瀬戸内シージャック事件

瀬戸内シージャック事件の犯人は川藤展久!狙撃手が弁護士に告発された経緯などその後も総まとめ

1970年に発生した人質を取って船に立てこもった「瀬戸内シージャック事件」は、本人が警察に射殺されると言う衝撃的な幕切れで解決した事件です。


この記事では「瀬戸内シージャック事件」の詳細や犯人である川藤展久の生い立ちや犯行動機、弁護士に告発された狙撃手のその後等について詳しくまとめましたのでご紹介します。

「瀬戸内シージャック事件」の概要

 

犯人の射殺について物議をかもした事件


「瀬戸内シージャック事件」とは、1970年(昭和45年) 5月12日から13日かけて発生した、本人である川藤展久が人質を取って船に立てこもった事件です。

犯人である川藤展久(当時20歳)は警察をまくために逃げてきた行き着いた先の広島県の宇品港(広島港)において、停泊してあった定期旅客船「ぷりんす号」に乗り込み、ライフルや散弾銃を武器に乗客約40名を人質に取り立てこもりました。


川藤展久が警察との応戦の中で射殺されたことで、日本における戦後初となる犯人射殺による解決を見た事件となりました。


「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれるこの事件は、犯人射殺が基本的に認められていない日本において物議を醸すこととなり、自由人権協会北海道支部所属の弁護士が狙撃手を告発しました。


事件が発生した最中には犯人狙撃に肯定的だったマスコミ各社は手のひらを返したように警察や狙撃手を批判するように。そのため、この「瀬戸内シージャック事件」はその後の凶悪犯による人名の危険がある事件が発生した際にも、警察が発砲について慎重にならざるを得ない風潮を招いた事件でもあり、現在までにたびたび引き合いに出されて議論されてきました。

 

 

「瀬戸内シージャック事件」犯人・川藤展久の生い立ち

 

父親が船員だったことが川藤展久を港に向かわせた?

 

日本犯罪史上でまれに見る逃走劇を繰り広げた凶悪犯・川藤展久は、岡山県にて6人兄弟の三男として1949年に生まれました。


父親は船員をしており、母親は熱心な新興宗教団体の信者だったそうで、子供たちは両親があまり家にいない中で育ったとされています。


親の愛情が欠如していたせいか、川藤展久は小学校時代から家出や窃盗を繰り返して、悪さの限りを尽くした結果少年院に入りました。


少年院を仮退院しても川藤展久は微塵も更生することなく再び窃盗を繰り返しました。


中学校1年間通った後にいかなくなった川藤展久は、東京、広島、福岡など全国を転々と流浪するようになり、暴力団の小間使いのようなことをして生活費を稼いでいました。


それでも1967年に川藤展久は広島県にて工員の仕事につきましたが、同時期に20件以上に及ぶ窃盗事件を起こしで逮捕され2年間服役。出所後、20歳になった川藤展久は1970年に「瀬戸内シージャック事件」を起こして射殺され生涯を閉じることになりました。

 

 

「瀬戸内シージャック事件」詳細① 逃亡のきっかけは盗難事件だった

川藤展久、逃亡のきっかけは連行されたパトカー内での事件

凶悪犯・川藤展久が警察に追われた

 

「瀬戸内シージャック事件」が発生する2日前の1970年5月10日に、川藤展久は広島県三原市にあるパチンコ店で知り合った当時10代の少年2人と共謀して、福岡市内で自動車を盗み、広島県方面に向けて走らせていました。


その翌11日の深夜0時20分頃、川藤展久と少年2人を乗せた車は山口県厚挟郡山陽町(現・山陽小野田市)を走る国道2号線において、追い越し禁止区域において前方の車を追い越したため、検問を張っていた警察に停車命令を受けました。


警察の調べにより盗難車両であることが発覚し、川藤展久と少年2人はその場で現行犯逮捕されました。


警察は3人を盗難車とパトカーそれぞれに分乗させて警察署まで連行しようとしましたが、3人は車内で警察官に抵抗を始めました。


川藤展久は事前に広島県の民家から盗難していた猟銃を持ち出して警察に突きつけて脅し、その隙に少年がナイフを取り出して警察官を刺しました。


幸いこの警察官の傷は全治2週間の軽傷であり命に別状はありませんでしたが、盗難車に乗せられて連行される途中だった川藤展久と少年はこの隙に逃亡しました。なおパトカーで連行されていたもう1人の少年は警察署まで連行されました。

 

川藤展久、逃亡し続けた

川藤展久は最後の1人になっても逃げ続けた

 

警察をまくことに成功した川藤展久と少年は、新たに軽自動車を窃盗して山口県宇部市に逃亡し、市内で服装を変えた上で広島中央郵便局(元・広島東郵便局)を襲撃して逃亡資金を確保し大阪方面へ逃亡しようと企てました。


軽自動車を捨てた川藤展久と少年は、現在のJRである国鉄の山陽本線に乗って広島駅の1つ手前にある横川駅で下車し、市街の警察の目を避けるために広島駅付近にある双葉山を目指しました。


2人は5月11日の夜に、双葉山内にある平和塔(通称・仏舎利塔)で野宿をしましたが、翌12日に近隣住民が猟銃を持った怪しい2人組の男が居ると警察に通報したため、警察は双葉山付近の捜索を強化しました。


同日2時50分ごろに、警察官は一般市民の協力を得てトラックに同乗して川藤展久らを探していましたが、国鉄芸備線の踏切付近を歩いていた川藤展久を発見しました。


警察官は拳銃を抜いて川藤展久におとなしくするように命令しましたが、抵抗する素振りを見せたため威嚇射撃をしました。


しかし川藤展久が猟銃で協力者のトラック運転手を殺害すると脅してきたため、警察官は拳銃を下げ、川藤展久の言う通りにトラックを明け渡した上で荷台に拳銃とすべての銃弾を置きました。


そして、川藤展久はそのトラックを奪って運転手を脅し、広島市中心部へ行くように命令しました。


一方その頃別行動をとって逃げていた少年は、隠れていたところを警察官に見つかり格闘した末に逮捕されています。

 

 

「瀬戸内シージャック事件」詳細② ぷりんす号の占拠も狙撃され死亡

川藤展久、「ぷりんす号」を占拠

まるで映画のような逃走劇を繰り広げた川藤展久

 

トラック運転手を脅しながら広島中心部へとやってきた川藤展久は、市内にあった銃砲店に押し入り、脅しながらライフル銃と散弾銃3丁、ライフル弾80発と散弾250発を奪いました。


そして川藤展久はタクシーに乗り込んで運転手を脅し、宇品港に向かうように命令しました。


川藤展久は港の待合室に銃を乱射しながら押し入ると、事前に駆けつけて警戒に当たっていた警察官に向けて発砲して軽傷を負わせ、桟橋を抜けて停泊してあった瀬戸内海汽船に所属する定期旅客船「ぷりんす号」の船内に押し入りました。


川藤展久は「ぷりんす号」の船長に銃を突きつけて大きな街に向かうように命令し、17時15分頃に強制的に出航させました。


そして、「ぷりんす号」に乗船していた乗客39名と乗組員9名を人質にとり、シージャックした状態で瀬戸内海を走らせました。


警察はすぐに警備艇を出して「ぷりんす号」の後を追い、ヘリコプターを出して空からの追跡にも当たりましたが、川藤展久は警備艇はもちろんその辺を航行していた一般人のモーターボートや、マスコミがチャーターして追いかけていたセスナ機などに向けて発砲し、警察官に負傷を負わせました。

 

川藤展久が狙撃され死亡

射殺されて川藤展久の逃走劇は幕を閉じた

 

ハリウッド映画さながら川藤展久は警察や一般人など見境なく発砲し続けながら「ぷりんす号」を瀬戸内海を走らせ続けましたが、燃料が切れてきたことで5月12日21時40分頃に給油のために愛媛県の松山観光港に入港させました。


川藤展久は船長を脅して代理の交渉人として向かわせ、人質を解放する代わりに給油か別の船を手配するかを迫りました。


警察が給油に応じる姿勢を見せたため、川藤展久は乗客39名を約束通りに開放しましたが、乗組員9名だけは保険として人質とし続けました。


給油が完了した「ぷりんす号」は、翌13日の0時50分頃に出航し、その後今治市沖合を経て午前8時50分頃に宇品港へと帰還しました。


川藤展久がわざわざ宇品港へと引き換えした理由は既に逮捕された少年2人の釈放と合流であり、警察に少年2人を連れてくるように要求しました。


警察は川藤展久を説得するために岡山県に住んでいた川藤展久の父親と姉に協力を要請し、2人は川藤展久に投降するように説得しましたが、川藤展久は「帰れ!」と一喝すると激こうし、ライフル銃を乱射して警察官1人に重傷を負わせました。


また、現場上空を飛んでいた警察のヘリコプターに向かっても発砲して命中させましたが、幸い墜落は免れました。


川藤展久は再び船長を代理人に立てて、「警察と撃ち合いをして死にたい」「再びぷりんす号を出航させる」と言うことを警察に伝えさせ、警察は川藤展久が自暴自棄になっている可能性が高いことと再びぷりんす号を出航させることはなんとしても避けなければならなかったため、ここで初めて「犯人の射殺やむなし」と言う判断が上層部から下されました。


同日9時52分ごろに、川藤展久は「ぷりんす号」の甲板に出てきて警察に対して何かを訴え始めました。


この時「ぷりんす号」から約40メートル離れた防波堤の上から狙撃手が川藤展久を狙っており、それに気づくことなく叫び続けていた川藤展久は狙撃され左胸あたりを銃弾が貫通してその場に倒れこみました。


なお、この狙撃ではまだ川藤展久は絶命しておらず、船長の証言によればこの時「まだ死んでたまるか、もういっぺん」と言いながら甲板を這いながら銃を取ろうとしていたそうです。


川藤展久の狙撃を合図に警官隊が「ぷりんす号」になだれ込み、川藤展久はとうとう確保されました。


船長を始めとした乗員9名も無事保護され、「瀬戸内シージャック事件」は1人の死者も出さずに幕を下ろしました。


なお、続きはその後病院に搬送されましたが、午前11時25分ごろに死亡が確認されました。

 

 

 

「瀬戸内シージャック事件」犯人・川藤展久の動機

 

 

動機は不明のまま闇に葬られた

 

ハリウッド映画さながらの逃走劇を繰り広げた川藤展久ですが、射殺されてしまったためその犯行動機は闇に葬られることとなりました。


「瀬戸内シージャック事件」の2ヶ月前に発生した「赤軍派」が起こした「よど号ハイジャック事件」は、日本が欧米諸国の影響を色濃く受けて右傾化する中で、共産主義国家を目指して立ち上がった革命家らによる政治的犯行でした。


このように、ハイジャックなどの多数の人質を取って移動手段を確保する犯罪は、その多くが政治犯であるところ、川藤展久の犯行にはそうした政治色は一切なく、自堕落に生きてきた末に起こした犯罪から、なし崩し的に逃走劇に発展しシージャックを起こした場当たりな犯行でした。


川藤展久が銃の扱いに長けていた理由は暴力団との付き合いの中で得た可能性が考えられますが、川藤展久が最終的にどこに向かいたかったのかは不明です。

 

 

「瀬戸内シージャック事件」人権派弁護士が県警本部長・狙撃手を告発

 

日本において犯人射殺はセンセーショナルだった

 

アメリカでは犯人の射殺は日常茶飯事ですが、日本において「瀬戸内シージャック事件」においての川藤展久の射殺は世間に大きなショックを与え、人権派弁護士や一部の人権団体が批判の声をあげていました。


事件発生中は本人の狙撃に肯定的にだったマスコミも手のひらを返したように射殺したことを批判するようになり、自由人権協会北海道支部所属の弁護士が川藤展久を直接的に射殺した狙撃手とそれを支持した県警本部長に対して告訴しました。


こうした弁護士や人権団体、マスコミの犯人射殺を非難する論調とは裏腹に、世間の声は川藤展久の暴走による被害拡大を防ぐには射殺は止むを得なかったと言う声が大勢を占めており、川藤展久の父親も「親として、死んでくれてせめてもの償いができた」と警察の狙撃を全面的に肯定しました。


人権弁護士らが川藤展久の射殺を非難した背景には、「瀬戸内シージャック事件」が2ヶ月前に発生した「赤軍派」による「よど号ハイジャック事件」と重なる事件であり、川藤展久が模倣した可能性を考えてその後の模倣犯を防ぐための見せしめだと考えたためでした。


つまり、川藤展久の射殺は見せしめの裁判を通さない処刑と同じであり、これを許せば日本の司法のあり方が大きく揺らぐと考えたためでした。


なお、県警本部長はその後の証言で、川藤展久を射殺する目的での発砲ではなく、右腕を狙わせたものの銃弾が左胸に当たってしまった事故であったことを強調しました。

 

犯人の射殺は警察が意図したものではありませんでした。犯人への発砲を許可した県警本部長は「急所を外すように指示した」と後に述べていますし、犯人の右腕を狙った銃弾が左胸に当たってしまったという事実も明らかになっています。

瀬戸内シージャック事件における犯人への発砲の是非については様々な議論がありますが、この事件で警察が告発されたことを契機に警察の犯人への狙撃選択が慎重になったという指摘があります。

引用:Wikipedia – 瀬戸内シージャック事件とは。犯人・川藤展久の射殺は正しい判断だったのか?

 

 

「瀬戸内シージャック事件」狙撃手のその後現在…マスコミに追い詰められて辞職

 

 

 

「瀬戸内シージャック事件」において、川藤展久を狙撃することを命じられた大阪府警の狙撃手は、散々マスコミに吊るし上げられて実名や写真を公表されたことで悪人とされ、結果的に自ら警察官を辞職することとなりました。


当時の警察庁長官だった後藤田正晴さんは、狙撃手を務めた警察官はマスコミからの執拗な圧力を受けて耐えきれなくなり、辞職に追い込まれた事はかわいそうだと語っていました。


川藤展久に捉えられていた人質9名と応戦していた警察官の命を救ったとも言える狙撃手が悪人として祭り上げられてしまった「瀬戸内シージャック事件」は、非常に後味の悪い結末を迎えることとなりました。

 

 

「瀬戸内シージャック事件」についてまとめると…

・ 川藤展久は少年2人と車を窃盗したことが検問でばれてしまい、場当たり的に銃を発砲しながらの逃走劇につながった

・川藤展久は「ぷりんす号」の乗員乗客らを人質にとって逃走を続けたが、最終的に狙撃手に射殺され死亡した

・ 川藤展久を死亡させた狙撃手と県警本部長は人権は弁護士に告発されるも、川藤展久の父親は警察の狙撃を全面的に肯定している

・川藤展久を撃った狙撃手は、マスコミに追い詰められて辞職している

 

川藤展久の生い立ちや行動から考えられるのは、全てが場当たり的であり「瀬戸内シージャック事件」も思いつく行動を取っていっただけに過ぎないのかもしれません。

 

 

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  1. 狙撃手は正しい 人権団体は人のための組織ではない
  2. 狙撃手は正しいライフル銃で複数の警察官が撃たれて負傷
  3. 狙撃手は正しい犯人はライフルで警官を撃っている

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