Jリーグで3年連続得点王に輝き、「日本最強」とも評されていた元プロサッカー選手の大久保嘉人さん。
2004年12月に中学校からの恩師の娘・林田莉瑛さんと結婚しましたが、大久保嘉人さんの嫁と子供4人や性格、そして引退までの活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
この記事の目次
大久保嘉人のプロフィール・生い立ちと経歴
”百獣の王”と評されていた大久保嘉人
大久保嘉人さんはフォワードとして多彩な能力を持つ「日本最強」とも呼び声高い天才ストライカーでありながら、ミッドフィルダーとして的確なチームの組立ができるオールラウンダーの選手でもありました。
大久保嘉人さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 大久保 嘉人(おおくぼ よしと)
愛称: ヨシト、百獣の王
生年月日: 1982年6月9日
出身地: 福岡県京都郡苅田町
身長: 170cm
体重: 73kg
利き足: 右足
引用:Wikipedia – 大久保嘉人
大久保嘉人さんは2018年に約1年ぶりにFC東京から古巣の川崎フロンターレに復帰し、ホームに登場する際に2018年のFIFAワールドカップ・ロシア大会にちなんでマトリョーシカの中から登場してサポーターを沸かせ、「おかえりなさい」の喝采を浴びていました。
大久保嘉人さんはサポーターに向けて「やっぱり(川崎フロンターレが)好きなんだなと感じた」と心境を率直に語りました。しかし、シーズン途中でジュビロ磐田に移籍、2020年には東京ヴェルディに移籍をしています。
2020年は自身初のシーズン無得点で終えた大久保嘉人さん。2021年に15年ぶりとなるセレッソ大阪へと復帰し復調の兆しを見せていましたが、シーズン限りで引退となりました。
それでは、大久保嘉人さんの現在までの活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介しましょう。
大久保嘉人、トラック運転手の父に可愛がられて育つ
トラック運転手の父に可愛がられた大久保嘉人
大久保嘉人さんは両親と姉・久美さん、妹・鮎美さんの5人家族です。
大久保嘉人さんは子供時代にはトラック運転手だった父親について夜中まで配達を手伝っていたそうですが、姉と妹には厳しかったものの自分だけ優しかったそうです。
サッカー好きだった父親が購入していたサッカーの神様と呼ばれるペレやディエゴ・マラドーナなどのビデオを大久保嘉人さんは幼少期から観ていましたが、小学校2年生までは父親と野球や釣りをしており、3年生の頃に苅田サッカースポーツ少年団に入団しました。
大久保嘉人さんはDFのストッパーをしていましたが、小学校6年生の頃からFWに転校して才能を発揮していきました。
大久保嘉人、長崎県立国見高校へ越境入学
大久保嘉人の出身小学校は不明
大久保嘉人さんの出身小学校の情報はありませんが、福岡県京都郡苅田町出身であることから同地区の小学校でしょう。
小学校時代からサッカーの才能を開花させていた大久保嘉人さんは、1994年にU-12福岡県選抜に選ばれるほどでしたが陸上競技も並行してやっていました。
大久保嘉人さんは全国小学生陸上競技交流大会への出場経験を持ち、サッカーでは北九州市選抜チームのメンバーとして鹿島アントラーズと横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)の前座試合で他の福岡県選抜チームと対戦して5得点を挙げる活躍を見せ、鹿島アントラーズのサポーターからは「大久保」コールを受けていました。
長崎県立国見中学校に進学した大久保嘉人
大久保嘉人さんは1992年度の「全国高校サッカー選手権」を優勝した長崎県立国見高校に憧れて長崎県国見町(現雲仙市)の町立国見中学校に進学する為に単身長崎に移住しました。
ちなみに国見高校は私立でないため、有力選手を監督が雲仙市立国見中学校に移動させ、その後、入試を経て国見高校に入学させているようです。
大久保嘉人さんの国見中学校への進学について、裕福ではなかったものの父親が借金をしてまで移住にかかる費用を捻出し後押しをしたそうです。
そして、大久保嘉人さんがひとり長崎に旅立つ日には父親は号泣しながら送り出してくれたそうです。
長崎県国見町(現雲仙市)の町立国見中学校へ入学した大久保嘉人さんは、後に結婚する嫁・林田莉瑛さんの父親である長崎県立国見高等学校サッカー部総監督の小嶺忠敏さんが中高一貫で指導するために作ったサッカー養成スクール「小嶺アカデミースクール」に入ります。
大久保嘉人さんは中学校時代には2、3年と連続で全国大会に出場していずれもベスト8入りを果たし、U-15長崎県選抜チームにも選ばれました。
大久保嘉人さんは2年生の頃にレギュラーの座を獲得し、3年生の頃にインターハイや国体、全国選手権大会に出場していずれも優勝を果たし、見事に三冠を達成するのに貢献しています。
当時から大久保嘉人さんは抜きん出たドリブルやパス、シュートの技術を持っており、前述の大会では得点王にも輝いています。
天皇杯全日本サッカー選手権大会では大久保嘉人さんは2年、3年時に二度出場しており、U-19日本代表へも選抜されています。
大久保嘉人のプロサッカーデビューから引退までの活躍まとめ
大久保嘉人、高校卒業後はセレッソ大阪に入団
大久保嘉人をめぐってクラブチームの争奪戦になった
才能あふれる活躍を見せてきた大久保嘉人さんを獲得するために、複数のJリーグ所属クラブが争奪戦を見せました。しかし、恩師で義父となる小嶺忠敏さんからセレッソ大阪かアビスパ福岡を勧められたため、目標としてきた森島寛晃さんが所属していたセレッソ大阪に2001年に加入しました。
大久保嘉人さんのJリーグ人生の始まりは苦難に満ちたものでした。
セレッソ大阪加入早々に左三角靱帯損傷の重傷を負ってしまい、ワールドユースへの出場を逃したばかりか、リーグ戦の試合もほとんどが途中出場を余儀なくされシーズン通して2得点に終わりました。
そして、セレッソ大阪は総合順位が16位でシーズンを終えたことでJ2降格が決定しましたが、セレッソ大阪を対談するか悩んだ末に小嶺忠敏さんに相談したところ残留を勧められたため留まりました。
好転し始めた大久保嘉人
大久保嘉人さんは2002年のシーズンからは第3節の湘南ベルマーレ戦で2得点を挙げたことをきっかけにして調子を取り戻し活躍を始めました。
本領を発揮できるようになった大久保嘉人さんは2002年シーズンに29試合に出場でき、アルビレックス新潟所属のマルクスに次いで18得点を挙げて得点王ランキング2位になり、セレッソ大阪を再びJ1に復帰させる大きな貢献をしました。
その後も大久保嘉人さんは2003年シーズンでは24試合に出場して日本人としては最多となる16点を挙げ、2004年シーズンにはジェフ市原戦でプロデビュー後初のハットトリックを決めるなどして22試合で15得点を挙げました。
大久保嘉人、スペイン・RCDマヨルカに移籍
スペイン、リーガ・エスパニョーラに挑戦した大久保嘉人
大久保嘉人さんはオリンピックでの活躍から世界で注目されるようになり、スペインのリーガ・エスパニョーラ所属のRCDマヨルカへ2004年11月に期限付きで移籍しました。
大久保嘉人さんは第18節のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で初出場して1アシスト1得点を挙げる活躍を見せたものの、その後不調続きとなり試合への出場が減っていきました。
しかし、リーグ終盤に先発出場の機会を得た大久保嘉人さんは第36節、37節と立て続けに1得点を挙げ、他に2アシストとPKの獲得などから2部降格の危機にあったRCDマヨルカをギリギリで残留することに貢献しました。
大久保嘉人、古巣のセレッソ大阪に復帰
古巣、セレッソ大阪に復帰した大久保嘉人
大久保嘉人さんは帰国して2006年6月にセレッソ大阪へ復帰しましたが、6戦連続で無得点という調子の悪いスタートとなりました。
しかし、7戦目となる京都パープルサンガ戦で2得点を挙げた大久保嘉人さんは調子を取り戻したものの、シーズン終了時に17位だったことからセレッソ大阪はJ2降格が決定しました。
大久保嘉人、ヴィッセル神戸に移籍
大久保嘉人、ヴィッセル神戸に移籍
セレッソ大阪で結果を残せなかった大久保嘉人さんでしたが、2007年1月にヴィッセル神戸から移籍金3億円オファーがあり移籍をしました。
三浦淳宏さんが負傷で抜けることに合わせて大久保嘉人さんはこれまでに無かったウイングバックに入る形でヴィッセル神戸でのプレーをスタートさせました。
このポジションにより大久保嘉人さんはチームメイクを重視したプレーができるようになったと語っており、同チームのキャプテンも務めたことから技術的、精神的な支柱としてチームを支えました。
大久保嘉人、ドイツ・VfLヴォルフスブルクに移籍
ドイツ・ブンデスリーガに挑戦した大久保嘉人
大久保嘉人さんはドイツのブンデスリーガ所属のVfLヴォルフスブルクで監督を務めるフェリックス・マガトの熱烈なオファーにより2009年1月に移籍しました。
同チームでは日本代表の頼れるキャプテン・長谷部誠さんがすでにプレーしていましたが、共演する形で2008年シーズンから大久保嘉人さんはプレーを始めました。
しかし、大久保嘉人さんのポジションにはグラフィッチやエディン・ジェコなど名プレーヤーが名を連ねていたため、ヨーロッパのフィジカルの強い選手に合わせた戦い方において不利だったことから出場機会には恵まれませんでした。
大久保嘉人さんは日本のワールドカップ出場を見据えたことや、自身を評価していたフェリックス・マガトが退任することに合わせて帰国を決意しました。
大久保嘉人、ヴィッセル神戸に復帰
日本でのプレーに落ち着いた大久保嘉人
大久保嘉人さんは帰国して2009年6月に古巣・ヴィッセル神戸へ復帰しました。
大久保嘉人さんは2008年からフル出場していたこともあり、シーズン終盤にはスタメンから外れて途中出場も増えたものの、それでもチームトップタイとなる8得点を挙げる活躍をしました。
大久保嘉人さんは2010年シーズン開幕前に左膝内側側副靭帯損傷で全治6週間の怪我を負ってしまいますが、開幕戦には包帯を巻いて出場しギリギリ間に合いました。
しかし、試合で鼻骨骨折に見舞われるなど不運が続き、大久保嘉人さんは度重なる怪我でワールカップメンバーから外れると見られていましたが、2010年5月10日に発表されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会の選抜メンバーに名を連ねることができました。
そして、大久保嘉人さんは日本代表として2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に大きく貢献しました。
大久保嘉人、川崎フロンターレに移籍
川崎フロンターレへ移籍した大久保嘉人
大久保嘉人さんは川崎フロンターレから熱烈なオファーを受けて、2013年1月に2年の期限付きで契約を結びました。
大久保嘉人さんは川崎フロンターレへ移籍後の第16節浦和レッズ戦でJ1において通算100得点目を挙げました。
そして、大久保嘉人さんはチームの主力として牽引し、シーズン終了時には自己最高となる26得点を挙げて得点王に輝きました。
大久保嘉人さんは2012年2月を最後に日本代表メンバーから外れていましたが、この好調ぶりが評価されて不調続きだった香川真司さんや柿谷曜一朗さんなどに代わって2014年5月12日にFIFAワールドカップ・ブラジル大会の日本代表メンバーに選ばれました。
その好調ぶりは継続しており、大久保嘉人さんは2014年シーズンも18得点を挙げて2年連続で得点王に輝き、2年連続での得点王獲得はJリーグ史上初の快挙でした。
さらに、大久保嘉人さんは2015年シーズンも23得点を挙げて、Jリーグ発足から前人未到の3年連続得点王に輝き、「日本最高のストライカー」と称されるようになりました。
大久保嘉人を愛してきた父が他界
大久保嘉人さんの父親である克博さんは、長崎県立国見中学校へ進学させ一番支えてきてくれた存在でしたが、大久保嘉人さんがプロ入りした数年後に肺気腫により肺の半分を切除し、肝臓癌や肺炎により床に伏せる日々が続いていましたが2013年5月12日に他界してしまいました。
大久保嘉人さんが2014年のワールドカップ出場を決めた1年ほど前に、死期を迎えていた克博さんは病院のベッドの上で「嘉人頑張れ!大久保嘉人!」「日本代表になれ、空の上から見とうぞ」と書いたメモを残していました。
このメモは克博さんが2013年5月12日に亡くなった後に病室から発見されました。
克博さんは度重なる病気でろくに手に力も入らない状態で弱々しい文字でしたが、常に愛する息子の大久保嘉人さんの活躍を応援し続けていました。
大久保嘉人さんはその震える手で書かれた父親の激励を見て、もう一度日本代表に返り咲くために努力した結果2014年のワールドカップ・ブラジル大会で父親の願いを叶えました。
大久保嘉人、FC東京に移籍
大久保嘉人は二度目のオファーでFC東京に移籍
大久保嘉人さんは過去にオファーを受けていたFC東京からの2年ぶりに再オファーを受けて、その熱意に応えるように移籍を決めました。
しかし、大久保嘉人さんを高く評価していた篠田善之監督はシーズン途中で解任されてしまい、新監督の安間貴義さんの元ではシャドーストライカーとしてFWとMFの中間のラインを任され、28試合に出場して8得点を挙げました。
大久保嘉人、川崎フロンターレに復帰
2018年は古巣、川崎フロンターレでプレー
大久保嘉人さんは川崎フロンターレから復帰のオファーを受けて2018年に復帰してプレーしています。
大久保嘉人さんがFC東京を1年で離れて川崎フロンターレに復帰したことにネット上では批判の声も挙がっているようですが、大久保嘉人さんはそんな声に対して以下のように答えています。
「もちろん批判されるでしょう」と、自身もよく理解した上で「でも関係ないですから。批判する人たちが俺の代わりにやってくれるのならいいですけど、やるのは俺だから。サッカー人生の17年間、ほぼ批判されていますからね」と、批判を気にせずに自身のプレーに集中すると語る。
大久保嘉人さんがFC東京に移籍した翌シーズンで川崎フロンターレはクラブ史上初のタイトルを獲得したこともあり、正直「いいなぁ」という思いがあったそうです。
それでも大久保嘉人さんは川崎フロンターレが三冠や四冠を獲るチャンスがあったことを指摘し、自身が復帰したことでそれを叶えるためにチームに貢献することが目標だと語っています。
大久保嘉人、ジュビロ磐田に移籍
しかし、2018年5月頃から登録メンバーから外れることが多くなり、その時期にオファーのあったジュビロ磐田に移籍しました。
2019年シーズンも出場機会に恵まれず、プロキャリアでワーストとなる1得点でシーズンを終え、12月には契約終了で退団となりました。
大久保嘉人、東京ヴェルディに移籍
2020年1月には東京ヴェルディへ完全移籍。2020年は19試合に出場しましたが、シーズン無得点のまま終わりました。
大久保嘉人、セレッソ大阪に復帰
一年で東京ヴェルディを去ることになった大久保嘉人さんは、2021年1月に15年ぶりとなるセレッソ大阪への復帰を果たしました。3試合連続ゴールを決めるなど活躍も見せていましたが、11月19日、シーズン限りでの引退を発表しました。
この日の練習前にチームメートに伝え、クラブを通じては「20年間という長い期間、プロサッカー選手として走り続けられたのは日本サッカー界、そして所属させてもらったクラブの関係者、ファン・サポーターの皆さまのおかげです。本当に感謝しかありません」とコメントした。
大久保嘉人、2021年に現役を引退
出典:https://news.livedoor.com/
引退会見での大久保嘉人
大久保嘉人さんは2021年11月22日、大阪市内のホテルで引退記者会見を開きました。引退理由については、「動けるうちにやめたいと思っていた。それが今だと思った。」と語っています。
サッカーJ1、C大阪の元日本代表FW大久保嘉人(39)が22日、大阪市内で引退記者会見を行い「悔いのないサッカー人生を終えることができて今は幸せです。最高です」と21年間の現役生活を振り返った。
引退を決断した理由を「自分は動けるうちに『まだできるよ』と言われるうちにやめたいと思っていた。それが今だと思った」と明かした。
11月27日のホーム最終戦では6試合ぶりに先発し、シュート4本など気迫あふれるプレーを見せ、有終の美を飾りました。
引退するとは思えないプレーだった。ホーム最終戦となったC大阪の元日本代表FW大久保嘉人(39)は「久しぶりに楽しくサッカーをさせてもらいました」。“らしさ”全開で積極的にゴールを狙い、後半40分の交代までに両チーム最多のシュート4本。その奮闘に応えるようにDF西尾の逆転弾で勝利した。
J1で歴代最多の191得点をあげた他、日本代表としてもワールドカップ2大会に出場するなどサッカー界の歴史に名を残した大久保嘉人さん。20年間のプロサッカー選手人生に幕を閉じました。
今後については「僕の意見を伝えなければいけないというのもありますし、もっともっとサッカーのことを知りたいし、勉強していきたい」と指導者への意欲も示しました。
大久保嘉人の短気な性格はピッチ上だけ?
イエローカード常連の血気盛んな性格として知られていた
大久保嘉人さんは非常に「短気」だと言われており、サッカーの試合中についカッとなってしまうと自身でも認めていました。
大久保嘉人さんはつい声を荒らげて相手選手や審判に警告をしてイエロカードやレッドカードをもらうことも多かったため、ネット上では「性格が悪い」と言われ批判を浴び続けてきました。
しかし、実はピッチの外では大久保嘉人さんはとてもシャイな性格だったようで、ヴィッセル神戸時代に親交が深かった安達貞至さんによれば「世間の反応とは真逆の性格」だということです。
大久保嘉人さんは本当に人を大事にする性格のようで、我先に前に出るような我の強い性格ではなくいつも離れて静観しているような静かな性格をしているそうです。
そのため週刊誌などの記者から無茶ぶりをされてもピッチ上で見せる強気な警告は一切無く苦笑いするだけで、若手選手にいじられてもニコニコと咎めない優しい性格をしていたということです。
昨日は
— 佐野岳 (@oxgakuox) 2018年4月22日
川崎フロンターレ VS 鹿島アントラーズ
の試合を観戦してきました!
試合後はその日、通算ゴール181点目というとんでもない記録を更新した大久保嘉人選手とご飯へ行かせていただきました!素敵なお話を伺えて本当に刺激をうけました!
自分もいつか…!
#おこがましい pic.twitter.com/vMhPhUc2fY
後半交代で出てくる攻撃陣が大久保嘉人に齋藤学とか、自分がDFだったらゾッとする⚽#frontale pic.twitter.com/3Jrso4yNYh
— Akira11-f (@akira111116) 2018年4月22日
大久保嘉人さん自身は、引退時に「自分のスタイルを貫き通してやってこれたことを誇りに思う」と語っていました。
ピッチで感情をあらわにする自身のプレースタイルについては「やんちゃと言われることも多かったが、自分のスタイルを貫き通してやってこれたことを誇りに思うし、悔いなくサッカー人生を終えられて今は幸せだ」と振り返りました。
大久保嘉人の嫁は中学校からの恩師の娘・林田莉瑛
中学校からの恩師の娘と結婚した大久保嘉人
大久保嘉人さんは中学校からサッカーを指導して貰った恩師の小嶺忠敏さんの娘である林田莉瑛さんと結婚しました。
大久保嘉人さんと莉瑛さんの馴れ初めは当然小嶺忠敏さんにお世話になる中で知り合っており、4年間の交際期間を経て大久保嘉人さんが22歳だった2004年12月に結婚しました。
2008年1月5日に御崎公園球技場(ホームズスタジアム神戸)で結婚式を挙げています。
大久保嘉人さんの嫁・莉瑛さんへの第一印象は「とても魅力的な女性だと感じた」ということで、莉瑛さんは結婚するにあたってスポーツ選手の妻としてしっかりサポートするために栄養バランスを考えた料理の勉強をしたそうです。
大久保嘉人の子供は4人兄弟
大久保嘉人さんと莉瑛さんの間には、2005年7月18日に長男の碧人(あいと)くん、2010年2月22日に次男の緑二(りょくじ)くん、2012年11月26日に三男の橙利(とうり)くん、2017年3月31日に四男の紫由(しゆう)くんと四人兄弟に恵まれました。
大久保嘉人さんはサッカーで結果を残し続けてこれたのは両親のおかげだと語っており、大久保嘉人さん自身も亡き父のように四人の息子たちの活躍を心から支えていくことでしょう。
大久保家四人兄弟でJリーガーが誕生すると面白いですね。
子供の幼稚園繋がりで、サッカーの大久保嘉人さんとツーショット!! pic.twitter.com/KTtkIMErRC
— 武藤 敬司 (@muto_keiji) 2015年12月15日
大久保嘉人の嫁・莉瑛はがん闘病をしていた?
大久保嘉人の嫁・莉瑛はがん闘病をしていた
大久保嘉人さんの嫁・莉瑛さんは胞状奇胎という病気から奇胎後hCG存続症という病気に進行し、がん一歩手前の病気であることから抗がん剤治療をしていました。
一般的に胞状奇胎という病名は聴き慣れませんが、発症原因はわかっておらず子宮にぶどうの房のようなつぶつぶが多く発生する病気です。
この病気は手術により除去することができますが、術後に妊娠性ホルモンのhCGの数値が下がらない場合は奇胎後hCG存続症と判断されがん一歩手前の病気になります。
大久保嘉人さんは当時、息子たち3人と抗がん剤闘病に臨む嫁・莉瑛さんを勇気づけるために4人揃って坊主姿をブログで公開しており話題となっていました。
そうした支えもあって莉瑛さんは2015年12月1日に無事退院することができ、2017年に四男を出産したことや現在までに再発したという情報はないことから元気に生活しているようです。
2021年11月の引退セレモニーでは、嫁・莉瑛さんからの手紙が読まれ、家族から花束を渡され涙を流していた大久保嘉人さん。愛する家族とともに第二の人生を幸せに歩んでいってほしいですね。
https://twitter.com/DAZN_JPN/status/1464515818692227072
大久保嘉人について総まとめすると・・・
・大久保嘉人の子供はすべて息子の4人兄弟である。
・大久保嘉人はネット上では「性格が悪い」と言われ批判されていたが、実際の性格はとてもシャイで優しい。
・大久保嘉人は2021年に現役を引退した。
大久保嘉人さんはJリーグ史上他に例がない3年連続得点王という快挙を成し遂げた「日本最高のストライカー」と呼ばれてきました。
大久保嘉人さんは天才的な技術があるというわけではないものの、ゴールに対する姿勢が誰よりも貪欲だとも言われていました。
ピッチ上で見せていたすぐにキレてしまう短気で熱い性格もそうした姿勢の現れだったのでしょう。
惜しまれながら現役を引退した大久保嘉人さんの、今後の動向や活躍にも注目していきましょう。