伝説のヤクザである安藤昇さんですが、安藤組を解散以降は、俳優や映画プロデューサーとして活躍をした人物でもあります。
この記事では、安藤昇さんの生い立ちと経歴、片腕切断など映画、死因、伝説や身長、岩城滉一さんや稲川会との関係との関係などをまとめました。
この記事の目次
安藤昇の生い立ち…戦前からグレており元特攻隊員だった
安藤昇、濡れ衣をきっかけにグレて不良少年の道へ進んでいた
1926年5月24日に東京都新宿区に生まれている安藤昇さんですが、同世代の中で16%程度しか進学しなかった旧制中学に進学するなど、元々はかなりのエリートコースを歩んでいました。
そんな安藤さんがヤクザへの道を歩み始めたきっかけについては、1940年の秋頃に起こったとある騒動が原因でした。
父親の仕事の都合で両親が満州へ転勤したため、日本に残り祖母の元で暮らしていた安藤さんですが、躾に厳しかった親がいなくなった解放感から羽目を外し過ぎてしまい、筋の悪い知り合いが出来てしまったそうですね。
その結果、知り合いが窃盗事件を起こした際に一味として疑われ警察に補導された安藤さんは、感化院(児童自立支援施設)送りにされてしまうことになりました。
安藤さんの感化院時代は、祖母が奔走してくれたおかげで1か月程度で済んだ一方で、出所後は当時通っていた旧制川崎中学校(現:川崎高校)の生徒や近所の住民から腫れ物扱いされる現実が待っていました。
そのため、すっかりやさぐれてしまった安藤さんは、自然と学校にも通わなくなり、街で不良仲間と群れて喧嘩三昧の毎日となってしまったとか。
安藤昇、少年院に送致されるほどの問題児となったが愛国少年だった
濡れ衣をきっかけにすっかりグレてしまった安藤昇さんですが、両親も息子の荒れた生活を黙認していたわけではなく、1941年2月になると満州まで呼び寄せています。
その結果、1941年4月より奉天第一中学校に通うこととなった安藤さんでしたが、満州でも暴力事件を起こしてしまい、同年の11月には日本へ帰国する羽目になりました。
その後の安藤さんについては、東京都中野区にある叔父の家で暮らすことになったものの、素行の悪さは相変わらずだったそうで、1942年秋頃に在学していた旧制智山中学校の柔道部の面々との間にトラブルが発生します。
元々は、安藤さんが柔道部の面々に因縁をつけられリンチされた形だったものの、その報復に下宿先を襲撃して和解金をせしめたことが災いし、安藤さんは警察に逮捕されて少年院に送致されてしまったそうですね。
10代中盤にてワルの王道の道を進むこととなった安藤さんですが、戦中世代ということもあり愛国少年気質は強かったらしく、少年院に収監中に海軍飛行予科練習生に願書を出して合格しております。
そのため、恩赦を受けて出所が早まった安藤さんは、1943年12月に三重海軍航空隊に入隊することになりました。
安藤昇、特攻隊に志願するも終戦により命が救われた
三重海軍航空隊時代の安藤昇さんに関しては、戦況の悪化により本土空襲が開始された時期に予科練習生となったタイミングの悪さもあり、戦闘機に乗り出撃する機会はなかったそうですね。
しかしながら、戦況を打開するために考案された特攻隊に志願することとなった安藤さんは、1年半の予科練過程を終えると、横須賀にある特攻基地に配属されることになりました。
特攻基地での安藤さんは、「人間機雷」との通称でお馴染みの伏龍特攻隊の一員として訓練を受けていたと言われております。
伏龍は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。「人間機雷」とも呼ばれる。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである。
引用:伏龍
伏龍特攻隊に対しては、1945年8月中旬頃にいったんは特攻命令が下ったそうですが、終戦に向かう途中の混乱期に生じた誤報だったらしく、安藤さんはからくも一命を取り留めることが出来ました。
安藤昇、焼け野原になった東京を見た虚無感から愚連隊となった
玉音放送を特攻基地内で聞くこととなった安藤昇さんですが、終戦後は、いったんは一家の疎開先だった神奈川県藤沢市に戻ったそうですね。
安藤さんの家族に関しては、両親も無事満州から戻って来れていたそうで、戦災による犠牲者などはいなかったとか。
ちなみに戦後の安藤さんは、1946年4月から法政大学予科に進学予定となっていましたが、1945年12月に東京へ帰郷した際に、焼け野原になった故郷新宿の姿を見て虚無感に襲われた結果、再び不良へ戻ってしまうことになりました。
東京では、戦争を生きのびたかつての不良仲間たちに再会することになった安藤さんは、世田谷区下北沢の喫茶店を拠点に愚連隊「下北沢グループ」を結成しております。
「下北沢グループ」に関しては、当初は安藤さんの故郷だった新宿を縄張りにしようと目論んでいたものの、激戦区だったため方針を転換して渋谷に侵攻しています。
愚連隊となった当初は新宿で勢力を拡大しようとしていたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区であったため、やがて渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば「子供の町」であった。そのためか、1950年代半ばまでは警察も飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたものと思われる。
引用:安藤昇
安藤昇の経歴…愚連隊からヤクザとなり一世を風靡した【稲川会との抗争が原因でカタギへ戻る】
安藤昇、愚連隊時代からヤクザ顔負けの暴れぶりだった
「下北沢グループ」結成当初の安藤昇さんに関しては、1946年4月に予定通り法政大学予科に進学していたものの、1947年には中退してしまったそうですね。
安藤さんのみならず「下北沢グループ」自体に大学生が多かったそうで、従来のアウトロー集団とは一線を画したエリート集団でした。
一方で戦前からの配給制度の続く食糧難の時代に数十人もの部下の面倒を見ることとなった安藤さんは、ヤクザ顔負けのシノギに手を出すことにもなりました。
「下北沢グループ」のシノギについては、渋谷の外食券密売グループの用心棒になった他、偽造配給切符を製造・販売していた台湾系マフィアグループを脅しつけて、和解金をせしめたこともありました。
外食券とは、戦中・戦後の食糧不足の時代に、家庭外で食事する者に対して、米穀の配給の代わりとして、政府が発行した券。1941年4月から配給制の実施に伴って発行。「
引用:外食券
その他、渋谷で非合法博打店を営む台湾系マフィアの用心棒をしたり、米進駐軍の軍人と組んで横流し物資の転売で大儲けをしたりもしていたそうですね。
一方で、エリート集団らしいスマートなシノギも生み出していた「下北沢グループ」は、日本で初めて学生向けのダンスパーティーを主催して利権化していた時期もあったとか。
安藤昇、1952年に安藤組(東興行)を設立していた
破竹の快進撃を続けていた安藤昇さんですが、1952年7月に渋谷で東興行を設立したことが、愚連隊からヤクザへと転身した契機だったと目されています。
通称安藤組と呼ばれるようになった東興行に関しては、表向きは不動産売買や芸能興行関連を手掛ける会社だったようですが、裏稼業としてバーやキャバレーの用心棒を引き受けていた他、賭場なども開催していました。
安藤組の主催する賭場は、地元の名士以外はお断りの高級サロン状態だったうえ、毎週金曜日になると当時珍しかったポーカー賭博なども行っていたそうですね。
そのため、ポーカー賭博の開催日になると一晩で100~200万(現在の貨幣価値で2000~4000万)もの売上があったとも言われております。
そんな羽振りの良さに加えて、刺青や指詰めを禁止して背広の着用を義務付けたスマートさが若者に人気を博した結果、安藤組は大卒者や大学中退者の構成員が多いエリート極道集団となりました。
安藤昇、横井英樹襲撃事件で逮捕された
我が世の春を謳歌していた安藤昇さんですが、1958年6月に起こった「横井秀樹襲撃事件」のせいで服役も経験する羽目になっています。
「横井英樹襲撃事件」に関しては、1952年に元侯爵・蜂須賀正さんが実業家の横井英樹さんに投資詐欺被害にあったことから始まります。
その後に蜂須賀さんが急死してしまったことから、未亡人となった蜂須賀智恵子さんが裁判を起こして賠償命令が下ったものの、当の横井さんは自分の財産を他人名義にして差し押さえを防ぐなどやりたい放題でした。
そのため、智恵子さんと旧知の仲だった財界人から頼まれ、賠償金交渉に出向いた安藤さんでしたが、開き直る横井さんの言動に激怒してしまったそうですね。
1958年6月11日午後3時、安藤昇は元山富雄とともに、銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れて横井と交渉した。しかし横井は「その件なら話はついているはずですが」と支払いを拒否し、さらに「日本の法律ってやつは借りた方に便利にできてるんだ。なんなら君たちにも金を借りて返さない方法を教えてやろうか」とうそぶく。
引用:横井英樹襲撃事件
その結果、ヒットマンを送り込み横井さんを銃撃させた安藤さんは、逃亡生活の末に逮捕されてしまい、懲役8年の実刑判決を受けることになりました。
安藤昇、稲川会との抗争が原因でカタギへ戻っていた
服役中の安藤昇さんに関しては、安藤組の組長代行を任せていた花形敬さんが、1963年9月に東声会のヒットマンに暗殺されています。
安藤組と東声会のトラブルについては、組員同士が街中で揉めて刃傷沙汰となったというたわいも無いものでした。
さらには、安藤組側は仲介役を立てて和解交渉も進めていたそうですが、東声会側に上手く伝わらずに「花形敬刺殺事件」が起こってしまったようですね。
その後、1964年9月に出所することとなった安藤さんでしたが、直後に安藤組の幹部だった西原健吾さんが、渋谷の縄張り争いが原因で錦政会(稲川会)系三本杉一家にだまし討ちをくらって殺害される事件まで起こりました。
花形さんや西原さんの暗殺事件のせいで、ヤクザ稼業にすっかり嫌気がさしてしまった安藤さんは、1964年12月に周囲の反対を押し切って安藤組を解散させることになりました。
そのため、最盛期は500人を超える構成員数を誇り渋谷の顔役だった安藤組ですが、その歴史はわずか12年程度で終焉してしまいました。
安藤昇のその後…片腕切断など映画俳優として成功を収めるも2015年に死亡【死因は肺炎】
安藤昇、ヤクザを引退後は映画俳優としても成功していた
安藤組を解散した後の安藤昇さんですが、その話題性に目を付けた業界人より手記「激動」の映画化企画が持ち込まれています。
その結果、1965年に主演と脚本を担当した映画「血と掟」が公開されることとなった安藤さんでしたが、この映画がその年の松竹のNO1ヒット作となるサプライズが待っていました。
その後の安藤さんは、松竹と年間2000万円(現在の貨幣価値で2億円程度)で専属契約を結ぶなど、一躍映画スターに躍り出ることになりました。
映画俳優としての安藤さんは、当時流行していたヤクザ映画を主戦場に活躍しており、企画や原作の他に監督まで担当することもあるなど、マルチプレイヤーぶりを発揮していたそうですね。
安藤さんはその他にも、防災マスクの特許を取ったことまでありました。
発明家、安藤昇が開発した防煙マスク(77年)。実際に商品化されたのかどうかは不明 pic.twitter.com/n4cRrmX3uY
— みぞぐちカツ (@chocoramastudio) December 8, 2018
安藤昇、片腕切断映画とは?
安藤昇さんは、1976年になると「やくざ残酷秘録・片腕切断」という映画の監督・企画を担当して話題になっています。
ヤクザ社会を赤裸々に語るドキュメント映画だった「やくざ残酷秘録・片腕切断」に関しては、現役の組長へのインタビューやテキ屋への密着取材の他、組員が指詰めやシャブ注射を打つシーンなども含まれている怪作でした。
とはいえ、実は仕込みややらせも多い映画だったと言われており、タイトルにある片腕切断シーンについては、取材したヤクザが過去に起こした事件の再現VTRだったとか。
安藤昇、映画俳優を引退した理由とは?
映画俳優として数々の主演作を残した安藤昇さんですが、1979年に俳優業の一線から退いています。
安藤さんが俳優業の一線から退いた理由については、撮影のリハーサルの際に、火薬代を浮かせるために口で「バーン、バーーン」と言いながら銃を撃つ演技をすることが、恥ずかしくて仕方がなかったとか。
その後の安藤さんは、俳優時代から始めていた不動産業を主軸にVシネマ関連のプロデューサーや作家としても活動していたそうですね。
また、晩年は家相や気学鑑定の分野にも手を伸ばして「九門社」を主催するなど、最期までアクティブさを失わない人生でした。
安藤昇、死因は肺炎だった
激動の時代を生き抜いた安藤昇さんですが、2015年12月になると、都内の病院にて肺炎が原因で亡くなっています。
ヤクザから俳優に転身し、作家、プロデューサーとしても活動した安藤昇さんが16日午後6時50分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。89歳だった。1週間ほど前に体調を崩して入院。家族にみとられて亡くなった。
安藤さんに関しては、2008年頃から腎臓病を患っていたそうで、週3回の透析が必要な状態になってしまうなど、晩年は病気との闘いだったようですね。
大往生したと言える安藤さんのお別れ会には、梅宮辰夫さんや村上弘明さん、三田佳子さんといった大物俳優たちが集まることになりました。
安藤昇が死んだ。
— 岩佐悠毅 (@yuki23529) December 17, 2015
氏の映画で特に好きな作品は、義理堅い早撃ちやくざかつ、鶴田浩二らと沖縄の地でワイルドバンチ化した「博徒外人部隊」である…… pic.twitter.com/8E8MzoXL2s
安藤昇の家族情報…女癖が悪く7度の離婚を経験しており息子が2人いた
安藤昇、嫁は校長の娘でお嬢様育ちだった
安藤昇さんに関しては、結婚は早く、法政大学予科時代となる21歳の頃に1歳年下の一般女性・早苗さんと結婚しています。
早苗さんについては、学校の校長の娘で実践女子短期大学卒のお嬢様育ちでした。
とはいえ、とにかく女性にモテた安藤さんは、婚約者が出来ても落ち着くことはなかったそうで、結婚式の日取りを忘れて街にナンパに出かけたこともあったとか。
その後も女遊びが盛んだったという安藤さんは、結局早苗さんとは離婚してしまったようですね。
安藤さんの私生活に対しては、8回結婚して7度離婚したとの伝説まで残っています。
安藤昇、息子は映画プロデューサーとなっていた
安藤昇さんに関しては、2人の息子がいることが確認されています。
安藤さんの長男であるニック安藤さんは、1955年6月3日生まれだそうで、2021年現在66歳となります。
父親と同じ映画プロデューサーをしていたニック安藤さんは、哀川翔さん主演の映画「デコトラの鷲祭りばやし」を手掛けたこともあるとか。
安藤さんの次男である安藤章さんも映画プロデューサーをしており、竹内力さん主演の映画「鬼哭 KIKOKU」を手掛けたことでお馴染みです。
安藤昇の伝説…身長は小柄で「男はつらいよ」の原案を考えていた
安藤昇、実際は小柄だった
伝説のアウトローである安藤昇さんに関しては、身長は165㎝程度だったと言われております。
現代の感覚だと小柄と言える安藤さんでしたが、1945年頃に成人を迎えた日本男性の平均身長が160㎝だったことを踏まえると、当時としては中背くらいだったようですね。
戦中の物資不足の中で成長期を迎えている安藤さんですが、実家が裕福だったこともあり、不良仲間とつるんで酒場や花街に通う余裕まであったため、同世代の少年たちよりは栄養状態が良かったのかもしれませんね。
安藤昇、有名スターをボコボコにした武勇伝の持主でもあった
安藤昇さんは、安藤組時代に伝説の名俳優・三船敏郎さんを殴り倒した武勇伝まで残しています。
この時の騒動は、共通の知人であった映画関係者の伝手で2人が一緒に飲みに行った際に、酒に酔った三船さんが安藤さんの顔を殴ったことから始まります。
三船さんの狼藉に激怒した安藤さんは、大スター相手とはいえ容赦をせずにボコボコにしてしまったそうですね。
その結果、全治1週間の怪我を負ってしまった三船さんは、当時撮影中だった映画「宮本武蔵」の撮影を中断する羽目になったと言われております。
安藤さんはその他にも、東興行が手掛ける芸能興行への参加を拒否した石原裕次郎さんに対して、撮影所に組員を派遣して嫌がらせをするといった大胆不敵な行動を取ったこともありました。
この時の騒動については、石原さんの後ろ盾の1人だった映画プロデューサーの水の江瀧子さんが仲介役を買って出てその場を収めたものの、安藤さんを恐れた石原さんは安藤組の解散までコンサートを開催することが出来なかったそうですね。
安藤昇、「男はつらいよ」の原案を山田洋二に盗まれていた?
安藤昇さんは、映画「男はつらいよ」シリーズの原案者だったとの逸話まで残っています。
こちらの話については、1966年に公開された主演映画「望郷と掟」の助監督を務めた山田洋二さんのことを気に入っていた安藤さんが、脚本化して貰おうとアイデアのプロットを渡してみたところ、まんまと盗用されてしまったそうですね。
そのときのアイデアが、「ヤクザが市民社会の中に入っていって、騒動と笑いを引き起こす」というヤクザ喜劇だった。一ヶ月後、山田洋次は「書けません」と断ったが、しばらくしてフジテレビでドラマ版『男はつらいよ』が始まった。フーテンの寅次郎はテキ屋であり、いわゆるヤクザの一種である。プロットを盗用されたと感じた安藤は怒ったが、表沙汰にはしていなかったという。
安藤昇と岩城滉一は49年来の交流があった
安藤昇さんに関しては、俳優の岩城滉一さんと49年来の付き合いだったとの逸話も存在します。
2人の出会いのきっかけについては不明となりますが、自宅が近所にあったとの話なため、安藤さんの引っ越し先に岩城さんの実家でもあったのかもしれませんね。
出会った当時は、安藤さんが40歳前後で岩城さんが高校生という親子のような年齢差だったため、そこから親密な仲になるということはよほどウマがあったのでしょうね。
安藤昇の名言とは?…今なら倫理的にアウトな発言も
戦前戦後の激動の時代を生き抜いた安藤昇さんだけに、ダンディズムの香りを漂わせる数々の名言を残しているようですね。
「ヤクザは辞めたか、男を辞めた覚えはない」 元安藤組組長安藤昇の名言 解散してから、ある親分との会話のなかでいった言葉です。解散後は映画俳優、作家、方位学研究家、映画プロデューサーとして現在も活躍中。80歳位かな!
— 高田修光 (@samurai0606) May 20, 2010
89歳で他界された安藤昇氏の名言。「人生は淋しいものというよりも、淋しいのが人生なのかもしれない」。これぞ人生の苦難を乗り切る為の発想。そもそも人生が淋しくないもの=楽しく明るいものという前提は一体何を根拠にしたものなのか。お気楽すぎる。世間一般の常識などあてにならない。
— フリーター野良犬宣言 明日を生きるための一言 (@fFjx73wWWnYnfRr) December 11, 2020
一方で、本質を捉えた発言ではあるものの、現在の価値観では炎上必至の迷言も残してしまっています。
エイジングで思いだしたが、
— l.esprit.mao.asada (@lesprit_mao_26) June 10, 2019
「男の顔は履歴書」という名言を言ったのは、安藤昇氏だったか、大宅壮一氏だったか…
一方、「女の顔は請求書」とも言っていたね…(笑)
男の人は、どんなことを経験してきたかが顔に出て、女の人は、自分にどれだけ投資したかが顔に出る…
安藤昇についてまとめてみると…
安藤昇さんに関しては、戦禍を生き延びてヤクザや俳優として大きな成功を掴んだ人物ということになります。
安藤さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。