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武健一の現在!国籍は韓国?関西生コン事件や山口組との関係・委員長解任と失脚の理由・家族(結婚した嫁/子供)や自宅も総まとめ

ヤクザ並みの嫌がらせで恐れられた「関西生コンのドン」武健一さんですが、解任され失脚した理由も話題です。

 

今回は武健一さんの経歴や韓国国籍の噂、結婚した嫁や子供など家族や自宅、起こした事件や山口組との関係、現在を紹介します。

武健一は元関西生コン支部委員長&政治活動家

 

武健一さんは、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン(関西生コン)支部委員長として長年君臨してきた政治運動家です。

 

関西地区生コン支部とは、元々は日本共産党系の労働組合だったものの、闘争方法について本部や日本共産党と対立。

 

現在は、社民党系の労働組合として活動しています。

 

1983年12月17日、赤旗紙面に掲載された、関西生コンの上部組織への声明に対し抗議し、日本共産党系の労働組合と闘争を展開して行き、1984年3月、全国自動車運輸労働組合から脱退を決めた

引用:武建一

 

そのため、政治運動などにも積極的に関わっており、沖縄における反米軍基地運動の中核組織の1つとも言われています。

 

 

 

この記事では、そんな武健一さんのこれまでの経歴や家族情報の他、逮捕歴について紹介していきます。

 

 

武健一の国籍は韓国?噂のきっかけと真相

 

武健一(たけ けんいち)
生年:1942年
出身地:鹿児島県大島郡天城町

 

武健一さんには、在日コリアン説もささやかれています。

 

 

ただし、武健一さんが生まれ育ったのは鹿児島の離島の1つの徳之島にある天城町で、国籍は日本と記載された情報しか見つかりませんでした。

 

在日韓国人では?と言われたきっかけは、関西生コンの事務所内を映した画像に、ハングル文字の横断幕が見えたから、というもののようです。

 

しかし、それでだけで武健一さんが韓国国籍と決めつけるのは難しいでしょう。

 

 

 

武健一の経歴① 中学卒業後は島内で丁稚奉公

 

 

1942年に鹿児島県大島郡天城町に生まれた武健一さんは、中学を卒業後、島内の商店に丁稚奉公に出ます。

 

武健一さんが中学を卒業した1957年頃は、既に集団就職の真っ盛りだったため、同世代の少年の境遇と比べると異例な経歴かもしれません。

 

ただし、交通インフラが貧弱な時代の離島出身者ということで、東名阪の大都市に上京することが困難だった可能性もあります。

 

そんな武健一さんの丁稚奉公時代は、朝6時に起きて夜12時まで働くというかなり過酷な労働を強いられていたようです。

 

 

武健一の経歴② 19歳の時に大阪でミキサー車の運転手に

 

徳之島内の奉公先で長時間労働を強いられていた武健一さんですが、19歳の時に転機が訪れます。

 

当時の日本は高度成長時代であり、全国的に運転手が不足していたため、どの企業もリクルートに血眼になっていたそうで、徳之島にもスカウトがやって来たそうです。

 

地元で鬱屈した日々を送っていた武健一さんにとって、都会で運転手として働くことは夢のような話で、「故郷に錦を飾ってやろう」と意気込んで大阪に向かいました。

 

 

 

そして、三生運送のミキサー車の運転手として働くことになりました。

 

就業態度は真面目だった

 

三生運送に就職後の武健一さんは、酒やタバコ、遊びもやらずに、馬車馬の如く働きます。

 

そんな真面目な勤務態度は会社からも評価され、表彰までされていたそうで、模範的な社員だったようです。

 

ただし、労働環境は悪く、タコ部屋暮らしだったと明かしています。

 

今でいえば3ヶ月分の仕事を1ヶ月でやってしまう位の長時間労働でした。賃金は「一回走っていくら」の歩合給。その上、お正月三日以外休みは全然ない状態でした。当時、会社が借りた寮で六帖に3~4人、四帖半に2人ぐらいずつ詰め込められたタコ部屋みたいなもので、寮長に私生活まで管理されるわけです。
仕事はまだ星の出ている真っ暗な早朝5時頃に寝ている枕もとでバケツをガンガン叩いて起こされる。

 

引用:第1章 関生支部が生まれた「あの頃」

 

特に大変だったのが、早朝や深夜労働も当たり前だったことだそうです。

 

「生コンいうのは工事に合わせて運ぶのが仕事よ」という社風だったため、現場でコンクリートを流し込む工程に合わせてミキサー車を出発させることが常態化し、昼夜問わずの勤務でした。

 

昭和中期の時代でもそんなブラック労働に耐えられる人間は少なく、入社してもすぐに退職してしまう人が多かったそうです。

 

 

 

武健一の経歴③ 同僚の解雇をきっかけに労働運動に目覚める

 

 

武健一さんの転機となったのが、入社3年目に起こった同僚の解雇騒動でした。

 

解雇された同僚は、勝又さんという北海道出身の元自衛隊員の男性で、共産主義的な思想の持ち主だったそう。

 

御用組合(自主性を失った労働組合のこと)を改革しようと、三生運送・佃営業所の組合長に立候補し、当選した人物でした。

 

この勝又さんは当時会社の寮であった佃アパートで寝起きし、「勝又学校」の異名をもつ程、その指導力と影響力にはすごいものがありました。彼は当時、労働者の経済学としてソ連アカデミー発行の「経済学」を寮生に勧め、よく学習会を組織していましたが、「賃金の本質」「剰余価値説」等、何と頭の痛い話ばかりで私などまったく理解できないことばかりでした。

 

引用:こ第1章 関生支部が生まれた「あの頃」

 

会社側はそんな勝又さんを警戒しており、運行管理者名目で職場にヤクザを配置したり、生コン部門を別会社にし、労働組合員の賃金査定を冷遇したりしていました。

 

それでも労働運動の機運が高まる一方だったため、とうとう勝又さんを解雇するという最終手段出たようです。

 

当時はノンポリだった武健一さんでしたが、自分と同じ辺境出身の人間が突然解雇されたことに強い憤りを覚え、労働運動にのめり込んでいきました

 

 

武健一の経歴④ 労働組合の教宣部長に抜擢

 

 

勝又さんの解雇騒動時、武健一さんはまだ20代前半の若者だったこともあり、労働組合の先輩たちからは小僧扱いだったそうです。

 

しかし、勝又さん解雇後の臨時大会で三生運送・佃営業所労働組合の教宣部長に抜擢されます。

 

教宣部長の責務を果たすべく、武健一さんはアパート近くの西淀川労働学校に通って勉強するなど、本格的に労働運動に没頭。

 

その結果、会社からは危険人物としてマークされ、仕事と組合活動の両立に苦戦し、慢性的な睡眠不足の日々だったようです。

 

 

武健一の経歴⑤ 1965年に関西地区生コン支部の委員長に選ばれる

 

 

武健一さんが労働運動にのめり込み始めた頃の関西では、業種別の統一労働組合を作ろうという機運が高まっていました。

 

個別の労働組合では会社側の策略にハマりやすく、思うような労働運動が展開できないという問題を打開するための動きだったようです。

 

その後、当時の生コン共闘会議を指導していた石井英明氏(故人)が中心になり「生コン業種別の統一司令部を作ろう」という動きが出てきました。三生運送だけでも四つの営業所に別々の支部があって、会社にそこをつけ込まれてどうしても統一対応ができないので、もう一度、個人加盟の原則に立ちかえって関生支部を作ろうという機運が盛り上がってきました。

 

引用:第1章 関生支部が生まれた「あの頃」

 

そのため、1965年10月に関西地区生コン支部が結成されることになりました。

 

そして「労働運動の今後の発展のために、元気のある若者たちを育てよう」という先輩たちの意図もより、武健一さんが関西地区生コン支部の初代委員長に抜擢されたのです。

 

ただし当初は、業種別の統一労働組合に懐疑的な人間が多かったらしく、結成式に参加したのは、5分会183名程度でした。

 

 

武健一の経歴⑥  会社を不当解雇される

 

20代前半の若さで関西地区生コン支部の委員長に就任した武健一さんですが、発足したばかりの弱小組合ということで、専従組合員にはなれませんでした。

 

そのため、仕事と組合活動の両立をしなければならず、より一層やりくりに苦戦する時期が続いたようです。

 

おまけに、会社の経営側から反感を買い過ぎたのか、委員長に就任した直後に会社を首になっています。

 

何しろ専従者が一人もいない小さな組合で、職場から急に「団交をもつから」と電話が飛びこんできたら、仕事より優先してすぐにその職場へ入らなくてはならない。昼も夜もそうです。こんな風に活動を始めてすぐの10月19日に私は首を切られました。そのちょっと前に食事内容の改善を要求し「所長とトラブルをおこした」首を切られた人がいてその人を支援すること、そしてアメリカ帝国主義によるベトナム人民への侵略戦争に抗議する為、当時総評が呼びかけた「10・21」国際連帯行動にストライキでたちあがる。この二つの目的でストを打ったというのが首切りの理由でした。

 

引用:第1章 関生支部が生まれた「あの頃」

 

 

武健一の経歴⑦  裁判で勝訴し復職

三生運送を解雇された武健一さんは、不当解雇だと裁判に訴え、解雇撤回闘争を開始します。

 

 

解雇撤回闘争中は、アルバイトや行商をしながらなんとか生計を立てていたため、自分の生活だけで精一杯となり、それまで続けていた実家への仕送りもできなくなってしまったようです。

 

実家では、妹が大学進学を目指していたものの、武健一さんからの仕送りが途絶えたことで進学を断念したといいます。

 

そして肝心の解雇撤回闘争は、1969年7月に大阪地裁で「職場復帰」と「解雇期間中の賃金支払」の判決が下り、武健一さんは1970年1月に三生運送に復職しています。

 

 

武健一の経歴⑧ 関西生コン界のドンとしてヤクザ並みの嫌がらせを展開

 

結成当初は弱小労働組合だった関西地区生コンでしたが、破竹の勢いで組織を拡大していき、最盛期となる1983年には、3500名もの組合員が所属する一大組織に成長しています。

 

また、組織の拡大により資金的な余裕ができたことで、武健一さんは専従の組合員として活動。

 

当然のことながら、武健一さんの権力も増す一方となり、「関西生コン界のドン」との異名を持つまでになっています。

 

非協力者には容赦のない嫌がらせを行うことで知られていた

 

「関西生コン界のドン」となって以降の武健一さんは、非協力組織や敵対組織には容赦のない嫌がらせをするコワモテとして君臨。

 

特に得意としていた嫌がらせは、組合員を使った生コン輸送の妨害でした。

 

須田)組合員は労働争議を起こすのです。そこへ行って団体交渉を要求して、出て行こうとしているコンクリートミキサー車を実力で止める。これは意外に知られていないのですが、生コンの寿命は90分で、すごく短いのです。だから、現場近くに作る工場がないと間に合わず、中小業者が多い。それを妨害されると会社としては困ってしまうのです。

 

引用:関西生コン事件~逮捕されたのは立憲民主党・辻元清美議員と親密な人物

 

普通に考えると、一発で警察に逮捕されそうな嫌がらせですが、現在の日本では、組合員が会社に所属している場合は合法扱いされる裏技のようです。

 

須田)だから、何らかの解決金を払い、争議を解決するのです。これは現在の日本の法律がおかしいのですが、労働争議となると刑法と民法が及ばないのですよ。そこで仮に暴力事件があったとしても、「組合活動だから」という大義名分で、刑事事件としてほとんど立件されない。

 

引用:関西生コン事件~逮捕されたのは立憲民主党・辻元清美議員と親密な人物

 

また、非協力組織への嫌がらせのために、阪神圏の建設工事を止めるという実力行使に及んだこともあったと言われています。

 

その他、ターゲットの自宅前に100人程度の組合員を送り込んで寄声を上げさせるなど、ヤクザ顔負けの嫌がらせ行為を多数行っていたそうです。

 

そんな武健一さんの苛烈な圧力に屈してしまう人間も多く、関西地区生コン支部は数十年で100億近い解決金を得ていたとの噂も存在します。

 

ちなみに、加盟企業になったら一安心、というわけではなく、生コンを1立方メートル売る度に、数百円の上納金を取られる仕組みだったと言われています。

 

 

武健一の逮捕歴① 業務妨害容疑や背任容疑で逮捕

 

凄腕の労働組合の運動家である武健一さんですが、関西地区生コン支部への加盟を断った生コン会社に輸送妨害の嫌がらせをしたことにより2004年10月に業務妨害容疑で逮捕されています。

 

この時の嫌がらせが刑事事件まで発展した理由は、輸送妨害をした会社に組合員がいなかったため、労働争議との言い訳が成立せず、立件されたようです。

 

また同時期、知人の生コン会社に、関西生コン支部の資金を独断で貸し付けた背任容疑でも逮捕されています。

 

なお、この2件の犯罪行為は、2007年1月に懲役1年8ヶ月の実刑判決が下っています。

 

 

武健一の逮捕歴② 政治資金規正法違反容疑で逮捕

 

 

武健一さんは2005年12月に、政治資金規正法違反容疑で逮捕されました。

 

関西地区生コン支部が、当時門真市市議だった戸田久和さんに政治資金名目で資金提供を行ったところ、摘発されたようです。

 

その後の2006年8月、罰金50万円と公民権2年停止の有罪判決が下っています。

 

 

武健一の逮捕歴③ 贈賄容疑で逮捕

 

武健一さんは、2006年9月に贈賄容疑で逮捕されています。

 

前述の事件で大阪拘置所に収監されていた武健一さんは、刑務所内で便宜を図ってもらおうと、刑務官に100万円を渡したようです。

 

ちなみに、刑務官に武健一さんを紹介したのは、山口組系の元組長・樺山勝美さんだったそうで、当時は武健一さんのボディーガード役を務めていたと言われています。

 

 

武健一の逮捕歴④ 関西生コン事件で逮捕

 

 

武健一さんの逮捕歴の中で一番有名なのが、関西生コン事件です。

 

滋賀県下で行われていた倉庫工事で、現場に生コンを納入していた商社が関西地区生コン支部の加盟業者と取引がなかったことが発端でした。

 

武健一さんサイドが「身内から商材を買うように!」と圧力をかけたことにより、2018年8月、武健一さんは恐喝容疑で逮捕されました。

 

その他にも、工事現場に生コンを輸送していた運送業者に対し、輸送妨害を指示していたため、2018年11月に威力業務妨害容疑で再逮捕されています。

 

また、京都で別件のトラブルまで起こしていたようで、この時は合計で4回逮捕されました。

 

2019年7月17日、組合加盟生コン会社の破産申請をめぐるトラブルの解決金と称して京都生コン協同組合の理事から6千万円を脅し取った容疑で再逮捕され、同年9月4日には、同じ生コン会社が解散する際に組合員7名の退職金を支払う必要があるなどと因縁をつけ解決金を要求し、京都生コンの理事から1億5千万円を脅し取ったとして再逮捕された。

 

引用:武建一

 

その結果、2021年7月に懲役3年・執行猶予5年の有罪判決が下っています。

 

 

武健一と辻元清美との関係

 

関西地区生コン支部は、元々は日本共産党系の組織だったものの、後に対立して敵対関係となった結果、同じ左翼政党だった社民党(旧社会党)を支持しています。

 

武健一さんも野党系の政治家に人脈があると言われています。

 

 

 

その中でも特に親しかった議員が、社民党から立憲民主党に移籍をした辻元清美さんです。

 

辻元清美さんは、武健一さんを「大阪のお父ちゃん」と呼び、長年に渡って政治献金を受け取っていたとされています。

 

 

 

 

武健一と山口組との関係は?

元々は山口組に拉致された被害者だった

 

離島出身の純朴な青年だった武健一さんですが、関西地区生コン支部の委員長として君臨するうちに、真っ黒な人物になってしまった感は否めません。

 

武健一さんが変わってしまったきっかけは、1979年と1981年に起こった拉致事件が影響しているとの証言もあります。

 

当時、あまりにも過激すぎる労働運動に対抗するために、会社側がヤクザを雇い組合潰しをする風潮がありました。

 

そのため、武健一さんも山口組系のヤクザに拉致され、かなり脅しつけられたことがあったようです。

 

特に1981年の拉致事件では、ヤクザ側は武健一さんを溺死体にする計画まで立てていたと言われています。

 

 

 

武健一さんがそんな危機を乗り越えられたのは、山口組に佐々木道雄さんという同郷出身のヤクザがいたおかげでした。

 

佐々木道雄さんは、山口組若頭・地道行雄さん率いる地道組の幹部で、当時は山口組本体の若中でもありました。

 

そのため、拉致を止めるまでの権力はなくても、武健一さんの命を救うことはできたようです。

 

武健一が逮捕された2004年の背任容疑はヤクザ絡みだった?

 

 

2004年に背任容疑で逮捕されている武健一さんですが、この事件が「ヤクザ絡みだったのでは?」とも指摘されています。

 

こちらの騒動は、関西地区生コン支部に加盟している生コン会社Aが、取引先の建材会社Bとトラブルになった際に、武健一さんが仲裁に乗り出したことが始まりです。

 

建材会社Bは山口組系今倉組(現:神戸山口組系山建組)のフロント企業だったようで、交渉の席には今倉組組長まで顔を出し、生コン会社Aは脅迫されてしまいます。

 

最終的には、武健一さんが何とか話を収めて、AとBの取引を中断させることに成功。

 

しかしそれ以降、武健一さんが独断でAに融資を開始しており、実際は、A経由で和解金を支払い続ける条件で話を収めたのではないかとの疑惑が浮上しているのです。

 

その他、関西地区生コン支部では、前述の輸送妨害などの圧力で集めた解決金についても、決算報告書が支離滅裂すぎて、お金の流れが追えない状況だったと言われています。

 

そのため、こちらも暴力団界隈に流れているのではないかと疑う人間が少なくないようです。

 

 

武健一の家族① 弟も関西地区生コンの幹部

 

武健一さんには「洋一」さんという弟がおり、関西地区生コン支部で書記長を務めていた時期もあります。

 

 

弟を離島から呼び寄せて、兄弟で関西生コンで活動していたんですね。

 

 

武健一の家族② 結婚した嫁・子供

 

関西有数の有名人とも言える武健一さんですが、妻や子供の情報は明らかになっていません

 

ただし、武健一さんは20~30代の頃から、労組運動の大物としてヤクザから命を狙われる立場だったため、家族の身の安全を考えて、プライバシーを公表していない可能性もあります。

 

 

武健一の自宅は豪邸との噂がある

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出典:https://pixabay.com/

 

「関西生コン界のドン」として長年君臨していた武健一さんだけに、羽振りもかなり良かったようです。

 

年収情報などについては不明ですが、自宅は豪邸との噂がネット上を飛び交っています。

 

 

武健一の現在:失脚して委員長を解任されている

 

武健一さんは、2021年10月10日に行われた関西地区生コン支部の第57回定期大会にて、委員長の座を解任されました。

 

関西地区生コン支部側は「半世紀にわたり組織を牽いてきた武建一さんは今大会で勇退した」とあくまで世代交代だと主張しています。

 

一方、世間では事実上のクーデターと認識されており、武健一さん本人も反論の声明を出しているんです。

 

 

武健一さんの解任の余波は、政治の世界にも及んでいるようで、2021年10月31日に行われた第49回衆議院議員総選挙で辻元清美さんが落選した原因とも言われています。

 

 

ただ、関西地区生コン支部は、組合員が全盛期の頃より10分の1以下になっているとのことで、組織再生のためには、武健一さんの解任はやむを得なかったという意見も存在します。

 

 

武健一のまとめ

 

武健一さんは、関西地区生コン支部の委員長を50年に渡って務めてきた人物で、ヤクザまがいの嫌がらせなどによる逮捕歴、そして政界とのつながりも深かったと言われています。

 

事実上のクーデターにより現在は失脚していますが、武健一さんに今後新たな動きはあるのでしょうか。

 

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