人気タレントとして長年活躍する高田純次さんですが、テキトーな芸風とは裏腹に若い頃は苦労しています。
今回は高田純次さんのプロフィールと身長、若い頃の経歴、結婚した嫁や子供(娘である長女・次女)と孫、自宅や現在を紹介します。
この記事の目次
- 高田純次は人気タレント 【身長は175cmと意外と高め】
- 高田純次の若い頃の経歴① 実は複雑な家庭に育っていた
- 高田純次の若い頃の経歴② 周囲に気を遣う幼少期だった
- 高田純次の若い頃の経歴③ 実は文化系の少年で優等生
- 高田純次の若い頃の経歴④ 東京デザイナー学院に進学
- 高田純次の若い頃の経歴⑤ 就活に失敗して写真屋でアルバイト生活
- 高田純次の若い頃の経歴⑥ 演劇に目覚めたきっかけは知人だった
- 高田純次の若い頃の経歴⑦ 結婚をきっかけに劇団員を引退
- 高田純次の若い頃の経歴⑧ ベンガルに誘われて劇団員に戻る
- 高田純次の若い頃の経歴⑨ 下積み時代は馬車馬のごとく働いた
- 高田純次の若い頃の経歴⑩ テレビデビューは32歳の時だった
- 高田純次の伝説① 「3億円事件」の犯人と間違えられて取り調べされる
- 高田純次の伝説② 実は初代ブラックデビル
- 高田純次の伝説③ 清川虹子の宝石を食べたこともあった
- 高田純次の病気歴
- 高田純次が結婚した嫁は元劇団員
- 高田純次の家族:子供は娘が2人 【長女と次女・孫情報もあり】
- 高田純次の子供には障害がある?噂のきっかけと真相
- 高田純次の自宅は目黒の豪邸
- 高田純次の現在
- 高田純次のまとめ
高田純次は人気タレント 【身長は175cmと意外と高め】
高田純次(たかだ じゅんじ)
生年月日:1947年1月21日
出身地:東京都調布市
高田純次さんは、日本のコメディアンであり、タレント、俳優、画家としても活動しています。
若い頃は、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」や「どうぶつ奇想天外!」といった人気番組で活躍しました。
CMにも多数出演しており、1988年に出演したグロンサンのCMが、新語・流行語大賞の「流行語部門・大衆賞」を受賞。
近年は「じゅん散歩」や「PS純金」といった番組に出演中です。
じゅん散歩歳末デラックス
— サップ石島@池ハロ両日 (@Shinya1499) December 30, 2019
高田純次さんテレビのままでとても紳士で面白い方でした。
ありがとうございました😊#じゅん散歩 pic.twitter.com/nz9r51ztfR
現在で75歳となる高田純次さんは、身長175cmと同世代と比べるとかなりの長身です。
身長174cmが公称の和田アキ子さんとほぼ同じ身長に見えることから、高田純次さんが身長をサバ読みしていることはなさそうです。
高田純次の若い頃の経歴① 実は複雑な家庭に育っていた
東京都調布市に住む高田家の長男(第1子)として生まれた高田純次さんですが、4歳の時に実母が病死する不幸が待っていました。
そのため、実母との記憶はほとんどないそうで、父親と一緒に入院中の母親を見舞った思い出が残る程度だとか。
その後、父親が再婚。父親と継母の間に腹違いの弟妹が2人誕生するなど、かなり複雑な家庭で育つことになりました。
高田純次の若い頃の経歴② 周囲に気を遣う幼少期だった
継母は意地の悪い人ではなかったため、高田純次さんは虐待などは受けなかったものの、同居していた父方の祖母と継母の仲が悪く、喧嘩の絶えない日々だったそう。
そんな中、父親が継母の味方ばかりしていたことから、子供の身ながら祖母の味方役が必要だと直感した高田純次さんは、祖母に寄り添い続けたといいます。
また、継母に気を遣わせないように、一家で外出する際は1人で自宅に残るようにしていたそうです。
父や継母、きょうだいたちが外に出かけた時も、高田はひとり自宅に残って祖母と時間を過ごしていたという。
「高田さんと継母の仲は悪くない。ただ、気を使わせたら悪いからと、ある程度距離を置いていたんです。父親と継母との間には2人のお子さんもいましたからね」(前出・高田の知人)
高田純次の若い頃の経歴③ 実は文化系の少年で優等生
気遣いの日々が続いた少年時代の高田純次さんですが、親戚のおじさんから教えてもらった絵の世界が憩いの時間だったそう。
そのため、小中学校時代は映画雑誌に女優の絵を描いて応募していました。ただ、佳作ばかりで入選できなかったことから、自分には才能がないと芸術の世界に進むことを断念しました。
優等生だったが高校受験に失敗
おちゃらけたイメージの強い高田純次さんですが、東京ガスの社員だった父親から一流企業に就職するようにハッパをかけられていたため、少年時代は優等生でした。
高校受験では、当時都内で2番目に偏差値の高かった国立高校への進学を目指しますが、不合格になり、府中高校に入学しました。
高校時代の高田純次さんは、受験失敗を引きずることはなく、落語研究会や野球同好会、天文同好会などを掛け持ちして、青春を謳歌。
また、店主の娘である美人姉妹を目当てに、立川市内にあるオモチャ屋で短期アルバイトをしたこともあったそうです。
高田純次の若い頃の経歴④ 東京デザイナー学院に進学
親の期待に応えるべく、一流企業への就職を目指していた高田純次さんでしたが、大学受験では明治大学や中央大学といった難関私大は全滅してしまい、浪人生活を送ることになりました。
ただし、浪人中は勉強漬けだったわけではなく、深夜レストランでのウエイターなどアルバイトもしていたようです。
浪人生の頃は、ホテルニュージャパンの近くにあった「シャンゼリゼ」という深夜レストランでウエーターをしていました。その店のお客さんだったのが「ザ・スパイダース」。
「うわー、マチャアキだ!」ってなりましたよ。すごくカッコよかった。他にも、ニュージャパンのお客とか“ラテンクォーター”っていう有名なキャバレー関係の怪しいお姉ちゃんがお客さんだったりして、ここのウエイター時代はとても楽しかったね。
また、一浪中に受験の方針を変え、東京芸術大学や武蔵野美術大学といった芸術系の大学へ進路を変更しましたが、この時も受験したすべての大学が不合格でした。
2浪はできなかった事情もあり、高田純次さんは最終的に、東京デザイナー学院に進学。
ちなみに、大学受験の失敗のトラウマは現在まで引きずっているそうで、存在しなかった大学生活の夢まで見てしまう状況だとか。
大学受験の失敗は人生の転機で、トラウマになっています。だって、今でも夢に見るんですよ。それが受験で落ちてしまった場面ではなく、合格してキャンパスで女の子とはしゃいでいる場面をしょっちゅう見ます。キャンパスの木陰のベンチでキャーキャー言われちゃうというシチュエーション。やったことないんだけどね、そういうキャンパスライフがまさに夢だったから。
高田純次の若い頃の経歴⑤ 就活に失敗して写真屋でアルバイト生活
東京デザイナー学院時代の高田純次さんは、週に1~2度、芝浦にある港で港湾労働のアルバイトをし、遊興費を稼いでいたそうです。
また、東京デザイナー学院では、卒業後に大学に編入する学生も珍しくなかったそうですが、そこまでのモチベーションは持ち合わせていなかった高田純次さんは、就活を選択しています。
高田純次さんが就活した1960年代後半は、「いざなぎ景気」と呼ばれる高度成長時代の末期だったため、一般的な学生の就職事情は悪くはなかったようです。
しかし、第1希望だったデザインやグラフィック関係の会社への就職に失敗してしまい、学校卒業後は、写真会社で教習所の顔写真を撮るアルバイトなどをして生計を立てていました。
高田純次の若い頃の経歴⑥ 演劇に目覚めたきっかけは知人だった
専門学校を卒業後、フリーターのような生活を送っていた高田純次さんでしたが、転機となったのが、劇団員だった知人からのポスター制作依頼でした。
高田純次さんはその仕事をきっかけに、知人と一緒に劇団「自由劇場」の舞台を観劇することになります。
当時に上演されていたのがシェイクスピアの「マクベス」だったそうで、それまで舞台演劇に興味のなかった高田純次さんは、「こんな芝居があるのか、すげえな」と感動を覚えたそう。
「見たのは初めてだったけど、すごく感動したよ。すぐ目の前で俳優たちが熱演していて、汗もつばも客席に飛んでくる。人がこんなに懸命になれる世界があるのか、と圧倒されたんです。俺もこの熱気と震えるような感動を巻き起こしてみたいと思ったのを憶えているよ」
その後、「自由劇場」が養成所を作り、研究生を募集し始めたことから、高田純次さんは「自由劇場」に入団することになりました。
高田純次の若い頃の経歴⑦ 結婚をきっかけに劇団員を引退
1971年に「自由劇場」に入団した高田純次さんですが、劇団の体質が肌に合わなかったのか、わずか1年足らずで退団してしまいます。
退団後は「自由劇場」の同僚だったイッセー尾形さんらと共に、劇団「うでくらべ」を結成しますが、こちらも半年程度で解散。
1973年に結婚したこともあり、家族を養うために劇団員を引退し、宝石会社に就職して宝石デザイナーをしていた時期もあったようです。
高田純次の若い頃の経歴⑧ ベンガルに誘われて劇団員に戻る
宝石会社時代の高田純次さんは、今のイメージとは違って、意外にも仕事ができるタイプの社員だったらしく、取引先の評判も良好だったようです。
そのため、入社2年目でデザイン室の主任に昇進。1976年には長女も誕生するなど、公私ともに順調でした。
そんな順調なサラリーマン人生だったこともあり、1976年に「自由劇場」の同僚だった柄本明さんやベンガルさんから、「劇団を立ち上げたので参加しないか?」と誘われても断ったそう。
ちなみに、柄本明さんらが立ち上げた劇団は、後に江口のりこさんや田口浩正さんを輩出する名門「東京乾電池」でした。
ただし、初回公演は大コケだったため、義理で舞台を見に来ていた高田純次さんは、「合流しなくて良かった!」と胸をなでおろしたんだとか。
劇団員に復帰した理由とは?
サラリーマンとして順調に出世していた高田純次さんに転機が訪れたのは、1977年のことでした。
会社の女子社員と一緒に居酒屋に飲みに行ったところ、柄本明さんやベンガルさんと偶然再会し、一緒に飲むことになります。
その際に、演劇論を交わすキラキラした2人の姿を見て羨望の感情を抱いた高田純次さんは、家族を養うために劇団員を辞めたことを後悔するようになったそうです。
そのため、ベンガルさんから後日、劇団加入の再オファーが届いた際は、妻の反対を押し切って会社を退職することになりました。
高田純次の若い頃の経歴⑨ 下積み時代は馬車馬のごとく働いた
会社を辞めて劇団員に戻ると決めた高田純次さんですが、妻子のいる身の上だったため、当然のことながら妻には泣きつかれたそうです。
「女房には泣きながら罵声を浴びせられたよ。『これからどうするの!』って。公演と稽古の合間に働くからって説得はしたんだけどね。他人から見ればあっちへ行ったり、こっちへ行ったりフラフラしていたと思う。でも人はいつもベストの道を選択できているわけではない。だから心に陰りや疑問が生じたりする。軌道修正するとき、自分が納得いくものかどうかが肝心。オレの場合はその道の才能がある、ないではなくて、自分の心が燃えるものをやれば納得できると思ったんだよ」
そのため、「何があっても家族は食わすから」と妻に約束し、東京乾電池に合流します。
そんな家庭事情もあったため、下積み時代の高田純次さんは夕方に舞台稽古を終えた後は、工事現場で朝まで働く日々が続きました。
この時代の高田純次さんは、「家族を食わすためなら犯罪以外の仕事は何でもした」らしく、4トントラックの運転手として働いていた時期もありました。
ちなみに、工事現場で生き埋めになりかけた経験までしています。
大山にあった飯場に行って、そこから車でいろんな道路工事の現場に連れて行かれるんだけど、代官山の道路工事現場で生き埋めになったんですよ(笑)。2m50cmくらい掘っていた時、穴を掘った際にできた土の山が崩れてきたんです。まずはドーンって上から、それから左右からも土が押し寄せてきて、いきなり真っ暗ですよ。最初は何が起こったのか全然分からなくて。自力で必死に這い出しましたけど、奥の方ではまだ社員が埋まっていて、「助けてくれー」って言ってるんですよ。僕も這い上がって、すぐに助けに行きました。
高田純次の若い頃の経歴⑩ テレビデビューは32歳の時だった
会社員生活を経て劇団員に復帰した高田純次さんですが、テレビデビューは1979年に出演した「笑点」でした。
その後、バラエティ番組からオファーが続いた高田純次さんは、1980年に始まった「笑ってる場合ですよ!」では、「日刊乾電池ニュース」のコーナーレギュラーに抜擢されています。
「笑ってる場合ですよ!」自体は短期打ち切り番組でしたが、「日刊乾電池ニュース」は好評だったため、高田純次さんは後続番組の「笑っていいとも!」にも起用されることになりました。
劇団員だった高田純次さんがバラエティ中心になった背景については、東京乾電池が芸能マネジメント業にも進出した時期だったため、経営のための日銭が必要だったからと言われています。
高田純次の伝説① 「3億円事件」の犯人と間違えられて取り調べされる
高田純次さんは高校時代に「3億円事件」の参考人として取り調べを受けたことでも有名です。
3億円事件は、1968年12月に東京都府中市で起こった偽白バイによる強盗事件で、実行犯が若者風の男だったため、事件現場近くに住む高校生が片っ端から警察の取り調べを受けたそう。
特に、当時府中高校に通っていた高田純次さんの場合、バイクに乗っていたことが災いし、警察にマークされてしまったそうですね。
高田純次の伝説② 実は初代ブラックデビル
高田純次さんは実は、「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマン」のコーナーで人気を博した敵キャラ・初代ブラックデビルなんです。
そのため、本来なら高田純次さんの代表作の1つになる役どころでしたが、おたふく風邪を患ったせいで、わずか2回で降板する羽目に。
後任の明石家さんまさんがブラックデビルで一躍人気芸人に上り詰めたことを踏まえると、高田純次さんは何とも惜しいチャンスを逃したと言えますね。
代役一覧
— Ken_GO (@yazaki_ken) March 19, 2019
『高校教師』観月ありさ→桜井幸子
『世界の中心で、愛をさけぶ』石原さとみ→綾瀬はるか
『3年B組金八先生』岸田敏志→武田鉄矢
『東京ラブストーリー』緒形直人→織田裕二
『オレたちひょうきん族のブラックデビル』高田純次→明石家さんま
「運も実力のうち」の理由がよく分かる。 https://t.co/JPI2cCXGpw
高田純次の伝説③ 清川虹子の宝石を食べたこともあった
高田純次さんは、「天才たけしの元気が出るテレビ!!」にレギュラ-出演している頃に、女優の清川虹子さんの宝石を口に入れるパフォーマンスを披露したこともありました。
宝石は、時価3000万円相当のダイヤモンドだったため、清川虹子さんは本気で怒って高田純次さんの口を叩きます。
しかし、当の高田純次さんはどこ吹く風で、宝石にガムまでつけるオマケ付き。
この時の高田純次さんのパフォーマンスは、放送日から何十年も経った現在でもネット上で語り継がれています。
金メダルを噛んだどっかのタワケ市長が話題ですが。高田純次さんが清川虹子さんの指輪を食べてガムつけたのは笑えたもんなぁ・・・。その前の虫眼鏡で清川さんの唇をドアップにするという前振りも100点。 pic.twitter.com/91quQaqbmD
— 咲来さん@ (@sakkurusan) August 4, 2021
高田純次の病気歴
2022年現在で75歳となる高田純次さんだけに、これまでの病歴なども気になりますよね。
高田純次さんは長らくヘルニアに悩み、これまでに何回も手術を受けている状況です。
・2015年1月:椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症の手術
・2017年1月:鼠径部ヘルニアと脱調の手術
また、テレビ番組に出演する際にあまりにハイテンションなせいで、一部の視聴者から躁うつ病を疑われているようですが、精神面はいたって健康だとか。
高田純次が結婚した嫁は元劇団員
高田純次さんは1973年、2歳年下の勢子さんと結婚しています。
勢子さんは「自由劇場」に所属していた劇団員だったそうで、いわゆる職場結婚でした。
売れない劇団員のまま家庭に入ってしまったため、勢子さんの詳しい経歴については不明ですが、日本舞踊の師範の免許を持っているそうで、お嬢様育ちだった可能性もあります。
ちなみに、高田純次さんはテレビタレントとしてブレイクした直後は、家族と一緒にCMに出る機会も多かったため、若い頃の勢子さんの顔などは判明しています。
元劇団員だけあり、女優顔負けの美人ですよね。
高田純次の家族:子供は娘が2人 【長女と次女・孫情報もあり】
長女はブランドを立ち上げている
高田純次さんの長女・裕子さんは、前述のように1976年に生まれており、幼少期には一家4人でテレビCMにも出演したこともあります。
文化服飾学院を卒業し、英国留学した裕子さんは、ロンドンの「kei kagami Ltd」でデザイナーアシスタントとして働き、ミラノコレクションやロンドンコレクションにも参加したそう。
日本に帰国後は、「TAGE」というブランドを立ち上げ、デザイナー兼経営者として奮闘しているそうです。
次女は銅版画作家
高田純次さんには、次女もいます。
次女は、2022年現在で42~43歳となっており、既婚者で子供もいるようです。
元々は美容関係の仕事に従事していたそうですが、近年は子育ての傍ら銅版画作家として活動していると言われています。
孫と同居していた
2022年現在で75歳となる高田純次さんだけに、老後の暮らしぶりなども気になる話です。
現在は次女夫婦が同居してくれているため、独居生活ではないとか。
孫もおり、2018年頃に小学生だったという話なため、今頃は中高生くらいに成長しているのかもしれませんね。
高田純次の子供には障害がある?噂のきっかけと真相
高田純次さんの長女・高田裕子さんには、検索関連ワードに「障害」といった不穏なワードが存在していた時期もありました。
しかし噂のきっかけは、同姓同名の漫画家・高田祐子さんが『恋は突然に/ささやかな過ち』という障害馬術を題材にした作品を発表したことによる誤情報です。
さらに、同姓同名の理学療法士が、障害に対する活動報告記事をHPに掲載したこともあり、そちらの影響もあったのかもしれませんね。
高田純次の自宅は目黒の豪邸
ブレイク以降、40年以上売れっ子芸能人である高田純次さんだけに、自宅の方も東京都目黒区にある結構な豪邸となっています。
目黒区の坪単価は、近年は300万円弱なため、土地代だけでも億単位の資産価値があることは確実でしょう。
実は車道楽だった
高田純次さんは車道楽としても知られており、これまでに30台以上もの車を乗り継いでいるそうです。
・スカイラインGTR
・スカイライン2000GT
・アウディ
・ベンツ
・ポルシェ
・BMW
・オースチンヒーレー
・アストンマーチン
・ベントレー
ただ、運転の方は必ずしも上手いわけではないようで、2019年には交通事故を起こし、もみ消そうと相手に金銭をちらつかせたことで世間を騒がしています。
当時、72歳だった高田が愛車のポルシェで高速道路の合流点で本線に入ったところ、相手の車と接触。この時、高田は事故を揉み消そうと、被害男性に『いま20万円持ってます。それでナッシングという言い方おかしいけど、ダメでしょうか』『今のこの流れの中で、目一杯出して100万円ですよ。誰にも知られないで』と、警察沙汰にしないよう示談を持ちかけていたことが『週刊文春』(文藝春秋)に音声付きで報じられました。
好感度の高いタレントの高田純次さんですが、この時ばかりは、ネット上でも批判的な意見が目立っていました。
17名無しさん@恐縮です2019/05/15(水) 18:26:02.44ID:/VF23CJY0
つか、交通事故で人気が落ちるキャラでもないだろうし
警察呼んで保険屋に丸投げしときゃええ話だったろうに
41名無しさん@恐縮です2019/05/15(水) 18:32:38.86ID:rxIGW5BQ0
基本的に良いイメージしかない純次がこれはヤバい
渋るような事じゃないはずなのにどうしちゃったんだ
ボケたか
ただし、被害者と示談が成立したため書類送検はされず、仕事に影響が出ることはなく、2021年には車リースサービス「カルモくん」のCMに出演しています。
ちなみに、高田純次さんにとって事故のショックは大きかったようで、事故後は自慢の高級外車たちもほとんど売却し、近隣には自転車で移動するようになっているといいます。
そのため、高田純次さんが車を運転する機会は、仕事の都合でどうしても自分が運転しないとならない時くらいのようです。
高田純次の現在
高田純次さんは2022年3月に、『50歳を過ぎたら高田純次のように生きよう』を出版しています。
この本は、担当編集者が高田純次さんと東京タワーのトイレで偶然一緒になった際、誰も見ていないにも関わらず、高田純次さんに順番を譲ってもらえて感激したことがきっかけで企画。
情けは人の為ならずを体現したような経緯で出版された『50歳を過ぎたら高田純次のように生きよう』ですが、ネット上では読者の好意的なレビューが多く見られます。
50代なこともあって、「50歳を過ぎたら高田純次のように生きよう」という本を読んでみた。概ねいつもの調子の発言ではあるんだけど、印象に残ったし共感したのは、これ。楽しいことって年取るに連れて若い頃みたくそう頻繁にはなくなるし、むしろ少なくなっていくのは日々感じることではある。 pic.twitter.com/cvtoppvyko
— Hirunekingyo (@Hirunekingyo) May 10, 2022
高田純次著 50歳を過ぎたら高田純次のように生きよう 東京タワーの展望台でトイレの順番ゆずったら本が出せました 読了。。。
— 柴犬太 (@shibainuta) June 15, 2022
相変わらずの金言の嵐と参考図書や人生観など決して表に出さない教養の高さが垣間見える。
読み終えたら体が軽くなったように思わされた一冊。 pic.twitter.com/SaRCmrHns4
高田純次のまとめ
高田純次さんは、幼い頃は複雑な家庭に育ち、継母に気を遣いながら過ごした少年時代とは裏腹に、現在ではテキトー男キャラとして好感度が高いタレントです。
家族を養うためにいったんは会社員に転身しますが、反対する妻を説得して劇団員に復活した後は、劇団の都合もありテレビで活躍。
今では冠番組も持つなど、芸能界での地位を確立されています。適当過ぎても愛されるのは、どんな状況でもポジティブな言動が支持されているからでしょう。
高田純次さんの今後より一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させていただきます。