2015年9月19日にスキルス胃がんのためフリーアナウンサーの黒木奈々さんが亡くなりました。
この記事では、黒木奈々さんの胃がんの症状や、最期まで戦った闘病の様子について詳しくまとめました。
黒木奈々のプロフィール
黒木奈々(くろき なな)
出身地: 鹿児島県鹿児島市
生年月日: 1982年11月12日
没年月日: 2015年9月19日(32歳没)
血液型: A型
最終学歴: 上智大学外国語学部フランス語学科卒
所属事務所: セント・フォース
活動期間: 2006年 – 2015年
黒木奈々は人一倍努力家だったことが災いした
黒木奈々さんの胃がんの前兆はすでに学生時代から始まっていたと言えるかもしれません。
黒木奈々さんはサラリーマンと主婦の普通の両親の元に生まれ、小学校時代に父親が観ていたニュース番組でアナウンサーが堂々とニュースを伝えている姿に憧れて自分もなりたいと思っていました。
身長が高く運動神経が良かったことから、黒木奈々さんは中学校時代は軟式テニス部のキャプテンを務め、鹿児島県立鶴丸高等学校では硬式テニス部のキャプテンを務めるなどリーダーシップのある優等生でした。
しかし、頑張りすぎる性格が仇となり、学生時代に部活で走り込み過ぎたことが原因で腎臓の病気である腎盂炎になりましたが、自分の体に鞭を打って数日休んだだけで復帰しました。
黒木奈々はアナウンサーを目指して上智大学に進学
故・小林麻央さんと同じ上智大学に入学した黒木奈々
上智大学は女子アナウンサーを多く輩出していることで有名な大学ですが、2017年に乳がんのため亡くなった小林麻央さんもまた卒業者であり、奇しくも黒木奈々さんとは同じ1982年生まれで同級生でした。
黒木奈々さんは上智大学外国語学部フランス語学科に進学し、在学中にはフランスへ1年間留学していました。
また、在学中からフジテレビ(アナトレ)やテレビ朝日(テレビ朝日アスク)のアナウンススクールに通うほど熱心にアナウンサーとしての勉強をしていました。
黒木奈々さんは卒業年となる2004年夏にフランス留学から帰国しましたが、アナウンサーの採用試験を受けるために留年を選択しました。
しかし、黒木奈々さんは在京キー局から大阪準キー局、地方局など片っ端から受けましたが、ことごとく選考に落ちてしまい、失意のどん底に叩き落とされました。
この頃から、黒木奈々さんはアナウンサーになんとしてもなるために無理をするようになり、知らぬ内に多大なストレスを溜め込んで前がん状態となっていったのでしょう。
黒木奈々は記者を辞めてアナウンサーを再び目指す
アナウンサーになるため回り道として記者になった
一度はアナウンサーへの道を絶たれたと思っていた黒木奈々さんに、落選した大阪の放送局の担当者から報道記者の受験をすることを勧められ、受験して合格することができました。
黒木奈々さんは報道記者ながら晴れて2006年4月から毎日放送で働き始めることができましたが、本当にやりたい職業はアナウンサーのため2007年に退職する決断をしました。
上京した黒木奈々さんを案じて会社の先輩が毎日放送系列のニュース専門チャンネルでキャスターを募集していると教えてくれ、黒木奈々さんは受験したところ見事合格し3年間を念願のアナウンサーとして過ごすことになりました。
黒木奈々、努力が実りついにメインキャスターに抜擢される
7年の努力が実りついにメインキャスターに抜擢
黒木奈々さんはNHKBSで新たにスタートする国際ニュース枠での新番組のキャスター募集に応募し、採用されて夜の番組のサブキャスターとして3年間を過ごしました。
そして、英語とフランス語が堪能であることを買われて、黒木奈々さんはついに報道番組のメインキャスターに抜擢されました。
成功が難しいと言われるフリーアナウンサーになって苦節7年で夢のメインキャスターの座を掴み取った黒木奈々さんは、踊る気持ちで疲れも忘れて仕事に邁進していました。
しかし、激務に追われて体が悲鳴をあげていても、黒木奈々さんは仕事が楽しかったため苦には全く思っていなかったため、そのしわ寄せが来ることになってしまいました。
黒木奈々のスキルス胃がんの症状や闘病生活
黒木奈々、胃潰瘍せん孔で倒れる
頑張りすぎたストレスが胃を蝕んでいた
黒木奈々さんはメインキャスターになってからというもの、毎日のように様々な分野のテーマを報道するための勉強に追われ、その中でゲストとの対談など激務に追われていました。
黒木奈々さんの一日のスケジュールは、平日22時スタートの番組に合わせて昼に起床し、15時に局入りしてすぐに打ち合わせ、その後本番に向けたメイクとリハーサルを行って直前に上がってくる原稿に目を通し、本番を迎えます。
そして、生放送終了後は反省会をして退社となりますが、帰宅時点ですでに0時を回っており、家のこともありすぐには眠れない黒木奈々さんは就寝は午前4時頃になっていたそうです。
時間が無いため毎日食事も2回しか摂れず、激務からくるストレスで自律神経が疲れきっていて不眠症になっていたのかもしれません。
そうした日々をサブキャスター時代から3年以上続けてきた黒木奈々さんは、2014年7月にフランス留学での仲間との食事会中に気を失うほどの胃の痛みで突然倒れてしまいました。
救急搬送された黒木奈々さんは胃に穴が開いた「胃潰瘍せん孔」だと診断されましたが、番組を降板したくなかったため「帰宅したい」と申し出たものの、手術が必要なため却下され即入院となりました。
黒木奈々さんは医師から開腹手術を勧められましたが、結婚前の身でお腹を切ることがためらわれ、きっぱりと拒否してしまいました。
亡くなる半年前の2015年3月に出版された黒木奈々さんの闘病記『未来のことは未来の私に任せよう』によると、倒れるまで胃の不快感など自覚症状が無かったそうで、元々我慢強い性格もあり仕事のストレスを溜め込んでしまったことが原因だったと綴っていました。
黒木奈々、胃潰瘍せん孔ではなく胃がんだと発覚
父親から知らされた胃がんという絶望の告知
黒木奈々さんは開腹手術を拒んだため、胃に開いた穴は鼻からチューブを入れて点滴を流し込み、胃の穴を塞ぎました。
黒木奈々さんは3週間で退院して仕事に復帰し、胃の違和感も無くなってきたと感じていましたが、復帰から10日あまりが経過した8月に、母親から電話するようにとメールが届いたため生放送終了後に電話をしたところ父親から胃カメラの検査結果を知らされました。
黒木奈々さんは胃潰瘍と診断されていましたが、細胞採取による検査結果は悪性だと分かり、初期のスキルス性胃がんでした。
黒木奈々さんは手術前の検査で胃の粘膜が鳥肌のようにブツブツしている鳥肌胃炎を指摘されており、これはピロリ菌の感染や胃がんの発症リスクなることが知られています。
黒木奈々さんは絶望して電話を切ったあと控え室から帰宅して寝るまでずっと一人で泣いていたそうですが、翌朝になると手術をする決心は固まっており、9月に胃の全摘出手術と食道と腸を直接つなぐ腸ろう造設手術を受けました。
手術後、ステージ3のスキルス性胃がんと分かり、黒木奈々さんは治療に専念するために掴み取ったばかりのメインキャスターの座をわずか4ヶ月あまりで泣く泣く降板することになりました。
黒木奈々、1年間の壮絶な闘病生活
壮絶な闘病の末、一度は復帰するも1年で死去
黒木奈々さんは手術後に壮絶な闘病生活が待っていました。
しばらくは胃を全摘出した傷痕と背中がひどく痛み、食道から直接腸に食物が流れ込むため食事は大きく制限され、おかゆの匂いを嗅いだだけでも体が拒否反応を示して吐き気がするなど、グルメだったにも関わらず食事が拷問に変わりました。
食物から栄養を満足に摂取できないため、細いチューブを脇から入れて栄養剤を直接腸に流し込む「腸ろう」で補っていました。
また、黒木奈々さんは5年以内のがんの再発は60~70%といわれていたことから、抗癌剤治療を取り入れていたため、その副作用で味覚障害が起きて食事は泥水のようで口にできなくなりました。
あまりに過酷な生活に黒木奈々さんは泣く日々が続きましたが、その中でも大好きだったアナウンサーの仕事が2015年1月4日の特別番組での復帰が決まり、当日に無事生放送を終えると自宅の玄関で待っていた両親と抱き合って泣きました。
それから、黒木奈々さんは3月末より毎週月曜日に夜の番組での正式復帰が決まりましたが、4ヶ月間務め上げた後、体調の悪化により7月下旬から療養のため休業していました。
黒木奈々さんは胃がん闘病で両親が支えてくれたことにより家族の大切さを改めて実感したそうで、自身も病気を克服した暁には結婚して家庭を作りたいという希望を語っていました。
黒木奈々の最期の言葉~闘病むなしく32歳の若さで死去
黒木奈々、最期の言葉は「父さん、お母さん、大好きだよ」
直前まで闘病についてインタビューを受けていた黒木奈々さんでしたが、2015年9月19日午前2時55分に両親に看取られながら自宅で最期を迎えました。
黒木奈々さんが最期に残した言葉は「父さん、お母さん、大好きだよ」だったと伝えられています。
黒木奈々の所属事務所が追悼コメントを発表
葬儀・通夜は黒木家とセント・フォースの合同葬だった
黒木奈々さんが死去した同日中に、所属事務所のセント・フォースが報道各社にFAXで伝えて速報として世間に伝わり、多くの人が衝撃を受けました。
セント・フォースは公式サイト上でも黒木奈々さんの追悼コメントを出していました。
弊社所属アナウンサー黒木奈々は、2014年の8月に胃がんと診断されてから一年余り、復帰を目指し、病いと闘って参りましたが、治療の甲斐なく2015年9月19日逝去いたしました。
闘病中、本人は本当に頑張りました。常に前を向いて決してあきらめずに、勇敢に闘い抜きました。また、そのような状況の中でも、周囲を気遣い、感謝の気持ちを忘れない素晴らしい女性でした。
私たちは本人が遺してくれた「未来のことは未来のあなたに任せて、今を一生懸命に生きてください」という言葉を決して忘れません。
改めて、闘病中の皆さまからの多くの温かい励ましのお言葉、本人に代わりまして、心より感謝申し上げます。
株式会社セント・フォース
代表取締役
久保地 美晴
黒木奈々さんは32歳という若さで旅立ってしまいましたが、その約2年後に上智大学の同窓生だった小林麻央さんも後を追ってしまいました。
小林麻央さんは黒木奈々さんが亡くなった際に、同じ時期にがん闘病をしていたこと、ともに病気を克服した暁には会いたいと綴っていましたが、天国で対面して姉妹のように暮らしているかもしれません。
いつも笑顔で、強く、優しかった黒木奈々ちゃん。1日経った今もまだ信じられません、数日前までやり取りしていたのに…。心よりご冥福をお祈りします。
— 實石あづさ (@azusa_jitsuishi) September 20, 2015
黒木奈々についてまとめると…
・黒木奈々は倒れるまで自覚症状は全くなく、胃全摘出後は痛みと味覚障害などで壮絶な闘病生活を送っていた
・黒木奈々の最期の言葉は「父さん、お母さん、大好きだよ」だった
最期までアナウンサーとして精一杯生きた黒木奈々さんの胃がん闘病について総まとめしてきました。
黒木奈々さんの闘病生活はとても身が切られるような思いですが、夢に向かって精一杯生きた姿は多くの人に勇気を与えたことでしょう。