世界的ファッションデザイナーとして知られる森英恵さんが96歳で亡くなりました。
この記事では森英恵さんの若い頃の画像や経歴、家系図、旦那の森賢さんとの結婚や馴れ初め、子供の2人の息子や娘がいるというデマ、森泉さんら孫達、自宅の豪邸や死因などについてまとめました。
この記事の目次
- 森英恵のプロフィール
- 森英恵の若い頃の画像や経歴① 裕福な開業医の家庭で育つ
- 森英恵の若い頃の画像や経歴② 小学4年生からは東京の学校へ通う
- 森英恵の若い頃の画像や経歴③ 大学卒業後結婚し洋裁を学び始める
- 森英恵の若い頃の画像や経歴④ 洋装店「ひよしや」を開業
- 森英恵の若い頃の画像や経歴⑤ 400本超の映画の衣装を手がけ銀座にブティック「ハナエモリ」オープン
- 森英恵の若い頃の画像や経歴⑥ 海外でも高い評価を受け世界的デザイナーへ
- 森英恵の家系図
- 森英恵の結婚した旦那は元陸軍主計少佐の森賢
- 森英恵と旦那・森賢の子供① 息子(長男)は倭式騎馬會会長の森顕氏
- 森英恵と旦那・森賢の子供② 息子(次男)はマイカシミヤ代表取締役の森恵氏
- 森英恵と旦那・森賢の子供③ 娘はいない
- 森英恵の孫① 実業家の森研さん
- 森英恵の孫② アーティストでファッションデザイナーの森勉さん
- 森英恵の孫③ モデルでタレントの森泉
- 森英恵の孫④ 元モデルでファッションプロデューサーの森雪さん
- 森英恵の孫⑤ モデルでタレントの森星
- 森英恵の自宅
- 森英恵の死因
- まとめ
森英恵のプロフィール
森英恵のプロフィール
生年月日:1926年1月8日
没年月日:2022年8月11日(享年96歳)
出身地 :島根県鹿足郡六日市町(現在の島根県吉賀町)
森英恵(もり・はなえ)さんは、1950年代から2000年代はじめにかけて活躍した世界的なファッションデザイナーです。1965年のニューヨーク・コレクションに初参加して高い評価を得て、日本人ファッションデザイナーの海外進出の先駆け的存在となった事でも知られています。
森英恵さんは、1977年に東洋人史上初かつ日本人唯一のパリ・オートクチュール組合正会員となり、2004年まで27年間にわたってパリでオートクチュール作品を発表しました。
モデルやタレントとして人気が高い森泉さんや森星さんの祖母としてもよく知られています。
この森英恵さんが、2022年8月に96歳で亡くなり、その若い頃の経歴や家族などへの関心が改めて高まっています。
今回はそんな森英恵さんについて紹介していきます。
森英恵の若い頃の画像や経歴① 裕福な開業医の家庭で育つ
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森英恵さんは1926年1月8日に、自然豊かな島根県鹿足郡六日市町で、2人の兄と姉、妹がいる5人兄妹の次女として生まれています。実家は町唯一の医院を営み、地主でもある裕福な家庭でした。
外科医だったという父親は山口県の医者の家系の生まれで、大阪府の学校で医学を学び、その後勤務していた病院に入院してきた女性(後に森英恵さんの母親となる女性)に恋をして、その女性の故郷島根県六日市町まで追いかけて結婚したそうです。
この結婚相手の女性(森英恵さんの母親)の実家は地主でもある地元の名士だったため、森英恵さんの父親そのままこの地に根付き医院を開業しています。(専門の外科だけなく内科や小児科、出産まで手がけていた)
そんな森英恵さんの父親はアートやファッションを愛するハイカラ(西洋風や都会風を追求して洒落ている事)な人物だったそうで、森英恵さんや姉、妹のための洋服を、東京の三越や大阪の高島屋にオーダーして取り寄せるほどだったそうです。幼い頃の森英恵さんは、自分達姉妹の着ている洋服があまりにも周囲と違うために恥ずかしいと思っていたのだとか。
森英恵さんは後に、厳格で教育熱心ながらアートを愛するお洒落な父親と、生まれ故郷である島根県六日市町の豊かな自然が、自身の代表的なモチーフである蝶のルーツとなっている語っています。
森英恵の若い頃の画像や経歴② 小学4年生からは東京の学校へ通う
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森英恵さんは小学校4年生の途中まで生まれ故郷の島根県六日市町で過ごし、2学期の頃に東京へと移住しています。これは、兄2人と姉が東京の学校へ進学したため、父親が土地を探し、杉並区内に自ら設計した家を建てて移り住んでいたたためでした。
しばらくの間、森英恵さんは妹と父親(島根県で診療所を続けていた)と島根県に残っていましたが、小学4年生の時に家族一緒に暮らすために引っ越したという経緯だったようです。
森英恵さんは杉並区の小学校(現在の杉並区立桃井第三小学校)に転入しますが、都会の子供達の洗練されて垢抜けた装いに気後れしてしまい、また、自分の言葉の訛りや、田舎育ちで肌が焼けている事なども気になってどんどんと内気な性格になってしまったそうです。
元々繊細な性格もあったのか、森英恵さんはこの頃にストレスのあまりしょっちゅう貧血で倒れてしまったそうです。また、勉強も東京の学校の方が進んでいたため、遅れないようにと毎日家庭教師の先生の家に通われていたそうです。
また、この頃には、立ち振る舞いと行儀のために母親と一緒に遠州流の茶道も習い始めています。
その後、森英恵さんは1938年に創立されたばかりの「東京府立第十一高等女学校(現在の東京都立桜町高等学校)」に第1期生として入学しています。森英恵さんはバスケットボール部に入って練習に打ち込まれたそうです。
私は38年、東京府立第十一高等女学校(現・東京都立桜町高校)に入学しました。創立されたばかりの学校で第1期生です。中野の仮校舎で学生生活が始まりました。
新しい学校だけに先生方は若くて、意欲に燃えていました。私はバスケットボール部に入り、練習に明け暮れる毎日。この時期に体も心も鍛えられ、基礎体力や精神力が培われました。
この1938年、森英恵さんの次兄が20歳の若さで亡くなっています。死因は結核でした。
さらにその数年が、森英恵さんが東京府立第十一高等女学校卒業後の進路を決めようとしている頃に、東京帝国大学医学部卒業後に研究室にたといる長兄が29歳で亡くなりました。死因は次兄と同じく結核でした。
長兄と次兄を亡くした父親は、森英恵さんに医者の道を進んでほしいという想いを持たれていたようで、森英恵さんは美術大学に進みたいと相談したものの許されませんでした。そして、父は森英恵さんの姉も進学していた帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学医学部)の願書を勝手に提出してしまったそうです。
しかし、森英恵さんは医者になる気はなく、東京女子大学で英文学を学びたいと言って譲りませんでした。しかし、太平洋戦争真っ只中という事もあり父親は敵性語である英語を学ぶ事を許さず、話し合いは平行線が続きました。しかしその後、母親の取りなしもあって、森英恵さんは1943年に東京女子大学の高等学部に入学されています。
森英恵の若い頃の画像や経歴③ 大学卒業後結婚し洋裁を学び始める
東京女子大学高等学部に入学した森英恵さんでしたが、太平洋戦争の戦況が悪化するにつれて、勉強できるような状況ではなくなり、勤労動員で工場にも駆り出されたそうです。
森英恵さんは後に、図書館で借りてきた本を読む事だけが楽しみだったと当時を振り返られています。
1945年8月に戦争が終わると、東京女子大学は授業を再開し、森英恵さんは改めて国文学を学ばれています。文章を書く才能があったそうで、教授から文章を書く仕事を依頼される事もあったのだそうです。
1947年に大学を卒業した森英恵さんは、翌1948年に戦争中の勤労動員で知り合った元陸軍主計少佐の森賢さんと結婚されています。
結婚当初は専業主婦をされていたという森英恵さんでしたが、結婚3ヶ月目で家で夫の帰りを待つ生活に飽きてしまい、洋裁を習おうと吉祥寺にあったドレスメーカー女学院に通い始めました。
森英恵の若い頃の画像や経歴④ 洋装店「ひよしや」を開業
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森英恵さんはドレスメーカー女学院入学翌年の1949年に子供を出産していますが、子育てをしながら洋裁の勉強や服作りに打ち込み、学校修了後に仲間達と新宿に洋裁店を開業されています。ところが、仲間の結婚などもあってこの洋裁店はやむなく閉店となります。
森英恵さんの旦那さんの森賢さんは当時としては珍しく女性がバリバリ働く事への抵抗が無い方だったそうで、もう1度しっかりやってみたらと言ってくれて、新宿駅東口、映画館「武蔵野館」の向かいにある、そば屋の2階に空き店舗を見つけてきてくれたそうです。
そして、1951年に森英恵さんはこの場所で洋装店「ひよしや」を開業されたました。
森英恵さんのセンスの良いデザインの商品に加えて、当時はまだ洋服店の数が少なかった事から「ひよしや」はたちまち評判になり、開店からすぐに多くのお客さんが訪れるようになって、マネキン人形に着せる服が間に合わなくなるほどだったそうです。
やがて、進駐軍(当時駐留していたアメリカ軍)の将校の妻たちも評判を聞きつけて「ひよしや」を訪れるようになり、森英恵さんは彼女達の持ってきた立体裁断の型紙での服作りを実践しながら本場の洋服文化を学び腕を磨かれたそうです。
森英恵の若い頃の画像や経歴⑤ 400本超の映画の衣装を手がけ銀座にブティック「ハナエモリ」オープン
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「ひよしや」を開店して数年が経過した頃、お店に映画会社日活のプロデューサーと衣装部の男性が訪れ、映画の登場人物が着る衣装のデザインの依頼を受けました。
森英恵さんはこの仕事を引き受け、1950年代から60年代の日本映画全盛期に、400本超の映画で主演級女優の衣装を中心にデザインを担当されています。
森英恵さんがこの頃に衣装を手がけた映画作品としては、「太陽の季節」、「狂った果実」、「四十八歳の抵抗」、「嵐を呼ぶ男」、「彼岸花」、「錆びたナイフ」、「秋日和」、「サンマの味」、「銀座の恋の物語」、「キューポラのある街」などの名作が並びますが、この他にも多数の作品の衣装を手がけており、数が多すぎて森英恵さん自身もどの作品で自身が衣装を担当したのか正確には把握できていなかったのだそうです。
映画の衣装の仕事を請け負い始めた1954年、森英恵さんは、銀座に新店舗ブティック&サロン「HANAE MORI(ハナエモリ)」を開店されています。それからは映画の衣装の仕事が殺到するようになり、いつも4冊〜5冊もの映画の脚本を持って新宿の店と銀座の店を行ったり来たりする生活で多忙を極めていたそうです。
森英恵の若い頃の画像や経歴⑥ 海外でも高い評価を受け世界的デザイナーへ
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1960年代、森英恵さんはファッションの本場であるフランスパリやアメリカニューヨークを訪れています。
そこでの体験(前衛的なショーを観たり、パリではココシャネルのスーツをオーダーしたりしている)に衝撃を受けた森英恵さんは海外で勝負したいという気持ちが湧き上がったそうです。
また、ニューヨークの高級百貨店(サックス・フィフス・アベニュー)を訪れた時には、日本製のブラウスが最も安く品質も低い物を売る地階で売られているのを見つけて悔しい思いをし、「日本を代表してこの百貨店の上層階に置いてもらえるようなものを作らなければならない」という闘争心が湧き上がってきたのだそうです。
帰国後、森英恵さんは知人や友人に海外で挑戦したいという想いを相談しますが、皆口を揃えて反対してきたそうです。しかし、ただ1人旦那さんの森賢さんだけが、「デザイナーとしてやりたいと思う時が、一番力を出せる時なんじゃないか」と言って背中を押してくれたのだそうです。
森英恵さんは、日本人のデザイナーが日本の生地を使い、日本人の手で縫い上げた服で勝負したいとの想いから、日本各地を回って生地などの素材を探し、京都の西陣織の職人達の協力も得るなど、3年以上かけて海外進出の準備をされています。
そして、1965年1月9日、「アメリカン・デザイナー・クラブ」(ニューヨークの有名デザイナーのクラブ)の主催イベントに、ゲストデザイナーとして招待され、この日のために用意した約60点のアイテムを発表しました。
この時、森英恵さんは「MIYABIYAKA(雅やか)」をテーマとし、日本の伝統技術を取り入れた洋服を披露しました。このショーは大成功を収め、モデル達(松本弘子さん、松田和子さん、高島三枝子さんといった当時パリなどで活躍していた日本人モデル達が務めた)は観客からの喝采を浴びました。
ショーの後、アメリカテキサス州ダラスの一流百貨店「ニーマン・マーカス」を経営するスタンレー・マーカス社長が舞台裏を訪れて森英恵さんの作品を絶賛し、その場で妻のためにと何着かを注文してくれたそうです。
そしてその1年後に、高級百貨店「ニーマン・マーカス」との取引が始まり、これがきっかけとなって他の店舗との取引もはじまり、雑誌で紹介されたり、広告でモデルが着る衣装に使用されたりし、森英恵さんの作品はアメリカで絶大な人気を得るようになりました。
森英恵さんは、ドレス作品のモチーフに蝶を使用したため「マダム・バタフライ」と称され、西欧での評価も得て、1977年にはパリ・コレクションで作品を発表しています。
その後、森英恵さんはアジア人としてはじめて「フランス・オートクチュール組合」の正会員にもなっています。2022年8月の現在でも、フランス・オートクチュール組合の正会員となった日本人は森英恵さんただ1人だけです。
森英恵の家系図
上の画像は森英恵さんの家系図です。森英恵さんは旦那さんの森賢さんとの間に子供が2人いて、2人とも息子さんです。
長男の森顕さんには子供が5人おり、森英恵さんにとって孫にあたります。そのうち長女の森泉さんと三女の森星さんはモデルやタレントとして活躍されています。
森英恵の結婚した旦那は元陸軍主計少佐の森賢
若い頃の経歴や家系図のところでも触れていますが、森英恵さんは1948年5月に森賢さんという男性と結婚されています。
森英恵さんの旦那さんの森賢さんは森英恵さんの14歳年上で、実家が愛知県一宮市で繊維会社を経営していましたが、戦争中は陸軍におり、主計少佐(経理などを担当する部署の将校)として後方勤務をしていました。
森英恵さんと旦那さんの森賢さんは戦争中の勤労動員を通じて出会ったそうです。森英恵さんによると、工場からの帰り道にその工場の責任者を務めていた森賢さんが「危ないから」と自宅まで送ってくれた事が好印象として残っていたそうです。
翌年、勤労動員で知り合った森賢と結婚しました。私が工場から帰る時に「危ないから」と自宅まで送ってくれた時から、何となく心に残っていたのです。
そして終戦後に帰り道の駅で偶然再開し、懐かしさも手伝って交際に発展しました。森英恵さんの父親は森英恵さんの旦那に医者を望んでいたため、森賢さんとの結婚に反対しますが、森賢さんは当時森英恵さんの両親が戻っていた島根県まで赴いて直談判して結婚の了承を得たそうです。
森英恵さんの旦那さんの森賢さんは、戦争が終わった後は愛知県一宮市の実家が経営する繊維会社の東京の関連会社で営業として働いていたそうです。
森英恵さんが洋装店「ひよしや」を開業した頃には、その角を入った路地で「ヴェルテル」という喫茶店を経営されていて、その喫茶店を利用して森英恵さんはファッションショーを開かれていました。
森英恵さんはファッションデザイナーとしては素晴らしい才能と情熱を持たれていましたが、経営面では専門家ではなかったため、旦那さんの森賢さんは会社員を辞めて、「ハナエモリ」の代表を務め、経営者として森英恵さんを支えました。
森英恵さんにとって最大の理解者であり味方だった旦那さんの森賢さんでしたが、1996年に森英恵さんが文化勲章受章を受賞したすぐ後に体調を崩し、1996年10月16日に84歳で亡くなられています。死因は心不全だったそうです。
森英恵と旦那・森賢の子供① 息子(長男)は倭式騎馬會会長の森顕氏
森英恵さんと旦那さんの森賢さんとの間には2人の子供が誕生しています。
森英恵さんの最初の子供は息子の森顕(もり・あきら)さんです。
森英恵の息子・森顕のプロフィール
生年月日:1949年6月3日
出身地 :東京都
森英恵さんの1人目の子供の森顕さんは、1949年6月3日に生まれています。
ファッションデザイナーとして人気を得はじめた当時、森英恵さんは洋裁雑誌などに連載を持たれていましたが、その連載に当時まだ5歳だった息子の森顕さんが一緒に写真で登場された事もあったようです。
森英恵さんの息子の森顕さんはその後、スイスの国際学校を卒業し、1976年創刊のカルチャー雑誌「STUDIO VOICE」の初代編集長を務められていました。
その後は「株式会社ハナエモリ・アソシエイツ」の社長も務め、現在は「倭式騎馬會」の会長を務められています。
また、この森顕さんは、1978年にイタリア系アメリカ人で10代から日本で活躍していたモデルのパメラさんと結婚しています。このパメラさんとの間には5人の子供が生まれており、長女がモデルでタレントの森泉さん、三女が、同じくモデルやタレントとして活躍している森星さんです。
森英恵と旦那・森賢の子供② 息子(次男)はマイカシミヤ代表取締役の森恵氏
森英恵の息子・森恵のプロフィール
生年月日:1955年5月1日
出身地 :東京都
森英恵さんの2人目の子供は、1955年5月1日に生まれた息子の森恵(もり・けい)さんです。
森英恵さんの息子の森恵さんは、成蹊小学校を経て、スイスのLe Rosey(ル・ローゼイ校)を卒業し、その後はアメリカの名門校ペンシルヴェニア大学を卒業して数学・美術学士を得ています。
卒業後の1977年から「ハナエモリ」に入社し、ハナエモリ・オートクチュール在仏法人の社長などを経て、2000年から2003年にかけてマイカシミヤ在米法人社長を務めました。
2004年に「マイカシミヤ Japan」を設立し、現在もその代表を務められています。
森英恵と旦那・森賢の子供③ 娘はいない
娘がいると書いているサイトがあるようですが、森英恵さんの子供は上記の息子さん2人だけで娘さんはいません。
2人目の息子の森恵(もり・けい)さんの名前の「恵」が「めぐみ」の読みで女性の名前によく使われる事から女性と誤認されて娘がいるという噂が広まった可能性がありそうです。
森英恵の孫① 実業家の森研さん
森英恵さんの1人目の子供の森顕さんさんには5人の子供がおり、森英恵さんにとっては孫にあたります。森英恵さんの孫5人も順番に紹介していきます。
森英恵の孫・森研のプロフィール
生年月日:1979年6月28日
出身地 :東京都港区
森英恵さんの1人目の孫は実業家やメディアプロデューサーとして活躍する森研(もり・けん)さんです。
森研さんは、松濤幼稚園、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、アメリカの全寮制の名門私立校「フィリップス・アカデミー・アンドーヴァー」へ入学し、卒業後はアメリカの名門私立「ブラウン大学」を2003年に卒業しています。
卒業後は、INFASパブリケーションズ社(WWD JAPANの出版元)の現地代理人として、ファッション業界専門誌「WWD」のライセンス契約交渉や商標管理に携わっています。
2008年に帰国後は、M-ENTERTAINMENT社を設立し、株式会社ハナエモリ・アソシエイツとアドバイザリー契約を締結。
2012年からは、WWD JAPANのウェブ版「WWD JAPAN.com」のディレクターを経て編集長を務め、2015年には、WWD JAPANの編集部門とデジタル部門の統括責任者INFASパブリケーションズ社の常務取締役に就任しています。
森英恵の孫② アーティストでファッションデザイナーの森勉さん
森英恵の孫・森勉のプロフィール
生年月日:1981年2月25日
出身地 :東京都港区
森英恵さんの2人目の孫は、アーティスト、ファッションデザイナーとして活躍する森勉(もり・べん)さんです。
森勉さんは、松濤幼稚園、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、慶應義塾ニューヨーク学院に入学し、卒業後は、アメリカ最高の美術大学であるロードアイランド・スクール・オブ・デザインのグラフィックデザイン科を卒業されています。
2005年に東京都原宿のビルにスプレーで落書きをし、器物損壊で逮捕された事がありますが、その後はアーティスト活動をし成功されています。
現在は自身のファッションブランド「Ben Mori」と「White Raven」を展開し活躍されています。
森英恵の孫③ モデルでタレントの森泉
森英恵の孫・森泉のプロフィール
生年月日:1982年10月18日
出身地 :東京都港区
身長 :173cm
血液型 :A型
森英恵さんの3人目の孫は、タレントやファッションモデルとして活躍する森泉さんです。
森泉さんは2002年19歳の時にモデルとして芸能界入りし、2005年頃からバラエティタレントとして人気が上昇し、「おしゃれイズム」、「おもいっきりイイ!テレビ」、「ぐるぐるナインティナイン」、「幸せ!ボンビーガール」、「天才!志村どうぶつ園」などの人気番組にレギュラー出演しました。
私生活では、2018年3月、都内の寺院で副住職を務める40代の一般男性と結婚し、同年6月19日に第1子となる娘を出産しています。森泉さんの子供は森英恵さんにとってはひ孫にあたります。
森英恵の孫④ 元モデルでファッションプロデューサーの森雪さん
森英恵さんの4人目の子供は、元モデルで現在はファッションプロデューサーとして活躍する森雪さんです。
元々は日本でモデルとして活躍されていましたが、2010年に結婚してモデルからは引退し、現在は、アメリカロサンゼルスに住み、「YM Design Studio LLC 」というデザイン会社の代表を務められています。
森英恵さんのひ孫にあたる子供も2人(息子と娘)出産しているという事です。
森英恵の孫⑤ モデルでタレントの森星
森英恵の孫・森星のプロフィール
生年月日:1992年4月22日
出身地 :東京都港区
身長 :175cm
血液型 :O型
森英恵さんの5人目の孫は、ファッションモデル、タレントとして活躍する森星(もり・ひかり)さんです。
森星さんは10代の頃からモデルとして活動を開始し、「Hana*chu→」の読者モデルを経て、「CanCam」の専属モデルを2012年から2014年まで務め、2017年から2020年までは「25ans」の表紙モデルを務めました。
森英恵の自宅
出典:https://presidenthouse.net/
森英恵さんの自宅は、東京都港区赤坂の一等地に建つ豪邸でした。
森英恵さんは、2022年8月11日に亡くなられていますが、この自宅で亡くなられたという事です。
世界的ファッションデザイナーで文化勲章受章者の森英恵さんが11日に東京都内の自宅で老衰のため亡くなっていたことが18日、分かった。
森英恵さんは96歳と高齢でしたが、亡くなる直前まで自宅で元気に仕事をされていたそうで、突然の死去であったようです。
森英恵の死因
森英恵さんは自宅で亡くなられたという事ですが、持病も既往症もなく亡くなる前日まで元気に過ごされていたようです。
森英恵さんは9日にデザイナーの三宅一生さんが亡くなった事を知り、ショックを受けた様子だったようです。
その日に微熱が出て、10日になっても熱が下がらず、翌11日の早朝に息子の森顕さんが様子を見に行ったところ、静かに亡くなっていたという事でした。
9日にファッションデザイナーの三宅一生さん(享年84)の訃報が流れ、報道各社からコメントを依頼された際、「すぐには考えられないわ」とショックを隠せなかったという。 同日に微熱が出て、10日も熱が下がらず。11日早朝、長男の顕氏が様子を見に行くと、静かに息を引き取っていた。
この経緯から、森英恵さんの死因は「老衰」と発表されています。
羽根をモチーフにしたデザインで知られ、「マダム・バタフライ」と呼ばれたファッションデザイナー、森英恵さんが死去した。96歳だった。
まとめ
今回は、世界的ファッションデザイナーとして活躍し、2022年8月に96歳で亡くなった森英恵さんについてまとめてみました。
森英恵さんは若い頃は裕福な医者の家庭に生まれ、女子大を卒業後に結婚して洋裁を習い始め、戦後の復興期の時代に洋装店やブティックを出店し、その後の高度成長期に乗って成功を収めました。
旦那さんは戦時中に知り合った元陸軍将校の森賢さんという方で、終戦後すぐに再開して結婚されています。森英恵さんは旦那さんの森賢さんとの間に子供が2人おりともに息子さんで娘さんはいません。
息子の森顕さんには子供が5人おり、森英恵さんにとっては孫にあたります。森英恵さんの孫は、タレント、モデルとして活躍する森泉さんと森星さんの2人が有名ですが、他の3人も実業家やデザイナーとして成功されています。
森英恵さんの自宅は、東京都港区赤坂の一等地に建つ豪邸です。森英恵さんはこの自宅で静かに息を引き取ったという事です。死因は「老衰」と発表されています。