塩川正十郎さんは、小泉政権下での財務大臣など大臣職を歴任した大物政治家として知られています。
この記事では塩川正十郎さんの名言と失言、学歴や経歴、名家の流れを汲むとされる家系、結婚した嫁や息子や孫、甥の死去、自宅や死因などについてまとめました。
この記事の目次
塩川正十郎のプロフィール
塩川正十郎のプロフィール
生年月日:1921年10月13日
没年月日:2015年9月19日(享年93歳)
出身地 :大阪府中河内郡布施村(現在の東大阪市)
塩川正十郎さんは、衆議院議員を11期務め、運輸大臣や文部大臣、自治大臣、内閣官房長官、財務大臣などを歴任した、戦後から平成の時代にかけてを代表する大物政治家として知られています。
政界からは82歳で引退し、その後は東洋大学総長に就任し、学生の国際交流支援を目的とした「塩川正十郎奨学金」を創立するなど、93歳で亡くなるまで活躍されました。
塩川正十郎さんは特に小泉政権時代に第2代財務大臣として活躍し「塩爺」という愛称で呼ばれ、国民からの人気も高い政治家でした。
今回はこの塩川正十郎さんについてまとめていきます。
塩川正十郎の名言
出典:https://article-image-ix.nikkei.com/
塩川正十郎さんは、飾らない発言で国民からの人気を集めた政治家でした。塩川正十郎さんの名言をいくつか紹介します。
小泉政権での財務大臣時代には、一般会計では厳しいやりくりをしているのに、目の届きにくい特別会計では放漫な支出をしている状況を指して「母屋でおかゆを食べておるのに、離れではすき焼きを食っておる」と説明しました。この発言はわかりやすい比喩だとして話題となり、現在でも塩川正十郎さんの名言として語り継がれています。
財務相時代はひょうひょうとした関西弁で「母屋でおかゆをすすっている時に、離れですき焼きを食べている」などと特別会計改革を訴えて話題になった。
また、2003年に政界を引退した際には以下の名言を残されています。
人生のホイッスルが鳴るまで、まだ若干のロスタイムがあるのではないか。そのロスタイムを大事に使いたい、
この名言のとおり、塩川正十郎さんは93歳で他界されるまで、東洋大学総長、日本相撲協会運営審議会委員、自由国民会議代表、国民政治協会会長などとして活躍されました。
政界引退後は失言でも話題に
名言も話題の塩川正十郎さんでしたが、政界引退後には衝撃的な失言を繰り返し、度々話題になっています。
報道番組で年金問題が取り上げられた際に塩川正十郎さんが「国民年金だけで議員は生活できると思うか?」との質問を受け以下のように回答し物議を醸しました。
「ほんなん、できるかいな。
ぼくら(議員)はあんたら(国民)と生活のレベルが違うやないか!
(毎月)100万かかるよ。
みんな、人間平等だと思っていたらとんでもない間違いだ」
また、2005年の「騒音おばさん事件」では、日本テレビの報道番組「バンキシャ」にコメンテーターとして出演した塩川正十郎さんが、加害者主婦を指して放送禁止用語を含んだ発言をして大きな騒動となっています。
「顔を見て御覧なさい。目はつり上がってるしね、顔がぽ~っと浮いてるでしょ。これ、キ○ガイの顔ですわ」
発言の主は、小泉政権で財務大臣を担当したことでもお馴染みの「塩爺」こと塩川正十郎氏。コメンテーターを務めていた日本テレビの報道番組『真相報道 バンキシャ!』内で、発言を求められた際に思わず出てしまった
塩川正十郎さんは、こうした名言と失言の数々で国民に強い印象を残している方です。
塩川正十郎の学歴① 大阪府立八尾中学校(現在の大阪府立八尾高等学校)
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塩川正十郎さんの学歴についても見てきます。
塩川正十郎さんの出身小学校は不明ですが、おそらく地元の尋常小学校(大阪府中河内郡尋常高等小学校か)を卒業されたと思われます。
塩川正十郎さんの出身中学校は「大阪府立八尾中学校」です。中学時代の塩川正十郎さんは勉強はあまりせず、蹴球(サッカー)を一生懸命されていたのだそうです。また当時の将来の夢は新聞記者だった事なども明かされていました。
この中学は1948年の学制改革で新制の高校として「大阪府立八尾高等学校」に改称しており、現在もこの名前で存続しています。
大阪府立八尾高等学校の現在の最新の偏差値は「63」と、大阪府内でも学力レベルの高い高校として知られています。
塩川正十郎の学歴② 慶應義塾大学経済学部経済学科
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塩川正十郎さんは、1939年3月に大阪府立八尾中学校を卒業し、同年4月に慶應義塾大学予科に進学。その後、慶應義塾大学経済学部経済学科へと進み、1944年3月に卒業(戦争で大陸に出征していたため正確には卒業扱い)されています。
塩川正十郎さんは、大阪府立八尾中学校卒業後は地元の高校へ進学するつもりでいたそうなのですが、父親に「田舎の学校へ行っても仕方がないから慶應大学の経済学部へ行け」と言われたため、慶應大学経済学部へと進学する事に決めたのだそうです。
私はね、親父が慶應へ行けっていうから、ああそうか。みたいなもんで決めてしまったんですよ(笑)。私としては、みんな集団で田舎の高校に行くと思ってたんですね。ところが、親父が『そんな田舎の学校へ行ったってしょうがない。都会の、それも慶應へ行け』って、願書まで取ってきてね。
塩川正十郎さんといえば、経済に強い政治家として辣腕を振るわれた方なのでかなり意外なのですが、中学卒業当時は、慶應も早稲田も存在自体を知らなかったのだそうで、それほど学問には興味を持たれていなかったようです。
大学生時代の塩川正十郎さんは、経済学者の高橋誠一郎さんの講義を熱心に受け、ハンドボールや登山にも熱中されていたそうです。
なお、塩川正十郎さんは大学生だった23歳の頃に学徒出陣で陸軍砲兵隊の兵士として中国大陸に出征し、中国老河口のアメリカ軍飛行場の攻略作戦にも参加されています。
塩川正十郎の経歴① 衆議院議員当選前
続けて、塩川正十郎さんの大学卒業後の経歴について見ていきます。
塩川正十郎さんは、太平洋戦争終結後の1946年9月に「三晃株式会社」という会社を設立し、代表取締役に就任されています。現在大分市にある同名の三晃株式会社とは関係は無いようです。
その後、1957年8月には布施青年会議所(現在の東大阪JC)の初代理事長に就任されています。
翌1958年の5月には、弘容信用組合の常務理事に就任し、1964年6月から1966年12月にかけては布施市の助役を務められていました。
塩川正十郎の経歴② 衆議院議員に当選し国政入り
塩川正十郎さんは、1967年1月の第31回衆議院議員総選挙に自民党から出馬して当選し、衆議院議員になっています。
自民党では安倍晋三元首相の父で大臣を歴任した安倍晋太郎さんの派閥に所属し、森喜朗さんらと共に「安倍派四天王」と評されるなど、若手の有力政治家として頭角を表しました。
1980年7月には、鈴木内閣の運輸大臣として初入閣し、1981年11月まで務めました。
1986年9月から1987年11月にかけては、第3次中曽根内閣の文部大臣を務め、1989年の宇野内閣では内閣官房長官に就任しています。
1991年11月から1992年12月にかけての宮澤喜一内閣では、自治大臣及び国家公安委員会委員長を務めています。
塩川正十郎の経歴③ 小泉政権での活躍
2001年4月に行われた自民党総裁選では、塩川正十郎さんは小泉純一郎さんの選対本部長を務め、総裁選勝利に大きな役割を果たしています。
第1次小泉純一郎政権が発足すると、塩川正十郎さんは2代目財務大臣に就任。塩川正十郎さんはその年で80歳になる高齢での大臣就任という事でも注目を集めました。
小泉政権では小泉構造改革の中心となって活躍し、小泉第一次改造内閣でも財務大臣に留任し活躍されました。
塩川正十郎さんは小泉政権の大臣の中でも、その独特の言い回しなどで国民からの注目を集め、2001年の流行語大賞では、ニックネームの「塩爺」がトップテンのひとつに選ばれています。
塩川正十郎の経歴④ 政界引退後
塩川正十郎さんは、2003年の第1次小泉第2次改造内閣の発足と同時に財務大臣を退任し、衆議院議員選挙にも立候補せずに政界から引退されています。
政界引退後は、東洋大学総長、相撲協会運営審議会委員、財団法人国民政治協会会長、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、自由国民会議代表、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長などを務められました。また、2008年から2013年にかけては「産経新聞」で、コラム「塩爺のよく聞いてください」を連載し、報道番組にもコメンテーターとして出演するなど、幅広く活躍されていました。
塩川正十郎の家系
塩川正十郎さんの家系についても見ていきます。
まず、塩川正十郎さんの父親は塩川正三さんという方で、戦前と戦後に大阪布施市長を2度務められています。また、経営者としても手腕を発揮され、近畿鉱業社長や河内銀行取締役などを歴任された経歴も持たれています。
この塩川正三さんは婿入りしており、その養父が、塩川円作という人物です。この塩川家という家系はかなり由緒正しい家系で、戦国時代の河内国渋川郡の国人領主として記録に残る塩川左大夫に連なる家系だと言われています。
塩川正十郎の結婚と嫁について
塩川正十郎さんは、1954年に嫁の塩川鈴子さんと結婚されています。
嫁の鈴子さんは、兵庫県伊丹市の貿易業・服部保太郎氏の長女として生まれ、親類の紹介で当時実業家だった塩川正十郎さんと知り合って恋愛の末に結婚されたという事です。
嫁の鈴子さんは1927年頃の生まれで、塩川正十郎さんの6歳年下でした。当時の関係者によれば、三歩下がって夫についていくような古風な女性だったという事で、代議士の嫁として表舞台には出ず、夫の塩川正十郎さんのために汗を流す運動員らのために真心のこもった弁当を作るなど、裏方に徹する女性だったそうです。
塩川正十郎さんの嫁の鈴子さんは2002年9月に75歳で亡くなられています。
塩川正十郎の息子は近鉄バス社長の塩川耕士さん
出典:https://www.travelnews.co.jp/
塩川正十郎さんは嫁の鈴子さんとの間に2男1女を儲けられています。
塩川正十郎さんの息子の長男・塩川耕士さんは、1954年の生まれで、大学卒業後に近畿日本鉄道に入社し、2012年に名阪近鉄バス社長と三重交通グループホールディングス取締役に就任されています。
塩川正十郎さんの葬儀ではこの息子の塩川耕士さんが喪主を務められました。
塩川正十郎の孫は大阪府議会議員の塩川憲史
塩川正十郎さんの孫は、現在、大阪府議会議員を務める塩川憲史さんです。
塩川正十郎さんの孫の塩川憲史さんは、1989年10月10日の生まれで、祖父の塩川正十郎さんの母校でもある慶應義塾大学経済学部を卒業後、サントリーホールディングスに就職し、退社後の2019年4月の大阪府議会議員選挙に出馬して当選しています。
現在は東大阪市府政対策委員長を務められているようです。
塩川正十郎の甥は大学でのアルハラによって急性アルコール中毒で死亡
塩川正十郎さんの甥の1人が、大学生時代にコンパなどで酒の一気飲みを何度も強要され急性アルコール中毒で死亡しているという情報があります。
塩川正十郎さんは、1991年11月に朝日新聞に、甥が急性アルコール中毒で死亡した事についての文章を投稿しておりそれが掲載されていたようです。
「酒を飲めない体質の人にも強制的に飲ませて、苦しむ姿を楽しんだり、酒に強いことが人間の優秀性、豪傑性を示すとするような錯覚が、若い人たちに広がっています」
なお、この投稿では死亡したのは「知人の息子」と書かれていたそうですが、実際には甥っ子の1人だったという事です。
投稿したのは「東京都 塩川正十郎」。当時国家公安委員長だった衆院議員の塩川氏(故人)である。「知人の息子が苦労して入学した有名大学のコンパで、しょうちゅうの一気飲みをして死亡」したことから筆を執ったという
塩川正十郎の自宅は大阪府東大阪市の豪邸
塩川正十郎さんの自宅は大阪府東大阪市に建つ豪邸である事が知られています。
塩川正十郎さんの自宅のストリートビュー画像がネットで紹介されていました。
出典:https://presidenthouse.net/
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自宅の住所などは不明ですが、大阪府東大阪市の商業地にあるという事です。
塩川正十郎の死因は肺炎
塩川正十郎さんは2005年9月19日に死去されています。死因は「肺炎」と発表されています。享年は93歳でした。
小泉内閣発足時から財務相を務め、「塩爺」(しおじい)の愛称で親しまれた元自民党衆院議員、塩川正十郎(しおかわ・まさじゅうろう)氏が19日午前10時15分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。93歳だった。
まとめ
今回は、小泉純一郎政権での財務大臣など大臣を歴任し、「塩爺」の愛称で親しまれた政治家・塩川正十郎さんについてまとめてみました。
塩川正十郎さんは、戦前の生まれで、戦争中に慶應義塾大学経済学部を卒業された学歴を持ち、戦争終結後に会社を設立され、その後衆議院議員に当選して国政入りした経歴を持たれています。
家系は戦国時代の河内国の国人領主の流れを汲む名家だと言われています。1954年に嫁の鈴子さんと結婚され2男1女を儲け、息子の塩川耕士さんは名阪近鉄バスの社長を務められています。
孫の塩川憲史さんが大阪府議会議員に当選し、政治の世界に入った事も話題になっています。
名言や失言などでも話題を集めた塩川正十郎さんでしたが、2015年に93歳で逝去されています。死因は「肺炎」と発表されています。