昭和の人気歌手だったフランク永井さんですが、自殺未遂騒動の末に再起不能になったことでも有名な人物となります。
この記事では、フランク永井さんの姉と嫁など家族情報や自殺未遂騒動の詳細に加えて、晩年の様子と死因についてまとめてみました。
この記事の目次
フランク永井のプロフィールやヒット曲
フランク永井(ふらんく ながい)
本名:永井清人(ながい きよと)
生年月日:1932年3月18日
出身地:宮城県大崎市
フランク永井、実家は裕福な実業家家系だった
1932年3月に宮城県大崎市に生まれたフランク永井さんに関しては、幼少期に父親が亡くなる不幸に見舞われたものの、映画館を経営する母親の元で何不自由なく育つことになりました。
少年時代より歌手志望だったフランク永井さんは、東京で働いている兄を頼って1951年に上京した後は、進駐軍のキャンプ地でトレーラー運転手やアルバイトをしながら生計を立てていたそうですね。
その後、念願が叶いアメリカ軍のクラブ歌手の仕事を手に入れたフランク永井さんですが、それに満足をすることもなく、各地の「のど自慢大会」にも出場して歌手デビューのチャンスを伺っていました。
そんなフランク永井さんは、1955年になると、出演した日本テレビの「素人のど自慢」にて年間ベストワンに選出されたことをきっかけに、歌手デビューを果たしております。
フランク永井、代表的なヒット曲は?
当初はジャズ歌手としてデビューしたフランク永井さんですが、モダンな曲調がヒットする世相ではなかったことも手伝い、先輩歌手のディック・ミネさんからのアドバイスを受け、歌謡曲を歌う流行歌手に転身しています。
そんなフランク永井さんの歌う流行曲は、後にムード歌謡と呼ばれ、数々のヒット曲を生み出すことになりました。
フランク永井の代表曲①
「有楽町で逢いましょう」
フランク永井さんにとって最初のヒット曲となったのが、1957年に発売された「有楽町で逢いましょう」となります。
有楽町そごうのキャンペーンソングだった同曲は、発売半年で50万枚を超えるヒットを記録した他、1958年に同曲をモチーフにした映画が製作されるなど一大ブ-ムを巻き起こしています。
フランク永井の代表曲②
「東京ナイト・クラブ」
フランク永井さんの代表曲には、1959年に発売された松尾和子さんとのデュエット曲「東京ナイト・クラブ」もあります。
「東京ナイト・クラブ」では、男女ボーカルが一行ずつ交互に歌う「かけ合い方式」が導入されており、デュエット曲の雛型を作った曲としても有名です。
フランク永井の代表曲③
「君恋し」
フランク永井さんの代表曲には、1961年に発売された「君恋し」もあったりします。
元々は戦前のヒット曲のカバーという形だった「君恋し」ですが、「第3回日本レコード大賞」でグランプリに輝くなど、フランク永井さんにキャリアの絶頂期をもたらすことになりました。
フランク永井、紅白歌合戦に26年連続出場していた
フランク永井さんに関しては、1957年に紅白歌合戦に初出場して以来、26年連続で同番組への出場を果たすなど、まさに昭和を象徴する歌手の1人となりました。
日本芸能界がアジアで光り輝いていた時代の人気歌手ということで、海外公演のオファーも多かったというフランク永井さんは、1968年には、戦後初めて韓国でコンサートを開催した日本人歌手といった栄冠も手にしました。
そんな大御所歌手だったフランク永井さんでしたが、晩年はジャズのスタンダードナンバーに挑戦したり、山下達郎さんと組んで「WOMAN」というシングルをリリースするなど、意欲的な音楽活動が続いた人物としてもお馴染みです。
#musicj
— 気まま水星人 (@kmm_mercury) June 9, 2020
あれま!フランク永井さんのwoman✨
何だかとても求めてる系が続き、テンションが上がる⤴️
この曲はお酒のCMかなんかで聴いて、良いなと思って。
フランク永井さんの低音しびれますなぁ〜☺️
フランク永井さんの拘りのある音楽活動は、音楽メディアからも評価が高かったようで、同世代の大物歌手の中では珍しく演歌のカテゴリーに入れられることもありませんでした。
フランク永井の家族情報…長年連れ添った嫁がいたが子供はいなかった
フランク永井さんは、「夜霧に消えたチャコ」が年間ランキング1位に輝く大ヒットを記録した1959年に、シズ子さんという一般女性と結婚しています。
おしどり夫婦として有名だった2人でしたが、子宝には恵まれなかったそうです。
フランク永井の自殺未遂騒動とは?…原因は隠し子だった
フランク永井、1985年に自殺未遂騒動を起こしていた
歌手としてこの上ない栄光を手にしていたと言えるフランク永井さんですが、1985年10月になると、自宅で自殺未遂騒動を起こしています。
事件当日の深夜に、自宅2階にある夫婦の寝室から抜け出したフランク永井さんは、階段の手すりにネクタイ4枚を結び付け、首つり自殺を図ったと言われております。
フランク永井さんが寝室から抜け出したことには気がついていたものの、トイレにでも起きたと思っていたシズ子さんでしたが、首を吊った際に生じたドタンという物音を不審に思い周囲を見回ったところ、あらぬ姿となった夫を発見することになりました。
夫が自殺する心当たりもなかったシズ子さんは、当初は冗談だと思って近くにあったイスに座らせてみたそうですが、当のフランク永井さんはぐったりしたまま反応がなかったそうですね。
フランク永井、容態は脳死状態だった
フランク永井さんが本当に自殺したことを悟ったシズ子さんは、すぐにネクタイを緩めて119番通報をしたそうですね。
自宅に救急車が駆け付けた際には、呼吸も脈もない状態だったというフランク永井さんでしたが、救急隊員の人工呼吸により息を吹き返し、東京都文京区にある大学病院へ搬送されることになりました。
シズ子さんの迅速な対応が功を奏し、一命は取り留めたフランク永井さんでしたが、無呼吸状態が続いたことによる脳へのダメージは大きかったようで、担当医からは「脳死状態に近く、植物人間になることも覚悟してください」といった残酷な宣告がなされました。
フランク永井、自殺の原因は隠し子問題だった
フランク永井さんの自殺未遂騒動に関しては、妻・シズ子さんや芸能関係者にも原因に心当たりがなく、当初は「ライフワーク化していた紅白歌合戦に落選して復帰出来ないことを気に病んでの自殺だったのではないか?」といった説が流れていました。
しかしながら、騒動後10日ほど経つと、フランク永井さんが13歳年下のクラブホステスの女性と隠し子問題でモメていたことが週刊誌によりスクープされ、世間を騒然とさせました。
その記事によると、フランク永井さんは元愛人より隠し子(当時1歳の女児)の養育費を請求され1030万円を支払ったものの、追加でさらに7000万円の養育費を求められていたうえ、「要求に応じないとマスコミに告発する!」と脅されていたようですね。
大御所歌手のフランク永井さんにとって、7000万円は工面出来ない額ではないように思われますが、この先も延々とお金をせびられ続けることが濃厚だっただけに、将来を悲観してしまったのかもしれませんね。
フランク永井を見てると悲しくなる。
— 自分を東海林太郎と思い込んでる一般男性 (@31staro) June 29, 2020
いくら追い詰められてるといっても自殺という選択肢は無かっただろうに。
その歌声があればいくらでも再起できたろうに。 https://t.co/2KiuXvlDOR
フランク永井、隠し子問題は元愛人の狂言だった
ワイドショーにも出演し隠し子問題を訴えた元愛人ですが、実際のところは脛に瑕がありすぎる人物でした。
元々プロ野球選手と結婚し離婚した経歴を持つ元愛人は、別のプロ野球選手を相手に似たような隠し子騒動を起こしていた過去が発掘されています。
そのため、最終的には隠し子のDNA検査にまで発展した「フランク永井隠し子騒動」については、1987年に「99%以上の確率で元愛人と前夫のプロ野球選手との間に生まれた子供」という鑑定結果が出ることになりました。
フランク永井のその後…嫁が自殺未遂騒動を起こして離婚していた
フランク永井、後遺症が酷く歌手復帰は出来なかった
自殺未遂騒動後のフランク永井さんについては、リハビリ治療の効果が出て一時的に症状が回復した時期もあったようですが、良い時期は続かずに、最終的には重い後遺症が残ってしまうこととなりました。
一時はリハビリ治療によって看護師と冗談が言えるほどにまで回復し、早期復帰の見込みも立った程であった。しかしその後、それ以上の回復はおろか次第に悪化しはじめる。家族や関係者は、四国地方での転地療養など、さまざまな方法を試みたものの、結局は好転しなかった。最晩年は幼児レベルの知能状態だったとも伝えられている。
引用:フランク永井
フランク永井さんの後遺症については、言語障害のためカタコトレベルの会話しか出来ない状況が続いていた他、自力で食事をとることも困難であったと言われております。
また、歩行障害なども残ったことから日常生活では車椅子を利用していたようですね。
フランク永井、嫁が自殺未遂騒動を起こして離婚した
自殺未遂騒動後のフランク永井さんについては、妻・シズ子さんが主体となって介護を続けていたようですね。
先の見えない介護生活のせいで、ただですら介護鬱になりやすい環境にあったと言えるシズ子さんでしたが、10億円とも言われていたフランク永井さんの財産管理を巡り永井家の親族との間にトラブルが勃発。1991年3月になると、自宅でガス自殺未遂をするまで追い詰められてしまいます。
幸運にも一命は取り留めたシズ子さんでしたが、心身に多大なダメージを負ったせいでフランク永井さんの介護を継続することが不可能となったため、1992年に離婚する憂き目となりました。
離婚後のフランク永井さんの世話については、宮城県から6歳年上の姉・美根子さんが上京して来て面倒を見ていたと言われております。
フランク永井の晩年と最期…姉と一緒に老人ホームに入っていた
フランク永井、晩年は姉と一緒に高級老人ホーム暮らしだった
フランク永井さんの晩年については、姉の美根子さんと一緒に介護付き有料老人ホームに入居していたと言われております。
フランク永井さんの入居していた老人ホームは、レンガ造りの高級ホテルのような外観をしており、入居金だけでも1人頭5000万円(入居費用は月30万円)もかかるような富裕層向けの施設でした。
・総床暖房
・温水シャワー付きトイレ
・テレビ・電話・電動ベット
・車椅子のまま入浴出来るバリアフリーのお風呂
・医療理学士と看護師2名が常駐
・医療クリニックも併設
フランク永井さんが老人ホームに入居した理由については、美根子さんが80歳となり1人で介護を続けることが困難になったためだったとか。
ちなみに、老人ホームに入居する費用については、東京都目黒にあった自宅を売却して捻出したそうですね。
売却された旧フランク永井邸に関しては、購入者がパプアニューギニア政府だったことから、現在は大使館に建て替わっています。
フランク永井、死因は肺炎だった
フランク永井さんの最期に関しては、2008年夏に風邪を拗らせて入院したものの、そのまま体調が回復せずに同年の10月に肺炎で亡くなっています。
永井さんの葬儀の喪主については、姉の美根子さんが務めたそうで、告別式には生前親しかった音楽関係者たちも出席したそうですね。
フランク永井についてまとめてみると…
フランク永井さんについては、元愛人の狂言により自殺未遂騒動に追い込まれ、後遺症が残ってしまった悲運の芸能人の1人と言えます。
フランク永井さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。