1966年6月30日に静岡県で4人が殺された「強盗殺人放火事件・袴田事件」の犯人として死刑が確定した袴田巌さん。冤罪事件と言われているこの「袴田事件」から57年が経ちようやく再審開始が決定し話題になっています。
「袴田事件」の詳細と真犯人や真相、被害者家族の長女の死や次女のおぞましい遺体、そして袴田巌さん本人の現在の状況などを総まとめしました。
この記事の目次
「袴田事件」袴田巌のプロフィール
世紀の大冤罪事件「袴田事件」の概要
半世紀以上を冤罪で失った袴田巌
「袴田事件」は1966年6月30日に静岡県清水市(現静岡市清水区)で起きた強盗殺人放火事件です。被害者の会社に住み込みで働いていた袴田巌さんは犯人としてでっち上げられ、死刑確定と48年間におよぶ投獄に苦しんできました。
袴田巌さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 袴田 巌(はかまだ いわお)
生年月日: 1936年3月10日
出身地: 静岡県浜名郡雄踏町(現浜松市西区)職業: 元プロボクサー
階級: フェザー級
称号: 世界ボクシング評議会名誉王者引用:Wikipedia – 袴田巌
現在まで袴田巌さんと姉・秀子さんを始めとする弁護団は袴田巌さんの冤罪を主張してきました。
詳細は随時ご紹介していきますが、「袴田事件」の概要をまとめると以下の通りになります。
焼け跡からは「専務」「妻」「当時17歳の次女」「当時14歳の長男」の焼死した遺体が発見される。
事件当時自宅に居なかった「当時19歳の長女・橋本昌子」だけが家族で唯一の生き残りだった。
事件の5年前にボクサーを引退した元フェザー級日本ランカーの袴田巌が同味噌製造会社に勤務しており、社宅の部屋から犯行時に使われたと思われる血の付いたパジャマなどが警察により押収される。
放火と強盗殺人の容疑で袴田巌は逮捕、警察による拷問の上で自白を強要され、その後の裁判で死刑判決が下る。
当時のDNA解析では証拠不十分であり、袴田巌は姉・秀子をはじめとする弁護団により48年間無罪を主張する再審請求が行われてきたが棄却されたものの、2014年に人道的見地から釈放される。
2017年9月に袴田巌の無実を証明するための弁護側のDNA型鑑定について、非公開の証人尋問が行われ、静岡地裁が再審請求開始を認めるも、東京高裁が2018年6月11日に弁護側のDNA型鑑定には疑うべき点があるとして再審請求を棄却した。
2020年12月、再審請求を棄却した東京高裁決定には審理を尽くさなかった違法があるとしてこれを取り消し、高裁に審理を差し戻した。
2023年3月、東京高裁は、衣類のほかに袴田巌を犯人と認定できる証拠はなく、確定判決の認定に合理的な疑いが生じることは明らかだとして、再審開始を認める決定した。
これまで司法の判断は二転三転してきましたが、なぜこのような事態になってしまったのか、「袴田事件」には真犯人がいるのか等について詳しく総まとめしましたのでご紹介しましょう。
袴田巌についての生い立ち&経歴
袴田巌は日本記録を持つボクサー
袴田巌さんは中学卒業後からボクシングを始め、アマチュアボクサーとして15戦8勝で、内ノックアウトが7回とハードパンチャーでした。
袴田巌さんは1957年には静岡国体で成年バンタム級にも出場しています。
袴田巌さんはそれからプロボクサーを目指すために上京し、1959年に岡本不二さんが運営する「不二拳闘クラブ」に所属して1959年11月にプロデビューを果たしています。
袴田巌さんはハードパンチを武器にフェザー級の全日本ランキングで6位まで上り詰めましたが、体調を崩して試合に出られなくなり1961年5月にプロボクサーを引退しています。
しかし、袴田巌さんの年間試合数は19戦で日本最多記録を保持し続けており、亀田大毅さんの年間8試合で「神業」と称されていたことから袴田巌さんがどれだけ凄いボクサーだったかが分かります。
袴田巌さんはプロボクサーとして再起を図るために静岡県清水市横砂(現・静岡市清水区)にある「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店(1972年に「株式会社富士見物産」と改称)」に就職しましたが、これが運の尽きとなりました。
1966年6月30日に同社の専務自宅で強盗放火殺人事件「袴田事件」が起き、同年8月18日に袴田巌さんは容疑者として静岡県警察に逮捕されてしまいました。
袴田巌、「袴田事件」の犯人として逮捕される
袴田巌は真犯人に濡れ衣を着せられた?
みそ製造会社の専務自宅は火災で全焼し、焼け跡から長女を除く一家4人の遺体が発見されました。
家族全員の焼死体には刃物での無数の刺し痕が残されており、火災は犯人が証拠隠滅を図るために放火したと見られました。
静岡県警は強盗殺人・放火犯の行方を探し始め、2ヶ月後の8月に同社の従業員だった袴田巌さんが逮捕されてしまいました。
逮捕の決めてとなったのは袴田巌さんの部屋から見つかった、犯行で被害者家族の返り血を浴びたとみられるパジャマでした。
袴田巌さんはずっと無罪を主張していましたが、警察による人道外れた拷問に耐えかねて自白を強要され犯人として逮捕されています。
警察が取った45通の自白調書の内裁判所に採用されたのは1通だけだったことからも警察が強引に調書を取っていたことが分かります。
ここで、袴田巌さんが受けたと言われる拷問という名の警察の取り調べについてご紹介しましょう。
袴田巌、拷問を受けて犯人と強制自白させられる
警察は袴田巌を殺す勢いで拷問し強制自白させた
警察による袴田巌さんへの取り調べは炎天下で行われ、1日平均で12時間、最長で17時間におよんだといいます。寝る以外の時間は拷問を受けていた袴田巌さんは精神的に耐えられず濡れ衣を着ざるを得ませんでした。
警察は人道外れた取り調べを行っており、袴田巌さんはトイレに行くことも許されなかったため取調室に便器を持ち込んで取調官の前で垂れ流しの状態でした。
そして、袴田巌さんはまともな睡眠が取れないように隣の部屋にわめき散らす泥酔者をわざと収容させられ、取調を受ける時には睡眠不足で疲弊してまともな思考状態ではありませんでした。
それでも袴田巌さんはやってもいない犯罪を認めるわけにはいかず無罪の主張を続けたため、警察はいよいよ一日中2、3人で警棒殴ったり蹴るなどのリンチを加えながらの取調べとなりました。
袴田巌さんは拘留期限の3日前に濡れ衣を着る自白をしたことから、このままでは警察に殺されると感じての無念の自白だったのでしょう。
当然これらの警察の拷問は違法行為であり発覚すれば関わった警察官全員が逮捕であり懲戒免職では済まないと思いますが、静岡県警の紅林麻雄警部を始めとした取調べに関わった警官が責任を取るようなことにはなりませんでした。
こうした隠ぺい体質は日本の暗部であり、現在もこうした無法が続けられていると言われています。
袴田巌、死刑確定と48年間の獄中生活
半世紀近く獄中に閉じ込められた袴田巌
袴田巌さんは拷問により強制自白させられて犯人となりましたが、法廷では当然無罪を主張続けたものの1980年12月12日に最高裁判所で死刑が確定しました。
袴田巌さんの無罪が実現することが無かったのは裁判官も警察とグルだったからだと言われており、その悪しき習慣は現在も続いています。
国家に法律を捻じ曲げられて殺人犯に仕立て上げられた袴田巌さんは、いつ執行されるとも分からない死刑の陰に怯えて生きる日々が始まり、次第に拘禁症状が現れることになります。
1967年8月にみそ工場のタンクの中から犯人が使用していたと思われる血の付いた5点の衣類などが発見され、この血痕からDNA型判定で袴田巌さんのDNAと一致したという警察の主張が死刑確定の決め手となりましたが、このDNA型の一致は警察のでっちあげたことだったと後に判明します。
袴田巌さんは48年間という半世紀に近い年月を獄中で過ごし、その内33年間は毎朝死刑執行の宣告に恐怖に怯えながら過ごしていました。
「袴田事件」袴田巌が48年ぶりに東京拘置所から釈放!
袴田巌、弁護団による2度の再審請求を経て釈放される
年月が経ち裁判官の温情を得た袴田巌
袴田巌さんの実姉である秀子さんをはじめとして弁護団は再審請求をして無罪を勝ち取ろうとしてきました。
1981年に初めて袴田巌さんの弁護団は再審請求を申し立てましたが静岡地裁により棄却されてしまいました。
そして時が経過して2008年3月に最高裁でも棄却されましたが、その翌月に弁護団が2度目の再審請求を申し立て、2011年8月に犯人が着ていたという5点の衣類の血痕のDNA型を再鑑定したところ袴田巌さんのDNAと一致しなかったことが判明しました。
これを受けて袴田巌さんを犯人たらしめる最大の物的証拠に信ぴょう性が無くなったことから、2014年3月27日に静岡地裁は再審開始を決定しました。
この時の裁判長は警察と裏で繋がっているなどは無かったようで、「証拠捏造の疑いがある」と警察に対して強い不信感を示して批判し、袴田巌さんの死刑執行の停止と拘留を解いて釈放するなど異例の措置を下し、袴田巌さんは48年ぶりに東京拘置所から釈放され姉・秀子さんのいる自宅に戻りました。
この寛大な温情を示した裁判長は袴田巌さんを釈放したことについて以下のように語っています。
2014年、約半世紀ぶりに釈放。静岡地裁の裁判長は釈放の理由について、「拘置をこれ以上継続することは、堪え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない」と述べた。釈放されて、今年で4年。30歳で逮捕された袴田さんは、既に80代だ。
つまり、この裁判長は袴田巌さんが無罪であることを内心認めているということになりますが、有力な真犯人の手がかりも無い上に国家の圧力によってこれ以上のことはできなかったのでしょう。
晴れて釈放された袴田巌さんはしばらくは拘禁症状に苦しんでいましたが、2014年4月6日には東京都大田区にある総合体育館で世界ボクシング評議会から認定名誉王者のチャンピオンベルトが贈られました。
同年5月19日の「ボクシングの日」には後楽園ホールで行われたファン感謝祭に袴田巌さんは元気な姿を見せて贈呈式が行われました。
生きて国家と戦い続けてきた袴田巌さんはまさにボクサーらしい不屈の闘志の持ち主であり、それを世界が認めたということになります。
「袴田事件」で静岡地裁の再審開始決定を取り消した東京高裁。一方で死刑執行停止と釈放を取り消さなかったのは、再審取消決定に自信がないからでは。自信がないなら再審取消決定自体がおかしい。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事事件の大原則は再審にも適用のはず。袴田さんの冤罪を晴らして。
— 及川智志 (@ShminLo) 2018年6月12日
袴田巌、冤罪で人生の大半を奪われ「拘禁症」に陥る
袴田巌は長年「拘禁症」に苦しんでいた
2014年3月27日に再審が認められて袴田巌さんは実に48年ぶり釈放されましたが、姉の秀子さんは外国からの記者団に記者会見を開き、袴田巌さんが「拘禁症」で苦しんでいることを伝えました。
袴田巌さんの48年という半世紀近くも人生を奪われたことで、生きるために袴田巌さんは自らの殻にこもって自分を守り続けてきました。
拘禁反応(こうきんはんのう)とは、強制収容所や捕虜収容所等の監禁施設、刑務所や拘置所等の刑事施設、精神科の閉鎖病棟等、強制的に自由を抑圧される環境に置かれた人が示す人格の変化を指す、精神医学や心理学における術語。
姉の秀子さんによれば袴田巌さんは釈放されてからしばらくはおかしな言動を繰り返していたようで、秀子さんも認識できていない様子だったようです。
袴田巌さんは不運にも凶悪殺人事件の犯人扱いをされてしまったことで、人格崩壊を起こしかけていた様子が世間に冤罪の残酷さをまざまざと見せつけました。
テレビで見る袴田さんは、時に「尊敬、天才天才」「全世界の支配者・袴田巌」といった言葉を繰り返していた。釈放されてからも自分の作り出した世界を守るように生きる姿は、「冤罪」という取り返しのつかない事態の残酷さを、見る者たちにこれ以上ないほどに突きつけるものだった。
袴田巌さんが釈放された1ヶ月後となる2014年4月27日に、姉の秀子さんは静岡県庁で近況報告し、拘禁症は回復傾向にあることを伝えました。
釈放直後は秀子さんの呼びかけに無反応なことも多かったという袴田巌さんは、外を散歩する時など「外は気持ちがいいなぁ」と言葉を発したり、正常な反応が戻ってきたようです。
しかし、袴田巌さんは長い獄中生活から糖尿病も患っているようで治療が続けられているようです。
「袴田事件」を描いた映画は3度作られた
袴田巌さんの逮捕から獄中生活など、冤罪や死刑制度についてなど日本の司法システムの問題を描いた映画は現在までに3度制作され公開されてきました。
1作目は2010年5月29日に公開された映画『BOX 袴田事件 命とは』で、2作目は2016年2月公開の映画『袴田巌 ―夢の間の世の中―』でした。
そして、2018年3月24日から公開された映画『獄友』は、袴田巌さんと布川事件で冤罪を受けた桜井昌司さんを始めとした5人の冤罪を受けた人たちの友情を描いています。
「袴田事件」の真相とは?~真犯人は被害者家族の長女の可能性が濃厚?
真犯人は限りなく被害者家族の長女
「袴田事件」で唯一生き残りとなったのは「当時19歳の長女・橋本昌子さん」だけでしたが、家族との関係や自殺の日付けなどから限りなく真犯人の可能性が高いと言われています。
次女の遺体は顔面メッタ刺しで二度焼きされていた
「袴田事件」が起きた事件当時は強盗殺人放火事件であり金銭目当てで袴田巌さんが一家4人を殺害したと報じられていました。
会社の専務で「父親」は女遊びが激しく人格的な問題が多かったことから、事件後に周囲の人物は「殺されてもおかしくない」と証言されていました。
「袴田事件」が起きた当時に家にいなかった長女はたまたま外出していたわけではなく、一家から勘当されて追い出された身の上にありました。
殺害現場からは金銭目当て以外にも明らかに怨恨絡みであることをうかがわせる状況だたことが分かっています。
まず、一家4人の死亡状況ですが、「母親」と「次女」の遺体の損壊具合は酷く、母親は体の他にも顔面も刺されており、特に次女は顔面を何度も何度もメッタ刺しにされ、遺体を2度も焼いたあとがあるなど激しい憎悪が感じられます。
そして、次女の遺体の下には、袴田さんから買ってもらったビートルズのコンサートのチケットがあったそうです。
そのコンサートを数日後に控え、両親からその時に着ていく綺麗な服や靴を両親に買ってもらったそうです。
当時の次女と長男の家庭教師によると、長女は1人だけ家族にのけ者にされていたとか…事件の引き金はこの辺りにありそうです。
被害者家族長女、袴田さん釈放の翌日に死亡の謎
事件の真相を知っていると思われる被害者家族の長女・橋本昌子さんが、2014年3月28日の午後6時頃に亡くなっているのが自宅で発見されました。
享年67歳で自殺だと見られており、奇しくもこの日の前日は袴田巌さんが48年の獄中生活を経て釈放された翌日でした。
橋本昌子さんは真犯人であることから、袴田巌さんの動向をずっと観察しており、釈放されたことから自分に嫌疑がおよぶ可能性があると感じて自殺したのかもしれません。
袴田事件の犯人は、99%長女だろうね。釈放の日に死ぬなんて出来すぎ。ただ、実行犯も長女かどうかまでは分からない。長女の頼みで実行犯は別って可能性もある。ちなみに、一応袴田さんが犯人って可能性もある。でも、どのパターンでも長女が絡んでいるのは間違いないだろうね。
— TAROページ@ダイエット頑張ります! (@TAROpage) 2018年6月11日
袴田事件、怖い。
— marie (@izakayamarichan) 2018年6月11日
犯人とされるDNAと違ってたとか
証拠が出てからそれに合わせた自白を強要したとか
無罪の確証があったという裁判官の手紙とか
検察寄りの判決をした裁判官は出世したとか
出てくる話がドラマのよう。
これを再審棄却する東京高裁、怖い。
これをスルーする世の中だったらそれも怖い。
袴田事件で袴田さんを支持した裁判官はみんな地方に飛ばされて検察を支持した裁判官はみんな出世してる段階でもうこの事件の真相と答えと闇が見えている
— エンジェルベル党・総統 (@kage_baystars) 2018年6月11日
「袴田事件」袴田巌の現在~2023年に再審開始が決定
袴田巌、「袴田事件」東京高裁が再審請求を棄却するも審理差し戻し
再審請求が棄却される
2018年6月11日に東京高裁は、秀子さんら弁護団のDNA型鑑定が信ぴょう性に問題があるとして静岡地裁の再審決定を覆して棄却しました。
袴田巌さんの死刑および拘置の執行停止は、本人の年齢や生活状況、健康状態などを考慮し維持したままとなりましが、弁護側が再審請求棄却の決定を不服として最高裁判所に特別抗告しました。
その後、最高裁判所は2020年12月に、再審請求を棄却した東京高裁決定には審理を尽くさなかった違法があるとしてこれを取り消し審理を差し戻しています。
最高裁は3年前の2020年、衣類に付いた血痕のDNA鑑定について「DNAが残っていたとしても極めて微量で、性質が変化したり劣化したりしている可能性が高い。鑑定には非常に困難な状況で証拠価値があるとはいえない」として、弁護側の主張を退けました。一方で、血痕の色の変化について、「1年余りみそに漬け込まれた血痕に赤みが残る可能性があるのか、化学反応の影響に関する専門的な知見に基づいて審理が尽くされていない」と指摘し、再審を認めなかった東京高裁の決定を取り消し、もう一度、高裁で審理するよう命じました。
袴田巌、「袴田事件」東京高裁が再審開始を決定
出典:https://weekly-economist.mainichi.jp/
再審開始が決まる
2020年の最高裁の決定を受けて、争点は事件後に発見された衣類についた血痕の色の変化に絞られ、弁護側と検察側は、実験を行うなどして科学的な見解をもとに主張を展開してきました。そして、東京高裁は2023年3月13日に「袴田事件」の再審を認める決定をしました。
東京高裁の大善文男裁判長は、衣類を第三者がみそ漬けにした「ねつ造」の可能性も指摘しています。
決定は、死刑判決の決め手となった証拠「5点の衣類」について「袴田さんが犯行時に着ていたという確定判決の認定には合理的な疑いが生じる」と指摘し、さらに「衣類は第三者が隠した可能性が否定できず、事実上、捜査機関による可能性が極めて高い」と証拠のねつ造の疑いにまで言及しました。
その後、検察側は最高裁への「特別抗告」を断念しており、 静岡地裁でやり直しの裁判が開かれることが決まりました。
戦後の死刑確定事件のうち再審が開始されるのは5件目とのことで、先の4件は全て再審無罪に至っています。
袴田事件も事件から57年が経ち、袴田巌さんに無罪判決が言い渡される公算が極めて大きくなりました。
出典:https://pre-miya.com/
再審開始決定の知らせを受けた秀子さんは、散歩から帰ってきた巌さんに「再審開始になったよ」と説明したそうですが、分かっているのかいないのか、反応は鈍かったといいます。
この時、袴田巌さんは87歳、秀子さんは90歳。秀子さんは、「年でいえばいつ何があっても覚悟しているけど、再審開始を見届けなければ死ぬにも死ねない。死刑囚ではなくなったよって伝えてやりたい」と語っていました。
長期間にわたり死刑への恐怖のもとで収容された影響で、いまも十分な会話ができない状態が続いていますが、ひで子さんによりますと、最近は表情が豊かになり、以前よりもことばの数が増えたということです。袴田さんは釈放されたあと、自宅の近くを散歩することが日課になっていました。
しかし、去年の夏ごろからは長く歩くことが難しくなり、支援者の車で外に出かけることを望むようになったということです。また、糖尿病を患っていて、日常生活では介助が必要な場面もあるということです。袴田さんが逮捕されたあと、無実を信じて半世紀以上にわたり支え続けてきたひで子さんもことし2月に90歳となり、去年からは毎月、医師の往診を受けるようになりました。
「袴田事件」袴田巌について総まとめすると・・・
・「袴田事件」の被害者である次女は特に遺体の損壊状況がひどく、顔面を何度もメッタ刺しされ、二度も遺体を焼いた跡があった。
・「袴田事件」の真犯人は被害者家族の長女・橋本昌子の可能性が濃厚と噂されている。
・「袴田事件」の犯人にされた袴田巌さんは2014年3月に静岡地裁が再審開始を決定したことで、48年ぶりに釈放された。
・「袴田事件」の再審決定が、DNA型鑑定が信ぴょう性に問題があるとして2018年に東京高裁が静岡地裁の再審決定を覆して棄却したが、2020年に最高裁により審理差し戻しとなっている。
・2023年3月に「袴田事件」の再審開始が決定した。
1966年6月30日に起きた「袴田事件」で冤罪を着せられ現在までに無罪を勝ち取るために戦い続けてきた袴田巌さんについて総まとめしてきました。
この「袴田事件」は日本の司法が正常に働いていないことを分かりやすく示した事件であり、日本は法治国家ではないという証拠として現在も注目されています。
袴田巌さん以外にもこうした冤罪によって逮捕され、獄中に長く繋がれたことで人生を奪われてきた人はまだまだいるようです。