桐野夏生さん原作の小説・映画「東京島」のモデルでもある「アナタハンの女王事件」ですが、戦後の奇譚として広まり過ぎたため、かなり大袈裟な噂となっているようです。
この記事では、「アナタハンの女王事件」の真相やその後、比嘉和子さんのブサイク説・子供や子孫もまとめました。
この記事の目次
- 「アナタハンの女王事件」の概要
- 「アナタハンの女王事件」の詳細① 事件の始まりは米軍機内にあった拳銃
- 「アナタハンの女王事件」の詳細② 唯一の女性・比嘉和子を巡る殺し合い
- 「アナタハンの女王事件」の詳細③ 争いの元凶である比嘉和子処刑計画
- 「アナタハンの女王事件」生き残りの男性は32人中20人だった
- 「アナタハンの女王事件」の真相…比嘉和子を巡る男同士の争いはなかった?
- 「アナタハンの女王事件」のその後① 比嘉和子の旦那が再婚していた
- 「アナタハンの女王事件」のその後② 取材殺到で事件がブームに
- 「アナタハンの女王事件」のその後③ 比嘉和子の女優転身失敗と再婚
- 「アナタハンの女王事件」比嘉和子の子孫…子供は生まれておらず50歳の若さで脳腫瘍で死去
- 「アナタハンの女王事件」比嘉和子はブサイク?…現在も「オタサーの姫現象」として話題に
- 「アナタハンの女王事件」についてまとめると…
「アナタハンの女王事件」の概要
アナタハンの女王事件、1人の女性を巡り32人の男が殺し合い
桐野夏生さん原作の小説・映画「東京島」により久々に脚光を集めることとなった「アナタハンの女王事件」は、太平洋マリアナ諸島にあるアナタハン島という孤島で起きた多くの謎が残った死亡事件です。
サイパン島の北方約117キロに位置するアナタハン島は、1945年当時日本の委任統治領北マリアナ諸島に属する島で、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。
引用:アナタハンの女王事件
石鹸や蝋燭の原料に使われる「コプラ」の生産に適していると判断されたアナタハン島には、国策会社「南洋興発」の社員たちが開拓のために移住しており、現地の住民を労働者として雇い開拓事業を展開中でした。
普段はのどかな孤島であったアナタハン島ですが、戦時中はアメリカ軍より空襲被害に遭うなど散々な目にあったようですね。
そのため、現地の責任者でもあった「南洋興発」社員・比嘉菊一郎さんは妻子をサイパン島へ避難させた他、部下の比嘉正一さんも妹を迎えに行くためにサイパン島へ渡っています。
アナタハン島の現地住民たちに関しても、日米の戦争にはまったくの無関係の立場だったこともありアメリカ軍の船に乗り移住したため、島には菊一郎さんと正一さんの妻・比嘉和子さんが残されるのみとなったとか。
しかし1944年6月、輸送任務中だった徴用船3隻がアメリカ軍による爆撃を受けて沈没し、からくも生き延びた軍人・軍属関係者31人が島へ上陸。共同生活していくうちに男性達が唯一の女性である比嘉和子さんを巡って争うようになり、男性が次々に行方不明になったり殺害されてしまいました。
「アナタハンの女王事件」の詳細① 事件の始まりは米軍機内にあった拳銃
アナタハンの女王事件、島に取り残された日本人たちの生活
太平洋戦争末期のアナタハン島では、外部からの物資の補給も不可能な立場だったため、軍関係者が上陸して来て1ヶ月ほどで備蓄していた食料も尽きたそうですね。
そのため、アナタハン島に残された日本人同士で協力してイモの栽培の乗り出したものの、アメリカ軍からの空襲なども相変わらずあったためすぐに量産することは難しく、ヤシガニやトカゲ、コウモリなどを食べて飢えを凌いでいたとか。
1945年8月に終戦を迎えた後は、アメリカ軍からの投降呼びかけもあり、空から降伏を進めるビラなども投下されたようですが、サイパン島での遺棄爆弾の処理音を爆撃音と誤認していため信じる人間もおらず、潜伏生活が続くことになりました。
一方で、アメリカ軍による空襲がなくなった後のアナタハン島の食糧事情は大幅に改善されることとなり、イモの他に果物の栽培を始めた他、ヤシ酒を作って宴会に興じる余裕まで出てきていました。
アナタハンの女王事件、米軍機にあった拳銃の発見で島の空気が一変
アナタハン島で平和に暮らしていた日本人たちの生活に変化が生じたのは、1946年8月頃に、B-29の残骸から壊れた4丁の拳銃と実弾を発見したことがきっかけでした。
壊れた拳銃を解体して修理した結果、2丁の拳銃を作成することが出来ました。
2丁の拳銃については、軍人AとBが管理することとなりますが、2人と日頃から折り合いの悪かったCが、ジャングルを探索中に木から落下して死亡する事故が起こったことで、解放感に包まれていた島の雰囲気が一変することになります。
不自然すぎる事故だったうえに、目撃者もAとBしかいない状況だったことも手伝い、Cが拳銃で脅迫されて木から飛び降りさせられたとの憶測が島内に広がるようになり、アナタハン島内の日本人たちが疑心暗鬼に囚われるきっかけとなりました。
「アナタハンの女王事件」の詳細② 唯一の女性・比嘉和子を巡る殺し合い
比嘉和子をめぐり男たちの殺し合いが始まった
不自然な事故死以来、緊張に包まれるようになったアナタハン島ですが、嫉妬深くDVの気があった比嘉菊一郎さんに嫌気がさした比嘉和子さんが、水兵Dと山中に駆け落ちする事件が起こります。
狭い島内での駆け落ち事件だったため、2人はすぐに発見されて連れ戻されることとなり、和子さんは再び菊一郎さんと同居生活に戻る羽目になりました。
とはいえ、この頃になると和子さんと菊一郎さんが夫婦ではないことにも気が付いていた軍人Aは、駆け落ち事件をきっかけに露骨に和子さんを口説くようになります。
当時の和子さんは、22歳と女盛りだったことに加えて、軍関係者たちも10~20代の若者ばかりだったことも手伝い、最終的にはAが拳銃を使い菊一郎さんを脅しつけて和子さんを奪うといった暴挙に出たそうですね。
そんなAも1947年の秋頃になると、同じく拳銃を所持していた軍人Bと酒の席で喧嘩となり、射殺されてしまう末路を辿っています。
その後、Aに代わり和子さんを独占する地位を得たBですが、夜釣りに出かけたところ、密かに拳銃を持ちだしていた菊一郎さんに襲撃されて射殺される結末を迎えてしまい、菊一郎さんが元鞘に収まることになりました。
比嘉和子争奪戦で死んだ男性は6人
比嘉和子さんを取り戻すこととなった比嘉菊一郎さんですが、その数ヶ月後には、拳銃の管理が甘かったせいもあり、コックのEにより射殺されてしまったようですね。
そのEも1949年頃に水夫長Fに刺殺されるなど、和子さんをめぐる男たちの命をかけた争奪戦は留まるところを知らない状況でした。
その後も新たな恋人となった水夫長Fが崖から転落死した他、後を引き継ぎ恋人となった水夫長Gも食中毒死するなど、周囲の男たちが不審死をする状況は続いたとか。
とはいえ、そんな異常な状況も長くは続かなかったようで、1950年6月になると、アメリカ軍により和子さんが保護され日本へ帰国することとなり、アナタハン島には男たちだけが取り残されることになりました。
「アナタハンの女王事件」の詳細③ 争いの元凶である比嘉和子処刑計画
比嘉和子、処刑計画を知りし逃亡先の密林でアメリカ軍に救助される
1950年6月にアメリカ軍に保護されて日本に帰国した比嘉和子さんですが、実はアナタハン島の男たちに処刑されそうになったため、アメリカ軍に投降したとの説も存在するようですね。
水夫長Gの不審死以降のアナタハン島では、際限のない殺し合いに疲れ果てた男たちの間で、和子さんの正式な夫を取り決める話し合いが始まり、和子さんの意思で元駆け落ち相手の水兵Dが選ばれることになりました。
とはいえ、そんな取り決めて程度では和子さんを巡る争いは収まらなかったらしく、再度の話し合いの場をもった男たちは、悩みに悩んだ末に和子さんを処刑して争いの根源を取り除く決断を下したと言われております。
本来ならば、そこで命を奪われていたことになる和子さんでしたが、密かに処刑計画を知らせてくれた男がいたため、島内の密林に逃げ込むことに成功。
その後、33日間の逃亡生活の末、たまたまアナタハン島近くを通りかかったアメリカ軍に救助されたという話になっています。
比嘉和子はDVに耐えかねて投降した?
比嘉和子さんがアメリカ軍に投降をした原因については、水兵Dから激しいDVを受け続けることに耐え切れなくなって逃亡し、アメリカ軍に保護を求めたという説も存在するようですね。
和子さんがアメリカ軍に投降をした理由については、本人が口を濁しているため、真相については不明となっています。
しかしながら、帰国後の和子さんが、マスメディアに向けてアナタハン島に取り残された男たちの救助を訴えていることを踏まえると、「処刑説」の信憑性は高くはないのかもしれませんね。
「アナタハンの女王事件」生き残りの男性は32人中20人だった
アナタハンの女王事件により死んだ男性は12人、生き残りは20人
アナタハン島に取り残された男たちですが、1951年6月にアメリカ軍に投降し、19名が保護されることになりました。
戦中より物資の補給が途絶えていたこともあり、薬や包帯すらない状況下では、比嘉和子さん争奪戦以外で命を落とす男たちも多かったらしく、水兵Dも投降以前に病死していたようですね。
終戦後6年近く潜伏生活を送っていた軍関係者たちを降伏させることは骨が折れたらしく、日本の家族たちに説得の手紙を書いて貰うなど、色々な労力を費やすことになりました。
ちなみに、集団投降した19名の他にも一足先にアメリカ軍に投降していた人物が1人おり、アナタハン島で生き残った男たちは合計20名だったとか。
久しぶりに日本の土を踏むこととなった軍関係者たちでしたが、故郷に残してきていた妻が再婚していたケースもあるなど、悲喜こもごもでした。
「アナタハンの女王事件」の真相…比嘉和子を巡る男同士の争いはなかった?
1952年11月に、支援者や実兄と共に東京に上京した比嘉和子さんは、「サンデー毎日」にて「アナタハンの女王事件」の真相を語りました。
その記事によると、アナタハン島での和子さんは、恋人以外の男たちにも求められれば体を許していたため、巷で言われているような「1人の女をめぐり男たちが殺し合いを始める」ような状況にはならなかったとか。
また、比嘉菊一郎さんに射殺されたと言われている軍人Bも夜釣り中に転落した事故死でしかなく、和子さんを巡る争いで命を落としたのは菊一郎さんとコックのEだけだったという話になっています。
「アナタハンの女王事件」のその後① 比嘉和子の旦那が再婚していた
日本へ帰国後の比嘉和子さんについては、故郷・沖縄に戻ったところ、サイパン島へ行ったきり消息不明になっていた夫・比嘉正一さんが帰国して再婚して妻子持ちになっていた衝撃の事実を知ったそうですね。
「アナタハンの女王事件」のその後② 取材殺到で事件がブームに
比嘉和子、帰国直後から新聞・雑誌の取材が殺到
比嘉和子さん帰国後は新聞や雑誌から取材が殺到し、アナタハン島での出来事を面白おかしく報道されてしまったせいで「アナタハンの女王事件」ブームが起こり、周囲から好奇の目に晒される状況が続きました。
それを見ると「男三十人にたった一人 孤島の女王蜂物語 アナタハン島に七年」の見出し。リーダーの指名で決められた「夫」が死んだことについて、「あるいは、カズ(和子)を得ようとする他の男に殺されたのかもしれない」とした。「ちょうど蜜蜂の世界における『女王蜂』のように、男が彼女を支配するのではなく、彼女が男たちを支配するようになった」、「食と性、その二つを支配する女王として、カズさんは君臨したわけであった」とも。
帰国後は、生計を立てるために料亭で働くなど一般人として暮らしていた和子さんにとっては、「アナタハンの女王事件」ブームはかなりの心労となっていたようで、最終的には東京に上京して真相を告白することになりました。
アナタハンの女王事件を取り上げた映画
「アナタハンの女王事件」をモチーフにした映像作品については、1953年に「アナタハン島の眞相はこれだ!!」とハリウッド映画「The Saga of ANATAHAN」が公開されたものの、興行的な成功をが得られなかったためか、以降は下火となっています。
そのため、その後映像化された「アナタハンの女王事件」関連の作品は、前述の「東京島」以外は1959年に公開された「グラマ島の誘惑」だけです。
また、「アナタハンの女王事件」関連の回顧録に関しても、当事者にとっては忘れたい記憶なのか、1951年に丸山通郎さん著作の「アナタハン」と1952年に丸山通郎さん・田中秀吉さん共同著作の「アナタハンの告白」が出版されたのみとなります。
「アナタハンの女王事件」のその後③ 比嘉和子の女優転身失敗と再婚
比嘉和子、女優に転身失敗でストリッパーをしていた時期も
東京上京後の比嘉和子さんについては、沖縄で食堂を開く計画があったため、本来はすぐに帰郷する予定でした。
とはいえ、ブームに目を付け一儲けを企む芸能関係者に上手く利用されることになり、「アナタハンの女王事件」をテーマにした舞台に特別出演するなど、芸能界に取り込まれてしまいます。
その後発売したプロマイド写真が爆発的な売れ行きを見せるなど、当初は和子さんの女優転身も成功したかに思われていました。
しかしながら、本人が主演して1953年4月に公開された映画「アナタハン島の眞相はこれだ!!」が大不評を被ったことをきっかけに、ブームも下火となってしまったとか。
その後の和子さんは、場末のストリップ劇場でストリッパーをしていた時期もあったらしく、まさに芸能界により人生を狂わされてしまった一例と言えます。
比嘉和子、沖縄帰郷後は再婚してたこ焼き屋を経営
女優転身が失敗に終わった後の比嘉和子さんですが、東京にそのまま定住することもなく、沖縄に帰郷しています。
沖縄帰郷後の和子さんは、「アナタハン」という名前の食堂を経営していたようですが、1958年頃に2人の子持ち男性と結婚することになりました。
結婚後の和子さんは、新たな夫と一緒にたこ焼き屋を営んでいた他、義理の子供たちとの折り合いも良く幸せな人生を歩むことになったそうですね。
「アナタハンの女王事件」比嘉和子の子孫…子供は生まれておらず50歳の若さで脳腫瘍で死去
激動の人生の反動が来たのか、脳腫瘍に倒れた和子さんは、1974年3月に50歳で死亡しています。また、2度の結婚経験があるものの実子はいらず、直系の子孫はいません。
和子さんに実子が生まれなかった原因は、戦中に経験した流産が関係しているとの説も存在します。
戦中の和子さんは、1944年頃に前夫・比嘉正一さんの子供を妊娠していたものの、アメリカ軍の空襲にあい、住んでいた家まで燃えて密林まで逃げ延びたショックから、流産をしてしまったそうですね。
その後、アナタハン島に流れて付いた軍関係者などと肉体関係を結ぶこととなった和子さんですが、妊娠をすることはなかったと言われております。
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「アナタハンの女王事件」比嘉和子はブサイク?…現在も「オタサーの姫現象」として話題に
「アナタハンの女王事件」の現在については、事件そのものよりも比嘉和子さんが不美人だったのにモテモテだったことが話題となっている状況となります。
これとは直接関係ないが、アナタハン事件じゃないすけど、男性ホモソーシャル空間はブスの人が得する場なので、むしろブスの人への福祉として残しといたほうがいいというのが私の考えです。
— おいしい焼きたてパン&コーヒー (@WO21X6qHgpbHcDf) March 5, 2020
オタサーの姫って要は「異性比率が偏ってる集団内で一個人に需要が集中し、ソノ個人が自分を姫と認知する」現象なんだけど、じゃあ女比率の高い集団にいる男は自分を「王子」と認知するか?といえば決してそんな事なく、私の観測では腐女子集団に放り込まれた男は皆例外なく「俺は奴隷だ!」と認知する
— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) November 13, 2017
中には「アナタハンの女王事件」のことを「オタサーの姫現象」と評するネットユーザーもいるようですね。
「アナタハンの女王事件」についてまとめると…
・アナタハンの女王事件で生き残った男性は、32人中20人である
・比嘉和子は帰国後、語り継がれているような殺し合いはなかったとも語っている
・比嘉和子は帰国後に女優やストリッパーをしていたが沖縄に帰郷後に再婚したが、50歳の時に脳腫瘍でなくなっている
・比嘉和子に子供はおらず、直系の子孫はいない
・比嘉和子はブサイクとの声もあり、不美人でモテたことから現在では「オタサーの姫現象」といわれている
「アナタハンの女王事件」については、当事者の比嘉和子さんの証言によると、実際に殺し合いは起こったものの、世間で流布されているほどの惨劇ではなかったようです。
亡くなられた比嘉和子さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。