「演歌の女王」とも呼ばれた八代亜紀さんが、2023年12月に亡くなりました。
今回は八代亜紀さんの年齢や身長・体重、若い頃の美しい画像、ハーフの噂、結婚した旦那との馴れ初めや子供、離婚理由、自宅や病気、死去した現在をまとめました。
この記事の目次
八代亜紀はベテラン演歌歌手 【身長・体重・年齢も紹介】
八代亜紀さんは長年にわたり演歌歌手として活躍していました。
1971年にデビューし、「雨の慕情」、「なみだ恋」、「舟唄」などのヒット曲があります。
また、その美貌や気さくで明るいキャラクター、絵画の才能などでも注目を集めていた女性です。
八代亜紀のプロフィール
出典:sankei.com
八代亜紀
生年月日:1950年8月29日
出身:熊本県八代郡金剛村
身長:162cm
事務所:ミリオン企画
活動:歌手、画家
八代亜紀さんは1950年生まれで、身長は162cm、体重は2008年の時点で56kgでした。
八代亜紀さんは2008年、フジテレビの昼の番組「スパイスTV どーも キニナル! 」の3ヶ月間のダイエット企画に登場し、体重を公表しています。
ダイエット開始前の八代亜紀さんの体重は56kgでしたが、3ヶ月間のダイエット後は50.8kgまで体重が落ちていました。
ただ、八代亜紀さんは身長は162cmですので、ダイエット前の体重56kgでも、決して太っていたわけではありません。
八代亜紀の若い頃の経歴
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歌手デビュー&ヒットまで
八代亜紀さんは熊本県出身です。
中学卒業後は地元の熊本でバスガイドとして働いていましたが、年齢をごまかして地元のクラブで歌ったことをきっかけに実家から勘当されて、16歳で歌手を目指して1人で上京します。
上京後はいとこ夫婦の家に住んで、昼間は音楽学校に通い、夜は銀座の美人喫茶で働きました。
そしてスカウトされて、銀座のクラブの専属歌手になりました。
そのクラブで一緒に歌っていた五木ひろしさん(当時の三谷謙)に芸能プロダクションを紹介されて、1971年に「愛は死んでも」でデビュー。
最初はあまりレコードは売れませんでしたが、1972年に「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜いてチャンピオンになったことで、少しずつレコードが売れ始めました。
大ヒット歌手に
1973年には「なみだ恋」が120万枚の大ヒットとなり、その後もコンスタントにレコードが売れて、人気歌手の仲間入りをしています。
その後、1979年に初の男歌「舟唄」が大ヒット、1980年には「雨の慕情」が日本レコード大賞、紅白歌合戦では2年連続で大トリを務め、「演歌の女王」と呼ばれるようになりました。
八代亜紀さんの代表曲はこちらです。
・しのび恋(1974年)
・愛ひとすじ(1974年)
・愛の執念(1974年)
・おんなの夢(1975年)
・ともしび(1975年)
・もう一度会いたい(1976年)
・おんな港町(1977年)
・愛の終着駅(1977年)
・故郷へ…(1978年)
・涙の朝(1979年)
・舟唄(1979年)
・雨の慕情(1980年)
また、2000年以降は演歌だけでなく、ブルースやジャズなどにも挑戦していて、歌手として新たな一面を見せていました。
八代亜紀は画家や社会貢献活動もすごい
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八代亜紀さんは歌手活動だけでなく、画家としての活動や社会貢献活動も行っていました。
画家としての実績
八代亜紀さんの父親は画家志望だったこともあり、幼い頃から絵画教室に通ったり、父と一緒に写生に行ったりしていました。
歌手になった後もずっと水彩画を描いていたようですが、40歳頃から油絵を本格的に習い始めています。1年間に150作もの作品を作り、年に4~5回のペースで個展を開いていました。
また、フランスの由緒ある「ル・サロン」展には1998年から5年連続で入選し、2004年からは日本の芸能人として初めて正会員になっています。
八代亜紀さんの絵はすぐに完売するほどの人気で、自宅や箱根の別荘にはアトリエを作るなど、画家活動にもかなりの力を入れていたようです。
八代亜紀の社会活動
八代亜紀さんは社会貢献にも力を入れていました。
・女子刑務所の慰問公演(全国すべての女子刑務所を回った)
・ペルーのフジモリ大統領に3000万円の寄付
・ペルーへのボランティア活動
・ペルーに工業技術学校を設立
・東日本大震災の被災地で様々な支援活動
・熊本地震での無料コンサートや義援金寄付などの支援活動
・熊本の観光PRの「くまもと誘友大使」の名誉大使
・「八代よかとこ大使」就任
・熊本市親善大使
八代亜紀さんは社会活動をたくさん行い、故郷に新設された熊本県立八代清流高等学校に自ら作詞作曲した校歌も送っています。
八代亜紀の若い頃が妖艶で美しい
八代亜紀さんは若い頃から、とても妖艶で美しい方でした。
当時の写真を見てみると、日本人離れした美しさを持っていることがわかります。
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本当にきれいですよね。しかも、八代亜紀さんはスタイルも抜群でした。
このルックスでしみじみと演歌を歌っていたのですから、トラック運転手や漁師から絶大な人気を集めていたのも納得です。トラック運転手からは「八代観音」と呼ばれていました。
これだけのルックスだったからこそ、中学卒業後すぐに年齢をごまかしてキャバレーで歌えたのでしょうし、美人喫茶で働けて、銀座のクラブでスカウトされて専属歌手になれたのでしょう。
歌手としての才能だけでなく、これだけの美貌を若い頃から持っていたから、「八代観音」になることができたのですね。
それにしても、本当にきれいです。独特の顔立ちをしていますが、印象的な美人ですよね。
八代亜紀はハーフではなく純日本人
八代亜紀さんはハーフではないか?という噂があったようです。
これは、八代亜紀さんが肌が白く、日本人離れした顔立ちをしていて、彫りが深いことから生まれた噂と思われます。
確かに、ハーフと言われたら、「そうなのかも」と思えてきます。
しかし、八代亜紀さんはハーフではありません。純日本人です。八代亜紀さんのご両親の情報でわかっていることはこちらです。
・母親は琉球王国の名家の末裔
・駆け落ち同然で結婚した
父親は浪曲の名手だったのですから、外国人だった可能性はほぼありません。母親は琉球王国とのことですので、沖縄系の血は入っているようですね。
「琉球王国」を外国と考えるなら、八代亜紀さんは外国の血が入っています。八代さんが生まれた時は沖縄はアメリカの統治下でしたし。
ただ、一般的な「ハーフ」という概念で考えると、八代亜紀さんはハーフではなく、純日本人になります。
色が白いのは生まれつき色白&メイクの影響だったのでしょう。彫りが深いのは、もしかしたら母方の琉球系の影響かもしれませんね。
八代亜紀は元マネージャー・増田登と結婚
八代亜紀さんは1994年1月2日、ハワイのオアフ島で結婚式を挙げ、マネージャーだった男性と結婚しています。
八代が自身の前座を務めていた元歌手の増田登氏(66才)と結婚したのは、1994年1月。ハワイ・オアフ島で挙げた結婚式では、父の遺影を抱いてバージンロードを歩き、「本当に幸せ」と感激に声を震わせた。
旦那は結婚前、13年間にわたり八代亜紀さんのマネージャーをしていましたが、結婚後は個人事務所の社長として、八代亜紀さんの芸能活動を支えていました。
全く料理をしない八代亜紀さんのために、料理なども引き受けていたそうです。
旦那は元歌手の増田登
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八代亜紀さんと結婚した旦那は増田登さんです。
増田登さんは、もともと歌手志望で八代亜紀さんと同じ事務所の歌手でした。
八代亜紀さんの前座で歌っていたこともありますが、鳴かず飛ばずの状態だったため、一度田舎に帰ってしまいました。
それを八代亜紀さんが連れ戻して、自分のマネージャーにしたそうです。
増田さんはそれからずっと八代亜紀さんのマネージャーをしていて、八代亜紀さんが事務所を独立して個人事務所を作る時も、八代さんについていく形で個人事務所に移っています。
そして、結婚後は個人事務所の社長に就任し、八代さんのマネジメントをしながら、陶芸家としても活動しています。
八代亜紀さんのギャラリーでは、備前焼の講師を務めていました。
八代亜紀から旦那にプロポーズしていた
八代亜紀さんは自分から旦那にプロポーズしています。
2人の馴れ初めは、八代亜紀さんが旦那の増田登さんをマネージャーにしたことでしょう。それから2人の距離はぐっと縮まりました。
ただ、最初はあくまでビジネスパートナーでした。ただ、ストレスで声が出にくくなった八代亜紀さんを旦那さんがそっと支えてくれたそうです。
八代が人間関係や過密スケジュールで悩み「声は出なくなるしボロボロだった」という30代を支えてくれた、現在の夫でもある担当マネージャーの話を語った。八代は悩んでいた時期「そっと側で見てくれていたのが彼なんですよ」と語り、「私が絶対いい歌じゃないなと思って『どう?』って言ったら『いいですよ、いいですよ』って励ましてくれたの」
引用:八代亜紀、夫にプロポーズするも“逃げられた”過去明かす。「『ダメダメ』って逃げってまわった」 | E-TALENTBANK co.,ltd.
そして、父親から「結婚相手はマネージャーが良い」とアドバイスを受け、さらに増田さんがほかの人と結婚する夢を見て悲しくなったため、自分からプロポーズすることを決意したそう。
そのプロポーズとは、「私がお嫁さんになってあげるよ」、「結婚してあげても良いよ」というものでした。当時、すでに大歌手だった八代亜紀さんらしいプロポーズかもしれません。
ただ、増田登さんは「マネージャーだからダメ」という理由で断っていたそうです。
ひと月『ダメダメ』って逃げてまわったの、彼は」とのことで「僕、マネージャーですからダメですダメです」というのが理由だったそう。それでも八代は「お嫁さんになってあげる、あげる」と言って、結婚したそうだ。
引用:八代亜紀、夫にプロポーズするも“逃げられた”過去明かす。「『ダメダメ』って逃げってまわった」 | E-TALENTBANK co.,ltd.
それでも、諦めずに八代亜紀さんがアタックして、2人は結婚したというわけですね。
八代亜紀に子供はいない
八代亜紀さんには子供はいません。八代亜紀さんが結婚したのは44歳の時でしたので、妊娠・出産は年齢的もあってもともと望んでいなかったのかもしれません。
現在でこそ、40代半ばの妊娠・出産は珍しいものではありませんが、当時の不妊治療水準を考えると、なかなか厳しかったのかなとも思います。
八代亜紀さんは自分の子供がいない分、甥っ子や姪っ子に愛情を注いでいたようで、「一緒に遊ぶのが楽しい」と語っていましたし、当時6歳の甥っ子には1万円のお小遣いをあげていたそうです。
八代亜紀は2021年に離婚していた…原因は旦那の不倫?
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1994年に5歳年下の増田登さんと結婚した八代亜紀さんですが、2021年1月に離婚していたことを同年6月に発表しました。
増田登さんと知り合ったのは1978年のことですから、知り合ってから43年目での離婚です。
離婚発表時の離婚理由は「余生の過ごし方について協議を重ね、双方納得した上での離婚」というものでした。
そして、元旦那の増田登さんは、所属事務所の社長を辞任するものの、今後も八代亜紀さんのサポートを続けていくということでした。
しかし、離婚発表の翌月の7月24日、ラジオで浜村淳さんが爆弾発言をしたのです。
この発言で、八代亜紀さんは浮気されていたことがわかりました。
しかも、この「同じ事務所に所属する30代の女性歌手」というのは1人しかいません。MILLEAさんという女性です。
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八代亜紀さんはこのMILLEAさんを娘のようにかわいがっていて、自分のラジオ番組のパーソナリティーにしたり、自分のコンサートで歌う機会をあげていました。
そんな女性と自分の旦那が浮気をしていたとなったら、離婚しますよね…。
浜村淳さんの発言が正しいのかはわかりませんが、MILLEAさんはその後、八代亜紀さんの事務所を退所していることから、事実である可能性は高いと見られています。
八代亜紀さんは別に旦那と離婚したことで、経済的に困るわけではありません。むしろ、経済的に困るのは旦那の方でしょう。
それなのに、浮気をされていたら、離婚は当然の結果と言えます。
八代亜紀の自宅がすごい
目黒区八雲は自宅兼ギャラリー
出典:youtube.com
八代亜紀さんの自宅は「豪邸」として有名でした。
自宅は目黒区八雲にある一軒家で5階建て。1階がギャラリーと陶芸窯、2階はオフィスとして使っていたとのことです。
八代亜紀さんはYouTubeで、「シシド・カフカさんが自宅に来て一緒に対談」という動画をアップしています。
自宅とは思えないほどの広さになっていて、まさに「豪邸!」という作りです。
箱根に露天風呂付別荘も
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八代亜紀さんは箱根に別荘を持っていました。この別荘も超豪邸なんです。
別荘は1億2000万円!アトリエがあり、八代亜紀さんは集中して創作活動をする時に、箱根の別荘にこもっていたようです。
箱根の別荘はアトリエがあるだけでなく、露天風呂もあります!
大人2人でもゆったり入れる広さの露天風呂、素敵ですよね。
八代亜紀は病気(メニエール病)を患っていたことが判明
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八代亜紀さんはメニエール病を患っていたことがありました。1991年にメニエール病で緊急入院しています。
千秋楽の翌日に、とんでもないことが起こりました。朝、目覚めて起き上がろうとすると、天井がグルグルと回っていたのです。まるでひどい船酔いのようでした。あまりの気持ち悪さにこらえきれず、吐いてしまいました。
さすがに「おかしい」と思い、病院へ連れて行ってもらったところ、「メニエール病」と診断されたのです。
八代亜紀さんが病気になったのは、ストレスが原因とのことです。
父親が亡くなった後も仕事に追われていて、悲しみを我慢していたことがストレスになり、メニエール病を発症したとのこと。
ただ、3日間の入院で症状は軽快して退院しています。
その10年後にもめまいに襲われていますが、頭を動かさないようにしたり、めまいの薬を持ち歩くなどして、うまく病気と付き合っていたようですね。
八代亜紀の現在① 膠原病のため活動を休止
八代亜紀さんは2022年10月にフランス・パリの日本文化会館で公演を開催するなど、70代になってからも精力的に歌手活動を続けていました。
また、YouTubeチャンネルを開設したり、新型コロナの影響を受けて介護施設向けのオンラインライブを開始したりと新しいことにもどんどんチャレンジしていました。
そんな八代亜紀さんが2023年9月に、膠原病(こうげんびょう)の診断を受け、治療に専念するため年内の活動を休止することを発表しました。
膠原病は免疫の異常によって発症する病気で、八代亜紀さんの場合は皮膚炎の症状が出たことから医療機関を受診し、この病気であると診断されたとのことです。
八代亜紀の現在② 膠原病により死去
出典:https://www.news-postseven.com/
2024年に活動を再開させることを目標に療養を続けていた八代亜紀さんですが、2023年12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした。
葬儀は2024年1月8日に所属事務所のスタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に事務所より発表されました。
所属事務所によると、八代亜紀さんは2023年9月に膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症していたとのこと。
◆抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎 膠原(こうげん)病の一種で指定難病の一つ。筋肉や皮膚に炎症を起こし、手指や全身の痛みやむくみ、けん怠感、発熱、脱毛症状を伴うこともある。治療抵抗性や予後不良により、肺に炎症を起こす「急速進行性間質性肺炎」を高頻度に併発し、致死率の高い難病で知られる。40~60代の女性に多いとされ、厚生労働省のホームページによると患者数は約2万人。
治療を行い、一時は快方に向かいリハビリに励んでいたという八代亜紀さんですが、容態が急変した息を引き取ったとのことです。
八代亜紀さんは生涯「ありがとう」という言葉を大切にし、療養期間中も最期まで周囲の人への感謝の言葉を述べていたといいます。
代弁者として歌を歌い 表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中で常に大切にしていた言葉は「ありがとう」でした
「一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という父と母からの教えを八代自身は体現し続けて参りました
療養期間中も傍で支えるスタッフや医療従事者の皆様に「みんなありがとう」と感謝を伝え最期まで八代亜紀らしい人柄が滲み出ておりました
歌や絵の才能に溢れていただけでなく、人柄でも多くの人を魅了してきた八代亜紀さんの訃報には、各方面から多くの追悼コメントが寄せられました。
八代亜紀のまとめ
八代亜紀さんのプロフィール(年齢・身長・体重)、経歴や若い頃の美しい画像、ハーフの噂、結婚した旦那や子供の有無、離婚原因、豪華な自宅、病気や死去した現在をまとめました。
熟年離婚をした後も前向きに活動を続けていた八代亜紀さんですが、2023年に膠原病を発症し病気公表からわずか3カ月で亡くなりました。八代亜紀さんの歌声や絵は後世にも受け継がれていくことでしょう。ご冥福をお祈りいたします。