人気タレントの石原良純さんですが、その恵まれた生い立ちや華麗なる一族ぶりに注目が集まっています。
この記事では石原良純さんの家系図と家族(父や兄弟)、幼少期や身長、結婚した嫁と子供や自宅もまとめました。
この記事の目次
石原良純のプロフィール
石原良純(いしはら よしずみ)
生年月日:1962年1月15日
出身地:神奈川県逗子市
石原良純、人気タレントで俳優としても活躍していた
石原良純さんといえば、「ザワつく!金曜日」や「週刊ニュースリーダー」といった番組でお馴染みの人気タレントとなります。
日本の名門・石原一族の御曹司でもある良純さんですが、仕事にはかなり貪欲な部類のようで、関西や東海、九州ローカルでもレギュラー番組を持っています。
「FNNスーパーニュース」で長年お天気キャスターを務めていたことでも知られている良純さんですが、気象予報士の資格を獲得したのは1997年と中年になってからでした。
若い頃は俳優をメインに活動していた良純さんは、「西部警察 PART-III」や「太陽にほえろ!」といった国民的人気ドラマの主要キャストを務めたこともありました。
石原良純の家系図…日本有数の華麗なる一族だった
石原良純、祖父は叩きあげの実業家だった
石原良純さんといえば、芸能・政治方面の名門・石原一族の御曹司としても有名です。
石原家に関しては、愛媛県出身の祖父・石原潔さんはごく一般的な庶民の生まれだったそうで、旧制中学を中退して14歳の時に「商船三井」の前身にあたる海運会社「山下汽船」に船童として入社しています。
その後の潔さんは、小樽支店時代に樺太の木材を本土へピストン輸送する難仕事を見事に取り仕切ったことが評価されて頭角を現すこととなり、小樽支店長へ昇進することになりました。
以降の潔さんは、神奈川県逗子市へ住まいを移し「山下汽船」の重役にまで出世しております。
この頃になるとブルジョワ化した石原家は、豪邸に住み子供にヨットを買い与える経済力を手に入れるなど成り上がりに成功した一方で、潔さん本人は1951年に51歳の若さで脳溢血で急死してしまいました。
石原良純、父は政治家で作家の石原慎太郎だった
石原良純さんの父親といえば、作家や政治家として有名な石原慎太郎さんとなります。
転勤族だった父親の都合で何度も転校を経験している慎太郎さんですが、勉強の方はかなり優秀だったようで、神奈川県下の超名門進学校である湘南高校を卒業後は一橋大学へ進学しています。
その一橋大学時代に出版した「太陽の季節」が89万部の大ヒットとなり人気作家の称号を手に入れた慎太郎さんは、1968年に自民党より出馬して政治家に転身したそうですね。
・『青年の樹』(1959年)45万部
・『スパルタ教育』(1969年)70万部
・『「NO」と言える日本-新日米関係の方策-』(1989年)125万部
・『弟』(1996年)120万部
・『老いてこそ人生』(2002年)82万部
政治家時代の石原さんは、運輸大臣や環境庁長官を歴任した他、1999年から2012年にかけて東京都知事も務め上げるなど大成功を収めることになりました。
石原良純、伯父は戦後のスーパースターの石原裕次郎
石原良純さんの叔父(父親の弟)は、戦後芸能界のスーパースターである石原裕次郎さんです。
1956年に映画「太陽の季節」で芸能デビューを飾った裕次郎さんは、全盛期は映画スターとして年間映画興行成績上位の常連でした。
・陽のあたる坂道(1958年)年間2位
・天下を取る(1960年)年間1位
・あいつと私(1961年)年間3位
・花と竜(1962年)年間2位
・赤いハンカチ(1963年)年間3位
・黒部の太陽(1967年)年間1位
1963年に設立した芸能事務所&制作プロダクション「石原プロモーション」の経営が傾いて以降は、テレビの世界にも進出した裕次郎さんは、「太陽にほえろ」シリーズや「西部警察」シリーズといった国民的人気ドラマを世に送り出しております。
歌手としても一流だった裕次郎さんは、「銀座の恋の物語」や「ブランデーグラス」といったスタンダードナンバーを筆頭に、数々のヒット曲を飛ばすことにもなりました。
そんな裕次郎さんも生来の酒好きが祟り、1987年に52歳の若さで肝性脳症で亡くなっています。
石原良純、兄弟には政治家の石原伸晃や石原宏高がいた
石原家に関しては、次男の石原良純さんを含めて、兄弟全員が慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学に内部進学をしている秀才一家となります。
石原家の長男である石原伸晃さんは、日本テレビの政治部記者を経て1990年に政界へ転身したそうですね。
出馬時は無所属ながらもすぐに自民党に所属した伸晃さんは、国土交通大臣や内閣府特命担当大臣などを歴任した大物政治家になっていたりします。
石原家の三男である石原宏高さんに関しても、日本興業銀行(現:みずほ銀行)の銀行マンを経て2003年に政界へ転身することになりました。
とはいえ、自民党の公認を得て出馬した宏高さんでしたが、2003年の「第43回衆議院議員総選挙」では落選の憂き目にあうなど挫折も味わっています。
その後、2005年の「第44回衆議院議員総選挙」にて初当選を果たした宏高さんですが、2009年の「第45回衆議院議員総選挙」では再度の落選の憂き目にあうなど、エリート政治家人生まっしぐらとは行かない状況です。
ちなみに、2012年の「第46回衆議院議員総選挙」で再当選を果たして以降の宏高さんは、環境副大臣や内閣府副大臣を歴任するなど、名門・石原家の名に恥じぬ活躍をしております。
石原家の四男・石原延啓さんに関しては、兄弟の仲で唯一芸術方面の道へと進んでいます。
慶應義塾大学を卒業後はアメリカ留学をし、スクールオブビジュアルアーツでファインアートを学んだ延啓さんは、東京やNYで個展を開く画家として活躍中となります。
石原良純、小泉純一郎とも縁戚だった
石原良純さんの親戚には、元政治家の小泉純一郎さん一家もいます。
石原家と小泉家の関係性については、良純さんの母である典子さんのいとこの子供が、純一郎さんの弟・小泉正也さんの妻となったとか。
そのため、実際には血縁関係はない両家となりますが、法事などで顔を合わせる機会はあったそうですね。
小泉も「良純さんとは縁戚関係ですよね」と認めた。石原が「昔は法事とかで会ったよね」と回想すると、小泉も「(石原)慎太郎さん、うちの父親(小泉純一郎元総理)、よく子どものころから(会っていた)」と濃厚なメンバーの法事を振り返っていた。
石原良純の経歴…幼少期から不眠症に悩まされていた
石原良純、父親ファーストの生活環境のせいで不眠症になった
石原家では、厳格すぎる父・石原慎太郎さんファーストな日々を送るために、「石原家3つの家訓」という独自ルールがあったそうですね。
1つ目は「朝は絶対に物音を立てるな」ということ。石原家では、父・慎太郎の睡眠が何よりも優先され、少しでも騒ぐとすぐに母・典子さんに叱られたという。
2つ目は「朝食は3種類、用意せよ!」ということ。典子さんは慎太郎のために毎朝ご飯、パン、麺類の3種類を準備。
3つ目は「子供と夕食を食べない!」ということ。騒がしい子供たちと一緒に食べたくないということで、まずは典子さんや子供たちが食事をし、その後、慎太郎が1人で食事をしていたという。
そのため、子供なのに無邪気にはしゃげない、プレッシャーのかかる日々を過ごすこととなった良純さんは、幼少期から不眠症を患う羽目になってしまったとか。
ちなみに、小学時代の良純さんは、東京都渋谷区にある慶應義塾幼稚舎に通っていましたが、実家が神奈川県逗子市にあったせいで、通学には車で1時間半もかかってしまうことになりました。
石原良純、中学時代の部活仲間に鈴木徳昭がいた
中学時代は、神奈川県横浜市にある慶應義塾普通部に通っていた石原良純さんですが、部活の方は当時はマイナースポーツだったサッカー部に入部していたそうですね。
良純さんのサッカー部時代の仲間には、「2020年東京五輪招致委員会」の戦略広報部長を務めた鈴木徳昭さんがいました。
サッカー一家に生まれ育った鈴木さんは、慶應義塾大学を卒業後は日産自動車の方でサッカ-部の運営に携わっていた他、ハンス・オフト元日本代表監督の通訳を務めたことでもお馴染みの人物でした。
ちなみに、オフト元監督の通訳を辞任して以降の鈴木さんは、FIFAやAFCに出向することとなり、AFCではディベロップメント委員会委員や競技部長を歴任するなど、アジアサッカー界の重鎮になっていたとか。
中学時代に部活を通して大物スポーツ関係者と縁故が出来た良純さんでしたが、慶應義塾高校に進学後は合気道部へ入部するなど、サッカーはすぐに辞めてしまったそうですね。
石原良純、芸能デビューのきっかけは石原裕次郎の病気だった
高校を卒業後は、慶應義塾大学の経済学部へ進学している石原良純さんですが、この時点では芸能人になるつもりはなく商社マン志望でした。
そんな良純さんの芸能デビューのきっかけとなったのが、叔父・石原裕次郎さんの入院でした。
当時の裕次郎さんが患っていた解離性大動脈瘤は、生存率が3%という難病だったため、入院先の病院にはマスコミ関係者が殺到していたそうですね。
そんな中を叔父の見舞いに病院へ通っていた良純さんは、マスコミ関係者の間で「石原裕次郎のイケメンな甥っ子」として話題になっていたとか。
その後、噂を聞きつけた映画関係者が良純さん宛に主演映画のオファーを送り、芸能デビューが決定することになりました。
1982年に芸能デビューを果たしてからしばらくの間は「石原プロモーション」に所属していた良純さんでしたが、裕次郎さんの死後は独立して個人事務所を設立。父親と旧知の仲だった出版プロデューサーの三原栄子さんをマネージャーに迎え入れ、バラエティ番組への進出も果たすなど、マルチタレントへの転身に成功しております。
「映画やドラマの『厳しいものづくりの現場』とは対極の雰囲気で、とにかく楽しい現場でした。ルールなんかなくて、本番ではアドリブの連続。スタッフも大きな声で笑っている。映画やドラマの現場であれば、スタッフが音を出すなんて即NGだけど、バラエティーは楽しければいい。楽しい現場で楽しい番組を作ったら、テレビを観ている人もきっと楽しいに違いない。そんなバラエティーの現場は、厳しいものづくりの現場にいた僕にとって衝撃でしたね」。
石原良純の身長はいくつ?…あの人気アニメキャラと同じ体形だった?
石原家に関しては、父・石原慎太郎さんの身長が181㎝なのは有名な話ですが、兄・石原伸晃さんも178㎝の身長を誇るなど長身の家系となっています。
当然ながら石原良純さんも「身長182㎝体重70㎏」と抜群のスタイルだとか。
そんな良純さんの体形については、人気アニメ「ハイキュー!!」の赤葦京治というキャラクターと一致していることで話題になっております。
赤葦くんと身長体重一緒の芸能人だれだろーと思って調べてみたら石原良純でした
— らむ (@_rmrm39_) December 5, 2014
182cm70kg…
#赤葦京治生誕祭2014 pic.twitter.com/hd5MJFVxOB
石原良純の家族情報…嫁は女医で子供は2人いた
石原良純、嫁は12歳年下の女医だった
長らく独身貴族を貫いて来た石原良純さんですが、2002年9月に12歳年下の女医・稲田幸子さんと結婚をしています。
幸子さんは、慶應義塾大学医学部を卒業した秀才の皮膚科医だそうで、現在は都内の病院で勤務医をしているとの噂が存在します。
ちなみに、2人の馴れ初めについては、兄・石原伸晃さんの紹介で知り合った際に、良純さんが幸子さんに一目ぼれをしてしまったと言われております。
その後恋人同士となった2人でしたが、3回目のデートの際に良純さんからプロポーズをしたことで、交際歴3か月でのスピード婚に至ったそうですね。
石原良純、一男一女に恵まれた
石原良純さん・稲田幸子さん夫妻の間には、2003年に長男の良将くんが、2005年に長女の舞子さんが生まれています。
良純さんの2人の子供たちについては、2021年時点で良将くんが高校3年生、舞子さんが高校1年生となりますが、通っている学校に関しては公表されていない状況です。
とはいえ、夫婦揃って慶應義塾大学のOB/OGな石原家の経歴を踏まえると、子供たちも慶應義塾大学系列の学校に通っている可能性が高いと言えます。
石原良純の自宅情報…バスケットゴールのある豪邸に住んでいた
石原良純さんの自宅情報に関しては、独身時代が長かったこともあり、以前は世田谷区の高級マンションに住んでいたそうですね。
ちなみに、高級マンション時代は、俳優の小栗旬さんやタレントの出川哲郎さんとご近所同士だったとか。
その後、子育て環境も考えて都内の高級住宅街に一軒家を建てている良純さんですが、所在地などは非公開となっています。
石原良純についてまとめてみると…
人気タレントの石原良純さんですが、小泉純一郎さん一家と親戚関係にあるなど、その華麗なる一族ぶりは想像以上だったということになります。
良純さんの今後のより一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。