「殺しの柳川」との異名を誇った武闘派暴力団「柳川組」の創設者であった柳川次郎さんですが、頂上作戦により引退に追い込まれています。
この記事では、柳川次郎さんの身長や握力、経歴と伝説、兄弟分の大山倍達さん、結婚や嫁と息子や孫、そして死亡した現在と死因などをまとめました。
この記事の目次
柳川次郎の経歴…在日コリアン1世で柳川組の創設者だった
柳川次郎(やながわ じろう)
生年:1923年5月
出身地:韓国釜山広域市
育ち:大阪府豊能郡
柳川次郎、1930年に来日した在日コリアン1世だった
柳川次郎さんは、本名はヤン・ウォンソクといい、1923年5月に韓国の釜山広域市に生まれています。
その後の柳川さんは、一足先に来日して青果物の行商として生活基盤を築いていた父親を頼りに、1930年に母親や弟と一緒に大阪府豊能郡に移住することになりました。
太平洋戦争勃発後の1941年になると、父親が神戸製鋼所系の軍需工場で働くために、柳川さん一家は大分県中津市に引っ越すことになったとか。
中津市時代の柳川さんは、軍需工場で働く父親を尻目にとび職についていたとも言われております。
終戦後は、韓国へ帰国する予定だった柳川さん一家は、韓国行きの船へ乗るために山口県下関市に移動しますが、現地の愚連隊と喧嘩になった柳川さんは警察に逮捕されてしまったそうですね。
その結果、自分だけ残して家族が帰国してしまったため、以降の柳川さんは日本で1人きりで生計を立てる羽目になっています。
柳川次郎、愚連隊として大暴れして服役した過去もあった
下関市で家族と生き別れた後の柳川次郎さんですが、大阪に戻り愚連隊化していたそうですね。
愚連隊時代の柳川さんについては、同じ在日コリアンで少年時代からの顔なじみだった谷川康太郎さんとつるみ、闇市の闇物資を強奪して一儲けしていたと言われております。
また、兵庫県神戸市を拠点としていた国際ギャング団のリーダー・菅谷政雄さんの闇物資強奪計画に加担したこともあるなど、神出鬼没な一面もありました。
そんな柳川さんも1947年に元軍需工場を狙った集団強盗事件を起こした際に逮捕される憂き目となり、以降は1952年まで鳥取刑務所で服役しております。
仮出所後の柳川さんは、もう1つの故郷である大分県中津市に戻り、地元のテキ屋組織の吉森一家の客分を経て、福岡県北九州市を拠点とする大長組の舎弟となっています。
柳川次郎、山口組の傘下に入った経緯とは?
九州時代の柳川次郎さんですが、古巣の吉森一家と大長組の間にトラブルが起こった際に仲介役を任され断指する羽目になるなど、散々な目にあったそうですね。
そのため、再び大阪に戻りカタギとしてやり直そうと思った時期もあった柳川さんですが、九州から自分を頼って仲間たちが上京して来たこともあり、繁華街「キタ」を根城に独立組織・柳川一派を立ち上げることになりました。
柳川一派時代の柳川さんは、腕力を武器に周辺の暴力団のシノギを次々と奪い勢力を拡大させていきましたが、「キタ」の露天の権益をめぐる争いの際に、山口組系中川組の仲裁を受けたことをきっかけに山口組と交流が生まれました。
その結果、1959年に山口組若頭・地道行雄さんの舎弟となっていますが、神戸ローカルの組織からの脱却を図り大阪進出を邁進していた山口組側の都合から、大阪地区の責任者の地位を山口組系南道会に奪われるなど、必ずしも厚遇を受けたわけではありませんでした。
また、あまりに大阪で勢力を持ちすぎた柳川組の勢いを削るために、山口組の全国進出の切り込み隊長役を任されるなど、都合の良い駒として使われていた部分も大きかったようですね。
それでも柳川組の膨張が止まらなかったため、地道の提案で柳川組を他府県に進出させることを認めることになり、これを機に全国最大の組織山口組の全国制覇第一先鋒部隊として、冷酷無惨な戦闘力で活躍。近畿から北陸、更には北海道まで柳川組は進出し、全盛期には構成員2000人を数えるまでになる。
引用:柳川次郎
柳川次郎、警察の圧力を受けて柳川組を解散した
山口組の全国進出の際の切り込み隊長として数々の抗争事件を起こして名を挙げた柳川組は、すぐに直参に昇格した他、「殺しの柳川」との異名を誇る花形組織となりました。
その結果、柳川組に憧れて極道入り目指す若者も増える一方となり、最盛期には構成員1700人、準構成員2800人もの巨大組織へと成長しました。
一方で、柳川さん自体は債権取立てに絡んだ恐喝容疑で1963年に逮捕されたうえ、過去の余罪も加わり長期服役を避けられない状況へと追い込まれています。
そのため、懲役7年の実刑判決が確定した1964年になると、ヤクザを引退して(愚連隊時代からの舎弟格である)谷川康太郎さんに柳川組の組長の地位を譲ることになったそうですね。
しかしながら、その直後より始まった第一次頂上作戦では、山口組系の二次団体の身でありながら「全国広域5大暴力団」の1つに指定された柳川組は、警察の徹底したマークを受けて164人もの逮捕者が出る憂き目となりました。
その逮捕者の中には、後任を任せた谷川さん他の幹部たちも含まれており、公権力の圧力の前では「殺しの柳川」も形無しという現実が待っていました。
そんな社会情勢にあえて抗うこともなかった柳川さんは、1969年に柳川組を解散する決断を下しています。
こちらの判断は柳川さんの独断であり、執行部の許可を得ていなかったため、山口組より絶縁される羽目にもなったそうですね。
柳川次郎の身長や握力…かなり大柄な人物だった
伝説の武闘派ヤクザである柳川次郎さんに関しては、正確な身長は後世に伝わっておりませんが、上記の写真を見る限りかなり大柄な人物だったことが分かります。
そんな柳川さんについては、検索関連ワードに「握力」との単語もあるようですが、握力に関連づけられるようなエピソードは特に存在しない状況です。
柳川さんは、極真会館の創設者である大山倍達さんと兄弟分の間柄だったため、大山さんの「10円玉曲げ」の逸話が変な形で検索関連ワードに反映されたのかもしれませんね。
柳川組の伝説…8対100で勝利した最強武勇伝が存在した
柳川組、西成戦争では8対100の劣勢で勝利した
「殺しの柳川」との異名を誇った柳川組ですが、「西成戦争」と呼ばれた象徴的なカチコミが存在します。
1958年2月に起こった「西成戦争」時の柳川組は、まだ柳川一派と名乗っていた縄張りがない時代であり、大阪の博徒系暴力団・酒梅組の客分でした。
とはいえ、当時からイケイケの集団だった柳川一派は、酒梅組系鬼頭組が「あいりん地区」で経営していた麻薬密売所や売春宿を襲い現金を強奪するなど、怖いもの知らずの行動を繰り返していました。
その結果、堪忍袋の緒が切れた鬼頭組に若手組員を拉致された柳川一派ですが、面倒を見て貰っている酒梅組に仲裁を頼むこともなく、日本刀を片手に鬼頭組の事務所に殴り込みをかけるといったまさかの行動を見せます。
殴り込み当時の柳川一派と鬼頭組の戦力差は8対100の状態でしたが、鬼頭組側に死者1人重軽傷者15人が出るなど、「西成戦争」は柳川一派の圧勝で終わりました。
「西成戦争」では、逮捕・収監も経験している柳川次郎さんでしたが、出所後の1958年11月に大阪府北区堂山町にて柳川組を設立しています。
柳川組、明友会事件では24人の逮捕者を出した
柳川組の代表的な武勇伝には、1960年に起こった「明友会事件」も挙げられます。
こちらの騒動については、大阪の愚連隊・明友会が山口組組長・田岡一雄さんのメンツを潰してしまったことが発端となりました。
ミナミのクラブ「青い城」で山口組三代目の田岡一雄が歌手の「バタヤン」こと田端義夫らと会食していたところ、同じ店にいた明友会の幹部らが田端に歌うよう強要した。それを制止した田岡の側近らと乱闘に発展してしまう。田岡のメンツを潰された山口組は明友会への報復に乗り出した──。
「明友会事件」では、抗争前の時点で明友会側から詫びが入っていたそうですが、神戸から大阪への進出を図っていた当時の山口組にとって、穏便に済ますといった選択肢はなかったそうですね。
そのため、追い込み役に任命された柳川組は、明友会が根城にしていたアパートを襲撃したり幹部を拉致してリンチをしたりと、徹底した報復に出ることになりました。
その結果「明友会事件」は、明友会の幹部15人が断指して全面降伏をする結末を迎えたとか。
柳川次郎の兄弟分は大山倍達…極真会館のケツモチ的存在だった
柳川次郎さんは、同じ在日コリアンで極真会館の創設者である大山倍達さんと兄弟分の間柄だったことでも有名でした。
2人の出会いについては、終戦直後に柳川さんが大阪で愚連隊をしていた頃でした。
ちなみに、顔を合わせて早々に殴り合い寸前までいった2人でしたが、すぐに意気投合して以降は兄弟同様の関係が続くことになりました。
2人の関係に関しては、柳川さんが大山さんをフォローすることが多く、極真会館のパトロンがヤクザと揉めると仲裁役を買って出たり、池袋に極真会館の本部を建てる際には、柳川組の傘下組織に資金調達を命令したこともありました。
また、大山さんが大物右翼・笹川良一さんと空手利権をめぐり対立状態に陥って以降は、極真会館の相談役に就き、ケツモチ的役割まで発揮していました。
1969年のことだが、極真会館を全日本空手道連盟(全空連)が吸収しようとしたことがある。全空連は松濤館流や剛柔流など国内空手各派の統一を目的に設立された。当時の会長は日本船舶振興会会長で右翼の大立て者の笹川良一。赤坂の料亭『千代新』で大山と会い、「全空連の幹部ポストを提供するので傘下に入ってくれ」と求めた。
大山はこれを拒絶した。大山は全空連が寸止めルールを取ることを公然と「ダンス空手」と揶揄し、双方は激しい対立関係となる。
柳川次郎の名言…「殺しの柳川」らしい美学があった
柳川次郎さんは、その名言集についても武闘派ヤクザらしい勇ましい物が多い状況となります。
仕事で使える親分の名言⑥
— Kozo@金融×医療×MBA×営業×マーケの掛け算キャリア (@kozo4936) June 19, 2020
「どうせ失うものは命だけ。みんなで一緒に死のうや」山口組系柳川組組長・柳川次郎
鬼頭組100人が待つ事務所に対し、柳川組はたった8人で殴り込みんだ際に柳川組長が発した名言。(柳川組が勝利)
仕事もこの気迫で勝負すれば成功するし、希望のキャリアが形成できる。
俺が駆け出しの頃はよぉ〜チャカ ハジキの玉が高くてよぉ〜玉なくなったら捨てるだろすぐ、鉛の火薬玉高くてよぉ〜だから柳川組のやり方は刃物なんだよ。こんな奴らに鉛の火薬玉もったいねぇ〜パチンコ玉でじゅうぶんだ。柳川次郎名言
— 司 忍 (@AkhrYhwh) April 20, 2014
ヤクザとはいえ、立身出世を夢見て盃を交わしたアウトローが主流派だったことでしょうから、死を恐れない柳川組のカチコミが無敵状態だったのも当然なのかもしれませんね。
柳川次郎の結婚情報…嫁や息子・孫の存在
柳川次郎さんに関しては、大阪でカタギ(うなぎ釣りなど)の仕事に就いていた1953年頃に結婚をしているようですね。
とはいえ、以降は家族の影は薄く、同時代の大物ヤクザの中では珍しく家族関連のエピソードが聞こえない状況になっています。
しかしながら、柳川次郎の子供や孫を名乗るヤクザが現存しない以上は、子孫たちはカタギとして平穏無事な人生を送っていたものと思われます。
柳川次郎のその後…韓国の情報機関のカウンターパートになっていた
柳川次郎、大韓民国中央情報部や韓国軍保安司令部の協力者だった
柳川組を解散して以降の柳川次郎さんは、柳川魏志と通名を改め、「亜細亜民族同盟」という右翼団体を設立し、右翼活動に邁進していました。
また、反共精神も強かった柳川さんは、北朝鮮系の工作員が日本で暗躍することを防ぐために、大韓民国中央情報部や韓国軍保安司令部の協力者として、カウンターパート役を担っていたとの逸話も存在します。
柳川さんの役割は、日本経由で韓国へ伝わってくるタレコミ情報の真偽を調べたり、韓国側のエージェントを務める在日コリアンたちを北朝鮮系工作員から保護する役割などを担っていたそうですね。
その他、日韓友好のための親善大使的な役割も担っていた柳川さんは、新日本プロレスの韓国興行を実現させるために奔走したり、韓国プロ野球の立ち上げに協力するために在日コリアンのプロ野球選手を韓国に送り込んだりしていたとか。
柳川次郎の現在は死亡…死因と墓の場所
柳川次郎さんに関しては、1991年12月に68歳の若さで亡くなっています。
柳川さんの死因については特に公表されていないようですが、年齢的に何らかの病気で亡くなってしまった可能性が高いのではないかと思われます。
死後の柳川さんは、大阪府四条畷市にある大阪生駒霊園に埋葬されているとの噂があるようですね。
柳川次郎についてまとめてみると…
柳川次郎さんに関しては、伝説の武闘派ヤクザであり、カタギに戻った後は右翼団体の創設者や韓国の情報機関の協力者として活躍した人物ということになります。
柳川さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。