ソニーの社長や会長を歴任した実業家の出井伸之さんは、2022年6月に亡くなりました。
今回は出井伸之さんの若い頃の学歴(高校や大学)と経歴、左遷された過去、結婚した嫁や子供(息子や娘)、自宅や資産、死因や現在を紹介します。
この記事の目次
- 出井伸之はソニー初の新卒サラリーマン社長
- 出井伸之の家族:父親は大学教授・母親は洋裁店経営
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴① 裕福だった幼少期
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴② 高校と大学は早稲田
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴③ ソニーに入社しヨーロッパ事業に関わる
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴④ 文系卒ながらオーディオ部門の部長に就任
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑤ 50代からは広告畑で奮闘
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑥ 1995年に異例の人事で社長に抜擢
- 出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑦ ソニーショックで強制退陣
- 出井伸之はソニー時代に2度の左遷を経験していた
- 出井伸之のその後:レノボや百度の社外取締役などで活躍
- 出井伸之が結婚した嫁と子供(娘・息子)
- 出井伸之の資産や自宅とは?
- 出井伸之の現在:2022年6月に病死・死因は肝不全
- 出井伸之のまとめ
出井伸之はソニー初の新卒サラリーマン社長
出井伸之(いでい のぶゆき)
生年月日:1937年11月22日
出身地:東京都世田谷区成城
出井伸之さんは、ソニーの社長、ソニー株式会社最高経営責任者などを歴任した人物です。
「ものづくり」から「コンテンツ重視」への経営改革を行い、一時期は世界最悪の経営者との酷評されたこともありました。
この記事では、そんな出井伸之さんのこれまでの経歴や家族情報の他、資産情報などについて紹介します。
出井伸之の家族:父親は大学教授・母親は洋裁店経営
出井伸之さんの父・盛之さんは1892年生まれで、早稲田大学政治経済学部を卒業後は、国際労働機関勤務を経て、1937年に母校・早稲田大学の教授に就任するようなインテリでした。
また、母・綾子さんもお茶の水女子大学を卒業した才媛だったうえに、身長が170cmもあるようなモデル体型でした。
「女性でも仕事を持たなければいけない」といった盛之さんのモットーにより、綾子さんは当時から東京・青山で洋裁店を経営していたと言います。
そんな出井家には、出井伸之さんの他にも、娘3人と息子1人がいましたが、長男は出井伸之さんが生まれる前、16歳で病死してしまったようです。
おやじからは「お前の兄貴はすごく優秀だった」という話をよく聞かされました。外交官を目指していたそうです。この間、兄貴が書いた手帳を見つけたのですが、数字がバーッと書かれていて理系少年だったことが分かりました。
ちなみに、出井家の娘たちは学校を卒業後、母・綾子さんが経営する洋裁店を手伝っていました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴① 裕福だった幼少期
東京都・成城生まれの出井伸之さんですが、幼稚園時代に、父・盛之さんの仕事の都合で中国・大連に移住しています。
当時の父親の仕事は、大連の商工会議所の幹部で、家に送迎用の車が毎朝来るほどだったようです。
終戦後は、父親が商工会議所を解雇されただけでなく、ソビエトの兵士に追いかけ回されて殺されそうになるなど、辛いことも多かったといいます。
また、引き揚げ船になかなか乗れず、終戦後も2年ほどは中国に残留していたそうです。
そんな中、一家の生計を支えてくれたのが、母・綾子さんと姉たちだったそうで、ソビエトの将校相手に洋服を作ったりして、生活費を稼いでいました。
中国から帰国後もブルジョワ生活
成城にあった自宅は奇跡的に空襲被害に遭わなかったことに加えて、中国から帰国早々、父親は早稲田大学で再び教鞭をとれることになり、戦後も出井家は没落とは無縁でした。
当時の日本では、庶民が食料を求めて闇市に殺到している時代でしたが、出井伸之さんは私立の成城学園初等学校に編入し、バイオリンを習うなど、別世界のブルジョワ生活だったようです。
そして、そのまま内部進学した成城学園中学校では、音楽部に入部したことをきっかけに、後に世界的指揮者になる小澤征爾さんと友人になっています。
小澤さんは音楽部の先輩で3年生、僕は1年生でした。できたばかりの音楽堂から、いつも楽器の音が聞こえてきました。当時の小澤さんはピアニストを目指していて、僕ともう一人がバイオリン、さらに一人がフルートと、4人でカルテットを組んでいました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴② 高校と大学は早稲田
中学を卒業後、出井伸之さんは名門・早稲田大学高等学院に進学しています。
この頃になると、クラシック音楽よりもカメラに興味を抱くようになっていた出井伸之さんは、写真部に入部し、最終的には部長を務めたといいます。
また、オーディオ方面にも興味を持ち、自作のスピーカーボックスを組み立てるほどだったようです。
高校生のころ、LPレコードがはやっていて、僕は秋葉原の電気街に通うオーディオ少年でもあったんです。スピーカーボックスを設計して、中のコイルや(高音質に変える)キャパシタを買ってきては、自分で組み立てていました。
早稲田大学に入学
高校を卒業後の出井伸之さんは、内部進学を選択肢し、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。
大学時代も引き続き写真部に所属していましたが、プロのカメラマンを夢見てはいなかったそうです。
自分の将来について、おやじや兄への対抗心もあって学者でも外交官でもない道を模索していました。そして早く独立するために海外で生活したい、アメリカよりはヨーロッパに行きたい、と思うようになりました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴③ ソニーに入社しヨーロッパ事業に関わる
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
出井伸之さんは、野球の早慶戦観戦時の必須アイテムだったトランジスタラジオをきっかけに、当時はまだベンチャー企業だったソニー株式会社に関心を抱きます。
そして、東京都・品川にあるソニーの本社に乗り込んで、社長の井深大さんや副社長の盛田昭夫さんに、就職を直談判。
当時のソニーはベンチャー企業そのもので、社屋も汚い木造。部屋に入ると、社長の井深さんと副社長の盛田昭夫さんが机を並べて座っていました。
「君は何がやりたいんだ」と聞かれたので、「僕はこの会社をヨーロッパで伸ばします」と答えました。当時のソニーはアメリカ進出を果たしていましたが、ヨーロッパはこれからだったのです。そのときは半導体の話もしました。
熱意を買われ、ソニーに入社した出井伸之さんは、盛田昭夫さんからは特に可愛がられたそうで、ゴルフや映画鑑賞に誘われる機会も多かったそうです。
ソニー入社早々に欧州へ留学
出井伸之さんはソニー入社2年目に、ジュネーブ国際・開発研究大学院へ留学しています。
ちなみに、この時の留学は社費留学ではなく、父親にお金を借りて留学費用を工面したそうです。
ジュネーブ国際・開発研究大学院を修了後、いったん日本に帰国したものの、ソニーの欧州事業立ち上げのために、再度渡欧。
フランスで販売会社の立ち上げに尽力しました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴④ 文系卒ながらオーディオ部門の部長に就任
世界で初めてトランジスタラジオを小型化したソニーは、ベンチャー企業時代から優秀な人間が集まっており、出井伸之さんの同期も東大卒や東大院卒がゴロゴロいたようです。
そのため、40代になった出井伸之さんは文系畑での出世に限界を感じ、理系の技術者しか就任できなかった事業部長を目指します。
ソニーでも前例のない転身劇を後押ししてくれたのは、フランス時代に知り合った岩間和夫さんでした。
岩間和夫さんは後にソニーの4代目社長となる人物で、日本の半導体産業の基盤を作ったと言われるほどの技術者です。
そんな岩間和夫さんの後援もあり、出井伸之さんはオーディオ事業部の事業部長に就任しました。
オーディオ事業部部長時代にCDプレイヤーを発売
出井伸之さんがオーディオ事業部長に就任した当初、オーディオ事業部はソニーの中でも伝統ある部署だった一方で、赤字が続いていました。
また、文系出身の出井伸之さんを快く思わない雰囲気があり、事業部長室を訪ねてくる社員すらいなかったといいます。
しかし、クラシック音楽やオーディオ方面の知識があった出井伸之さんは、音の違いが分かることを武器に、色々と口出しをしているうちに、技術者から一目置かれるように。
また、部下を誘ってコンサートに行くなど、周囲との信頼関係を構築していきました。
そして、出井伸之さんがオーディオ事業部時代はオーディオのデジタル化に取り組み、オランダのフィリップス社とともにCDを開発。
1984年にはCDプレイヤーを発売し、ヒットさせています。
コンピューター事業やレーザーディスク事業にも携わっていた
オーディオ事業で成功を掴んだ出井伸之さんは、当時会長に就任していた盛田昭夫さんの判断で、コンピューター事業の事業部長に就任しています。
当時のソニーは、マイクロソフトと家庭用コンピューターの統一フォーマット「MSX」を作る共同プロジェクトに取り込んでいました。
後に世界的なPCブランドになる「VAIO」を生み出したソニーですが、1983年に発売した「HitBit(ヒットビット)」の売上はイマイチで、出井伸之さんも事業部長を解任されています。
その後、レーザーディスク事業立ち上げのために、レーザーディスク事業部の事業部長を務めていた時期もありました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑤ 50代からは広告畑で奮闘
40代を理系畑で過ごした出井伸之さんですが、50代になると文系畑に戻って来ており、広告・宣伝本部長に就任しています。
そして、アメリカ企業のスタイルを模範し、「コーポレート・コミュニケーション」という概念をソニーに導入したそうですね。
ソニーのブランドをさらに強化するために、それまでばらばらに対外発信をしていた広報、広告宣伝、プロダクトデザインをひとつにまとめ、「コーポレート・コミュニケーション」という考え方を導入しました。
コーポレート・コミュニケーションとは、ソニーの製品を買ってくださる消費者や機関投資家、マスコミなどあらゆるステークホルダー(利害関係者)に対し、トップマネジメントのメッセージを一貫性を持って対外的に発信するということです。
また、プロダクトデザインにもこだわりを見せ、現在のファッショナブルなソニーのイメージを作り上げた功労者でもありました。
その他、社内にシンクタンクを創設し、10年先を見据えた経営戦略などを上役に提案していました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑥ 1995年に異例の人事で社長に抜擢
1994年にソニ-の常務取締役に就任していた出井伸之さんですが、1995年になると、14人もの上役を飛び越えて、社長に抜擢されるサプライズが起こりました。
出井伸之さんを社長に抜擢したのは、前社長の大賀典雄さんでしたが、あまりにもサプライズすぎる人事に対して、社内でも反対意見が多かったと言われています。
出井伸之さんが社長に抜擢された理由については、ソニー側は公表していません。
ただ、その頃の出井伸之さんは、インターネットを国のインフラ化しようというアメリカの「情報スーパーハイウェイ構想」に感化されて、大賀社長らに建白書を提出していました。
ちなみに、その建白書には、「ネットワークを利用した巨大企業の誕生の可能性」や「対話型のパーソナルメディアの可能性」などが記されていたといいます。
今では当たり前のようになっているこれらのことを、30年も前に出井伸之さんはすでに見抜いていたことを考えると、その先見の明には驚かされます。
そしてその出井伸之さんの構想に賛同し、社長に推したた大賀典雄さんもまた、先見の明があったと言えるでしょう。
ソニーの経営改革に乗り出す
社長就任後の出井伸之さんは、従来の「エレクトロニクス」のみ重視の経営方針から、「映画」「音楽」「ゲーム」などをコア事業として強化しています。
また、「エレクトロニクス」の分野でも攻めの経営を続け、PC市場への再参入を掲げて、PCブランド「VAIO」を世界的にヒットさせることにも成功しました。
出井伸之さんが社長時代のソニーのヒット商品には、ブラウン管式平面テレビ「WEGA」も挙げられます。
また、ネットワーク事業の立ち上げも推し進め、「ソニーコミュニケーションネットワーク」や「ソニー・エリクソン・モバイル・コミュニケ―ションズ」なども設立。
その他にも「マネックス証券」の立ち上げ、ドイツの大手レコード会社・BMGの買収なども手がけました。
出井伸之の若い頃の経歴&学歴⑦ ソニーショックで強制退陣
2000年にソニーの会長兼CEOにまで出世している出井伸之さんですが、2003年に起こったソニーショックにより立場が一転します。
ソニーショックとは、2003年3月期のソニーの決算が不調だったことで起きた日経平均株価の暴落騒動です。
当時のソニーは、薄型テレビ市場への参入の遅れなどに象徴されるエレクトロニクス分野の不振で、「脱ものづくり」を掲げた出井体制への批判の声が高まっていました。
しかし当の出井伸之さんは、そんな内外の批判の声を無視して、ネットワーク事業を推進し、ロボット事業からの撤退など、改革を推し進めています。
その後も、ソニーの経営不振は続き、「ものづくり復活」を掲げて、出井伸之さんが発案したAV機器の高級ブランド「QUALIA(クオリア)」が失敗してしまいました。
これにより、アメリカの経済誌には「世界最悪の経営者」と評されています。
反出井派の声を抑えきれなくなった出井伸之さんは、2006年にソニーの会長兼CEOを退任することになりました。
土日は雨だったんで、ソニーについて読書した。ソニーが無茶苦茶になって今もほとんど蘇らない状態が続いているわけだが、その原因は米国の映画事業など色々事業の方にも問題はあったんだがやはり、出井社長の失敗がすごく影響しているんだと感じた。改革のヒローになりたい病。大企業を壊す病気だね。
— 内部留保取り崩して賃金10%あげろ😡負担倍増、増税岸田内閣に反対😡復活のそーせいさん (@soseisandesu) October 22, 2017
しかし近年、ソニーの経営が改善している理由に、出井時代に強化した「ゲーム」や「映画」が稼ぎ頭になっていることが挙げられており、出井伸之さんを再評価する声が高まっています。
出井伸之はソニー時代に2度の左遷を経験していた
ソニーと共に右肩上がりの時代を生きてきた出井伸之さんですが、実は左遷経験もあります。
独断でパートナー企業を選び、ヒンシュクを買った
最初の左遷経験は、フランスで販売会社の立ち上げに奮闘していた頃です。
当時は、日本からフランスに直接投資できない規制があったため、販売会社を立ち上げるためには、地元企業と合弁会社を作る必要がありました。
そのため、ソニー側は以前から付き合いがあった販売代理店と合弁することを予定していたそうです。
しかし、販売会社立ち上げの責任者の1人だった出井伸之さんは、より良いパートナー企業を求めて、独断で「スエズ銀行(現クレディ・アグリコル)」と交渉を進めてしまいました。
その結果、本社から不評を買い、日本へ連れ戻されて、しばらくの間は物流センター勤務だったそうです。
正直すぎて干された経験もあった
出井伸之さんは、当時ソニーの社長だった大賀典雄さんと口論になり、左遷されたこともあります。
大賀典雄さんに「俺と(ライバルの)副社長のどっちに付くのか?」と問いただされた際に、「(直属の上司である)副社長側につく」と返答したそうです。
その結果、大賀典雄さんの逆鱗に触れて、肩書も仕事も剥奪されて、3か月ほど干されることになりました。
ちなみに、これはコンピューター事業部の事業部長をしていた頃の話で、その後の出世に影響はなかったと言われています。
出井伸之のその後:レノボや百度の社外取締役などで活躍
2005年6月22日に、業績不振の責任を取る形でソニーの会長を退任した出井伸之さんでしたが、そのまま隠居したわけではありませんでした。
「クオンタムリープ株式会社」を設立し、アドバイザー事業を開始したのです。
ソニーの一時代を築いた出井伸之さんですから、その知恵やノウハウを借りたい企業は多く、「レノボ」や「百度」といった外資系企業の取締役などに就任しています。
また、吉本興業の取締役にも就任し、株式非公開化のTOBに貢献したこともありました。
その他、大和証券エスエムビーシーと一緒に、「大和クオンタム・キャピタル」という投資ファンドを立ち上げています。
出井伸之が結婚した嫁と子供(娘・息子)
出典:https://pixabay.com/ja/
出井伸之さんは、ソニーに入社して1年目に、晃代(てるよ)さんという早稲田大学の同窓生(同い年)の女性と結婚しています。
夫婦の仲はかなり良いようで、一緒にゴルフや演劇鑑賞をしていたようです。
今日は奥さんと劇団四季 アイーダを見に行く。凄い。。みんな凄く泣いていた。私もこの年になっても泣けるんだと思った。..おそらくもう一度見ても(T ^ T)
— 出井伸之 (@Nobuyuki_Idei) May 31, 2012
子供は娘のみ
出井伸之さん夫妻に待望の第一子が誕生したのは、出井伸之さんが30歳の頃でした。子供は娘で、まりさんといいます。
まりさんはスイス駐在中に誕生しているため、帰国子女でもあります。
そんなまりさんも既に結婚していて、ジャニーズ好きの孫娘もいるようです。
名古屋ドームに孫娘と嵐のライブに行く。ホテル満室、交通渋滞。9割女子。年代赤ちゃんから上限なし。凄い!泣いて居る人も。嵐のパワー日本の政府に上げたい。
— 出井伸之 (@Nobuyuki_Idei) December 5, 2010
ちなみに、孫娘は2011年3月に小学校を卒業しているため、2022年現在は社会人になっているものと思われます。
今日は孫の小学校卒業式に参加。。この子供達が大人に成る時の日本を確りした国として引き継がなければいけない。その為にも今の難局をまず乗り越えよう。今の日本の四十歳台の頑張り期待します。
— 出井伸之 (@Nobuyuki_Idei) March 19, 2011
なお、出井伸之さん夫婦にとって長女・まりさんが唯一の子供で、息子はいません。
出井伸之の資産や自宅とは?
出井伸之さんは、ソニーではサラリーマン社長の立場だったため、起業家のような莫大な資産は築いてはいないと思われます。
ただ、ソニーは世界的な大企業で、会長兼CEOにもなると年収が10億円を超えてくるため、芸能人やプロ野球選手以上の資産を持っている可能性はあります。
実際、住所は非公開ですが、出井伸之さんの自宅には、地下にメディアルーム兼ゴルフ練習場があると言われ、かなりの豪邸です。
その他にも、長野県軽井沢市に別荘も持っているようで、一般的な雇われ社長の生活水準をはるかに超えるリッチな生活をしていたことは確かです。
出井伸之の現在:2022年6月に病死・死因は肝不全
出井伸之さんは、2022年6月2日に肝不全で亡くなりました。享年84歳でした。
84歳、出井さん亡くなる‼️
— 西田文郎 (@nishidafumio) June 7, 2022
現ソニーグループ社長を務めた出井伸之さんが2日、肝不全のため死去した
以前、私が東京でやっていた会社に講演に来てくれた元ソニー会長の出井さんが亡くなられた
脳梗塞をやったばかりの私に年上の出井さんから西田さん気合いを入れて頑張ってと言われた
冥福を祈る pic.twitter.com/4URmLYNMOd
「ものづくり」から「コンテンツ重視」の経営改革を行い、一時は世界最悪の経営者と言われたこともありましたが、今の世の中を見ると、出井伸之さんの予想通りになったとも言えます。
ソニーだけでなく、日本のデジタル業界、エンターテインメント業界に大きく貢献したのが出井伸之さんなのです。
出井伸之のまとめ
出井伸之さんは、ソニーの生え抜きとして会社を引っ張り、社長や会長として辣腕を振るった実業家です。
それまでの経営方針から一転して、改革路線を推し進めたことから、その功績は賛否が別れる人物でもあります。
出井伸之さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。