「巣鴨子供置き去り事件」とは、1988年7月に東京都豊島区で起きた母親が子供4人を置き去りにした事件です。
この記事では、「巣鴨子供置き去り事件」の詳細、母親の知的障害の噂や長男・長女・次女のその後現在まで総まとめしました。
この記事の目次
「巣鴨子供置き去り事件」の概要
映画「誰も知らない」のモチーフとなったことでも有名な「巣鴨子供置き去り事件」とは、1988年7月に東京都豊島区で起きた母親が子供4人を置き去りにした事件です。
事件現場となった豊島区西巣鴨のマンションには、元々は母親A(40)と4人の子供たちが住んでいたようですが、1987年秋頃よりAが恋人の元へ入り浸るようになり、家には子供たちだけが残されることになりました。
・長男(14歳)
・長女(7歳)
・次女(3歳)
・三女(2歳)
その後のA家では、長男が親代わりとなり妹たちの世話をみることになりますが、母親が時折送ってくる数万円程度のお金では、4人の食費を賄うことも難しく、子供たちは次第に栄養失調状態となっていきます。
1988年4月になると、長男と遊び仲間から暴行を受けた三女が死亡するなど、A家を取り巻く環境は悪化の一途を辿っていたようですね。
最終的には、1988年7月に大家より「親が帰って来ず、部屋が不良の溜まり場になっている」との通報を受けた巣鴨署員と福祉事務所の相談員がA家を訪問し事件が発覚。
「保護責任者遺棄致死」の容疑で母親が逮捕された他、長男も「傷害致死」と「死体遺棄」の容疑で東京家裁に送致されることになりました。
「巣鴨子供置き去り事件」の現場…家賃9万円の4階建てマンションだった
引用:http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com
「巣鴨子供置き去り事件」の事件現場に関しては、都心では良く見かける1階がコンビニとなっている4階建てのマンションの2階であり、家賃は9万円ほどでした。
そのため、元々のA家は人並みレベルの生活水準はあったようで、室内には一通りの家電製品が完備されていたようですね。
A家の長男についても、当初は家事洗濯をこなしながら妹たちの面倒を見ていたようですが、母親が家賃や光熱費の支払いを失念していたため、1988年の夏頃にはガスや電気が止まってしまったと言われております。
そんな事情もあり、巣鴨署員らがマンションを訪問した時点では、室内には衣服などが散乱し、残飯から異臭が漂っているなど、かなり不衛生な状況になっていたとか。
「巣鴨子供置き去り事件」母親のネグレクトのきっかけは新恋人
母親は子供達を置き去りにしてに恋人と同棲を開始
「巣鴨子供置き去り事件」に関しては、A一家が西巣鴨のマンションに引っ越してきた1987年10月直後から始まっているようですね。
Aが長男たちを置き去りにした理由については、事件当時56歳だった冷凍食品販売業者Bという新恋人が出来たためでした。
Aが千葉県浦安市にあるBのマンションで同棲を開始して以降は、長男たちは西巣鴨のマンションで子供たちだけの生活を開始することになります。
長男は、コンビニで食料品を買い出したり、自炊して食事を用意するだけではなく、下の妹たちのオムツの面倒まで見るなど、献身的に母親代わりを務めていました。
一方で、妹たちが言うことを聞いてくれないことも多かったため、折檻する機会が次第に増えていったと言われております。
滞納分の家賃を支払い生活費が底をつく
子供たちを置き去りにして新恋人と同棲を開始したAに関しては、たまに電話をかけて来たり、西巣鴨駅近くのハンバーガーショップに長男を呼び出して様子を訪ねてみたりと、自宅のことも一応は気にかけてはいたようですね。
この出来事のせいでお金が尽きたA家では、以降はAが時折送ってくる2~3万円程度のお金が生活費のすべてとなってしまい、コンビニで分けて貰ってた廃棄弁当で飢えを凌いだこともあったそうですね。
「巣鴨子供置き去り事件」長男による三女の暴行死と事件の発覚
長男と不良友達が三女を暴行死させる
Aに置き去りにされて以降も、相変わらず昼間は街中をふらふらすることが多かった長男は、1987年11月頃に、近所の駄菓子屋で不良少年2人と知り合うことになります。
当時中学1年生だったという不良少年たちですが、すぐにA家をたまり場にしてつるむようになり、長男にとっては初めての友達が出来ることにもなったそうですね。
その後、1988年4月21日昼になると、不良少年の1人がA家に保管していたカップ麺がなくなっていることが発覚し、口に青ノリがついていたことから三女が疑われます。
子供たちのみの閉鎖的な空間で、絶対的な権力者であった長男と不良少年たちは、怒りにまかせて三女を何発も殴りつける暴挙に出ることになりました。
こちらの暴行事件は、三女が失禁したことでさらに怒りを爆発させた不良少年の1人が暴走した結果、押入れの上の段から叩き落としたり腹を蹴り上げるといった危険すぎる行為が繰り返されたと言われております。
暴行後、ぐったりして動かなくなった三女を前に、救急車を呼ぼうかAに連絡を取ろうかと迷っていた長男ですが、自己保身からどちらの決断も下せず、治療を受けられなかった三女は翌日の朝頃に亡くなってしまったそうですね。
三女が亡くなった後は、消臭剤を入れたポリ袋に三女を詰め込んで押入れに隠した長男でしたが、すぐに部屋中に悪臭が漂うこととなったため、遺体の遺棄を決意。
1988年4月26日夜に、電車に乗って埼玉県秩父市にまで移動した長男と不良少年たちは、ボストンバックに入れた三女の遺体を公園脇の雑木林に遺棄することになりました。
三女の暴行死事件以降の不良少年たちに関しては、その後も何事もなかったようにA家に顔を出して長男とつるんでいたようですね。
大家の通報により事件が発覚
「親が帰って来ず、部屋が不良の溜まり場になっている」との大家の通報により、1988年7月17日に発覚することとなった「巣鴨子供置き去り事件」ですが、長女と次女はガリガリにやせ細っており、保護された後もしきりに食べ物を欲しがる状況でした。
その他にも、まだオムツをつけていた次女は、経済的な事情から1日1回しかオムツを交換して貰えない状態が続いていたらしく、衛生面の方もかなり問題がある状況だったと言われております。
その後、「巣鴨子供置き去り事件」がテレビで大々的に報道されたことで、我が家の惨状を知ったAが警察に自首したため、「保護責任者遺棄致死」の容疑で逮捕されています。
Aの供述から三女が行方不明になっていることが判明したため、警察が長男に事情聴取をしたところ、三女が長男らから暴行を受けた末に死亡し、秩父市内の雑木林に遺体が遺棄されていたことが発覚します。
そのため、「傷害致死ならびに死体遺棄の疑い」の容疑で逮捕されることとなった長男でしたが、東京地検も長男の境遇にはかなり同情的だったようで、「少年院ではなく教護院へ送ることが相当」との処遇意見を付けて東京家裁に送致したようですね。
ちなみに、一緒に三女を暴行した不良少年2人は刑事責任を問えない年齢であったため、補導された後に教護院に送致されたとか。
「巣鴨子供置き去り事件」母親の生い立ちと経歴…知的障害者の噂も
母親は中流家庭出身の売れない芸能人だった
「巣鴨子供置き去り事件」の元凶となった母親・Aについては、川崎市内の私立高校を卒業後に服飾関連の専門学校に進学するなど、中流階級の出身でした。
芸能黄金期に思春期を過ごしたこともあり、歌手の夢も抱いていたAは、実際に芸能デビューを果たし数枚ほどレコードをリリースしたものの、売れずに芸能人を廃業することになりました。
長男の父親は女を作り失踪していた
その後、1968年頃よりデパートの派遣社員として働き始めたAは、同僚と恋人関係になったようですが、両親からは結婚を反対されてしまったそうですね。
そのため、2人の間に生まれた第一子は養子に出す羽目になってしまったと言われております。
そんな悲しい出来事があっても別れずに同棲関係が続いた2人には、1973年に長男が生まれたようですが、これをきっかけに結婚話が盛り上がるわけでもなく、1979年に恋人が蒸発する形で内縁関係が終わりを告げました。
母親は次々と父親の違う子供を自力で出産
内縁の夫蒸発後のAについては、経済的にかなり苦労することとなり、都内のマンションを転々としながら窃盗や売春で食いつないでいた時期もあったと言われております。
その後、4人の私生児を産むこととなったAですが、子供たちの父親が全員違った上、病院には行かずに自宅で自力出産を試みて成功していたようですね。
突然死した次男を自宅の押し入れに遺棄
しかしながら、1983年9月に生まれた次男だけは病弱に生まれてしまったらしく、1984年2月頃に突然死してしまうことになりました。
出生届も提出していない次男の遺体の処分方法に関して困ったAは、ポリ袋に消臭剤を入れて、押し入れに隠して置くことしか出来ませんでした。
次男の遺体に対してかなり雑な扱いを見せたAでしたが、罪悪感などはあったようで、押入れを仏壇代わりにしてお供え物を供えていた他、西巣鴨のマンションへ引っ越した際もスーツケースに入れて持ち運んでいたとか。
そのため、「巣鴨子供置き去り事件」が発覚した際に、巣鴨署員がマンション内を家宅捜査をすると、押入れから次男の白骨死体も発見されることになりました。
母親は軽度の知的障害者だった?
「巣鴨子供置き去り事件」に関しては、Aにあまりに不可解な行動が多かったことから、「母親に軽度の知的障害があったのではないか?」との疑念を抱くネットユーザーたちもいます。
実際の話、裁判の方でも「子供の出生を届けず、学校にも通わせないなど母親の自覚がない」だの「我が子を養育する煩わしさから逃れようとした無責任」だのと、Aのネグレクトぶりは徹底的に糾弾されることになりました。
しかしながら、公式な資料においてAに知的障害があったとの情報は存在しないようですね。
その後のAに関しては、裁判中に「Bと結婚して子供たちと人生をやり直す」と誓っていたことから、「保護責任者遺棄致死罪」の量刑としては比較的に軽い「懲役3年 執行猶予4年」の判決が下っています。
「巣鴨子供置き去り事件」の家族…子供達は5人とも無戸籍児だった
子供達全員に戸籍がない理由は出生届の出し忘れ?
「巣鴨子供置き去り事件」の長男は、戦後日本では珍しく戸籍がない少年ということでも異質な存在でした。
長男に戸籍がない理由については諸説あるようで、1つはAが出生届を出すように頼んでいたものの、内縁の夫が手続きを行わなかったという説です。
こちらの説は、長男に就学通知書が来ないことを不思議に思ったAが市役所に相談に行ったところ、出生届が提出されていないことを知ったとの後日談までありました。
もう一方の説に関しては、内縁の夫との間に生まれた子供だったため、A本人が出生届を出すことをためらっている内に、出すタイミングを失ってしまったというものとなります。
今となってはどちらが正しい説なのかは不明となりますが、後に生まれた4人の子供たちについても出生届が提出されていなかったことを踏まえると、A本人に問題があったのかもしれませんね。
長男以外の娘3人は「誰も知らない」存在だった
A家については、DVなどはなかったものの、長男はAが働きに出ている昼間は街中でぷらぷらしていることが多かったそうですね。
そのため、不審に思った周囲の大人から声をかけられることが多かったという長男でしたが、面倒事を恐れたAより「立教小学校(中学校)に通っている」と返答することを厳命されていたとか。
とはいえ、それなりに息子の教育のことも考えていたAは、学習ブックなどを買い与えてもいたようですが、自主的に勉強をするような環境でもなかったため、長男の学力は小学校低学年水準だったと言われております。
一方で、下の3人の娘たちに関しては、ひたすら存在を隠すという選択肢を取ったAは、事件現場となった西巣鴨のマンションの大家にも2人家族と伝えていたようで、近所の住民も長女たちの存在は知らなかったようです。
「巣鴨子供置き去り事件」母親と長男・長女・次女のその後現在
「巣鴨子供置き去り事件」の現在については、母親のAはBと結婚して長女と次女を引き取り、新たな生活をスタートさせることになりました。
Bは事件当時、形式上は既婚者だったようですが、責任を取って妻と別れてAとの新生活をスタートさせる決断を下していたようですね。
ちなみに、子供たちの出生届は、1988年8月頃に三女の分も含めて全員分を豊島区役所の方に届けていたとか。
長男に関しては、教護院に送致された後は学生生活をやり直して生徒会長になった説や大学に進学した説などが存在します。
「巣鴨子供置き去り事件」についてまとめると…
・子供達は全員父親違いの無国籍児であることや、母親の異常行動から軽度の知的障害を疑う声も多かった
・大家からの通報により事件が発覚し、母親と長男、不良仲間2人が逮捕された
・母親は事件後に同棲していた男性と再婚し、長女と次女と生活を再スタートさせた
・三女を暴行死させた長男は、教護院を出た後に大学へ進学したと噂されている
「巣鴨子供置き去り事件」については、ネグレクトの末に幼女が実の兄らから暴行を受けて死亡した救いようのない事件となります。
人生を再スタ-トさせた事件関係者たちが、幸せな生活を送っていることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。