1990年7月6日に神戸高塚高校において、当時15歳の女子生徒が校門に挟まれ死亡する事件が発生しました。
この記事では、同事件の被害者と加害者教師・細井敏彦の詳細や、現在までの様子について詳しくまとめましたのでご紹介します。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の概要…被害者生徒は高1の石田遼子さん
1990年7月6日に発生した「神戸高塚高校校門圧死事件」は、同学校の校門を潜ろうとした1年生の女子生徒・石田遼子さん(当時15歳)が教師が閉めようとした校門に挟まれ死亡した事件です。
朝の登校指導をしていた教師が、門限の時刻になったことから校門を勢い良く閉めましたが、遅刻することを恐れて駆け込んできた石田遼子さんが頭から挟まれ頭蓋骨骨折や脳挫滅で死亡しました。
同学校には遅刻すると校庭を2周走らされると言うペナルティーがあり、石田遼子さんはそれを回避するために無我夢中で走りこんできたものとみられています。
石田遼子さんはすぐに病院に搬送され死亡が確認されましたが、学校側は警察の現場検証を待たずに事故現場に付着していた石田遼子さんの血液を洗い流していました。
なお、当日は定期試験の日であり、事故を起こした教師は試験監督も務めており、石田遼子さんの容体についての生徒からの質問には「重傷だが生命には別状ない」と無責任な説明をしていました。
この時から学校側の隠蔽体質が始まっており、1990年7月20日に開かれた全体保護者会においては、駆けつけたマスコミによって会議の内容を録音されるのを恐れ大音量の音楽を流していました。
この事件は、愛知県が遺族に対して6000万円を支払いして和解しており、事故を起こした教師は20日目の7月26日に懲戒免職となりました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」犯人の教師・細井敏彦を業務上過失致死で起訴
神戸高塚高校は日本で5校しかなかった研究指定校
兵庫県立神戸高塚高等学校は、神戸市西区にある男女共学の全日制普通高校です。
この学校は当時日本でも5校しかなかった教育現場の安全を調査するための「研究指定校」であったことも、事件の異常性が際立つ要因となりました。
同校の校長は事件の前年に兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長を務めており、同校の生徒指導部長は同協議会常任委員でした。
そのため、全教師による校門や通学路での立ち番指導は協議会で高く評価されており、そのことが評判を落とさないように教師たちに対するプレッシャーになっていた可能性もあります。
犯人の教師・細井敏彦を業務上過失致死容疑で起訴
学校の隠蔽体質から事件を起こした教師が悪人のように世間では思われていましたが、どこにでもいる生徒指導に熱心な教師だったと思われます。
1990年7月6日の事件当日、神戸高塚高校は定期試験の日であり、事件を起こした教師・細井敏彦さんは他の教師2人と訪問で遅刻のチェックをしていました。
門限の時間が迫ると、細井さんは拡声器を使って「10、9、8…」とカウントダウンを始めたため、遅刻にならないようにと30人近くの生徒が校門に殺到しました。
午前8時を知らせるチャイムが鳴り、細井敏彦さんは校門の内側から高さ1.5メートル、長さ6メートル、重量230キログラムのスライド式門扉を勢い良く閉め始めました。
この時校門には10人ほどの生徒が列を作って入ろうとしており、その列の中に石田遼子さんがいて頭だけが挟まれた状態になっていました。
そのことに気づかなかった細井敏彦さんは校門を力いっぱいしめ続け、石田遼子さんの頭を押しつぶしてしまいました。
男子生徒が門扉を押し戻すと、口や鼻から血を流して倒れている石田遼子さんの姿があり、「女の子が倒れている」と生徒が声をかけたため細井敏彦さんは初めて事故が起きていることに気づきました。
細井敏彦さんは血を流している石田遼子さんの頭を手で押さえ、その場にいた他の教師や通学路の引率を終えて戻ってきた教師などに保健の先生を呼びに行くように指示をしました。
石田遼子さんはすぐに神戸大学医学部附属病院に搬送されましたが、同日午前10時25分に脳挫滅による死亡が確認されました。
1990年7月21日に、兵庫県警による実況見分が行われ、石田遼子さんはヘルメットかぶっていたもののそれを割る速度で細井敏彦さんが門扉を閉めていたことがわかりました。
過去にも女子生徒のスカートを挟んだことがあり、細井敏彦さんは門扉を閉める危険性についてわかっていながらも事件当時十分に安全を確認せずに閉めたとして業務上過失致死の容疑で取り調べを受け神戸地方検察庁に起訴されました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の裁判と判決
犯人の教師・細井敏彦は一貫して無罪を主張
刑事裁判において細井敏彦さんは石田遼子さんを死なせた事について以下の理由から無罪を主張しました。
・門扉の閉鎖は教師3人で行う共同作業であり、安全で合理的な方法。学校からの安全指導や注意はなく業務性は無い。
・わずかな隙間に生徒が頭から突っ込んでくる事は予見不可能なことであり過失責任はない。
・十分な安全策を講じずに教師に校門指導をさせた学校側に責任があり、誤った教育理念を押し付けた学校管理者や兵庫県教育委員会、文部省の責任が問われるべき。
これらの細井敏彦さん側が用意した無罪主張の理由は、事実に則った正当性の強いものでしょう。禁固1年執行猶予3年の有罪判決
当時の詳しい状況が分かりませんが、細井敏彦さんはおそらく熱血指導タイプの細かい配慮が苦手なタイプであるため、事故を起こしてしまったものと思われます。
国も石田遼子さん遺族に対して6000万円の賠償をしていますが、細井敏彦さんも職を奪われることになりました。
犯人の教師・細井敏彦に禁固1年執行猶予3年の有罪判決
細井敏彦さんは禁固1年執行猶予3年の有罪判決を受けた
1993年2月10日に神戸地方裁判所で開かれた細井敏彦さんの判決公判では、業務上過失致死罪が認められ、禁固1年執行猶予3年の有罪判決が言い渡されました。
細井敏彦さんは判決を不服としましたが、自身や家族にこれ以上の心労を重ねないためにも控訴しない判断を下しました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の問題点…高校側の事件隠蔽行為に非難殺到
神戸高塚高校は事件の隠蔽しようとしていた
1990年7月20日に、事件についての説明をする全体保護者会を開きましたが、マスコミが会議の内容を録音することを恐れて大音量の音楽を流したほか、以下のようなマスコミ批判をしていました。
「保護者会は従来から本校では一切公開してはずのもので、マスコミの方に流れまして生徒がひどく困っております」
学校側は生徒を盾に取って事件の隠蔽を図りマスコミ批判に利用しました。
神戸高塚高校は生徒の人権を軽視していた
石田遼子さんが亡くなった理由は、遅刻により校庭を2周走らされることを嫌ってのものでした。
この学校では他にもスクワット系の柔軟体操を数10回やらせたり、女子生徒が生理の日でも水泳を強制したり、ときには家畜呼ばわりして罵倒するなど生徒の人権を無視した校風がありました。
なお、遅刻のペナルティーを課す理由について新校長が説明していましたが、朝のオリエンテーションで8時35分の出席確認に間に合わせず遅刻者と記録を残すためとしていました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」のその後現在
犯人の教師・細井敏彦は懲戒免職処分
兵庫県教育委員会は7月26日付で、事故を起こした細井敏彦さんを懲戒免職処分、管理責任を通形で当時の校長を戒告処分、教頭と教育長を訓告、教育次長2人を厳重注意の処分に処しました。
しかし細井敏彦さんに門扉を閉めることを提案した教師や、生活指導部長等には処分が下されませんでした。
細井敏彦さんはこの処分を不服として申し立て行いましたが棄却されました。
神戸高塚高校は事件直後に被害者に知らせず校門を撤去
事件現場となった校門の門扉について、学校側は事件の風化を図るように事件直後に撤去しようとしました。
しかし、裁判所から裁判前に撤去するのは好ましくないと言う通達があり撤去を一時保留にしましたが、細井敏彦さんの有罪が定するとすぐに撤去作業を再開させました。
学校側は石田遼子さんの遺族やPTA等に一切の説明をしておらず、記者会見で初めて明らかとなりました。
保護者や住民らは事件の風化を恐れて撤去に反対する運動を起こしましたが、学校側は強行的に1993年7月30日に反対者らとの小競り合いの中で撤去し、サイズと重量を小さくした校門を再設置しました。
反対者サイズと重量を小さくしたものを設置しました。らはこの強制的な撤去を不当だとして、税金から賄われた工事費等の返還を求める住民訴訟を起こしましたが、1999年7月12日の最高裁に置いて学校側の措置は適当であると判断し訴えは退けられました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」についてまとめると…
・神戸高塚高校校門圧死事件は、当時高1だった石田遼子さんが遅刻ギリギリに走り込んだところに、教師・細井敏彦が力の限り校門を閉めたことにより圧死させた事件である
・神戸高塚高校は事件を隠蔽しようとしていた節があり、犯人の細井敏彦の有罪が確定すると被害者遺族に伝えず校門を撤去した
・神戸高塚高校校門圧死事件の裁判で犯人の教師・細井敏彦には禁錮1年執行猶予3年の判決が下り、懲戒免職処分となり教師の職を失った
こうした事件を起こしてしまったのは普段からの学校のあり方が問題だったからでしょう。
国の教育委員会のコマの1つである細井敏彦さんはある意味ではかわいそうな面もありますが、昭和的な非合理な教育方法ではなく、現代に合ったシステム化された教育方法を普及させるべきなのかもしれません。