なのだと。
だからこそ自分らしく、自分の思いを大切に生きるべきなのだと伝えています。
瀬戸内さんは常に、なにかを「失った」ときに「気づき」、そしての気づきが人を成長させると考えていました。
自分は「孤独」である、そう気づいて初めて誰かを求め、誰かを心から愛することができるという、常に矛盾を抱えているのが人間なのでしょう。
瀬戸内寂聴さんは、あれで随分マシになったので、「仏門に入っても何の役にも立たない」ではなく、明らかに人間のクズだったが仏門に入ってあそこまでマシになったという肯定的な評価がされるべき。
— 総統 (@soutou_d) October 7, 2016
瀬戸内寂聴についてまとめると…
・瀬戸内寂聴は大学3年の時に結婚するも、旦那の教え子と不倫関係となり旦那と娘を捨てて京都にに渡った
・瀬戸内寂聴は作家の井上光晴と不倫関係となり、関係を断ち切るために出家した
・瀬戸内寂聴は3歳で捨てた娘とは和解している
・瀬戸内寂聴の若い頃の破天荒人生にネット上では「クズ」呼ばわりする声も
・瀬戸内寂聴は2021年に心不全のため亡くなった
尼僧として、多くの人々の心を豊かにし救いの言葉をかけられてきた瀬戸内寂聴さん。
しかし出家する前には夫と娘を捨て不倫相手に走った過去や、妻子ある男性と長い不倫関係を持っていた過去など、若い頃は壮絶で破天荒な人生を歩んできました。
99歳で惜しまれながら亡くなった瀬戸内寂聴さんですが、その生き様や数々の名言は人々の心に残り続けることでしょう。