怪談ナイトの語り手の第一人者である稲川淳二さん。
稲川淳二さんには子供が2人おり、長男は俳優の稲川貴洋さん、また障害を持つ次男が生まれた時、我が子を手にかけようとしたことがあると明かしています。
稲川淳二さんの嫁や息子の情報、また現在までの活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
稲川淳二のプロフィール
稲川淳二、「怪談話」の語り部として一躍有名に
本名: 稲川 良彦(いながわ よしひこ)
生年月日: 1947年8月21日
出生地: 東京都渋谷区
血液型: AB
身長: 167 cm
体重: 不明
職業: タレント、コメディアン、工業デザイナー
活動期間: 1976年 –
著名な家族: 稲川貴洋(息子)
引用:Wikipedia – 稲川淳二
稲川淳二さんと言えば真っ先に「怪談」が挙がるほどイメージが定着していますが、元々はラジオDJとしてデビューし、ビートたけしさんの番組によく出演していたお笑い芸人で元祖リアクション芸人でもありました。
出典:ここにURLを入力
現在は夏の風物詩の「怪談ツアー」も26年目になった稲川淳二さん。2006年には怪談話に専念するために55歳でタレント活動を休止しています。
ー2006年には怪談に専念するために、タレント活動を休止しますが。
ずっとやってるうちにいいファンが付いてきたので、彼らのためにも中途半端な気持ちでやっちゃいけないと思い始めましてね。疲れきった自分が、残りの時間で怪談をやるという人生は送りたくないし、だったらまだ体力があるうちにというので、55歳で辞めたんです。そしたら驚いたのが、あの柳田國男先生も、新聞社を辞めて民俗学に専念したのが55歳からだったそうですね。
そんな稲川淳二さんが怪談話の語り部として有名になったきっかけは、ラジオ番組『オールナイトフジ』で披露した怪談話「生き人形」が大きな反響となり、そこから段々と怪談話の仕事が増えていったそうです。
「怪談話」関連の書籍、CD、DVD、オーディーブックなど多数出版しており、今や稲川淳二さんの怪談話は、日本の夏の代名詞となっています。
稲川淳二さんのつぶやき怪談、綾辻さんのTweetがこのタイミングで入ってきて怖い。 pic.twitter.com/1hYlVT3T6w
— 道尾秀介 (@michioshusuke) 2018年5月21日
稲川淳二、実家の隣には当時有名な泥棒が住んでいた
稲川淳二の怪談は母親譲りだった?
稲川淳二さんが子供の頃に寝る前母親が怪談をしてくれていたそうですので原点なのかもしれません。
稲川淳二さんの父親は運送会社に務めており、兄弟には姉、兄、弟がいました。
稲川淳二さんの実家のとなりには当時有名だった泥棒が住んでいたそうです。
稲川淳二さんは現在までの人生で濃いエピソードが多くあるようですが、子供時代に川で流されかけて死にかけた経験もしているようです。
当時から稲川淳二さんは怪談話が好きな少年だったようで、よくクラスメートに聞かせていました。
そして、稲川淳二さんと故・安岡力也さんは幼馴染であり、当時恵比寿に住んでいた稲川淳二さんは地元でガキ大将で知られており10人ほど子分がいたものの、麻布界隈のガキ大将だった安岡力也さんに公演で叩きのめされて弟分となりました。
それ以降、中学校時代に一度疎遠になるも芸能界に入ってから交友が再開し、安岡力也さんが亡くなるまで関係は続いていたようです。
ちなみに、当時はジャイアンとのび太のような関係だったと安岡力也さんは語っていたようです。
稲川淳二、工業デザイナーとしてグッドデザイン賞受賞歴も!
絵が得意だった稲川淳二
稲川淳二さんは小学校時代に勉強もスポーツもできなかったようですが、絵画だけは得意で絵画コンクールで3回ほど入賞したそうです。
1966年東京都立多摩工業高校を卒業した稲川淳二さんは、デザイン専門学校として有名な渋谷にある「桑沢デザイン研究所」に進学。
その後、デザイン会社に就職し、お店のロゴマークなどをデザイン。そして1996年、「車どめ」で通商産業省グッドデザイン賞受賞するなど工業デザイナーとしても一流です。
また、稲川淳二さんのデザインで一番有名なのが、コンビニやスーパーのレジでおなじみのバーコードリーダーや新幹線の検札機です。
また、手書きとは思えないほどの精密で図面のような独特の文字を書くことでも有名で、PCにフォントをインストールしたいとの声も上がるほどです。
NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」楳図かずお×稲川淳二を観てたら、稲川直筆の取材ノートやらが映し出されて、字の綺麗さに驚愕した。このフォントをPCにインストールしたいレベル。 pic.twitter.com/dZVaOJ5HN8
— ウキキ (@wl_o_lw) September 6, 2014
稲川淳二、ラジオ『オールナートニッポン』で芸能界デビュー
ラジオDJとして芸能界入りを果たした稲川淳二
稲川淳二さんは1976年4月から深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン(ニッポン放送)』で二部カッコマン(伊藤政則)の後任としてパーソナリティーを務め芸能界デビューを果たしました。
当時から稲川淳二さんは無名の舞台俳優として活動していましたが、ラジオDJデビューの約10年後となる1980年代中頃からバラエティ番組に出演するようになりました。
そして、稲川淳二さんは持ち前のサービス精神旺盛な性格からお笑い芸人としてビートたけしさんの番組『オレたちひょうきん族(フジテレビ系)』に出演するようになり、同番組の人気コーナー「ひょうきんベストテン」で歌手役として登場して散々な目に遭うというリアクション芸人としてブレークしました。
また、稲川淳二さんはビートたけしさんの番組への出演は多く『スーパージョッキー(日本テレビ系)』の初期レギュラーでもありました。
元祖リアクション芸人・稲川淳二
稲川淳二さんはリアクション芸人としてビートたけしさんのバラエティ番組に引っ張りだことなっていました。)
稲川淳二さんはその後も『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(TBS系)』などで体当たりの芸で人気を博し、リアクション芸人としての地位はその後出川哲朗さんやダチョウ倶楽部が引き継いでいくことになります。
稲川淳二さんは1986年にラジオ番組『オールナイトフジ』で披露した怪談話「生き人形」が大きな反響を呼び、その翌年に怪談話を複数話収録したカセットテープが発売されてオリコンチャートのランキング上位に入りました。
一方で俳優としても稲川淳二さんは活躍を始め、1987年のドラマ『ザ・ハングマン6(朝日放送)』や『ハングマンGOGO!』などで注目を集めると、1992年にはNHK大河ドラマ『信長』に出演し俳優としても一定の人気を得ました。
稲川淳二は芸能界随一のいい人だった!
稲川淳二は芸能界随一の”いい人”
稲川淳二さんは芸能界において悪い噂をまったく聞かないと言われるほど人格者で通っているようです。
稲川淳二さんの性格を評すると「温厚で優しく、深いユーモアとサービス精神を持ち合わせた人」のようで、人のためなら自分を犠牲にすることを厭わない人のようです。
超のつくお人好しでもあるようですが、ファンへのサービス精神があり過ぎるあまり、怪談話を無限ループで聞かせ続けてしまいマネージャーから止められるという事態も少なくないようです。
稲川淳二さんはファンレターへの返送率が非常に高いことでも知られているようです。
稲川淳二が結婚した嫁と息子について~次男は難病に苦しみ死亡
稲川淳二は嫁・尚子さんとの間に息子(長男・次男)が2人
稲川淳二の長男で俳優の稲川貴洋さん
稲川淳二さんは1977年に青森県弘前市出身の一般人女性・尚子さんと結婚しました。そして、稲川淳二さんは嫁との間に1977年に第一子となる長男が誕生し、1986年に次男が誕生しました。
次男の稲川由輝さんは生まれながらの難病「クルーゾン氏症候群」により2013年に26歳の若さで他界しています。
嫁の尚子さんは、1990年の正月に突如として家から姿を消してしまったそうです。
それ以来現在まで稲川淳二さんは嫁と25年以上も別居状態が続いており、冠婚葬祭などで10回ほどしか会っていないものの、事務所の社長としての業務はずっと継続してきたようなので、「給料を振り込む、込まれる」関係だと明かしています。
2015年頃に稲川淳二さんの嫁は長男の稲川貴洋さんと新居に移ったようですが、稲川淳二さんには長男すらも家を教えてくれないようです。
それでも離婚を選択しない理由は「(会わないことで嫁に迷惑をかけないこと)それも愛情」だと稲川淳二さんは語っています。
稲川淳二は28年別居だって!!
— ロトブキサトシ (@koarakoara333) 2018年5月20日
一番怖い話だよ。
稲川淳二、障害を持つ次男を殺そうとした過去も!
稲川淳二は障害者である次男を殺そうとした
過去に出演した『情熱大陸(TBS系)』で、稲川淳二さんは「クルーゾン病」という重度の障害を抱えて生まれた次男についての思いを語りました。
稲川淳二さんと嫁は長男の稲川貴洋さんが生まれて非常に幸せだったことから、さらに幸せになると思って次男をもうけました。
しかし、生まれて直後に次男は黒目が常に上を向いている状態で白目を向いており、いろいろ病院を回って調べて貰ったものの「問題はない」と言われるばかりだったようです。
嫁が「そんなはずはない」とさらに病院を回ってみると、最後にかかった病院で「クルーゾン病」であることが診断されました。
「クルーゾン病」とは先天性の遺伝子疾患であり、あらゆる疾患を併発してしまう重度の障害です。
頭蓋・顔面骨縫合早期癒合を来す疾患群であり、頭蓋・顔面の異常、頸部・気管の異常及び四肢の異常を認め、疾患ごとに症状が異なる。代表的な疾患を挙げるとクルーゾン症候群、アペール症候群、ファイファー症候群、アントレー・ビクスラー症候群などがある。
次男の手術が決まりましたが、稲川淳二さんは手術日が近づいてくるにつれて「手術中に死んで欲しい」と思うようになったそうです。
稲川淳二さんは重度の障害を抱えた次男のこれからの苦難の多い人生と、それを支え続けなければならない嫁のことを思うと、手術の前に病院のベッドで寝ていた次男を窒息死させようとしたこともあったようです。
周りを見たら、病室には誰もいない。私ね、スーッと手を伸ばしたんですよ。鼻まであとわずか1cmのところまで手が伸びたんだけど、ブルブルブルブル震えてできないんです。そのうち、「やめておけよ」っていう声が聞こえたような気がして、ふーっと手をどかしたら、女房が部屋に入ってきたんですね。
次男を殺すことを思いとどまった稲川淳二さんは、丸一日かかった大手術を終えて手術室から出てきた次男を見て衝撃を覚えたそうです。
まだ生後4ヶ月の小さな体ながら、大手術を終えて息をついている次男の姿を見て、殺す寸前で思いとどまった稲川淳二さんは深い自責の念に駆られて、次男の父親は自分なんだということを強く自覚し「俺はお前の父ちゃんだぞっ」と何度も次男の名前を叫んだそうです。
稲川淳二さんは次男が障害者だったことから、それまでの障害者に対する考え方や怪談のスタンスにも強い影響を与えたようです。
次男の存在が稲川淳二を変えた
稲川淳二さんは次男が生まれるまでは、多くの人がそうであるように障害者が困っていたら「助けてあげたい」という同情の念を抱いていたようですが、次男が障害者だったことからその考え方に大きな変化があったようです。
稲川淳二さんは結婚する前にラジオ番組で障害者など社会的弱者に手を差し伸べる話を幾度かしたことがあったそうですが、重度の障害者である次男が生まれてからはそうした話が次男への差別に当たるという思いを抱くようになったそうです。
それは、障害者が自分には直接的に関係が無い人たちだったため同情を抱くことができたものの、実際に自分の子供が障害者だったことでその気持ちは「なんで俺の子が?」という不幸の象徴のような差別するような心境になっていたようです。
これは多くの人が感じることだと思いますので稲川淳二さんは正常な反応だと思いますが、次男を殺せなかった理由を「やっぱり自分の子供は可愛かった」と語っています。
しかし、「クルーゾン病」の特徴である歪んだ顔貌を次男と街を歩くと、よく奇異の目で見られていたことを稲川淳二さんは明かしています。
稲川淳二さんは当時仕事が多忙で家に帰ることも少なかったため、嫁は次男が5歳の頃に家を出ていったきり現在まで別居状態が続いているようです。
そして、稲川淳二さんは次男ともほとんど会う機会がなく、長男を介して伝え聞くくらいだったそうですが、次男は26歳で亡くなるまで比較的楽な生活をできていたということです。
稲川淳二さんは仕事の怪談話にも次男の影響があったことを明かしています。
稲川は「優しい怪談だとか思いのある怪談は、次男のおかげ」だと語る。さらに「命を大事に思うから怪談がある」のだと、単に死んで終わりなら怪談の意義はないと説いていた。
次男の存在が稲川淳二さんの死生観に大きな影響を与え、それが怪談話にも深く影響していたようですね。
#稲川淳二 さんの御講演を拝聴させて頂きました。独特のユーモアや迫力、優しさを放ちながら、次男さんの体験談をお話しされ、とても感動しました。
— akir_a_rika (@AKIR_A8A_RIKA) 2018年5月19日
「世の中に要らない命はない。」#障がい者 #バリアフリー #ウェルフェア2018 pic.twitter.com/TeR3eO96fh
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像特集
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像①
稲川淳二さんのタレント以外の顔は商業デザイナーで、社会で無くてはならない製品のデザインも数多く手がけてきたようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像②
スーパーなどで使われるバーコードリーダーも稲川淳二さんはデザインしていたようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像③
これは稲川淳二さんが「グッドデザイン賞」を受賞した車止めのようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像④
上図の奇抜なデザインのものもあればこのような実用的なデザインも稲川淳二さんは手がけているようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像⑤
稲川淳二さんは業務用の台車も「グッドデザイン賞」を受賞していたようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像⑥
稲川淳二さんの怪談話に登場する心霊写真はすべて作られたもののようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像⑦
こうした心霊写真は二重撮りという技術で作っているようです。
稲川淳二の心霊写真やデザインの画像⑧
稲川淳二さんが紹介した心霊写真が二重撮りで作られたものだと検証されています。稲川淳二さんは怪談の語り部であって霊媒師などではないので仕事用のツールとして心霊写真を依頼して作って貰っていたのでしょう。
とはいえ、稲川淳二さんは1985年8月12日に日本最大の航空機事故を起こした日本航空123便に乗る予定だったようですが、番組『稲川淳二のためになる話』の収中録に立っていられないほどの体調不良を訴えて翌日の新幹線にスケジュールを変更して難を逃れたという体験を持っているようです。
さらに、この航空機墜落事故では同番組を手伝っていた美容研究家の友人がスケジュールが前倒しになったため搭乗予定ではなかった123便に乗って亡くなっているようです。
これが心霊的なものかはわかりませんが、稲川淳二さんはこの出来事を「運命の分かれ目」と語っています。
い、稲川淳二ってプロダクトデザイナーだったの。 pic.twitter.com/cVsUAolxTC
— 清家 孝春 (@psychoMASAO) 2018年5月22日
やだな〜、こわいな〜
— 高橋麻美 チャーミー (@charmy421) 2018年5月24日
稲川淳二さんが来られた瞬間から
スタジオ内ヒヤっとするし
マイクにノイズ入る😵
もちろん空調変えてないし
稲川さんがスタジオ出たらまた暑くなった。
マイクも機材不調ではなかったっていう…
やはり、、何かが😨😨😨#稲川淳二 #gogomonz #nack5 #怪談ナイト pic.twitter.com/7SqPhgBgD0
稲川淳二について総まとめすると・・・
・稲川淳二は1977年に青森県弘前市出身の尚子さんと結婚。しかし、尚子さんは1990年の正月に突如として家から姿を消し、約30年近くにわたり別居状態である。
・稲川淳二に息子は2におり、長男は1977年生まれの俳優・稲川貴洋、次男は1986年に「クルーゾン氏症候群」という重度の障害をもって生まれ、26歳で亡くなった。
ラジオDJとしてデビューし、元祖リアクション芸人としてブレークした後に怪談の語り部としても一世を風靡してきた稲川淳二さんについて総まとめしてきました。
現在、稲川淳二さんのイメージは怪談が強いため、リアクション芸人として活躍していた頃を知るとまた違った印象を持つかもしれませんね。
稲川淳二さんの次男は「クルーゾン氏症候群」という重度の障害を抱えて生まれ、26歳の若さで亡くなりましたが、その人生は決して不幸ではなかったようです。
稲川淳二さんは嫁とは25年以上現在まで別居が続いていますが、不倫報道などスキャンダルもなく慎ましい生活を送っているようですね。