元政治家の森喜朗さんですが、がん手術後の現在の激やせした姿が話題となっています。
この記事では、森喜朗さんのこれまでの経歴と嫁と子供など家族情報、息子の森祐喜さんの死去の真相、そして現在の状況についてまとめてみました。
この記事の目次
森喜朗のプロフィールと生い立ち
名前:森喜朗(もり よしろう)
生年月日:1937年7月14日
出身地:石川県能美市
身長:175cm
在任期間:1969年12月~2011年12月
森喜朗、幼少期に母親を亡くしていた
森喜朗さんの実家については、石川県能美郡根上町(現:能美市)の庄屋の家系であり、祖父の喜平さんの代には根上町長に就任するような名家だったようですね。
とはいえ、4歳の時に太平洋戦争が勃発するなど、生まれて来る時代には恵まれなかった森さんは、軍人をしていた父・茂喜さんが戦地に赴いた他、母・薫さんが1944年11月に癌で病死してしまうなど、暗い幼少期を過ごすことになりました。
薫さんが病死した時点で2男1女を儲けていた森家ですが、子供たちの世話は喜平さんが引き受けてくれていたと言われております。
その後1946年1月になると、茂喜さんが戦地から復員したため、森家にもようやく日常が戻って来ることになりました。
森喜朗、悪ガキだったが周囲の大人には恵まれていた
森喜朗さんの父である森茂喜さんについては、復員直後に根上町の町会議員となり、後に町長も務めるような地元の名士でしたが、人格的にもかなり立派な人物だったようで、弱者に対する思いやりなども深い人物でした。
小学時代の恩師たちにも人格者が多かったらしく、後に地元の中学の校長となった湯口善作さんなどは、学校のトイレの汲み取り作業を嫌がる森さんたちに対して、肥桶に手を突っ込みながら作業の必要性を諭いたこともありました。
喜朗少年は、自分の家の便所の汲み取りのお手伝いはやっていたのですが、さすがに学校のそれは、嫌で嫌で仕方ありませんでした。尻込みしている喜朗少年たちを前に、湯口先生は、満杯の肥桶(こえおけ)に自分の右手を突っ込んでこう言ったのです。 「何が汚いか。みんな君らが出したものじゃないか。これが肥料になって米や野菜がとれるんだ」
引用:先生との出会い
小学時代は腕白坊主であり、同級生をイジメて職員室に呼びされることも度々あった森さんでしたが、成長するにつれて父親や恩師たちの言っていた言葉の意味を理解するようになり、人としての在り方を学ぶことが出来たそうですね。
森喜朗、高校時代はラグビー部のキャプテンを務めていた
大のラグビー好きで知られている森喜朗さんですが、ラグビーとの出会いは小学5年時となります。
当時の根上町では、町会議員をしていた父・茂喜さんがOBだった縁で早稲田大学ラグビー部の合宿を招致していました。
娯楽の少ない時代だったこともあり、物珍しさも手伝い早稲田大学ラグビー部の練習を見学していた森さんは、泥まみれになりながらも練習に打ち込む選手たちの姿を見てラグビーの虜になってしまったそうですね。
その後、石川県立金沢二水高校に進学した森さんはラグビー部に入部することになりますが、ラグビー選手としては小柄だったこともあり、周囲の評価は低かったと言われております。
元々腕白坊主で負けん気が強かった森さんは、周囲を見返すために夜遅くまで練習に打ち込み、スタンド・オフというポジションでレギュラーを取った上に、キャプテンまで任される成長を見せることになりました。
森さんがキャプテンを務めた時代の金沢二水高校ラグビー部は、全国大会出場の夢は叶わなかったものの、北陸三県大会で準優勝を遂げるなどそれなりの強豪チームでした。
森喜朗、早稲田大学にスポーツ推薦で入学
高校卒業後の森喜朗さんについては、当時の早稲田大学ラグビー監督だった大西鐵之祐さんが父・茂喜さんの友人だったこともあり、早稲田大学商学部にスポーツ推薦入学を果たし、ラグビー部に所属することになりました。
とはいえ、ラグビーの名門中の名門であった早稲田大学ラグビー部は、全国から猛者が集まる場所だったこともあり、さしもの森さんも負けん気だけでは練習についていくことが出来ずに、胃炎を患い吐血するまで追い詰められてしまいます。
結局、入部4ケ月でラグビーを退部するという挫折を味わう羽目になった森さんでしたが、大西監督からのアドバイスもあり、大学の方は退学せずに留まることになったそうですね。
同時に大学を退学することも考えましたが、大西鐵之祐監督に「ラグビーをやれなくなったから大学を辞めるのというのは、実に愚かな考えだ。大学生活で、ラグビー部のレギュラーになる以上の何かをつかみとれ」と一喝され、大学にとどまることにしました。
引用:人生は挑戦の連続
ラグビー部退部後の森さんについては、今度も茂喜さんの知人である同郷の早稲田大学院生から「雄弁会」への入会を勧められたため、大学2年への進級を機に同クラブへ所属しております。
「政治家の登竜門」とも称されている「雄弁会」は、戦前から数多くの政治家たちを輩出している名門となりますが、森さんが所属していた時代も先輩に青木幹雄さん、後輩に小渕恵三さんがいるような豪華メンバーでした。
森喜朗の経歴~新聞記者から政治家していたに転身していた
森喜朗、産経新聞記者を経て政治家に転身
大学卒業後の森喜朗さんについては、「雄弁会」時代に知り合った元労働大臣・千葉三郎代議士の伝手で産経新聞社に入社しています。
入社後の森さんに関しては、「雄弁会」時代より政治家という職業に興味を持っていたことも手伝い、政治部で働くことを望んでいたものの、実際の配属先は「日本工業新聞(現:フジサンケイ ビジネスアイ)」でした。
希望の配属先に回されずに挫折感を味わうこととなった森さんでしたが、取材活動を経て当時の有力財界人とのコネが出来るなど、悪いことばかりではなかったようですね。
その後、自民党系の代議士である今松治郎さんの秘書を経て、1969年に32歳の若さで衆議院議員総選挙に出馬することとなった森さんですが、泡沫候補扱いをされていたため自民党からの公認を貰えない苦しい船出となりました。
本来ならばそのまま落選の憂き目となっていた森さんでしたが、今松さんの伝手で元総理大臣の岸信介さんが応援演説にやって来るといったサプライズが起こり、下馬評を覆しての当選を果たしています。
森喜朗、総理大臣時代は失言王と大バッシング
森喜朗さんといえば、2000年4月から2001年4月にかけて日本の第85~86代総理大臣を務めたことでもお馴染みとなります。
森さんが総理大臣を務めることとなった経緯は、大学の後輩だった小渕恵三さんが任期中に脳梗塞で逝去してしまったことを穴埋めするための緊急登板だったわけですが、失言が相次いだためにマスコミから大バッシングを受けております。
その結果、政権末期には支持率が7%台を記録するなど、戦後最も不人気な総理大臣となってしまった森さんは、就任1年程度で辞任に追い込まれる羽目になりました。
森喜朗、意外にも実務能力が高かった?
総理大臣時代のせいで、国民からは無能な人間だと思われている感のある森喜朗さんですが、官僚筋からは有能な実務家との評価が高いようですね。
森内閣時代に実際に外交官として働いていた作家の佐藤優さんなども、森さんの実務能力について絶賛しています。
佐藤:森喜朗というとサメの脳みそ、ノミの心臓というイメージで語られますが、実際は非常に精緻な思考をする人で常に温厚、そしてとてもよく勉強している。
会談でも条約文や事実関係の日付、統計上の数字、固有名詞のカードを作る。基本的にはアドリブですが、大事な部分はカードで確認するから絶対に間違えない。実はロシアのプーチンもこのスタイルとまったく同じ。 我々外交官にとっては、森さんのやり方がベストでした。事実、森内閣では様々な交渉が動いた。
森さんの実務能力の高さは若手議員時代から発揮されていたそうで、文教族の一員として「私立学校振興助成法」の成立に多大な貢献を果たすなど、一代で自民党の有力政治家になるだけの実績を残し続けました。
その他にも、総理大臣時代の「失言大王」のイメージとは裏腹に、温厚で人当たりの良い性格をしている森さんは、周囲の人間から慕われている名望家でもあります。
森喜朗(元首相)先生は、世間ではいろいろ言われますが、言葉のキャッチボールがとても上手。明るくて楽しい「良いしゃべり」だから、周囲はいつも笑いが絶えません。
森喜朗、総理大臣辞任後の現在もキングメーカーとして絶大な影響力
総理大臣としての任期は1年程度で終わってしまった森喜朗さんですが、辞任後も自民党内での影響力はまったく衰えずに、自身の派閥から3人の総理大臣(小泉純一郎さん、安倍晋三さん、福田康夫さん)を輩出するなど、キングメーカーとして君臨していました。
外交関係にも顔が利く森さんは、ロシア大統領であるウラジーミル・プーチンさんとは親友の間柄であることは有名ですが、2019年に開催されたラグビーW杯の招致に多大な貢献をしていたことでも知られています。
専門誌などによれば、2005年に行われた2011年ワールドカップの決選投票で日本がニュージーランドに敗れた翌朝、当時の国際ラグビー評議会会長シド・ミラー会長のもとに乗り込み、そこで「仲間内だけでパスを回すのか」と、まくしたてた。記事ではこのような、はっきりと意見を言う努力をしていることを紹介し「森会長の存在なくして招致は実現しなかったことは確か」であると述べている。
引用:森喜朗
森喜朗の結婚した嫁と子供について~息子・森祐喜は薬物中毒で死亡?
森喜朗、早稲田大学の同級生・智恵子さんと結婚
森喜朗さんの妻に関しては、早稲田大学時代の同級生である智恵子さんとなっており、大学を卒業してから1年後に結婚をしています。
2人の馴れ初めについては、留学生と早稲田大学生が交流を深める主旨で設立された「国際学友会」というサークルに、森さんが顔を出した際に知り合うこととなったそうですね。
「代議士の妻」という重役を長年務めて来た智恵子さんですが、森さんが見かけによらずに毎日1回は妻宛に電話をかけて来るなど細かい気遣いの出来るタイプの男性だったため、夫婦仲はかなり良好だと言われております。
一方、森にもこんな秘話がある。じつは、森は毎日1回は必ず夫人に電話をかけている。とくに用事がなくても、『今日も無事に生きていたからね』とか、『家にいたんだね』といった具合。一見、ぶっきら棒に見える森だが、なかなか神経のこまやかな愛妻家、ラブラブ夫妻なんです」
息子・森祐喜は「押尾学事件」の関係者?
森喜朗さんには、跡取り息子となる長男・森祐喜さんもいました。高校は玉川学園高等部に通っていた祐喜さんですが、勉強の方は苦手だったらしく、玉川大学に内部進学することが出来ずに東海大学に進学したものの、結局はそちらも中退しております。
大学中退後はアメリカ留学をした後、父である森さんの秘書を務めるなど下積み時代を過ごしていた祐喜さんは、2006年になると石川県議会議員補欠選挙に出馬して政治家へと転身を果たすことになりました。
森祐喜さんと「押尾学事件」の被害者・田中香織さん。
本来なら順風満帆な未来が待っているはずの祐喜さんでしたが、大物政治家の息子としてチヤホヤされる立場が祟ったのか、夜の繁華街で豪遊しているとの噂が噴出するほど素行が悪く、2009年に起こった「押尾学事件」の関係者として名前が挙がる始末でした。
「押尾学事件」に関しては、元俳優・押尾学さんの単独犯として裁判が終わっています。一方で、祐喜さんと押尾さんが遊び仲間だったうえ、被害者・田中香織さんの勤めていたクラブの常連客だったことから、事件現場には祐喜さんも居合わせていたのではないかとの噂が根強い状況となります。
森喜朗語るなら亡くなった馬鹿息子に触れないとねぇ。飲酒運転事故、薬物疑惑、不審死。押尾学の六本木ヒルズホステス薬物死亡事件も息子が現地にいて薬物パーティしてたのは公然の秘密。森喜朗氏が警察に働きかけてもみ消したのは有名ですし。
— 防人 ラグビーW杯🏉 (@yxo0JjouJeuHegt) January 28, 2019
息子・森祐喜が46歳で急逝…薬物死亡説や暗殺説も
森祐喜さんは2010年に飲酒運転が原因となり県議会議員を辞職。2011年7月25日に急性膵炎による多臓器不全で亡くなっています。
五輪・パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長の息子森祐喜享年46歳は薬物中毒で死去。田中香織さん死亡の際いたのは押尾学じゃなく森浩喜氏と、押尾学にお金が渡されているとの事、息子の女性関係の始末にも森会長が2,000万円出したと
— Chiyohime (@SherryChiyohime) August 4, 2016
https://t.co/s8TNzytHLE
死因については長年の薬物中毒が原因といわれており、ネット上では暗殺説まであったようです。
祐喜氏が事件に関与したという証拠は何もないが、押尾逮捕後の10年、飲酒運転でコンビニに突っ込む大事故を起こして県警に逮捕されており、このときは「車から降りる際に足下がよろめき、意味不明な言葉を発していた」という報道もあり、ドラッグ使用のウワサも流れた。この事故をきっかけに議員辞職した祐喜氏だったが、まるで薬物依存者のようにその後は体調不良を繰り返し、翌年にこの世を去っている。
森喜朗、長女には孫も生まれていた
森喜朗さんには、長女・陽子さんもいます。「デジタルハリウッド」や「ツタヤオンライン」の設立などに貢献した実業家の藤本真佐さんと結婚している陽子さんには、既に孫も2人生まれているそうです。
森喜朗の現在~がん手術後の激やせぶりに心配の声
森喜朗さんは、2012年11月に政治家を引退した後は、東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長や日本ラグビー協会の名誉会長を務めるなど、悠々自適な老後を過ごしていました。
しかしながら、どんな人間も忍び寄る病魔には勝てないらしく、肺がんを患うこととなった森さんは、2015年春に手術を受けたものの再発し、抗がん剤治療を受けてました
副作用から、一時期は酸素ボンベなしでは移動が困難な状況に陥り、医師から余命宣告を受けていたという森さんでしたが、がん免疫治療薬「オプジーボ」を試したところ、劇的に体調が回復することとなり、再び公務に復帰することが出来ました。
とはいえ、往年の精悍さが見る影もなく激やせしている森さんには、常に体調不安説が付きまとっており、2019年4月に「組織の若返り」を理由にラグビー協会名誉会長を辞任した際には、ネット上でも「いよいよ危ないのでは?」との憶測が流れました。
11名無しさん@恐縮です2019/04/17(水)
どうしたんだろう
体力的に厳しいのかな
41名無しさん@恐縮です2019/04/17(水)
名誉職さえ辞任せざるを得なくなったってことは
ラグビーw杯前に死去して水をささない為だろう
遅くても今年中に逝く状態だな
森喜朗の痩せ方が心配なう。 https://t.co/7RLj1rxTe9
— 日高 (@akazuki1287) May 11, 2019
森喜朗についてまとめると…
・森喜朗の息子・森祐喜は押尾学事件の関係者だったとみられ、2011年7月25日に薬物中毒が原因で46歳で死去した
・森喜朗は現在、肺がん手術後の激やせぶりに心配の声があがってる
マスコミには評判の悪い森喜朗さんですが、プライベートを知る人物には「気の良い近所のおじいさん」との評価となっているようですね。
森さんが無事東京五輪開幕を迎えられることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。