「世界のミフネ」と呼ばれて世界的評価を集め続ける伝説的俳優・三船敏郎さんが話題です。
ここでは三船敏郎さんの偉大な功績をはじめ、身長やかっこいいと話題の若い頃の画像、家系図や嫁、娘、息子などの家族、晩年のエピソードや死因などについてまとめました。
この記事の目次
三船敏郎のプロフィール
三船敏郎のプロフィール
生年月日:1920年4月1日
没年月日:1997年12月24日
出身地 :中国山東省青島市(当時日本の統治下にあった)
公称身長:172cm〜174cm
血液型 :O型
三船敏郎さんは、言わずと知れた昭和の時代を代表する伝説的俳優です。
三船敏郎さんは、「七人の侍」「羅生門」「蜘蛛巣城」など、世界でも高い評価を受けた黒沢明監督作品の多くに主演して世界的にその名を知られるようになり、国内では「世界のミフネ」、国外では「The Wolf」「The Shogun」などの通り名で呼ばれ世界中の映画ファンに愛される存在でした。その名声により、2016年にはハリウッド殿堂入りも果たしています。
三船敏郎さんといえば、数々の作品で演じた武士姿、鎧武者姿があまりにもカッコ良いとして、現在でも語り継がれています。海外でも今なお「ミフネ」は「サムライ」の代名詞的存在として強いリスペクトを集め、その作品は常に世界のどこかでリバイバル上映がされているとも言われています。
三船敏郎さんのそのほかの代表作は「野良犬」「白痴」「隠し砦の三悪人」「悪いやつほど良く眠る」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」(いずれも黒沢明監督)をはじめ、「風林火山」「黒部の太陽」「人間の証明」などの数々の話題作があり、TBSのスペシャルドラマで現在も高い評価を集める「関ヶ原」での島左近役もよく知られています。
また、三船敏郎さんはハリウッドの大作を含む海外作品にも多く出演しており、「価値ある男」「ミッドウェイ」「レッド・サン」「太平洋の地獄」「1941」などで高い評価を得ています。
三船敏郎の実際の身長
三船敏郎さんの生前の公称身長は172cmから174cmと幅があり、正式な身長ははっきりしません。俳優が多少身長をサバ読みすることは多いようなので、現在ネット上では、三船敏郎さんの実際の身長は168cmから170cmほどでは無いかとの説が有力になっているようです。
上の画像は、身長182cmの黒沢明監督(写真左)と並ぶ三船敏郎さんです。この写真を見る限り、三船敏郎さんの身長は概ね公称身長の通りという印象を受けます。
三船敏郎の若い頃の画像
続けて、かっこいいと話題の三船敏郎さんの若い頃の画像を紹介します。
上の2枚の画像は1947年公開映画「銀嶺の果て」に出演する若い頃の三船敏郎さんです。「銀嶺の果て」は三船敏郎さんのデビュー作にあたります。
出典:https://patagonia.c.blog.ss-blog.jp/
出典:https://patagonia.c.blog.ss-blog.jp/
上3枚の画像は、1948年に公開された黒沢明監督の映画「酔いどれ天使」に出演する若い頃の三船敏郎さんです。年齢は20代半ば過ぎ頃で、主役の1人の破滅的な生き方をするヤクザの松永を演じています。
上の3枚は1949年の黒沢明監督映画「野良犬」で刑事役を演じる若い頃の三船敏郎さんです。
三船敏郎の家系図
三船敏郎さんの家系図も紹介します。
三船敏郎さんの父は三船徳蔵という人物で貿易商や写真業を営んでいました。三船敏郎さんは少年時代から父親の写真館を手伝い、当初は俳優ではなく写真家志望でした。
三船敏郎と実弟・三船芳郎のツーショット
三船敏郎さんには三船芳郎さんという実弟がおり、この方は三進工業株式会社の会長を務めた人物です。
このあと紹介しますが、三船敏郎さんは東宝ニューフェイスの同期だった女優の吉峯幸子さんと結婚し、息子の三船史郎さんを儲けています。息子の三船史郎さんも大学時代に俳優としてデビューされています。その三船史郎さんの息子で、三船敏郎さんの孫にあたるのが三船力也さんで、俳優、映画プロデューサーとして活躍されています。
また、こちらもこの後紹介しますが、三船敏郎さんは女優の喜多川美佳さんと愛人関係になり、その間に娘の三船美佳さんを儲けています。三船美佳さんはロックミュージシャンの高橋ジョージさんと結婚しましたが、2016年に離婚し、2019年に一般男性と再婚しています。
三船敏郎の嫁は女優の吉峯幸子
上の家系図のところでも触れましたが、三船敏郎さんの嫁は東宝ニューフェイスで同期だった女優の吉峯幸子さんです。三船敏郎さんの吉峯幸子さんへのラブレター攻勢によって1950年に結婚していますが、吉峯幸子さんの両親はこの結婚に大反対したようです。
結婚の当時、三船敏郎さんは29歳、嫁の吉峯幸子さんは22歳でした。結婚式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、媒酌人は映画監督の山本嘉次郎さんが務めています。
三船敏郎さんと嫁の吉峯幸子さんの結婚生活は1970年頃までは円満だったようですが、それ以降は三船敏郎さんの酒癖の悪さから次第に夫婦関係は冷え切りその後別居状態になっています。
三船敏郎さんはその後、嫁の吉峯幸子さんに離婚を持ちかけますが、幸子さんはこれを死ぬまで拒否し続けました。
三船敏郎さんは嫁・吉峯幸子さんとの離婚協議中に女優の喜多川美佳さんと愛人関係になり、その後はこの美佳さんを内縁の妻として扱いました。
しかし、1992年に三船敏郎さんが心筋梗塞に倒れると、喜多川美佳さんは三船敏郎さんとの内縁関係を解消し去ってしまいます。そして、三船敏郎さんは嫁の吉峯幸子さんの元へと戻り、それから再び円満な夫婦生活を送りました。そんな三船敏郎さんの嫁・吉峯幸子さんは1995年にすい臓がんで亡くなっています。
三船敏郎の息子は俳優で映画プロデューサーの三船史郎
三船敏郎さんは嫁の吉峯幸子さんとの間に、長男の息子の三船史郎さんを儲けています。
三船敏郎さんの息子の三船史郎さんは、成城大学の1年生だった1970年に東宝映画「その人は女教師」にて岩下志麻さんの相手役として俳優デビューし、その後も大学時代に複数の映画に出演しています
三船史郎さんは成城大学卒業後に、父・三船敏郎さんが1975年にドイツ・ミュンヘン(当時は西ドイツ)に出店した日本料理店「ジャパン・レストラン三船」の支配人を務め、1981年からは三船敏郎さんが社長を務める芸能事務所で制作プロダクションの「三船プロダクション」に入社し、同年に開校した俳優や制作スタッフの養成校「三船芸術学院」の運営にも関わりました。
1997年の三船敏郎さんの逝去後には、この息子・三船史郎さんが後を継いで「三船プロダクション」の代表取締役社長に就任し現在も務めています。
三船史郎さんは1998年公開の日本香港の合作映画「ホーク/B計画」で俳優として復帰し、2000年公開の黒沢明が脚本を担当した「雨あがる」や、2006年公開映画「バルトの楽園」、2014年公開映画「蜩ノ記」にも出演しています。
三船敏郎の愛人との娘は女優でタレントの三船美佳
家系図や嫁のところでも既に触れていますが、三船敏郎は女優の喜多川美佳さんと愛人関係にありました。
三船敏郎さんにはその愛人の喜多川美佳さんとの間に娘がおり、それが現在女優やタレントととして活躍する三船美佳さんです。
三船敏郎さんは60代になってから生まれた娘の三船美佳さんを溺愛していたそうで、映画の撮影時には休憩時間に衣装を着たまま三船美佳さんに会うためだけに家に帰っていたそうです。
そんな三船美佳さんといえば、16歳だった1998年に24歳も年上のロックミュージシャンの高橋ジョージさんと結婚して話題になり、2004年11月には子供も誕生しています。
しかし、2015年頃に三船美香さんが高橋ジョージさんからモラルハラスメントを受けていると主張して離婚訴訟を起こしているとしてワイドショーや週刊誌を中心に大きく報じられ、2016年に協議離婚が成立しています。
その後、三船美佳さんは、2019年3月に3歳年上の美容院を経営する一般男性と再婚し、2020年7月11日に第二子の妊娠を発表しています。
三船美佳さんはこの再婚相手の一般男性との婚姻届を父の三船敏郎さんの誕生日の4月1日に提出したのだそうです。
今年の4月、父である三船敏郎の誕生日に婚姻届を提出しました。特に狙ったわけではありませんが、ちょうどその頃に再婚しようということになり、亡き父への報告という想いを込めて。
三船敏郎の晩年
三船敏郎さんの晩年といえば、喜多川美佳さんとの不倫や泥沼とも言われた嫁の吉峯幸子さんとの離婚調停などがピックアップされがちですが、よりその渋さが際立つようになった俳優としての晩年の活躍も高い評価を集めています。
1987年公開の山田洋次監督映画の寅さんシリーズ「男はつらいよ 知床慕情」で頑固者の獣医師・上野順吉の役を演じ、その味のある演技が高く評価されブルーリボン賞の助演男優賞を受賞しています。
また、1987年公開の映画、市川崑監督の「竹取物語」での竹取の造役や、1989年公開の映画「千利休 本覺坊遺文」での千利休役など渋さの際立つ役柄を多く演じています。
晩年の三船敏郎さんは多くの栄誉賞も受賞しており、1986年には紫綬褒賞を授与され、アメリカ・カリフォルニア大学ロサンゼルス大学からは、名誉学位にあたるUCLAメダルを贈られています。また、1989年にはフランス政府より芸術文化勲章を授与されています。
しかし、1990年代に入ると三船敏郎さんは体調を崩すようになり、同時に軽度の認知症も発症していたと言われています。晩年の不倫や離婚騒動などと合わせて、三船敏郎の認知症の噂は当時のワイドショーや週刊誌にネタにされ、その偉大な功績にも少なからぬ傷がつけられてしまったといえます。
三船敏郎さんは、1992年10月に都内で開かれたパーティに出席した際に心臓発作に倒れ、そのまま2ヶ月間入院し、以降は自宅で療養生活を送っていました。三船敏郎さんはこの療養生活中の1994年頃に内縁の妻の喜多川美佳さんに関係を解消し、未だ離婚が成立していなかった嫁・吉峯幸子さんの元へとも戻っています。吉峯幸子さんは1995年に亡くなりましたが、三船敏郎さんは幸子さんの遺体に「かわいそうな事をしたな」と呟いたといいます。
そして、三船敏郎さんはその1995年に公開された映画「深い河」への出演を最後に銀幕の世界から姿を消しました。
三船敏郎の死因は全機能不全
出典:https://www.nikkansports.com/
三船敏郎さんは1997年12月24日午後9時28分にこの世をさりました。死因は「全機能不全」と発表されています。享年は77歳でした。
三船敏郎さんは死去の一週間ほど前に体調が急変し、都内の病院に入院してから意識不明の状態になり、そのまま静かに息を引き取ったという事です。最後は息子の三船史郎さんら親族に見守られての最期だったという事でした。
まとめ
今回は、昭和の時代を代表する俳優で世界的にも高い評価を得て「世界のミフネ」とも言われた三船敏郎さんについてまとめてみました。
三船敏郎さんは黒沢明監督の作品をはじめとして数多くの作品に出演し、世界でもその名演と圧倒的な存在感は絶大な人気を集めました。
三船敏郎さんはその晩年、嫁の吉峯幸子さんとの泥沼の離婚調停や女優の喜多川美佳さんとの愛人関係などが週刊誌やワイドショーなどにネタにされ、1997年に77歳でこの世を去りましたが、その偉大な功績への評価が揺らぐことはなく現在でも伝説的俳優として世界中からのリスペクトを集め続けています。