2000年に亡くなった大物政治家の竹下登さんですが、実家は庄屋の家系であり子孫にも有名人がいるなど、華麗なる一族ぶりを発揮しています。
この記事では、竹下登さんの若い頃や経歴、家系図と家族(父親/嫁/息子/孫のDAIGO)、そして死因や暗殺説をまとめました。
この記事の目次
竹下登とは
竹下登(たけした のぼる)
生年月日:1924年2月26日
出身地:島根県雲南市
竹下登、日本の第74代総理大臣で経世会を率いる政界の実力者だった
竹下登さんといえば、1987年に日本の第74代内閣総理大臣に就任したことでも知られている政治家となります。
自派閥である経世会を率いて政界で絶大な権力を誇った竹下さんですが、総理大臣としては消費税の導入やふるさと創生事業の実施など失政が目に付いた部分がありました。
ふるさと創生事業とは、1988年から1989年にかけての日本で、各市区町村に対し地域振興のために1億円を交付した政策である。正式名称は自ら考え自ら行う地域づくり事業。1億円を交付したので、ふるさと創生一億円事業とも言われる。
引用:ふるさと創生事業
特に、ふるさと創生事業については、用途を限定していなかったせいもあり、交付金が謎のモニュメント製作や箱物行政に使われてしまうケースが続出してしまったため、バラマキ行政と揶揄されることになりました。
【ブログ更新】
— *mikko* (@sakura_loop) July 23, 2020
ふるさと創生事業珍スポット!
福島市飯野町『UFOふれあい館』
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UFOについて学べる!展望風呂でくつろげる!
楽しい公共の #珍スポット です
みんな~!
いつか千貫森の山頂の「UFOコンタクトデッキ」で一緒にUFOを呼ぼうよ! pic.twitter.com/5EfuaWYCeN
~思い出の風景~
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実は…愛別町は当時、全国の市町村で初めて自家用飛行機を持った町でした!
名前は「ムーニー号」。ふるさと創生事業として平成元年12月18日に購入されました
利用料は、5分間の搭乗で2千円だったそうです
※ムーニー号は平成20年に売却されました。約20年間の間活躍しました。 pic.twitter.com/Y8hhL19qIO
竹下登の若い頃…農地改革のせいで実家が大量の資産を失っていた
竹下登、実家は庄屋の家系の造り酒屋だった
1924年に島根県飯石郡掛合村(現:雲南市)にある竹下家の長男として生まれた竹下登さんですが、実家の方は造り酒屋「竹下本店」を営んでいました。
竹下家は、その他にも江戸時代より続く庄屋の家系だったこともあり、農地や山林なども多数所有する地主でもありました。
そんな名家の御曹司だった竹下さんは、父・勇造さんが島根県議会員を務めるなど政治が身近にあったため、中学の頃より政治家を志す意識の高い少年だったと言われております。
とはいえ、そんなボンボン育ちだった竹下さんも、旧制島根県立松江中学校(現:島根県立松江北高校)を卒業後に旧制松江高校(現:島根大学)の受験に失敗するなど挫折も味わっています。
その後、2度目の受験にも失敗した竹下さんは、旧制松江高校への進学を諦めてて、大学予科に当たる第一早稲田高等学院に入学するために東京へ上京することになりました。
竹下登、戦時中は学徒動員の憂き目となり陸軍少尉となっていた
第一早稲田高等学院時代の竹下登さんについては、戦時中ということもあり1944年8月に学徒動員の憂き目となり、陸軍に入営することになりました。
その後は陸軍飛行隊に入隊した竹下さんでしたが、運良く激戦地に配備されることもなく終戦を迎えたそうですね。
竹下は特別操縦見習士官の第四期生に志願、飛行第244戦隊に入隊した。同期からは南方の激戦地に配備されるものもいたが、竹下は軽井沢、野辺山、伊奈を経て1945年4月に立川の少年飛行兵学校へ配属、少年飛行兵の地上訓練教官となるための基礎教連を受けて、7月1日付で大津へ派遣され、ここで終戦を迎える。
引用:竹下登
ちなみに、終戦時の竹下さんの階級は陸軍少尉だったとか。
復員後の竹下さんは、そのまま早稲田大学商学部へ復学することになりました。
復学後の竹下さんは、実家が造り酒屋兼地主だったこともあり、終戦直後の食糧難の時代でも米やお酒の仕送りが潤沢にあったため、同郷の早稲田大学生たちの生活の面倒を見ていた時期もあったそうですね。
竹下登、早稲田大学を卒業後は中学教師を経て県議会議員になっていた
早稲田大学を卒業後の竹下登さんは、当初はそのまま東京に残り新聞記者になるつもりだったそうですね。
しかしながら、同じアパートに住んでいた新人政治家・小川半次さんの「政治家を目指すなら、郷里の青年をまとめることだ」とのアドバイスもあり、大学を卒業後は島根県に帰郷しています。
帰郷後の竹下さんは、実家が農地改革の標的にされて56ヘクタールもの山林や農地を手放す羽目になるなど、逆風を味わうこともありました。
とはいえ、当の竹中さんは、そこで腐ることもなく地元の掛合中学校で英語教師をしながら青年団の活動に勤しんでいたと言われております。
メインの活動は青年団活動で、活動の企画を全て立案した。青年団として、小学校の講堂を借りての模擬国会、秋の収穫祭の際ののど自慢大会などを熱心に行った。1949年には飯石郡青年団長に選ばれる。
引用:竹下登
青年団の活動は、竹下さんの人脈形成に大きく役立ったらしく、他県で青年団として活躍していた野中広務さんや浜田幸一さんといった後の大物政治家たちと知己を得ることになりました。
その後、1951年に行われた「第2回統一地方選挙」に出馬し、見事島根県議会議員の地位を得ることに成功した竹下さんですが、選挙資金に大枚を投入しすぎた影響で金欠状況になってしまい、パチンコや賭け麻雀で生活費を稼いでいた時期もあったそうですね。
ちなみに、人たらしの政治家としても知られていた竹下さんですが、その辺の人心掌握術は県議会議員時代から健在でした。
また、県職員の名簿を手に入れて係長以上の名前を憶え、庁舎内を歩き回っては係長と話をした。ほとんどの議員は議員控室に課長を呼び付ける中で、自ら出向いてくる竹下は職員の間でも評判が良かった。この評判は、選挙民からの陳情を処理するのに役に立った。また、自身に回ってきた役職も、同僚議員に回すことで貸しをつくった。
引用:竹下登
竹下登の経歴…自民党の一大実力者となるもリクルート事件で失脚した
竹下登、高橋円三郎の地盤を受け継いで国政に進出した
27歳の若さで県議会議員となった竹下登さんですが、地元島根の有力政治家だった高橋円三郎さんが病死した際に地盤を引き継ぐことに成功したため、1958年に行われた「第28回衆議院議員総選挙」に出馬し、国政へ進出しています。
その後の竹下さんは、佐藤栄作さんの知遇を得たことで出世街道まっしぐらの人生を送ることとなり、佐藤内閣が発足した1964年には、40歳の若さで内閣官房副長官に抜擢されております。
以降も1971年に内閣官房長官に就任して初入閣を果たすなど、自民党内でも有力議員に成長した竹下さんでしたが、佐藤さんの引退後は田中角栄さんと行動を共にする田中派の一員となったそうですね。
その田中内閣では、末期の1か月間だけ官房長官を務めた程度に終わった竹下さんですが、以後の政権では重用され、大蔵大臣や建設大臣などを歴任することになりました。
とはいえ、政治家としての竹下さんは必ずしも有能であったわけではなく、中曽根政権時代に大蔵大臣として担当した「プラザ合意」が急激な超円高を招き、日本の産業の競争力低下の原因となったとの批判の声も存在します。
プラザ合意とは、1985年9月22日、先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議により発表された、為替レート安定化に関する合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。
引用:プラザ合意
竹下登、田中角栄と反目状態になるも内閣総理大臣へ上り詰めた
竹下登さんが「経世会」の前身にあたる「創政会」を立ち上げたのは1985年のことでした。
「創政会」は表向きは田中派内の勉強会だった一方で、実質的には田中角栄さんを追い落とすための同志集めの場だったようですね。
竹下さんがクーデターを企てた理由については、田中さんとの人間関係の悪化が大きかったと言われております。
ところが、(ロッキード事件の表面化あたりで)政界では安倍晋太郎、宮澤喜一ら、財界からソニーの盛田昭夫、サントリーの佐治敬三など、50代のバリバリした人たちで勉強会をつくった。私も、人集めの中心メンバーだった。角さんはこのあたりで、竹下は俺を追い出して世代交代をやるつもりかと、不快感を持ったように思われる。それからですね。『県会議員上がりで総理大臣になった例はない』と発言するなど、角さんのこれみよがしの私への牽制が始まったのは」(要約)
引用:「1000本のタテカン」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part1~政治評論家・小林吉弥
竹下さんの裏切り行為に気が付いた田中さんは、当然ながら「創政会」の切り崩しに動いたそうですが、直後に脳梗塞に倒れてしまったうえに重い後遺症が残り、政治生命を失うことになりました。
その結果、田中派の大半の議員を引き継ぐこととなった竹下さんは、1987年7月になると自派閥である「経世会」を正式に立ち上げたそうですね。
自民党内の最大派閥の領袖となった竹下さんは、1987年11月になると第74代内閣総理大臣の地位を得ています。
竹下登、リクルート事件で失脚した
バブル時代に総理大臣に就任した竹下登さんですが、就任早々の1988年6月に「リクルート事件」が発覚するなど前途は多難でした。
1980年代,情報サービス会社リクルートが政界,官界,財界の要人に,子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡,贈賄罪に問われた事件。1985年から 1986年にかけて,自由民主党の有力者や野党国会議員のほか,労働省や文部省の高官,財界の大物などに対し,本人あるいは秘書名義などでリクルートコスモスの未公開株を譲渡し,店頭公開後に大きな売却益を上げさせた。
引用:リクルート事件
「リクルート事件」では、「リクルート」から未公開株の譲渡を受けた以外にも5000万円の借金をしていたことが発覚した竹下さんは、自宅前で抗議デモを起こされるなど世論の反発を受けることになりました。
当然のことながら、支持率が急落することとなった竹下さんは、1989年6月に退陣に追い込まれてしまいました。
竹下登、経世会の分裂で自民党が野党に転落していた
退陣後の竹下登さんですが、「リクルート事件」の責任を取って経世会の会長職を辞任して院政を敷いていたところ、後任を任せていた側近の金丸信さんとその愛弟子の小沢一郎さんの台頭を許すアクシデントもありました。
その後、1992年10月に「東京佐川急便事件」が起こり、5億円もの闇献金を受け取っていた金丸さんが失脚したため、竹下さんの政争相手は消えたかに見えました。
とはいえ、この頃になると既に小沢さんが竹下さんに匹敵する政治力を持つようになっており、金丸さんの後任人事を巡り竹下派と小沢派で意見が対立。最終的には、小沢派が経世会を割って出て新派閥「改革フォーラム21」を結成する騒動にまで発展しました。
さらには、小沢さんが「改革フォーラム21」を率いて離党までしたことから、1993年7月に行われた「第40回衆議院議員総選挙」では自民党が惨敗してしまい、野党転落の憂き目となりました。
竹下登は2000年に病死…死因は「変形性脊椎症による呼吸不全」
「第40回衆議院議員総選挙」後の竹下登さんについては、宿敵・社会党と手を組み1994年6月に村山内閣を発足させ自民党を与党へ復権させるなど、小沢一郎さんに一泡吹かせることに成功しています。
その後も橋本龍太郎さんや小渕恵三さんといった経世会出身の総理大臣が誕生するなど、相変わらずの政治力を誇った竹下さんですが、1999年4月に「変形性脊椎症」を患ったことで政治家引退を決意することになりました。
ちなみに竹下さんは、「変形性脊椎症」の他にも膵臓がんも併発していたと言われており、2000年6月になると「変形性脊椎症による呼吸不全」にて死亡しております。
竹下登の家系図…父親と異母兄弟・嫁と子供や結婚歴・孫のDAIGOなど
竹下登、異母兄弟に竹下亘がいた
竹下登さんに関しては、実母の唯子さんが1945年に病死した後に父親が再婚したため、23歳年の離れた異母兄弟の竹下亘さんがいます。
亘さんは、慶應義塾大学を卒業後はNHKに勤務したり竹下さんの秘書をしていたそうですが、竹下さんの政治家引退を機に地盤を引き継いで「第42回衆議院議員総選挙」に出馬することになりました。
その後の亘さんは、安倍政権時に復興大臣を務めたり経世会の8代目会長を務めたりと、政治家として一定の成功を収めている状況です。
とはいえ、竹下さん亡き後の他派閥の台頭を阻止することは出来ずに、経世会は自民党内の有力派閥の1つへ転落してしまいました。
竹下登、父親との確執が原因で嫁が自殺していた
竹下登さんは、いつ学徒動員がかかるか分からない戦時中に青春時代を過ごした影響もあり、1994年3月に20歳の若さで学生結婚をしています。
竹下さんの結婚相手については、地元の富豪の娘である竹内政江さんでした。
結婚当初は東京のアパートで夫婦水入らずの生活をしていた竹下さんですが、1944年8月に学徒動員がかかり陸軍に入営することになりました。
そのため、政江さんは島根に帰郷することとなり、嫁入り先の竹下家で暮らすことになったそうですね。
とはいえ、父・勇造さんとの折り合いが悪かったことでノイローゼになってしまった政江さんが1945年5月に自殺してしまったため、竹下さんの最初の結婚生活に関しては1年程度で終わってしまいました。
竹下登、再婚相手は親戚でもあった直子さんだった
予期せぬアクシデントで妻と死別することとなった竹下登さんですが、1946年に3歳年下の遠藤直子さんと再婚しています。
直子さんは、銀行員だった父親の仕事の都合で島根生まれの東京育ちといった経歴だったそうですが、直子さんの母親の姉と竹下さんの父親の兄が結婚していた親戚関係だったため、竹下家との交流自体は昔からあったそうですね。
お嬢様育ちだったため繊細だった前妻・政江さんとは違い、竹下さんが金欠だった県議会議員時代には一緒にパチンコや賭け麻雀をして生活費を稼ぐ豪胆な女性だった直子さんは、政治家の妻として竹下さんを生涯支え続けることになりました。
竹下登、子供は娘3人で息子はいなかった
竹下登さんは、直子さんとの間に3人の娘が生まれています。
竹下さんの娘たちに関しては、政界の実力者であった父親の威光もあり結婚相手も一廉な人物でした。
★長女・一子→金丸信の長男・金丸康信(NHK記者→テレビ山梨社長)
★次女・まる子→内藤武宣(毎日新聞記者→竹下登の秘書→KBS京都常務)
★三女・公子→竹中祐二(竹中工務店の創業者一族)
竹下登、孫には人気タレントのDAIGOがいた
竹下登さんの孫に関しては、次女・まる子さんの次男であるDAIGOさんが有名です。
DAIGOさんは、ロックバンド「BREAKERZ」のボーカルとして活躍する傍らにタレント業にも進出しており、「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」や「幸せ!ボンビーガール」といった人気番組に出演中です。
竹下さんの孫については、まる子さんの長女・影木栄貴さんも漫画家として活躍しています。
竹下登、政略結婚で金丸信とも親戚になっていた
竹下登さんは、長女の一子さんを政治家・金丸信さんの長男・金丸康信さんの嫁に出す政略結婚に手を染めたこともありました。
こちらの婚姻話については、実際は恩師である佐藤栄作さんの妻・寛子さんの発案だったと言われております。
その後蜜月時代もあった竹下さんと金丸さんですが、前述の通り最終的には両雄相並ばず状態となり離反しています。
とはいえ、父親同士の確執とは裏腹に一子さんと康信さんの夫婦仲は良好だったようで、晩年に体を壊した金丸さんの介護も一子さんが担当していたとか。
竹下登の暗殺説とは?…米軍に暗殺されたとの陰謀論が流れていた
2000年に病死している竹下登さんですが、ネット上では何故か暗殺説も流れているようですね。
竹下さんに暗殺説が流れた原因については、2005年に出版された「泥棒国家日本と闇の権力構造」の中に、「アメリカに逆らった(総理大臣時代の)竹下登が横田基地に拉致されてMPに拷問された」との記述があったせいでした。
その後、上記の記述がネット上で有名陰謀論化していくうちに、何故か「竹下登が米軍に拷問されて殺された」との噂に発展してしまったようですね。
@okabaeri9111 竹下登元首相や小渕恵三元首相が横田基地で拷問の末に、殺されたと聞いたときは、在日米軍は、なんて卑劣な事をするんだと怒りを覚えたが、小泉麻生の拷問に至っては、もっとヤレヤレ―と応援している・・人間って、いい加減な生き物ですね 自分も例外じゃないけどねw
— 安達勝巳 (@dozaemon10061) August 26, 2019
竹下登についてまとめてみると…
竹下登さんに関しては、恵まれた家庭に育ち政治家としても大成功を収めた人物なれど、父親との確執で最初の妻が自殺してしまうなど、人並みの不幸も味わっていたようですね。
竹下さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。