俳優、タレント、コメンテーター、ラジオパーソナリティなど様々な分野で活躍する別所哲也さんが話題です。
ここでは別所哲也さんの凄いと話題の若い頃の活躍をはじめ、実家の父親や家族、20年の交際を経て結婚した日系アメリカ人4世の嫁、超未熟児として生まれた子供などについてまとめました。
別所哲也のプロフィール
別所哲也のプロフィール
生年月日:1965年8月31日
出身地 :静岡県島田市
身長 :186cm
血液型 :A型
別所哲也さんは、俳優、タレント、コメンテーター、ラジオパーソナリティ、映画賞の主宰者とマルチに活躍する人物です。
丸大食品の「丸大ハム」のテレビCMに1996年から2005年までの10年間出演し、CM内で呼ばれる「ハムの人」としてもよく知られています。
俳優としてはドラマ、映画、舞台と幅広く活躍しており、代表作としては1999年に放送され大ヒットしたドラマ「魔女の条件」や、舞台「レ・ミゼラブル」での主演(2003年から2011年にかけて何度も主役のジャン・バルジャンを演じている)、舞台「ミス・サイゴン」の主演などで知られています。
特に舞台俳優としては高い人気を誇り、上記の作品以外にも数々の舞台で主役を務めています。
別所哲也の若い頃の経歴が凄い
まずは、凄いと話題の別所哲也さんの若い頃の経歴から見ていきます。
別所哲也さんは静岡県島田市の生まれで、地元の「島田市立島田第四小学校」、「島田市立島田第二中学校」を卒業後、高校は「静岡県立藤枝東高等学校」へと進学しています。
小学校時代は野球チームに所属し、中学時代はバレーボール部と放送部に所属。高校進学後は、最初サッカー部に入ったもののゴールキーパーをやらされた事が嫌になって退部し、強豪のバレーボール部に転部して本格的にバレーボールに打ち込み、主力選手として静岡県大会のベスト4に進出するなど活躍し国体強化選手にも選ばれています。
若い頃の別所哲也さんは、高校卒業後はバレーボールで実業団入りも見据えるなど、かなり熱心にバレーボールに打ち込んでいましたが、怪我のためにその道は断念しています。
若い頃の別所哲也さんは勉強の方でも優秀で、洋楽を聴いて歌詞の英語を聞きとって勉強し、高校卒業後は「慶應義塾大学」の法学部法律学科へと進学。
別所哲也さんは大学入学当初は商社への就職、弁護士、外交官などを目指し、得意の英語にさらに磨きをかける必要性を感じてESS(英語部)に入部したそうです。そのESSの活動で英語劇に参加し、次第に英語よりも演じる事に魅力を感じ始め俳優の道を目指すようになったそうです。
そして大学在学中だった1987年、21歳の時にミュージカル「ファンタスティックス」のオーディションに合格し俳優としてデビューし芸能界入りを果たしています。
俳優デビューした若い頃の別所哲也さんはすぐに頭角を現し、1990年公開の日米合作のハリウッド映画「クライシス2050」に主要キャラクターの1人、ケン・ミナミの役で出演しています。若干24歳でのハリウッドデビューは大きな話題となり、別所哲也さんの知名度を急上昇させました。
1991年公開の映画「波の数だけ抱きしめて」で、日本アカデミー賞・新人俳優賞を受賞、1992年に放送された連続ドラマ「おとなの選択」では主演に抜擢されています。
その後も1996年公開の映画「大統領のクリスマスツリー」で主演を務めるなど、トップ俳優の1人として、ドラマ、映画、舞台などで活躍しました。
34歳だった1999年には、熱烈なショートフィルム好きが高じて国際短篇映画祭「アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル」を創設。この映画祭はアジアを代表するショートフィルム映画祭に成長し、2004年には「米国アカデミー賞公認映画祭」に認定されています。
別所哲也の実家や家族
別所哲也さんの実家は「静岡県島田市」です。別所哲也さん本人はインタビューで実家について「実家は静岡の田舎町」と表現しています。
別所哲也さんの実家は父親と祖父が銀行員、母親は美容院を経営する堅い家系だったそうです。ちなみに別所哲也さんの叔父も銀行員でした。
銀行員の家系という事で、別所哲也さんの実家はかなりの大金持ちだとも言われています。
また、別所哲也さんは3歳年下の妹と8歳年下の妹がいる3人兄妹です。
別所哲也の父親のエピソード
父親は別所哲也さんにも堅実な生き方を望んでいたということで、別所哲也さんが俳優の道を目指した時には猛反対したそうです。しかし、別所哲也さんの父親は、やるからにはこれくらいの事はやってみろと日米合作のハリウッド映画「クライシス2050」のオーディションを受ける事を勧め、別所哲也さんは見事これに合格し俳優として成功するきっかけにしています。
別所哲也さんの父親はただ厳しかっただけではなく、愛情を持って別所哲也さんに接していたようで、電車が好きだった子供時代の別所哲也さんは、よく父親に肩車されて電車を見に行っていたと思い出を語っています。
また、銀行員で忙しい父親が単身赴任していた時には、町内会の集まりに父親の代理として別所哲也さんが出席していたというエピソードも語られています。
別所哲也の結婚した嫁は日系4世のアメリカ人女性
別所哲也さんは2009年8月に日系アメリカ人4世の1歳年下の一般女性との結婚を発表しています。
別所哲也さんと嫁はなんと20年の交際期間を経て結婚しており、最初の出会いは、別所哲也さんがハリウッド映画「クライシス2050」の撮影のために渡米し、アメリカに1年半滞在していた時だったそうです。
別所哲也さんは、この時が初めての本格的な海外滞在で、右も左も分からない中、日系アメリカ人の家族のサポートを受けていたそうで、その家族の娘が、当時まだUCLAの大学生だった嫁だったとの事。
嫁との出会いについては、別所哲也さん本人が公式ブログでも書いています。
彼女と最初に出会ったのは、アメリカでした。
僕が23歳、初めてパスポートを持ち、ハリウッド映画「クライシス2050」への出演機会を得てロサンジェルスに渡った時です。現地で何かあったらと、紹介された日系アメリカ人のご家族の娘さんでした。
別所哲也さんは結婚した嫁について「何かあるごとに、互いの生きる道を話し合える、最良の存在」ともブログに書いています。
また、別所哲也さんは後に受けたインタビューでも嫁について「これからの人生を歩んでいくパートナーとして大切だと思った」、「献身的な女性で、気がつくと側にいてサポートしてくれる存在」、「可愛らしい女性で瞳が印象的」と語っています。
そんな別所哲也さんの嫁の名前は「藤田ミナ」さんだと言われており、この方は元サッカー日本代表の中田英寿さんのマネージャーを務めていた事もあるそうです。また、セレブタレントの神田うのさんは、別所哲也さんと嫁と結婚の時点で18年来の仲だったそうで、2人の結婚式のウェディングドレスのデザインは神田うのさんが担当した事も当時話題になっていました。
別所哲也の子供は娘が1人
別所哲也さんは上記の嫁との間に2009年7月に子供が誕生しています。結婚発表より前に子供が生まれていますが、元々、別所哲也さんと嫁は20年も交際していて事実上の結婚状態で、妊娠を機に正式に結婚されたという事だったようです。
別所哲也さんの子供は女の子で、誕生時には1100グラムの超未熟児で、NICU(新生児集中治療室)で数ヶ月間ケアされた後ようやく退院できたという事です。
実はこの別所哲也さんの子供の出産時、NICUが空いておらず2ヶ所の病院で受け入れを拒否され、3ヶ所目でようやく受け入れてもらえた病院では「あと30分遅れていたら命が無かった」と言われたそうです。
別所哲也さんはこうして大変な危機を乗り越えて誕生した我が子が可愛くて仕方がないようで、後に受けたインタビューでは子供の教育について以下のように語っていました。
生まれる前から日系4世のアメリカ人の妻とは「世界の物差しで物事を見極められて、その中で自分のアイデンティティを持てる子どもに育てよう」と話していました。僕がアメリカと日本という2つのカルチャーを体験したように、彼女にもいろいろな文化や価値観を知ってほしいと日々子育てに向き合っています。家庭内では妻が英語で、僕は日本語で話すようにしたり、3歳の時には世界一周旅行にも連れて行きました。
別所哲也さんの子供の名前などは明らかにされていませんが、学校はどうやらインターナショナルスクールに通っているという事です。
まとめ
今回は、俳優、タレント、コメンテーター、ラジオパーソナリティとして活躍を続ける別所哲也さんについてまとめて見ました。
別所哲也さんは銀行員の父親を持つ実家に生まれ、若い頃は商社マンや弁護士、外交官を目指して慶應義塾大学へと進みましたが、大学在学中に演劇の魅力に目覚めて俳優を志し、在学中にオーディションを経て芸能界入りしました。
1990年にはハリウッド映画「クライシス2050」への出演をオーディションで勝ち取り、これをきっかけにブレイクを果たし、その後はドラマ、映画、舞台を中心に人気俳優として活躍されています。
2009年には、アメリカに滞在していた時に知り合った女性と20年の交際を経て結婚し、同年には子供も誕生しています。
現在も別所哲也さんは様々な分野で精力的に活動を続けています。今後の別所哲也さんの活躍も応援していきたいと思います。