東映実録映画「最後の博徒」の主人公・荒谷政之のモデルとなったヤクザの波谷守之さんですが、戦後日本史に残る抗争の当事者となった人物でもあります。
この記事では、波谷守之さんの経歴や名言と伝説、父親・結婚や嫁と子供など家族、「山波抗争」司忍さんとの争いの詳細、そして死因についてまとめてみました。
この記事の目次
波谷守之の経歴…冤罪事件に巻き込まれたこともあるヤクザだった
波谷守之(はだに もりゆき)
生年月日:1929年11月28日
出身地:広島県呉市
波谷守之、父親もヤクザで母親とは死別していた
波谷守之さんといえば、東映実録映画「最後の博徒」の主人公・荒谷政之のモデルとなったことで有名なヤクザとなります。
広島県呉市出身の波谷さんの実家については、父・波谷吾一さんが波谷組という暴力団の組員をしていたと言われております。
ちなみに、波谷組は吾一さんの兄が組長を務める暴力団であり、カシメ職人を扱う土木建築請負業をシノギとしていました。
とはいえ、羽振りの方は良くはなかったらしく、吾一さんは大陸に出稼ぎに行っていた時期もあったようですね。
また、母親が3歳の時に急死したうえに吾一さんが再婚した経緯もあり、波谷さんは母方の祖母や親戚の家に預けられる機会が多かったとか。
波谷守之、10代でヤクザになるも勤労奉仕もしていた
1945年3月に尋常小学校高等科を卒業した波谷守之さんは、波谷組の組長をしていた叔父の紹介もあり、広島市を拠点としていた博徒・渡辺長次郎さんの子分となっています。
10代にして父親と同じヤクザになった波谷さんですが、戦中だったこともあり渡辺義勇報国隊で勤労奉仕もしていたそうですね。
その後、1945年8月に広島に投下された原爆で渡辺さんが死亡した悲劇もあった波谷さんでしたが、本人は勤労奉仕活動のため廿日市にいたため被ばくを免れることが出来ました。
終戦後の波谷さんは、親分である渡辺さんが死んでしまったこともあり、呉市に戻り博徒・土岡博さんが立ち上げた土岡組に合流しています。
とはいえ、1946年8月に起こった第一次広島抗争の結果、その土岡組も(対抗勢力である)山村組に呉市の覇権を奪われる憂き目となりました。
この時期の波谷さんにはとにかく逆風が吹き荒れており、1950年に呉市内のマージャン店で愚連隊と喧嘩になった際に拳銃を発砲した罪で逮捕され、服役をする羽目にもなったそうですね。
波谷守之、親分暗殺の報復をしようと意気込むも岡山県警に逮捕された
つまらない喧嘩が原因で服役をする羽目になった波谷守之さんですが、出所直前の1952年になると、今度は土岡博さんが山村組のヒットマンに暗殺されるといった騒動が起こりました。
出所後は愛媛の博徒・森川鹿次さんに匿って貰っていた波谷さんでしたが、親分の敵を取りたい欲求を抑えられず、仲間たちと一緒に山村組にカチコミをかけようとしたそうですね。
とはいえ、道中で岡山県警の警察官たちに発見・逮捕された結果、今度は1959年まで服役をする羽目になってしまったとか。
その後の波谷さんは、土岡組時代の子分たちを引き連れて大阪に渡り、博徒・山口浪之助さんの世話になりながら、西日本各地の賭場めぐりをして生計を立てていたと言われております。
ちなみに、大阪時代の波谷さんは、大阪の博徒仲間たちと一緒に「三友会」という親睦団体を作っていた他、山口組系の勢力とも顔なじみとなり子分を譲渡したりもしていたとか。
波谷守之、山口組と和解交渉をした経験もあった
大阪時代の波谷守之さんに関しては、暴力団同士の抗争の仲裁役を務めたこともありました。
こちらの騒動については、兄貴分だった山口浪之助さんが故郷である愛媛県宇和島市に戻り組事務所を開いていたところ、現地に山口組系菅谷組が進出して来たことから始まります。
ちなみに、菅谷組の組長に関しては、当時山口組の若頭補佐を務めていた菅谷政雄さんというビッグネームでした。
そのため、命よりも面子を重視するタイプのヤクザでもなかった山口さんは、無駄な抗争をするつもりはなかったため、菅谷組の面々と顔なじみになっていた波谷さんが交渉役を買って出ることになりました。
こちらの交渉については、山口さんがヤクザを引退する代わりに菅谷組も宇和島から撤退するといった双方の顔を立てる条件で手打ちにしたそうですね。
波谷守之の冤罪事件とは…「三国事件」で子分に裏切られていた
波谷守之、冤罪事件のきっかけとなった「三国事件」とは?
長らく博徒として自由気ままな身分だった波谷守之さんですが、1970年になると山口組系菅谷組組長・菅谷政雄さんと盃を交わしております。
菅谷組時代の波谷さんは、1977年に「三国事件」に巻き込まれています。
「三国事件」については、山口組菅谷組系川内組組長・川内弘さんと菅谷さんとの間に生じた確執がきっかけに起こった事件となります。
2人の確執に関しては、川内さんが組員400人を超える巨大組織となった川内組の山口組直参昇格を願って工作活動をしていたところ、激怒した菅谷さんが破門したというものでした。
とはいえ、川内さんが破門後も態度を改めずに直参昇格の工作を続けていたため、堪忍袋の緒が切れた菅谷さんが暗殺部隊を結成することになりました。
その後の川内さんは、川内組の拠点である福井県三国町の喫茶店でヒットマンたちに暗殺されることとなったそうですね。
波谷守之、十数年来の付き合いの子分に裏切られていた
「三国事件」後の菅谷組に関しては、執行部に無断で破門者を暗殺した罪を問われた結果、山口組を絶縁されています。
そのため、再び大逆風の中に晒されることとなった波谷守之さんですが、逮捕されたヒットマンの1人である延岡朝夫さんが「波谷の命令で川内を暗殺した」と虚偽の供述をする裏切りまで起こりました。
延岡さんは、波谷さんが大阪に上京した直後から付き従っていた古参の子分の1人であり、波谷さんが結成した波谷組の組員でもありました。
そのため、裁判官までこの偽証を信用した結果、一時期は懲役20年の実刑判決を受けて服役する羽目になった波谷さんでしたが、弁護団を結成して法廷闘争に出ます。
波谷さんの法廷闘争は実り、1984年に最高裁で逆転無罪判決が下った結果、金沢刑務所を出所することが出来ましたが、その頃には既に菅谷組が解散していた上に、菅谷政雄さんも病死していました。
波谷守之の伝説…一晩で億勝ち億負ける博徒だった
波谷守之さんに関しては、「カタギに迷惑をかけない」ことをポリシーとし続け、生涯において博打以外のシノギを持たなかった博徒としても知られています。
そんな波谷さんの博打の打ち方については、一晩で億勝ち億負けるくらいに豪快にお金を張り続けていたそうですね。
【実録・ドキュメント893 波谷守之】
— 4nekz (@4nekz) May 12, 2015
森田健介「波谷組の博打には共政会の沖本勲理事長や山口組の矢嶋長次親分などが来られてました。私は四時間ぐらいで1億5000万円が無くなった。3億円ないとやって行けないと言ってたのは本当でした。最後の博徒・波谷守之の盆となると大きかったです」
本来ならば、1度や2度の失敗で破滅する博徒が多い中で、波谷さんは借金に莫大な利子をつけて返済するような猛者だったと言われております。
そんな豪快な生きざまは、西日本限定とはいえ波谷さんをビッグネームへと押し上げることとなり、名声を慕って集まる子分たちも多かったとか。
波谷守之の名言…博徒らしい生きざまがあった
波谷守之さんの博徒としての信念となったのは、呉市時代に所属していた土岡組組長・土岡博さんの「ヤクザは、盗人の上で、乞食の下だ。堅気に迷惑をかけるな」との教えだったそうですね。
そんな元親分の言いつけを守り続けた波谷さんは、子分に対してもヤクザの生きざまを語っています。
人間いうものは弱いもんだ。この弱さはおまえもわしも同じことじゃ。男は散るべきときに散らにゃいけん。逃げたらおまえが苦しむようになる
— 高田修光 (@samurai0606) May 19, 2010
波谷組 波谷守之組長の名言
波谷守之の家族情報…嫁は道子で子供情報は不明
波谷守之、嫁は道子だがもう一人親しい女性がいた
波谷守之さんは、大阪時代の1961年に道子さんという女性と結婚しています。
とはいえ、波谷さん関連で最も有名な女性は松本八重子さんとなります。
八重子さんは、波谷さんの呉時代からの舎弟である松本年春さんの妻だった一方で、松本さんが結婚早々に射殺事件を起こして長期服役する羽目になった悲運の女性でした。
松本さんの服役後も波谷さんと行動を共にし続けた八重子さんは、波谷組の組事務所で家事全般を務めたりしていた他、波谷さんが博打で勝てない日が続くと道子さんや波谷さんと一緒に働きに出ることもあったと言われております。
そこまで波谷さんと近しい関係にあった八重子さんですが、波谷さんの親戚筋の女性だったこともあり、愛人ではなかったようですね。
波谷守之、子供情報は不明だった
1961年に道子さんと結婚しているため、子供も誕生しているように思われる波谷守之さんですが、家族関連の情報は基本的に非公開となっているようですね。
とはいえ、波谷さんの子孫を名乗るヤクザも存在しないため、子供や孫たちはカタギとして暮らしているのでしょうね。
波谷守之と山波抗争…弘道会・司忍と全面戦争となった
1984年に「三国事件」絡みの冤罪が確定して出所した後の波谷守之さんですが、山口組に復帰することはなく、関西二十日会(後の西日本二十日会)に加盟する独立系組織の組長となりました。
そんな波谷さんに人生最後のトラブルが起こったのは、1990年6月のことでした。
「山波抗争」と呼ばれる騒動については、福岡県福岡市に拠点を置く波谷組系岩田組と盃を交わす予定だったAが、山口組弘道会系西岡組からスカウトを受けて約束を反故にしたことが発端だったそうですね。
面子を潰されて激怒した岩田組組長・岩田好晴さんは、Aにヒットマンを送り込み暗殺に成功しています。
とはいえ、当時既に山口組若頭補佐に就任していた司忍さん率いる弘道会が組員を殺されて黙って引き下がるわけもなく、即座に壮絶な報復合戦が展開されることになりました。
「山波抗争」では、岩田さんの潜伏先と誤認された民家にヒットマンが送り込まれた結果、家主だったNTT元職員の男性が射殺される悲劇も起こるなど、大変な社会問題化しました。
山之内さん、山波抗争の時に人違いで誤射されて死んだカタギの人の家族に詫びを入れる仲介をさせられたり、お通夜に法外な額の香典(1,000万円)を若頭の代理として持って行かされたり、当然ながらいずれもご遺族から全力で拒否られている。ヤクザの顧問弁護士も辛いのだ。
— 架空国家公安委員長/コアラ擁護委員長 まきゃびー (@mkyabee) September 9, 2014
そのため、弘道会側も早期の幕引きのタイミングを計っていたため、1990年12月には「波谷守之は、ヤクザから引退しないが、若衆を全員手放す」との緩い条件で「山波抗争」は手打ちとなっています。
波谷守之の最期…死因は拳銃自殺だった
「山波抗争」後の波谷守之さんに関しては、1994年11月に大阪府阿倍野区内の自宅で拳銃自殺をしています。
波谷さんの自殺の原因については、一般的には「山波抗争」に対する贖罪意識があったのではないかと言われております。
94年11月、波谷組長もこめかみを拳銃で撃ち抜いて自決した。岩田組長との関連は定かではないが、自決の知らせを聞いた多くの業界人は、波谷組長も山波抗争の責任を感じていたのだろうと察して、その死を惜しんだのである。
とはいえ、波谷さんの自殺原因には異説もあり、博打で負けた借金を返済出来ずに自殺したとの噂も存在するようですね。
道仁会初代古賀磯次氏の波谷守之評を読む機会があり、ちょっとびっくり。自殺前の借金が80億。困った人をた救ける侠客だったことは事実だけど、博打よる組同士の金の取り合いでトラブルになってたことも事実。古賀氏曰く駄目男。人それぞれ色んな評価があるなあ。
— ろくべえ (@mobydick0617) May 19, 2015
波谷守之についてまとめてみると…
伝説の博徒であった波谷守之さんですが、最期は博打の借金のせいで破滅に追いやられたとの説も存在することになります。
波谷さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。