1990年代にトリプルアクセルでフィギュアスケートブームを巻き起こした伊藤みどりさん。
この記事では、伊藤みどりさんの栄光の現役時代、結婚歴と離婚歴や旦那と子供、そして現在の情報などに関してまとめてみました。
この記事の目次
伊藤みどりのプロフィール&生い立ち
名前:伊藤みどり(いとう みどり)
生年月日:1969年8月13日
出身地:愛知県名古屋市
最終学歴:東海学園女子短期大学
身長:145cm
伊藤みどり、5歳で山田満知子に見出されフィギュアスケートの道に
伊藤みどりさんが、師でもあり母親代わりでもあった山田満知子さんと出会ったのは、5歳の時でした。
両親に連れられてたまたま名古屋市内のスケートリンクに遊びに来ていた伊藤さんは、同じリンク内でスケート教室を開いていた山田さんに滑りを見初められ、スカウトを受けることになりました。
その後は順調に才能を開花させていった伊藤さんでしたが、小学1年時に両親が離婚して母親に引き取られたことで、家庭環境が一変することとなります。
ただですら経済的に苦しいシングルマザー家庭の上、子供を3人共引き取った伊藤家では、お金のかかるフィギュアスケートのレッスンを続けることは困難な状況に陥ってしまいました。
本来ならば、フィギュアスケートは小学の途中で引退となっていた伊藤さんでしたが、才能を惜しんだ山田さんが母親を説得し、10歳の頃から山田家に同居してレッスンを続けることになりました。
伊藤みどりの経歴…山田満知子と二人三脚で世界を目指した
伊藤みどり、小学5年生で全日本選手権3位に輝く
山田家に同居して以降の伊藤みどりさんですが、元々あった天才特有のむらっ気に加えて、ちょうど思春期が始まってくる難しさもあり、山田満知子さんも対応に苦慮したと言われております。
当時の伊藤さんの最大の問題点は、練習嫌いだったことのようですね。
そのため山田さんは、細かい技術指導よりも伊藤さんが得意な高難易度ジャンプ中心の練習に取り組ませることで、やる気を引き出す方針を取ることになりました。
そんな山田さん渾身の練習カリキュラムが功を奏したのか、伊藤さんは小学5年時の全日本選手権にて早くも表彰台(3位)に上がる快挙を達成しています。
伊藤みどりを育てた山田真知子は当時は無名のコーチだった
順調に才能を開花させていった伊藤みどりさんでしたが、1980年代当時の日本フィギュア界では、名古屋よりも東京拠点の選手が圧倒的に成績を残していたという時代背景もあり、日本スケート連盟としては伊藤さんを上京させたい意向があったようですね。
後に浅田真央さんや宇野昌磨さんといった五輪メダリストたちを育て上げることとなった名伯楽の山田満知子さんも、当時は実績もない無名コーチでした。
今でこそ名古屋はフィギュアスケートのメッカのように言われますが、私がコーチになった頃は東京の選手たちには全く敵わない。私もまったく無名のコーチの一人にすぎませんでしたと、山田は当時を振り返った。
そのため、日本スケート連盟側からすると、このまま名古屋を拠点に練習していては、伊藤さんの成長が阻害されてしまうのではないかという危機感があったことになります。
伊藤さんの引き抜き話は小学時代からあったようですが、練習嫌いの伊藤さんが東京で潰れてしまう可能性を憂慮した山田さんは、日本スケート連盟からの要請を断り続けることになりました。
伊藤みどり、思春期には反抗期も経験する
中学2年時には世界Jr.選手権で3位に輝いた他、世界選手権でも7位に輝くなど、国際舞台での実績を残し始めていた伊藤みどりさんですが、その陰では反抗期を迎えていました。
伊藤みどりはもともと天真爛漫な性格の子で、思春期の頃はスケートをやめたいと頻繁に口にしていました。私自身はそんなつもりはないのですが、型にはめるような指導を嫌っていたんだと思います。「じゃ、やめる?」と聞くと、「やっぱりやる」。「ほんと?」と聞くと「うん、やる」。そんな会話を幾度交わしたことか。
伊藤さんの反抗期はその後もしばらく続くことになりましたが、一方で辛抱強く自分と向き合ってくれる山田満知子さんへの信頼は大きかったようですね。
伊藤さんには、日本スケート連盟の独断により高校からアメリカへスケート留学するプランが準備されていたものの、山田さんの元で練習を続けたかった伊藤さん本人が断っております。
その後伊藤さんは、中学3年時に早くも全日本選手権を制覇すると、以降は8連覇という圧倒的な女王ぶりを発揮することになりました。
伊藤みどりの伝説…トリプルアクセルを跳んだ世界初の女子選手
伊藤みどり、愛知県フリー選手権で世界初のトリプルアクセルを成功
伊藤みどりさんにとって初の五輪出場となったのは、1988年2月に開催されたカルガリー五輪でした。
17歳だった伊藤さんは、カルガリー五輪でのメダルこそ逃したものの、2万人の大観衆をスタンディングオペーション状態にしたFPでの演技により、当時の日本人選手の最高記録タイとなる5位入賞を果たしております。
そんな伊藤さんが、世界のフィギュアスケート史に名前を残すこととなったのが、1988年11月に行われた愛知県フリー選手権となります。
伊藤さんは同大会にて、女子選手では世界初の快挙となるトリプルアクセルを跳び、世界のフィギュア関係者の度肝を抜くことになりました。
伊藤みどり、日本人初の世界選手権優勝
1988-89年シーズンの伊藤みどりさんは、1989年2月に行われた世界選手権で日本人初となる優勝も達成しています。
この時の伊藤さんの演技は伝説に残っており、FPでは、9人の審査員中5人が技術点で満点を出すほど完璧な滑りを披露することになりました。
伊藤みどり、アルベールビル五輪で銀メダルを獲得
名実共に世界の頂点に立った伊藤さんに対しては、1992年のアルベールビル五輪の金メダル有力候補として、日本中の期待が集まっていくこととなります。
そんな周囲からの期待は伊藤さんにとっての重圧へと変わり、アルベールビル五輪のSP当日になると、過度のプレッシャーからジャンプ精度に異変が生じる事態にまで陥っております。
2月19日、ショート当日の朝練習。今まで完璧だった3回転半が突然決まらなくなる。「肩に力が入った。ジャンプする時間は1秒もない。微妙なタイミングの違いで失敗する」。重圧から絶不調に陥った。ショートプログラムの3回転半は回避。3回転ルッツへの変更を決断する。
しかしながら、伊藤さんの弱気な選択は裏目に出てしまうこととなり、SPでは変更した3回転ルッツを失敗して転倒した結果、4位と出遅れてしまいました。
続くFPでも1回目のトリプルアクセルを転倒していまい、逆転金メダルは絶望的になってしまった伊藤さんでしたが、残り1分の場面で再度トリプルアクセルに挑戦をし見事に成功した結果、銀メダルを獲得することが出来ました。
演技は後半に入る。3分すぎの5番目の3回転は、前半に失敗した3回転ルッツか3回転半か、2つの選択肢があった。「悔いは残したくない。チャンスがあるなら挑戦しよう」。瞬時の判断で3回転半に挑む。高さも回転も十分。着氷も完璧に決めて五輪史上初の快挙を達成。その後も力強い演技で会場を沸かす。
伊藤さんの銀メダルは、日本人フィギュア選手初となる五輪メダルだっただけではなく、日本女性としても冬季五輪史上2人目のメダルになるという歴史的なものでもありました。
伊藤みどり、2004年に世界フィギュアスケート殿堂入り
アルベールビル五輪後の伊藤みどりさんに関しては、1992年4月に現役を引退し、プロスケーターに転向しております。
今後の去就が注目されたが、1992年4月25日に新高輪プリンスホテルで引退記者会見を行った。引退の理由を「技術的には三回転半をクリアしたという達成感があった。一方で精神的にはプレッシャーが大きくなっていて、追いつめられたというか。これ以上頑張れないなと……区切りにしたいなと思ったんです。」と語った。今後は「楽しみながらスケートを続けたい」とコメントを残した。
引用:伊藤みどり
1995年になると、長野五輪のための目玉選手が欲しいと考えた日本スケート連盟からの要請により、一時期的に現役復帰したこともある伊藤さんですが、競技選手として戦うには既に体調面で厳しくなっていたこともあり、1996年に再度引退をしています。
その後は、日本女子フィギュア界が低迷期を迎えたこともあり、世間からは忘れられた存在となってしまった伊藤さんでしたが、2004年になると、日本人初となる世界フィギュアスケート殿堂入りを果たし、健在ぶりをアピールすることになりました。
伊藤みどりに対する海外の反応は?
伊藤みどり、規格外のトリプルアクセルに海外でも称賛の嵐
フィギュアスケートをスポーツに変えた存在とも称され、海外のフィギュア関係者から見ても個性的な存在であった伊藤みどりさんに対しては、海外メディアからも「津波ガール」や「台風ガール」などという、パワフルなニックネームがつけられていました。
伊藤さんが、アルベールビル五輪直前に米ニューズ・ウィーク誌の表紙を飾った際には、「氷上の宝石(JEWEL ON ICE)」との題がついており、その才能の輝きはアメリカ人から見ても眩しいものだったことが伺えます。
ちなみに伊藤さんのジャンプは男子選手並みの高さで飛距離も2.31m、ピーク時のジャンプの高さは約70cmだったそうです。飛距離で比較すると浅田真央さんの1.5倍といかに規格外のジャンプであったかがわかります。
現在でも伊藤さんのトリプルアクセルに称賛のコメントがたえません。
〇伊藤みどりのYouTube動画に寄せられた海外ファンたちからのコメント
「少女の頃に見た彼女の演技に対する感動は未だ忘れられません」「彼女は伝説のスケーター。彼女に並ぶジャンパーが現れることはないでしょう」
「母が彼女の大ファンでした。そしてこの動画を見た私も母と同じ気持ちになりました」
「スコット・ハミルトン、カタリナ・ヴィット、そしてミドリ・イトウ。これが私の中のベストなスケーターだ」
「ミドリ・イトウやミシェル・クワンは、フィギュアスケートを志すアジア系の希望でした」「早すぎた天才とは、ミドリ・イトウのためにある言葉だ」
「少女の頃の私は、彼女のように跳ぼうと思ってリンクに尻もちをつきました。良い思い出です」「ミドリのトリプルアクセルは、何度見ても現実離れしすぎているよ」
「私の亡くなった母は日本人だったのですが、いつもミドリの試合を誇らしげに見ていたことを今でも思い出します」
伊藤みどりの結婚・離婚歴…最初の旦那との離婚が原因でうつ病を発症
伊藤みどり、2004年にミュージカル俳優の八巻大と結婚
伊藤みどりさんは、2004年にミュージカル俳優の八巻大さんと結婚しております。
八巻さんは、1990年に「劇団四季」に入団して2004年秋に退団するまでの間、「CATS」や「マンマ・ミーア」といった有名作品に出演していた実力派俳優だったようですね。
伊藤さんと八巻さんの馴れ初めに関しては、2人の結婚自体が極秘裏に行われていたため不明となっています。
ただし、伊藤さんは婚前から「劇団四季」の大ファンであり劇場の常連でもあったため、2人の間を取り持った関係者でもいたのかもしれませんね。
伊藤みどり、旦那・八巻大とスピード離婚してうつ病を発症
八巻大さんと結婚後の伊藤みどりさんですが、実母に「もう2度と結婚をしたくない」とこぼすほど上手く行っていなかったようで、2006年頃に離婚という結末を迎えております。
2人の不仲の原因に関しては、八巻さんの舞台役者という職業を踏まえると女性問題を疑いたくなりますが、伊藤さんの離婚をスクープした週刊誌記事にそのような話題がなかったため、ただの性格面の不一致だったように思われます。
八巻さんとの結婚生活は、伊藤さんの精神に多大なダメージを与えることとなったようで、離婚後の伊藤さんはうつ病を発症してしまい、一時期は入退院を繰り返す状況にまで追いやられてしまいました。
浅田真央さんの登場により、2000年代中盤以降から再度人気競技へと復活したフィギュアスケートでしたが、レジェンド中のレジェンドである伊藤さんが、解説などの仕事で表舞台に出る機会が少なかった理由は、うつ病にあったということになります。
伊藤みどり、2009年に一般男性と再婚を発表
伊藤みどりさんの現在に関しては、うつ病も無事寛解したうえ、2009年に一般男性と再婚して福岡県に移住しております。
1992年アルベールビル五輪のフィギュアスケート女子銀メダリストで現在は解説者を務める伊藤みどりさんが、5日付の自身の公式ブログで再婚したことを明かした。「お相手は以前よりお付き合いさせていただいていた方です」と報告している。
相手は一般人のため名前や写真は非公表で「心からの笑顔で思いやりを忘れずに、一歩一歩、一日一日を大切に過ごしていきたいと思っております」と綴っている。
結婚のタイミング的に、現在の旦那さんは伊藤さんの闘病生活を支えてくれた男性なのかもしれませんね。
伊藤みどりと再婚相手との間に子供は?
再婚時の伊藤さんは40歳と既に妊娠が難しい年齢だったため、2人の間に子供などは生まれていないようですね。
現在は主婦業を最優先しており、表舞台に復帰しようという意思はないようで、テレビ出演といっても、気が向いた時にバラエティ番組などに出演する程度の活動となってしまっております。
伊藤みどりの現在…福岡での子供向けスケート教室をメインに活動中
伊藤みどり、現在は福岡で子供向けスケート教室を開催している
伊藤さんがライフワークとして取り組んでいるのが、福岡県・北九州市にある「北九州アイススケートセンター」でのスケート教室となります。
「北九州アイススケートセンター」が冬季限定営業のため、伊藤さんのスケート教室も冬季限定となってしまっておりますが、子供向けをメインに大人や選手向けのコースまで用意されている充実ぶりとなっています。
伊藤みどり、アムウェイ関係者との噂は人違いだった?
伊藤みどりさんには、マルチ商法の元祖と呼ばれている「アムウェイ」の関係者になってしまったのではないかという噂が、ネット上で流れていたこともありました。
こちらの噂の原因は、「伊藤みどり」と検索した際の検索候補に「アムウェイ」とのワードが表示されていた時期があったためとなります。
そのため、伊藤さんがあまり表舞台に顔を出さなくなったことと相まって、そちらの世界に行ってしまったのではないかと心配するファンたちがいたようですね。
しかしながら、よくよく調べてみると「アムウェイ」と関係のある「伊藤みどり」さんは、ハーフタレントの草分けとしてお馴染みなE・H・エリックさんの後妻である「伊東みどり」さんだったというオチが待っていました。
現在のピンレベルは不明ですが楠井町子さん。28年ほど前はダイヤモンド達成していらっしゃいましたがこの方のビジネス状況は興味ありますね。アムウェイ界では地味な方ですが、リーダーシップセミナー35回参加。これは中島薫、伊東みどり(エリックの後妻)、荒木一郎、有馬誠典、各氏と同じクラスタです
— 瓢六堂 hyourokudou (@hyourokudou_6) 2018年7月10日
生前のエリックさんが日本アムウェイの最高位販売員との肩書を持っていたためか、伊東みどりさんもそちらの世界でかなりの重鎮となっているとの情報があります。
ネット上の「アムウェイ」会員たちの間で、そんな「伊東みどり」さんの話題が出る際に、「伊藤みどり」と誤変換された状態で投稿されるケースが少なくなかったことが、伊藤さんの検索候補に「アムウェイ」のワードが出現してしまった真相となります。
真先さん 東さん ありがとうございました!伊藤みどりCAの話が聞けて…感動しました!ますますアムウェイにも確信を持てました☆
— 山崎 明子 (@akoyamasaki) 2011年6月23日
伊藤みどりについて総まとめすると…
・伊藤みどりは2004年にミュージカル俳優の八巻大と結婚するも2006年頃に離婚した。
・伊藤みどりは2009年に一般男性と再婚し、福岡県に移住した。
・伊藤みどりには子供はいない。
・伊藤みどりは現在、福岡県北九州市で子供向けスケート教室を開催している。
引退後は私生活の方で苦しい時期もあった伊藤みどりさんですが、現在は理解のある夫にも恵まれて、福岡県の方で幸せに暮らしているということになります。
伊藤さんが今後も幸せな夫婦生活を送れることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。