竹中正久さんといえば、山口組4代目就任直後に山一抗争にて暗殺された悲運のヤクザとして有名な人物です。
この記事では、竹中正久さんの生涯や武勇伝、兄弟、中山きよみとの関係や子供の有無、ヒットマンに暗殺された最期をまとめました。
この記事の目次
竹中正久のプロフィール
竹中正久(たけなか まさひさ)
生年月日:1933年11月30日
出身地:兵庫県姫路市
竹中正久、戦時中に兄が特攻に捕まり拷問されていた
竹中正久さんは、1933年11月に兵庫県飾磨郡御国野村(現:姫路市)にある竹中家の3男(第七子)として生まれて来ています。
祖父・英正さんは村の助役、父・龍次さんは村会議員という名家だった竹中家でしたが、戦争へと突き進む暗いご時世もあり、家業の料理屋の経営が傾くなど何かと大変だったそうですね。
子供時代からわんぱくで喧嘩ばかりして育ったという竹中さんでしたが、勉強熱心な一面もあり、成績は常にクラスでトップクラスでした。
一方で太平洋戦争の激化は竹中さんにも暗い影を落とすこととなり、1945年になると、立命館大学生だった次男・良男さんが危険思想の持主として特高警察に捕まり、拷問を受けて大怪我を負った他、姫路大空襲にも遭遇しています。
ちなみに、姫路大空襲では実家付近が爆撃されなかっため、一家そろって無事だった竹中さんでしたが、特高警察で拷問を受けた後遺症に苦しんでいた良男さんは、1948年に亡くなってしまいました。
竹中正久の生涯①…兄弟たちもヤクザになっていた
竹中正久、父親の病死がきっかけで旧制中学を中退していた
終戦後の竹中さんは、1946年に地元の名門校である旧制姫路市立鷺城中学校(現:姫路市立姫路高等学校)に進学したものの、父・龍次さんが結核や前立腺肥大尿毒症を患い亡くなってしまったため、中退しています。
旧制中学中退後の竹中さんは、家計を助けるために瓦工場で働き始めますが、1949年末に退職。1951年なると、借金を返さない知人を脅した罪で逮捕されて奈良特別少年院に送致されることとなりました。
1953年に少年院を出所した竹中さんは、母・愛子さんが経営を始めた食料品店を手伝う一方で、姫路市内の繁華街・東新地で飲み屋の用心棒家業も開始していたようですね。
その後、本職のヤクザ相手にも物怖じしない豪胆さと腕っぷしの強さで一目を置かれるようになった竹中さんの元には、周囲の不良少年たちが集まってくることとなり、愚連隊のリーダーになっています。
竹中正久、部下たちの将来を考えて山口組入りを決意した
愚連隊の身でありながら竹中組を結成し、自前の賭場を開くなど本職のヤクザ顔負けの権勢を誇っていた竹中正久さんですが、長い物に巻かれるのが嫌いな性分もあり、暴力団からスカウトがあっても断り続けたいたようですね。
そんな竹中さんが舎弟たちの将来のことを考えて、本職のヤクザになることを検討し始めたのは20代後半頃でした。
少年院時代に知り合った宇野正三さんの父である山口組系宇野組組長・宇野加次さんの伝手により、山口組若頭・地道行雄さんの知己を得た竹中さんは、1961年になると山口組の直参になっています。
竹中正久、兄弟たちもヤクザになっていた
後に山口組4代目に就任するなど、大物ヤクザとして数々の伝説を残すこととなった竹中正久さんですが、弟たちも10代の頃からアウトローの世界に足を踏み入れています。
竹中兄弟の中でも特に大物だったのが四男・英男さんとなっており、博徒として天才的な才能を誇っていたため、弱冠16歳にして各地の賭場で胴師を務めるほどでした。
その後、野球賭博や金融業を営み稼いだお金で料理旅館を経営するほど頭角を現した英男さんは、1964年に結核で病死するまでの間、竹中組の屋台骨を支え続けた右腕的存在となりました。
また、八男である武さんも10代で売春宿「25時」を経営するほど豪胆な人物であり、竹中組結成後は武闘派ヤクザとして名を馳せ、最終的には山口組若頭補佐にまで上り詰めています。
竹中兄弟は、その他にも五男・正さんと六男・修さんもヤクザとなっており、生後すぐに病死した七男以外の弟全員が竹中組組員として活躍していたようですね。
竹中正久の生涯②…山口組若頭暗殺未遂事件の武勇伝があった
竹中正久、「福岡事件」では部下の責任を1人被っていた
竹中正久さんは、山口組入りして早々となる1962年に「福岡事件」に巻き込まれています。
「福岡事件」は、警察から指名手配を受けることとなった山口組系石井組組員・夜桜銀次こと平尾国人さんが、福岡県福岡市にある山口組系伊豆組に匿って貰っていたところ、ヒットマンたちにより射殺された事件が発端となりました。
平尾さんが暗殺された原因については、金をせびられて困っていた地元の炭鉱主が鳥巣組に暗殺を依頼していたようですね。
しかしながら、事件の背景にそんな複雑な事情があるとは思われていなかった当初は、平尾さんが賭場荒らしのトラブルを起こしていたことから、地元の暴力団である大島一家や宮本組が犯人だと疑われていました。
その後、大島一家らとの和解交渉に乗り出した山口組ですが、身に覚えのない罪を被る人間もおらず調停は決裂。山口組の九州侵攻を危惧して、大野組や住吉一家といった近隣の暴力団が大島一家らの加勢に回るなど逆風も吹き荒れました。
そのため、戦争を覚悟した山口組側も福岡に250名を超える兵隊を送ることとなり、竹中正久さんを含む竹中組の面々も召集をかけられることになりました。
とはいえ、山口組側の動きを察知していた福岡県警が、福岡の街に辿り着いた山口組組員らを凶器準備集合罪で次々に逮捕するなどしたため、市街地での抗争は未然に防がれています。
福岡県警に逮捕されて取り調べを受けることとなった竹中さんは、山口組組長・田岡一雄さんを呼び捨てにする検事に激怒し取調室で暴れるなど武勇伝を残した他、竹中組の組員たちを守るために、自ら責任者と名乗り出て1人で罪を被る男気を見せました。
ちなみに、取調室でのエピソードが耳に入り気に入られた結果、保釈後の竹中さんは田岡さんのボディーガード役に抜擢されたとか。
竹中正久、地道行雄を暗殺しようと計画したこともあった
竹中正久さんは、友人である山口組系細田組組長・細田利明さんと一緒に、山口組若頭・地道行雄さんを暗殺しようと企てたこともありました。
1960年代中盤以降の山口組は、警察の頂上作戦の影響により幹部たちが次々に逮捕・引退に追い込まれた他、組長である田岡一雄さんも心臓病に倒れ長期入院を余儀なくされるなど、激震が走っていました。
そんな中で、警察の追求を免れるために田岡さんの反対を押し切り山口組を解散しようと目論んでいた地道さんは、竹中さんの反感を買っていたようですね。
地道さんの背信行為はさらに続き、警察の取り調べを受けた際に、さんちかタウン(三宮地下街)の建設に絡む恐喝事件に田岡さんが関与しているとの虚偽の自白までしていたとか。
そのため、堪忍袋の緒が切れた竹中さんは、山口組若頭補佐・山本健一さんとの相談の末、地道さんを暗殺することを決意します。
とはいえ、山口組を創成期から支えた続けた武闘派ヤクザだった地道さんは用心深く、暗殺の隙を中々見せなかったうえ、噂を聞きつけた田岡さんから諫められたため、暗殺計画は中止となってしまいました。
田岡さん的には、裏切り行為自体は腹立たしかったものの、若い頃から苦労を共にした地道さんの命まで奪うのは忍びないとの想いが強かったようですね。
その後、1968年2月に若頭を解任された地道さんは、1969年4月に末期の肺癌が見つかり、1ヶ月にも満たない闘病生活の末に病死しています。
竹中正久、姫路事件では木下会会長を暗殺していた
竹中正久さんの武勇伝については、「姫路事件」が有名となっています。
「姫路事件」に関しては、1980年1月に起こった「津山事件」が発端となっており、岡山県岡山市内で、竹中組津山支部・小椋義政さんらが木下会系平岡組の組員たちに射殺されることになりました。
両者のトラブルの原因は、服役中に平岡組の組員に愛人を寝取られた小椋さんが、平岡組を怨み嫌がらせを続けた末にヒットマンを送り込まれたというくだらないものだったため、竹中組側もすぐに和解に動いていました。
山口組系湊組組長・湊芳治さんを仲介役に立てて和解交渉を続けた結果、木下会側は、香典400万円に加えて平岡組組長・平岡篤さんの詰めた指1本を持参して竹中さんに謝罪。さらには、誠意として木下会側から事件関係者の絶縁の申し出まであったそうですね。
とはいえ、これ以上の重い処分は不必要と判断した湊さんは、「絶縁まではしなくてもいいだろう」と発言し、木下会側の申し出を断っています。
しかしながら、その場で湊さんの言葉の真意を確認しなかったことが、竹中組と木下会の新たな対立を生むことになりました。
さらに「小椋と水杉の殺害に関係した木下会組員を絶縁にする」と高山は表明したものの、湊が「絶縁まではしなくてもいいだろう」と発言し、その場は竹中正久も高山も湊の提案を了承した。
湊の発言について竹中正久は「絶縁まではしないが、破門にすると解釈、一方の高山は「一切処分しなくてもいい」と解釈していたことがさらに抗争を深刻にしてしまっている。引用:姫路事件
破門状というケジメを待ち続けた竹中さんは、ノーリアクションの木下会の姿に舐められたと勘違いし、ヒットマンチームを作成。
1980年5月になると、竹中組のヒットマンたちが木下会会長・高山雅裕さんらを襲撃し、高山さんを含む2名を射殺する暗殺事件が起こりました。
その後、すべての問題は「絶縁まではしなくてもいいだろう」の解釈の違いにあったと気が付いた竹中組と木下会は、再度の和解交渉に邁進することになったそうですね。
竹中正久の生涯③…法知識を活かして警察を翻弄した頭脳派でもあった
竹中正久、法知識を活かして警察の家宅騒動を妨害していた
次兄・良男さんが特高警察に捕まり拷問を受けて早死にした経緯から、アンチ権力志向が強かった竹中正久さんは、六法全書を読み漁り警察を煙に巻いた頭脳派ヤクザとしても有名です。
竹中さんが頭脳派ヤクザとして名を馳せたきっかけについては、1966年に起こった「家宅捜索事件」が挙げられます。
「家宅捜索事件」については、竹中組の若衆と運転手の男性が喧嘩となり組事務所のガラスが割られた程度の小さな騒動が発端となりました。
後日、事件を口実に竹中組の家宅捜索を実施しようと目論んだ姫路署でしたが、竹中さんから立ち会いを拒否されたために、刑事訴訟法114条第2項により家宅捜索が出来ない状況へと追い込まれます。
その後、消防署員を立会人にして家宅捜査を実施しようと試みた姫路署ですが、「事務所には高価な物もあるので後々面倒が起こっては困る。名前や住所を聞かせてくれんか?」と竹中さんから切り出されたため、消防署員たちも尻込みしてしまうことになります。
最終的には、山口組系湊組組長・湊芳治さんが仲介に入り、姫路署の家宅捜索に応じることとなった竹中さんでしたが、警察関係者に「文武両道の厄介者」との印象を植え込むことに成功しています。
竹中正久、長期勾留を逆手に取り刑期の消化に成功していた
竹中正久さんは、1969年12月になると、凶器準備集合罪で逮捕されています。
こちらの容疑については、1969年夏頃に竹中組組員と小川会組員が街中で喧嘩となった際に、落とし前が必要だと判断した竹中さんが、小川会事務所に殴り込みをかけたことが原因でした。
その結果、拘置所に勾留されて取り調べを受けることとなった竹中さんですが、警察側の戦法を逆手に取り、公判中だった「福岡事件」の上告を取り下げ刑期を確定させました。
本来ならば、すぐに服役を開始しなければならない立場の竹中さんでしたが、現在進行形で進む取り調べのために、それが叶わぬ状態となります。
その場合、法律上では勾留期間分だけ服役を代行しているとみなされ、刑期が消化出来るという裏技がありました。
そのため、1971年6月まで勾留されることとなった竹中さんは、その間に「福岡事件」の刑期を消化しきってしまい、警察に地団太を踏ませることになりました。
ちなみに、保釈後の竹中さんは、山口組若頭を務めていた梶原清晴さんが事故死した影響により、山口組若頭補佐に出世をし執行部入りを果たしています。
竹中正久、総長賭博事件では無罪を勝ち取った
竹中正久さんは、1973年になると、「総長賭博事件」にて逮捕されています。
「総長賭博事件」に関しては、山口組組長・田岡一雄さんの快気祝いのために、1972年に竹中さんが胴元となって開催された違法賭博事件となります。
体調面を考慮して田岡さん本人は参加していなかった賭場でしたが、山口組幹部のみならず稲川会幹部たちも参加したことから、一晩で150億円もの掛け金が動いたとの伝説を残しました。
しかしながら、「総長賭博事件」の発端を山口組と稲川会の友誼関係締結祝いのためと誤認していた警察側は、賭博開帳日までは特定出来ずに見切り発車状態での逮捕となってしまったようですね。
そのため、賭博開帳日が特定出来なければ公判を維持出来なかった当時の法律を逆手に取り、賭場参加者たちに逮捕前に連絡を取り、取り調べ中に開催日時だけは明言しないようにと要請していた竹中さんは、見事に不起訴を勝ち取ることが出来ました。
竹中正久の生涯④…愛人・中山きよみとの間に子供はいたのか?
竹中正久さんは、妻子がいた場合それが極道としての弱点になるとのモットーがあり、生涯に渡り結婚をせずに子供も作りませんでした。
大物ヤクザながらも女性関係はきれいだったと言われている竹中さんは、地方に出張した際に地元暴力団が用意した娼婦にも手を付けなかったと言われております。
とはいえ、事実上の妻にあたる女性はいたようで、愚連隊時代から中山きよみさんというBAR経営者の女性と長年交際していました。
2人の馴れ初めについては、行きつけの麻雀店が同じだったようで、気が付けば親しくなっていったようですね。
そんな2人も、1982年に賭博開帳絡みの脱税容疑で竹中さんが逮捕された際に、中山さんまで一緒に指名手配をされたことで関係が破綻してしまうことになりました。
その後の竹中さんは、鳥取県内のクラブに勤めていた30代ホステス・Bさんと同棲関係へ発展していたとか。
竹中正久の生涯⑤…最期…一和会のヒットマンたちに暗殺されていた
竹中正久、山口組4代目継承戦に逆転勝利した
1981年に組長・田岡一雄さんが亡くなった山口組でしたが、1982年にも次期4代目とみなされていた若頭・山本健一さんが病死するといったアクシデントが続きました。
そのため、山本健一さん亡き後に山口組組長代行に就任した山本広さんと若頭に就任した竹中正久さんとの間で跡目争いが勃発しています。
当初は、山口組直参組長の大半が山本広さん支持に回るなど、大逆境の中でのスタートとなった竹中さんでしたが、田岡さんの未亡人・文子さんが竹中さん支持に回ったことで、山本派の切り崩しに成功。1984年7月に、山口組4代目に就任することになりました。
一方で、4代目争いに敗北をした山本広さんは、竹中さんの風下に立つことを潔しとせずに、山本派の組長たちを引き連れて山口組を脱退し、一和会を結成しました。
竹中正久、愛人宅に向かうところを一和会のヒットマンたちに射殺された
1984年8月から始まった「山一抗争」では、当初は一和会7000人、山口組6000人の戦力差があったため、一和会が有利だと思われていました。
しかしながら、一和会に対してあくまで強気な態度で挑んだ竹中正久さんが「義絶状」を送り付けた辺りから風向きが変わり、山口組と全面戦争をするまでの覚悟はなかった組員たちの引退や出戻りが相次ぎ、一和会は弱体化の一途を辿りました。
その結果、1984年の年末頃には両者のパワーバランスは山口組14000人、一和会2800人まで変化していたようですね。
そのため、一発逆転を狙った一和会系後藤組組長・後藤栄治さんが、大阪府吹田市にある竹中さんの愛人・Bさんのマンションを突き止め、暗殺の機会を伺うようになりました。
後藤一派による「竹中正久暗殺計画」については、普段からボディーガードをつけることを嫌っていた竹中さんの豪胆さが災いし、1985年1月26日に実現しております。
その日の夜、Bさんのマンションに帰宅中だった竹中さんは、エントランス付近でヒットマンたちの襲撃を受け、側近である山口組若頭・中山勝雅さんや山口組系南組組長・南力さん共々射殺されることになりました。
一和会、竹中正久暗殺成功が裏目に出て解散に追い込まれた
「竹中正久暗殺事件」後の一和会ですが、暗殺計画自体が後藤栄治さんの独断だったこともあり、執行部では後藤さんを批判する声の方が大きかったようですね。
その後、トップを殺された山口組から熾烈な報復を受けることとなった一和会は、1987年2月になると、一和会解散と山本広さんの引退を条件に山口組と和解をしています。
竹中正久についてまとめてみると…
竹中正久さんについては、文武両道型の大物ヤクザだったものの、最期はその豪胆さゆえに命を落としたことになります。
竹中さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。