「論破王」とも評された「ひろゆき」こと西村博之さんを完全に論破した言語学者の小島剛一さん(F爺)が強いと話題です。
この記事では小島剛一さんの生い立ちや高校や大学などの学歴と渡仏後の経歴、家族や結婚について、ひろゆきを完全論破した騒動の経緯などについてまとめました。
この記事の目次
小島剛一のプロフィール
小島剛一のプロフィール
生年 :1946年
出身地:秋田県本荘町(現在の由利本荘市)
小島剛一さんは、フランス・ストラスブール在住の言語学者です。「F爺」と自称していて、これは「F国(フランス)に住む日本人の爺さん」という意味だそうです。
大学時代にフランスの大学へと留学し、そのままフランス・ストラスブールに居住されているという事ですが、年間の半分は言語研究などのために世界のどこかを旅されているそうです。
小島剛一さんは講演などのプロフィール紹介によれば、現在はフランスで「自由業」で生計を立てているという事ですが、フランス語だけでなく、他に数十もの言語に精通されているという事なので、言語に関わるお仕事をされていると思われます。一時期はフランスのトップの大学の一つである、ストラスブール大学で自身の講座も持たれていたようです。
著作も、「トルコもう一つの顔」、「漂流するトルコ・続トルコのもう一つの顔」、「再構築した日本語文法」など多数あり、いずれの著作も高い評価を得ています。
小島剛一さんは、2021年7月、2019年に訪日したフランスのサッカー代表選手による日本人に対する人種差別発言が問題になった際に、それを擁護するような発言をした「ひろゆき」こと西村博之さんを批判し、その後の何度かのインターネット上のやり取りにおいて、「論破王」とも呼ばれるひろゆきを完全に論破したとして話題になっています。
今回はこの小島剛一さんについてわかっている事をまとめていきます。
小島剛一の生い立ち
出典:https://www.dailyshincho.com/
小島剛一さんの生い立ちについては、ご本人があまり語られておらず謎が多いのですが、高校時代の小島剛一さんの同級生だという、教育コンサルタントの小笠原幹朗さんという方が、2010年に発行された日刊新聞「秋田魁(さきがけ)新報」に寄せた記事の中で、1946年に秋田県南部に位置する由利本荘市(当時は本荘町)という場所で生まれた事を書いていました。
小島は1946年、由利本荘市生まれ。秋田市で育った。家が近いこともあって、高校時代は一緒に通学した。3年時は同級、部活動も一時期同じだった。
小島剛一さんご本人も、自身のブログ記事にて、「秋田県南部の海辺の町」の生まれである事を書かれているので出身地は由利本荘市で間違いなさそうです。ただ、生家や周囲の地区の記憶はないとの事なので、物心がつく前に家族と別の場所に引っ越しされたのかも知れません。
生まれは秋田県南部の海辺の町ですが、生家や周囲の地区の記憶はありません。
また、他のブログ記事では、小島剛一さんは、小学校入学から高校卒業まで秋田市に住んでいた事を書かれています。
F爺の記憶では、秋田市に住んでいたのは、小学校入学から高校卒業までです。
小島剛一さんはブログにも自身の子供時代の生い立ちに関する事は1度も書かれていないので、あまり詳しい内容はわからないのですが、東京新聞が小島剛一さんについて取り上げた記事の中で、幼少期の小島剛一さんについて以下の内容を書いています。
小島さんは幼くして「ことば」に強い興味を持った。秋田県内を引っ越すたびに異なる方言をゲーム感覚で覚えた。ロシア語や北京語にも親しみ「国語辞典が愛読書だった、と今でも笑い話」。
引用:反骨の言語学者「F爺」小島剛一さんが10年前、東京新聞に語った思い 圧力に屈せず続けたトルコの少数民族調査で見えたこと
小島剛一さんは幼い頃から言語に強い興味を持ち、まるで遊びにように親しんで育った生い立ちを持たれているようです。
小島剛一の学歴① 出身高校は秋田県
小島剛一さんは自身の学歴についてもほとんど明かされていません。
出身高校についてはおそらく秋田県内の高校だと推測されますが、高校名などは明かされておらず不明です。
ただ、小島剛一さんはブログで高校時代に教師を論破したというエピソードをいくつか語られていました。
数年前、F爺が秋田市の某所で高校時代の級友数人と四十数年ぶりに再会する機会がありました。12人ほどが一堂に会して20分目ぐらいに出て来た話題は・・・
「F君は、T先生を職員室まで追いかけて行って泣かせたんだよね。あの事件の発端は、何だったの ? 同じ教室にいたんだけど、何が問題だったのか、さっぱり分からなかった」
ブログによると、高校3年生の時、小島剛一さんは発行当時(1955年)ベストセラーになったという「萬葉集の謎」という本を、10歳の時に叔父の書棚で見つけて偶然読み、「トンデモ本」だと切り捨てていたそうなのですが、高校3年の時にある教科の教師がこの本について「面白い発想の本だから」と話題に出したそうです。
この教師が「誰か意見のある人?」と生徒に問いかけたところ、小島剛一さんが1人挙手し、「萬葉集の謎」は、わざわざ授業中に取り上げて紹介するような本ではないと指摘したとのこと。小島剛一さんは理論立ててその理由を教師に説明(内容が高度に専門的過ぎるでここでは触れません)しますが、その教師は授業が終わっても折れようとしないため、小島剛一さんは職員室まで追いかけて行って、さらに理路整然と責め続けたとの事。
小島剛一さんからの執拗な追及を受けたこの高校教師は、最終的に涙を見せるほど動揺していたという事です。
また、小島剛一さんは同じブログ記事で、高校2年生の時にも別のある国語科教師と「P音攷(Pおんこう)」という本について議論し、小島剛一さんが術語の古さを指摘するなどしてこの教師を困らせたというエピソードも明かされていました。
ひろゆきを論破したと話題の小島剛一さんですが、高校生時代から既に教師を論破するほどの知識量と強い「論破力(あえてひろゆきの著作タイトルより引用)」を持っていたようです。
小島剛一さんは出身高校の名前を明かされていませんが、教師とこうした議論(一方的ではあるものの)ができる高校という事などから、かなり高い学力レベルの進学校だったのではないかと推測されます。
また、上でも触れた小島剛一さんの高校時代の同級生だったという教育コンサルタントの小笠原幹朗さんは、当時うろ覚えイタリア語で歌を歌ったところ、小島剛一さんに発音を直されたというエピソードも明かされていました。当時から小島剛一さんはいくつかの言語に通じていたようだとも書かれていて、高校時代から周囲から見てもずば抜けて優秀な方だった事が窺われます。
高校のころ、私がうろ覚えのイタリア語でカンツォーネを歌ったら、発音の手直しされたことを思い出す。すでにいくつかの言語に通じていたようであった。
小島剛一の学歴② 出身大学は東京都
小島剛一さんのブログによれば、「東京に住んでいた三年半は、大学生でした。」という事なので、高校卒業後に上京して東京の大学に通っていたようです。
ただ、高校と同じく小島剛一さんは出身大学の名前を明かされていません。
小島剛一さんは3年半東京の大学に住んでいたという事ですが、21歳か22歳だったと思われる1968年7月にフランスの大学に留学されているようです。
一時期、東京に住んでいましたが、1968年7月に一年間の予定で渡仏しました。いろいろあって、そのまま永住しています。
小島剛一の学歴③ 仏ストラスブール大学人文学部で博士号を取得
出典:https://i2.wp.com/neetola.com/
東京の大学からフランスの大学に留学したという小島剛一さんですが、フランスで学んだ大学の一つは「ストラスブール大学」の可能性が高いようです。
ストラスブール大学は、400年近い歴史を持つ公立大学で、フランス国内でも1、2を争う高いレベルの大学です。小島剛一さんの大学での専攻は言語学と民俗学だったようです。
小島剛一さんは渡仏から10年目の1978年に、このストラスブール大学人文学部で博士号を取得されたという事ですが、1970年頃からはトルコを中心に世界各地を回って言語の採集など実地での研究に取り組まれていたようなので、渡仏からどういった経緯でこのストラスブール大学で学ばれたのかの詳細までは不明です。
小島剛一さんの博士論文の主題は「トルコ語」で、論文のタイトルは「トルコ語諸方言の音韻研究」だったようです。
小島剛一の経歴① 1970年からトルコ各地を訪れ同地の言語などを研究
小島剛一さんの渡仏以降の経歴についても、あまり情報は明かされていないので、これまで判明している情報を繋ぎ合わせてまとめていきます。
上でも紹介した小島剛一さんの同郷の友人で、高校生時代の同級生でもある教育コンサルタントの小笠原幹朗さんは、「秋田魁新報」に寄せた記事の中で、小島剛一さんが渡仏後の1970年からトルコの各地を訪れて言語の採集などを行っていたと書いています。
彼は、1970年からトルコ各地を訪れ、言語の採集をしながら人々と交流してきた。
小島剛一さんは著作の「漂流するトルコ」に、1970年のトルコ来訪について「純然たる観光目的の旅行だった。」と書かれているので、最初のきっかけは研究目的ではなく観光だったようです。
また、小島剛一さんはこの当時、トルコとフランスを頻繁に行き来しながら生活されていたようで、1973年からはフランス人向けの日本語教育にも携わられているとの事。
1973 年以来、フランス人向けの日本語教育にも携わっている。
小島剛一さんは1977年夏に、ヒッチハイクと自転車でフランスからトルコに入国し旅行した際、所持金を盗まれて途方に暮れていた時、ある親切なトルコ人青年に助けられたのをきっかけにトルコの文化や言語、民族などに強く興味を抱くようになったそうです。
それから小島剛一さんはトルコを研究する中で、この地にトルコ語を主言語としない民族が多く住んでいる事を知り、そうした少数民族の人々が迫害を受けている事なども知ってより研究に力を入れるようになったようです。
小島剛一の経歴② トルコ政府から2度の国外退去処分を受ける
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小島剛一さんはトルコに何度も入国して滞在し、現地の少数民族言語などの研究に力を入れられていましたが、そうした行動がトルコ政府から危険視され、2度の国外退去処分を受けています。
小島は1986年以降、二度、国外退去処分を受けている。少数民族の言語調査そのものが、危険視されたのであろう。
小島剛一さんは、1986年にトルコ政府外務省から「自主退去勧告」を要請され、徒歩でギリシャ国境を超えて国外に退去しています。
小島剛一さんはトルコの少数民族言語に興味を抱き、それを研究して論文などで発表しましたが、トルコ政府は少数民族の分離独立を恐れて「トルコ共和国はトルコ語以外の言語は存在しない単一民族国家」だと主張していたため、こうした小島剛一さんの言語研究活動はトルコという国家にとって危険だと判断され、国外退去処分を受けたという事のようです。
小島剛一さんはフランスに再入国した後、自宅に何者かに何度も侵入されるなどされています。小島剛一さんはこれをトルコの国粋主義者からの圧力だと判じて身の危険や暗殺の恐れなどを感じ、この時以来、自分の詳細な居住地や勤務先などは一切公表されていません。
1994年には少数民族に対するトルコ政府の方針が若干緩和された事を受け、小島剛一さんも8年ぶりの再入国を認められますが、これはトルコ政府が小島剛一さんを政治的に利用しようとしたためで、その後も、トルコ国家情報機構や軍諜報部からの妨害や監視を受けたという事です。
2003年7月、「ラズ語文法」というトルコの少数民族言語に関する書籍を合法的に出版した直後、小島剛一さんは永久国外退去処分を受けています。以降、現在に至るまで小島剛一さんはトルコへの入国を禁じられています。
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小島剛一さんはその後、2010年に「漂流するトルコ」を出版し、トルコ政府の少数民族政策を批判されています。
小島剛一の家族や結婚
小島剛一さんは家族や結婚についての情報は一切公開されていません。
小島剛一さんは自身の身の安全のために勤務先や住所などは一切公開されていないという事なので、当然、家族や結婚などの情報も外部に漏れないよう細心の注意を払われているのではないかと思います。
仮に、小島剛一さんがいずれかのタイミングで結婚されていたとしても、そうした情報は伏せていると考えられ、結婚の有無自体が不明です。
小島剛一がひろゆきを完全に論破して強いとネットで話題に
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現在、小島剛一さんが、「論破王」などと称されネット上で人気の「ひろゆき」を論破して強いなどと話題になっているようです。ここでは大まかな経緯のみまとめます。
小島剛一のひろゆき論破の経緯① 日本人差別発言をひろゆきが動画で擁護
2021年6月29日に、フランス人の有名サッカー選手2人(ウスマン・デンベレとアントワーヌ・グリーズマン)が、日本人に対する人種差別発言を行なっている動画がインターネット上に流出し、大きな騒動になりました。
ひろゆきは、動画配信で視聴者からこのフランス人による人種差別について質問を受けて、フランス人サッカー選手がこの動画内で使用した「putain」という単語は侮蔑的な意味の単語だと報じられているが日常の中で強調の意味でも使うとして、「これぐらい普通じゃね?」などと発言しました。
小島剛一のひろゆき論破の経緯② 小島剛一がブログでひろゆき発言を訂正
小島剛一さんはこのフランス人サッカー選手による日本人に対する差別発言問題が騒動になってすぐに、自身のブログでこの件を批判し抗議する内容の記事を発表されていました。
そして、ひろゆきの動画内での発言を知った小島剛一さんは、自身のブログに、ひろゆきの見解は間違っていると訂正する記事を掲載されました。
「強調のためによく使われる」は、何かの間違いでしょう。単なる強調のために使ったりしたら、「教養を疑われる」どころではありません。直(ただ)ちに「無教養」「無頼漢」「最下層階級」・・・と烙印を捺(お)されます。
「雑談でよく使われる言葉が、日本語に翻訳されるときに、本来の意味と離れてしまった」という解釈には、首を傾(かし)げます。
小島剛一さんは、いくつかのブログ記事にてひろゆきの見解を完璧に論破されています。
小島剛一のひろゆき論破の経緯③ ひろゆきがTwitterで反撃
ひろゆきは小島剛一さんのブログ記事に反応し、Twitterで反撃を試みています。
若者言葉を知らない高齢者の方が「聞いたことが無いからフランス人は使わない」というのは勉強不足なだけだと思います。
— ひろゆき, Hiroyuki Nishimura (@hirox246) July 7, 2021
フランスの歴代観客動員数3位の映画『最強の二人』
で”putain”は18回出てきます。
セザール賞最優秀作品賞でカンヌ国際映画祭の審査員賞の『Les Misérables(2019)』では23回です。 https://t.co/31EwC13EDW
その後、小島剛一さんはデイリー新潮の取材に応じて、今回の騒動の経緯を説明されています。
ひろゆきはその記事が配信された直後にその記事を引用し、再びTwitterで反撃を試みています。
マクロン大統領は「putain」を強調で使ってますが、「無教養」とか「無頼漢」といった烙印は押されていません。
— ひろゆき, Hiroyuki Nishimura (@hirox246) August 6, 2021
侮蔑・罵倒以外の使い方も辞書に書いてあります。
事実と異なることを記事にしてる理由を教えて頂けますか?https://t.co/lenTmTCunE https://t.co/2xj17gZa9E pic.twitter.com/ybcQxeUpGB
小島剛一のひろゆき論破の経緯④ 小島剛一がひろゆきの反撃を完封
小島剛一さんはこれらのひろゆきのTwitterでの投稿にも、ブログでひとつひとつ隙のない反論をして完封されています。
一方、「ひろゆき」が「マクロン
大統領」の発言だと思い込んだ動画は、マクロン氏が大統領になる前に贔屓のサッカー・チームが敗退した時の無念さを表現する独り言を捉えたものです。撮影されていることを知っていたのですから軽率でした。そのため、大統領になった後でその動画が公になった時、フランス国民の笑いを誘ったのです。
そして、マクロン氏の年齢のフランス人が不用意に用い、動画を見たフランス語人が年齢の別無く大笑いしたというのは、この「putain」という言葉が決して「若者言葉」ではないことを示しています。
この経緯を全て書くとかなりの長さになってしまうのでここでは省きますが、ひろゆきの得意な論点ずらしも小島剛一さんには全く通用せず、論点をずらした先で再び論破されるという展開が続き、ネット上ではひろゆきの完全敗北との見方が有力になっています。
まとめ
今回は、「論破王」とも評されていたひろゆきを完全に論破したと話題になっている、言語学者の小島剛一さんについてまとめてみました。
小島剛一さんの生い立ちについては、1946年に秋田県南部に位置する由利本荘市(当時は本荘町)で生まれ、幼い頃から言語に強い興味を持たれ、遊びのように夢中になって色々な言語を学ばれてきたという事ですが、本人はあまり幼少時代の事を明かされておらず詳細は不明です。
学歴については、秋田県の高校を経て東京の大学へと進学し、21歳か22歳の頃にフランスの大学へと留学し、名門大学である「ストラスブール大学」で博士号を取得されている事が明かされています。出身高校や東京で学ばれていた大学がどこかは公開されていません。
経歴については、フランスに渡ってからは、トルコをはじめとして世界各国を来訪し、現地の少数民族の言語などを中心に研究されていたようです。トルコではそうした研究が危険視され2度の国外退去処分にあったようです。
家族や結婚についての情報は一切公表されておらず不明です。
2021年には、ひろゆきとのフランス人サッカー選手による日本人差別発言に関して論争になって完全に論破し、この件については現在もインターネット上で話題になっています。