ロッテのエースとして長年活躍した村田兆治さんが、2022年に自宅火災で亡くなられました。
この記事では村田兆治さんの現役時代の成績と年俸推移、若い頃の画像や経歴、引退理由と引退後記録した衝撃の球速、結婚や嫁、娘と息子ら子供や自宅、羽田空港での逮捕の詳細、死去した現在までについてまとめました。
この記事の目次
- 村田兆治のプロフィール
- 村田兆治の現役時代の成績と年俸推移
- 村田兆治の若い頃の画像や経歴① 福山電波工業高校でエースとして活躍
- 村田兆治の若い頃の画像や経歴② ドラフト1位で東京オリオンズに入団
- 村田兆治の若い頃の画像や経歴③ 小山正明に諭されローテーションの一角に
- 村田兆治の若い頃の画像や経歴④ マサカリ投法でローテーション投手に
- 村田兆治の若い頃の画像や経歴⑤ フォーク習得でリーグを代表するエースに
- 村田兆治の球速は63歳の時にも135km/hを記録
- 村田兆治の引退理由は自分の理想とする投球ができなくなった事
- 村田兆治の結婚した嫁は2歳上の淑子さん
- 村田兆治の子供は息子と娘が1人ずつ
- 村田兆治の自宅は世田谷区成城の高級住宅街に建つ豪邸
- 村田兆治が逮捕された暴行事件の内容
- 村田兆治の現在① 嫁の淑子さんと離れ自宅で一人暮らし
- 村田兆治の現在② 事件後、活動を自粛
- 村田兆治の現在③ 自宅火災により死去
- まとめ
村田兆治のプロフィール
村田兆治のプロフィール
本名 :村田長治
生年月日:1949年11月27日
出身地 :広島県豊田郡本郷町(現在の三原市)
身長 :181cm
血液型 :AB型
村田兆治(むらた・ちょうじ)さんは、「ロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)」で長年エースピッチャーとして活躍した元プロ野球選手で、左足を高くあげるダイナミックな投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれ、「マサカリ兆治」の愛称でファンから愛されました。
村田兆治さんは、現役時代通算215勝を挙げたプロ野球史に残るレジェンド選手で、2桁勝利を通算で10度も記録、最多勝1回、最優秀防御率3回、最多奪三振4回、最多セーブ1回と現役時代を通じて多数のタイトルに輝きました。
40歳で現役を引退後はプロ野球解説者や評論家として活躍し、1995年から1997年にかけては福岡ダイエーホークス(現在のソフトバンクホークス)の一軍投手コーチを務めました。
2005年には野球殿堂入りし、同年3月には鈴木孝政さん、福本豊さん、北別府学さんといった元プロ野球のレジェンド級選手らと「対馬まさかりドリームス」を設立して投手兼任監督に就任。
2001年から2009年まで開催されたプロ野球OB選手によるリーグ「プロ野球マスターズリーグ」にも、東京ドリームスのエース投手として参加し50代半ば(当時)であるにも関わらず球速130km/h後半の速球を連発してファンの度肝を抜きました。
その後も、プロ野球の始球式などに度々登場して、俄には信じがたいような球速(120km/h〜135km/h)の投球を披露し、その度にスポーツニュースなどで大きく報じられ話題になりました。
そんな生ける伝説となっていた元プロ野球選手の村田兆治さんですが、2022年9月23日に羽田空港の保安検査場で女性検査員の方を突き飛ばした暴行容疑で現行犯逮捕されています。さらに同年11月11日には自宅火災により亡くなられたことが報じられ、往年のプロ野球ファンや関係者の間に衝撃が走りました。
ここではそんな村田兆治さんについて改めて紹介していきます。
村田兆治の現役時代の成績と年俸推移
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村田兆治さんの現役時代の成績と年俸推移を表にしてまとめました。なお、年俸については1980年より前は推定年俸の公表が行われていないため不明です。
年度 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 防御率 | 推定年俸 |
1968 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | – | 5 | 3.86 | – |
1969 | 37 | 5 | 5 | 6 | 8 | – | 90 | 3.57 | – |
1970 | 21 | 2 | 0 | 5 | 6 | – | 48 | 4.78 | – |
1971 | 43 | 8 | 1 | 12 | 8 | – | 122 | 3.33 | – |
1972 | 16 | 0 | 0 | 3 | 3 | – | 30 | 6.46 | – |
1973 | 40 | 6 | 1 | 8 | 11 | – | 104 | 3.21 | – |
1974 | 32 | 8 | 1 | 12 | 10 | 1 | 108 | 2.69 | – |
1975 | 39 | 11 | 2 | 9 | 12 | 13 | 120 | 2.21 | – |
1976 | 46 | 18 | 5 | 21 | 11 | 4 | 202 | 1.82 | – |
1977 | 47 | 15 | 2 | 17 | 14 | 6 | 180 | 2.68 | – |
1978 | 37 | 17 | 3 | 14 | 13 | 3 | 174 | 2.91 | – |
1979 | 37 | 21 | 3 | 17 | 12 | 2 | 230 | 2.96 | – |
1980 | 27 | 11 | 1 | 9 | 9 | 2 | 135 | 3.89 | 2520万円 |
1981 | 32 | 16 | 2 | 19 | 8 | 0 | 154 | 2.97 | 2300万円 |
1982 | 6 | 3 | 2 | 4 | 1 | 0 | 27 | 2.90 | 3500万円 |
1983 | – | – | – | – | – | – | – | – | 2500万円 |
1984 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 6.00 | 2700万円 |
1985 | 24 | 10 | 0 | 17 | 5 | 0 | 93 | 4.30 | 2350万円 |
1986 | 23 | 5 | 0 | 8 | 11 | 0 | 106 | 3.94 | 4300万円 |
1987 | 21 | 3 | 2 | 7 | 9 | 0 | 74 | 4.34 | 4300万円 |
1988 | 20 | 5 | 1 | 10 | 7 | 0 | 120 | 3.89 | 4400万円 |
1989 | 22 | 16 | 3 | 7 | 9 | 0 | 135 | 2.50 | 5500万円 |
1990 | 26 | 4 | 2 | 10 | 8 | 2 | 103 | 4.51 | 7400万円 |
通算 | 604 | 184 | 36 | 215 | 177 | 33 | 2363 | 3.24 | – |
村田兆治さんはプロ入り2年目の1969年に6勝5完封の成績を残し、1971年に12勝を挙げています。その後、しばらく成績が伸びない時期が続きましたが、1974年には12勝してチームのリーグ優勝に貢献しています。
1975年と1976年シーズンは抑え兼任となり、2年連続の最優秀防御率を獲得し、1975年には最多セーブのタイトル獲得(13セーブ)、1976年は21勝11敗4セーブ、202奪三振、防御率1.82という素晴らしい成績を残し、最多奪三振と最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
その後もエースとして安定した成績を残し、1977年と1979年に最多奪三振、1981年には4度目の最多奪三振と19勝を挙げての最多勝のタイトルをそれぞれ獲得しています。
しかし、1982年に右肘を故障し、1983年にアメリカへ渡って腱移植手術(トミー・ジョン手術)を受けました。
復帰明けの1984年は5試合の登板にとどまりましたが、翌1985年に17勝5敗の成績で完全復活を果たしました。この年は日曜日に登板して開幕12連勝し「サンデー兆治」の異名を取り、オフにはカムバック賞にも選ばれています。
1989年には自身3度目となる最優秀防御率を獲得し、40歳で迎えた翌1990年シーズンは10勝をマークし、このシーズンを最後に引退されています。ちなみに1990年シーズンの村田兆治さんは投手コーチを兼任しており、推定年俸7400万円はコーチとしての年俸も合わせ金額です。
村田兆治さんは引退5年後の1995年から3年間、福岡ダイエーホークスの一軍投手コーチを務められています。この3年間の年俸額は4500万円でした。
村田兆治の若い頃の画像や経歴① 福山電波工業高校でエースとして活躍
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村田兆治さんの若い頃からの画像や経歴も紹介していきます。
村田兆治さんは、小学5年生の時に父親に連れられて広島市民球場でプロ野球の試合を観戦したのをきっかけにプロ野球選手を目指すようになりました。
福山電波工業高校(現在の近畿大学附属広島高等学校福山校)では野球部に所属し、当時はスピードガンはなかったものの、もしあればストレートの球速は152km/h〜153km/hを計測していただろうと言われるほどの豪速球で活躍しプロのスカウトからも注目されました。
高校時代の村田兆治さんは2年生の秋からエース投手となりますが、当時の広島県は強豪校がひしめいており、1966年秋の中国大会県予選では準々決勝で強豪広陵高校に敗れ、1967年夏の県予選では3回戦で呉港高校に敗れて甲子園出場の夢は叶いませんでした。
村田兆治の若い頃の画像や経歴② ドラフト1位で東京オリオンズに入団
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甲子園出場は叶わなかったものの、豪球を持つ全国屈指の投手として高い評価を得ていた村田兆治さんは、1967年のドラフト会議で東京オリオンズに1位指名を受けてプロ野球選手になるという夢を叶えています。
実は、村田兆治さんは子供時代からファンだった広島カープのスカウトからも1位指名するという話を受けていましたが、当時のドラフトは先に各球団がクジを引き、その順番で選手を指名していく方式だったため、早い番号を引いた東京オリオンズがカープより先に指名したため、村田兆治さんは東京オリオンズに入団する事になりました。
当初、村田兆治さんはファンである広島カープに入団できると喜んでいたため、東京オリオンズに指名された際は残念な気持ちもあったのだそうです。
村田兆治の若い頃の画像や経歴③ 小山正明に諭されローテーションの一角に
村田兆治さんは入団1年目は、ドラフト1位の契約金を使ってパチンコや麻雀などの遊びに明け暮れて、あまり真面目に練習をしていなかったそうです。当然成績も振るわずに3試合の登板で0勝に終わりました。
しかしそんなある日、徹夜麻雀を終えて寮に早朝帰宅した若い頃の村田兆治さんは、ちょうど、朝のロードワークに出ようとしている、当時のチームのベテランで大エースだった小山正明さんと鉢合わせました。
これを見た村田兆治さんは、圧倒的な実績を残してきた小山正明さんが、厳しい練習を自分に課しているのを目の当たりにして、自分の姿勢を恥ずかしく思いその時は逃げるようにして自分の部屋へ戻ったそうです。
その後の練習で、村田兆治さんは小山正明さんに謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのは寂しくないか?」と親身に諭されました。村田兆治さんはこの出来事以来人が変わったように練習に打ち込むようになり、2年目には6勝中5完封をあげる活躍を見せました。ちなみに、2年目にチーム名がロッテオリオンズに変わっています。
5勝を挙げた3年目の1970年シーズンにはチームのリーグ優勝も経験しています。
村田兆治の若い頃の画像や経歴④ マサカリ投法でローテーション投手に
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村田兆治さんは、翌1971年には、国鉄スワローズ(現在のヤクルト)や読売ジャイアンツで活躍し通算400勝を挙げた日本球界の大エース金田正一さんのアドバイスを受けて、後に自身の代名詞よなる「マサカリ投法」を編み出しました。
この年、村田兆治さんは自身初の二桁勝利となる12勝を挙げて先発ローテーションの一角を勝ち取っています。
続く1972年と1973年シーズンは振るいませんでしたが、1974年には12勝を挙げその年のロッテ優勝に大きく貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは抑えと先発として4試合に登板し、第1戦ではサヨナラ2塁打を打たれて救援に失敗したものの、第2戦と第4戦では抑えに成功しています。
最終戦となった第6戦では先発し、中日の星野仙一さんらとの投手戦を制して完投勝利を挙げ日本一の胴上げ投手となりました。
村田兆治の若い頃の画像や経歴⑤ フォーク習得でリーグを代表するエースに
村田兆治さんは、1976年に新たにフォークボールを習得しました。
これによって、奪三振数が急増し同年シーズンは21勝、202奪三振、防御率1.82という圧倒的な成績を残し、最優秀防御率と最多奪三振のタイトルに輝いています。
ちなみにこの年の最多勝は阪急ブレーブスのエースだった山田久志さんの26勝でした。その山田久志さんは、村田兆治さんのフォークボールについて「フォークと予告して投げても空振りを取れるボール」と大絶賛されています。
事実、村田兆治さんのマサカリ投法は、投球時に打者から握りが見えるため球種を見破られやすいという欠点がありましたが、それでも村田兆治さんは通算4度の最多奪三振のタイトルに輝きました。
この年を契機に、村田兆治さんはロッテオリオンズのエースと目されるようになり、この年から1979年まで4年連続二桁勝利を挙げ、特に1979年シーズンは自己最多となる21完投で17勝を挙げる大車輪の活躍を見せました。また、自己最多となる230奪三振もこの年に記録し3度目の奪三振王に輝きました。(2度目は1977年の180個)
1981年には開幕11連勝を飾るなどして19勝を挙げて最多勝のタイトルを初獲得し、近鉄バッファローズの鈴木啓示さん、阪急の山田久志さん、西武ライオンズの東尾修さんらと並び立つパリーグを代表するエース投手の地位を確かなものとしています。
下の動画は、村田兆治さんが最多勝を飾った1981年開催の日米野球での登板時です。ストンと美しく落ちるフォークボールを決め球に三振を奪うシーンもあります。
村田兆治の球速は63歳の時にも135km/hを記録
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村田兆治さんは圧倒的な球速のストレートと、大きく美しい軌道を描いて真下に落ちるフォークボールを武器に活躍しました。
村田兆治さんのストレートの球速は、スピードガンが導入された後の現役時代はストレートの球速はおおよそ145km/h〜147km/hほどが計測されていました。
ただ、スピードガンが導入された頃は村田兆治さんは既にフォークボールを習得された後で、ストレートの球速のみに頼るような投球ではなかったため、全力投球をした場合は球速は150km/h以上優に出ていたと思われます。
村田兆治さんの球速について度々話題を呼んだのは、むしろ引退後の始球式での投球でした。
村田兆治さんは、千葉マリンスタジアムで何度も始球式に登場していますが、その度に130km/h以上のスピードボールを投じてスポーツ紙やスポーツニュースなどで大きく報じられています。
ざっと上げるだけでも、56歳だった2007年5月26日の始球式では球速「135km/h」、63歳だった2013年8月30日の始球式では球速は同じく「135km/h」、66歳だった2016年3月30日には球速は「131km/h」が計測されています。
また、68歳だった2018年8月21日の始球式では、スパイクではなく運動靴で投球して球速「112km/h」が計測されました。そして、この時の投球の握りをよく見るとボールを指で挟んでおり、フォークボールを投じている事がわかります(下の動画の「1:55」頃から)。68歳という年齢で球速112km/hのフォークボールを投げられる方はおそらく世界中を探しても村田兆治さんだけではないでしょうか。
村田兆治さんが圧倒的な球速を計測した始球式をまとめた動画がパ・リーグTVの公式チャンネルで公開されています。
村田兆治の引退理由は自分の理想とする投球ができなくなった事
村田兆治さんは40歳で迎えた1990年のシーズンを最後に現役を引退されています。
村田兆治さんはこの引退年のシーズンに4完投2完封を含む10勝を挙げています。また、引退前年の1989年シーンズンは防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得されています。
ファンや関係者の多くは村田兆治さんはまだまだ現役で活躍できると確信していました。しかし村田兆治さんは自ら引退を決めてキッパリと現役から退かれています。
村田兆治さんは引退を決めた理由について、「自分らしい投球ができない」、「このまま続ければファンを裏切る成績しか残せないと思ったのでケジメをつけた」と話されています。
村田兆治さんは、元々先発完投に強くこだわっており、それこそが自分に与えられた仕事だと自負しそれに応える事がモチベーションにつながっていたそうです。しかし、そうした自分の理想の投球が出来なくなってきたとこの40歳のシーズンで村田兆治さんは感じ、それが引退を決める大きな理由となったと話されています。
それでは私の考える“村田兆治”ではないんです。自分が頑張ってこられたのは、先発完投にこだわり、与えられた仕事を最後までやり通すことが、自分のプロとしての意地、モチベーションにつながっていたから。自分の限界は自分が一番よくわかる。もう自分らしい投球ができない、このままいけばファンを裏切る成績しか残せないと思ったので、“けじめ”をつけたんです
村田兆治の結婚した嫁は2歳上の淑子さん
村田兆治さんは1973年12月に2歳年上の一般女性の淑子(よしこ)さん(旧姓は親堂)と結婚されています。
村田兆治さんの嫁の淑子さんは一般女性とは言っても社長令嬢で短大の英文科卒業で、その後も語学学校に通い英語が堪能でした。卒業後はキャセイパシフィック航空にグラウンドスタッフとして勤め、この頃に村田兆治さんと出会い結婚されています。
村田兆治さんが右肘を故障した際、トミー・ジョン手術を受けるためにアメリカへ渡った時には付き添って通訳も務めました。また、村田兆治さんの選手生命の危機であったこの時、嫁の淑子さんは国内の名医と呼ばれる病院を探して駆け回り、村田兆治さんを支え続けました。
村田兆治さんの右肘故障からの奇跡の復活は、この嫁の淑子さんの存在なくしてはあり得なかったという声もあります。
1986年にはテレビ朝日の月曜ワイド劇場では、村田兆治さんの嫁の淑子さんに焦点を当てて村田兆治さんの奇跡の復活を描いたドラマ「サンデー兆治の妻」が放送され話題を呼びました。村田兆治さん役は俳優の名高達郎さん、嫁の淑子さん役は女優の星野知子さんが演じました。
村田兆治の子供は息子と娘が1人ずつ
村田兆治さんの子供は、嫁の淑子さんとの間に息子さんと娘さんが1人ずついます。
村田兆治さんの子供2人については、Twitterで息子さんが電通勤務、娘さんがテレビ情報誌テレビブロスの編集部にいるという投稿が確認できますが真偽はわかりません。
村田兆治さんの息子も電通にいた。娘さんは、テレビブロス編集にいる。
— タクスズキ1億円の投資結果をブログで公開!トライオートFX、ループイフダン、トラリピでFIRE (@guppaon1) February 23, 2017
博報堂は同期66人中コネ入社が25人いた。青田買いが25人。残りは青田買い。コネの人は優秀。人脈あるし。
青田買いとは学校指定制度。東大など。OB訪問で上がってくる。#ヤメ電と脱博者の集い
村田兆治の自宅は世田谷区成城の高級住宅街に建つ豪邸
出典:https://presidenthouse.net/
村田兆治さんの自宅は、東京都世田谷区成城の高級住宅街の旗竿地(細い路地を通った先にある奥まった土地)に建つ豪邸です。週刊文春の記事によると、村田兆治さんの自宅は延べ床面積160平米の豪邸だという事です。
株式会社村田兆治オフィスの登記簿の住所が「東京都世田谷区成城9-16-3」となっていますが、このオフィスが自宅兼用となっています。
村田兆治が逮捕された暴行事件の内容
冒頭でも触れましたが、村田兆治さんは2022年9月23日に羽田空港で職員の女性に暴行を加えたとして警視庁に現行犯逮捕されました。
マサカリ投法で知られるサンデー兆治が逮捕された。羽田空港の保安検査場で女性検査員に暴行を加えたとして、警視庁が23日、暴行の疑いで元ロッテ投手の村田兆治容疑者(72)を現行犯逮捕したことが分かった。
報道によると、村田兆治さんはその日の13時50分頃に羽田空港の第1ターミナルの北ウィング保安検査場(JALのファーストクラスの客やプレミアム会員だけが使える)で検査員(30代女性)の左肩を右手で強く押すなどの暴行をしたという事です。
目撃者によれば、村田兆治さんはこの時10人くらいの警備員に囲まれた状態で、暴れてはいなかったもののかなり激昂した様子で「まだダメなのか!」、「持ってない持ってない!」、「いつも持って入っとる!」などと声を荒げていたのだそうです。
押し問答は30分以上も続き、村田兆治さんは何度も強引に空港の中に入ろうと試みて、警察官に制止されていたのだそうです。
その後出た報道内容によれば、この日、村田兆治さんは携帯電話を持ったままだったために金属探知機に何度も引っかかり、女性検査員に激昂して肩を突き飛ばすようにし、通報を受けた警察官に現行犯逮捕されたという経緯だったようです。
村田兆治さんは逮捕から2日後の9月25日に釈放され報道陣に一礼して謝罪の言葉を述べ、待たせていた車に乗って東京空港署を後にされたという事です。
村田氏は25日午後5時半ごろ、留置先の東京空港署からグレーのジャケットに紺色のネクタイ姿で現れ、報道陣に向かって一礼。「ご心配とご迷惑をおかけした」「深くおわびします」などと言って再度一礼し、待機していた車に乗り込み署を後にした。
その後村田兆治さんは、女性検査員に暴力を振るったというのは「見解の違い」だと語っていたとの事です。
「どいて」の意味で女性検査員に触れたことが大事になってしまい、罪を認めさせようと10人くらいの警備員に詰め寄られたといい、村田兆治さんは「10人で言われたら認めたくなるよ」と当時を振り返っていたようです。
(女性が)前にきたから“どいて”と。まさか、それが暴力になるとは。触れたのは事実は事実だから…
村田兆治の現在① 嫁の淑子さんと離れ自宅で一人暮らし
村田兆治さんは、東京都世田谷区の自宅で一人暮らしをされていたという事です。
以前は嫁の淑子さんとこの自宅で暮らされていましたが、10年以上前に淑子さんが家を出られ、子供2人もすでに独立されています。
淑子さんは実家の家族の介護のために家を出られたようですが、その後自宅に戻ることはなく都内のマンションに暮らし村田兆治さんとの別居生活を続けていたようです。
「お子さんはとうに独立しています。17年間、プロ生活を献身的に支えた奥さんも、10年以上前に家を出たそうです。家族の介護で地元の神戸に帰っていた時期もあったそうですが、現在は、都内の高級マンションで生活していると聞いています。暴行で逮捕されたときの身元引受人は、奥さんではなく村田さんの弟さんでした」
村田兆治の現在② 事件後、活動を自粛
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村田兆治さんは、逮捕された事件の責任を取るため、2022年内の活動を自粛することになりました。務めていたプロ野球の沢村賞の選考委員も辞退されています。
沢村賞の選考委員は5人だが、元ロッテの村田兆治氏(72)が選考委員を辞退することが発表された。
村田氏は9月、羽田空港で保安検査員の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕されていた。
村田兆治さんは子供たちに野球の指導をする活動も行われていましたが、事件後はそちらもできなくなり、すっかり気落ちしてしまっていたようです。
「ライフワークの、子供向けの野球教室ができなくなったことをとても悔いていました。周囲には再起を誓って気丈に振る舞う一方で、まさか犯罪になるとは思っていなかったようで、かなり落ち込んでいた。逮捕後はほとんど引きこもり状態で、家にいるのに、電気すらつけていなかったそうです」
村田兆治の現在③ 自宅火災により死去
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逮捕されたという驚きのニュースで往年のファンや関係者を驚かせた村田兆治さんですが、それから約2か月後の2022年11月11日、自宅の火事により72歳で亡くなられたことが報じられさらに世間に衝撃を与えました。
この日の午前3時過ぎ、村田兆治さんの自宅から火の手が上がり、村田兆治さんは意識不明の重体で搬送されましたが午前6時前に死亡が確認されたとの事です。
火元は2階のリビングで、村田兆治さんは2階の別の部屋で床に座ったままの状態で見つかったといいます。
やけどなどの目立った外傷はなく、死因は一酸化炭素中毒とみられています。
「村田さんは自宅にひとりで、玄関は施錠されていた。出火元は最も激しく燃えていた2階のリビングです。村田さんが見つかったのは、同じフロアにある、衣類などが置かれた小部屋。部屋着姿で床に座っていたといいます。体にやけどなどの目立った外傷はないそうです」(全国紙社会部記者)
焼け跡から火の元になるようなものは見つかっておらず、外部から侵入された形跡も見られない
ことから、火災については不可解な点も多いとされていました。
また、近隣住民の方は、火災が発生する前にバタン、ガタンという金属がぶつかるような衝撃音が30分ほど鳴り響いていたと証言されており、警察が実況見分などを行い出火の原因を調べているとの事でした。
「現状、暖房器具やたばこなど、火の元になるようなものは見つかっていません。一方で、遺書はなく、家族に自殺をほのめかした事実もないようです。『謎の死』を解明するべく、捜査は続いています」(前出・全国紙社会部記者)
日本球界に大きな功績を残した村田兆治さん。その突然の訃報に、ファンや関係者は大きな悲しみに包まれました。
村田兆治さんのゆかりの地である富士通スタジアム川崎(旧川崎球場)や出身地・広島県三原市の市役所などには献花台が設置され、多くのファンが献花に訪れたとの事です。
まとめ
今回は、ロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテ)のエースとして長年活躍した元プロ野球選手の村田兆治さんについてまとめてみました。
村田兆治さんは、プロ生活22年で二桁勝利10回の通算215勝、最多勝1回、最優秀防御率3回、最多奪三振4回、最多セーブ1回という素晴らしい成績を残したレジェンド級の投手です。
若い頃は、威力のある速球と美しい軌道を描くフォークボールを武器にして活躍しました。一時は右肘を故障し選手生命の危機に陥りますが、トミー・ジョン手術を経て奇跡の復活を遂げ、40歳で二桁勝利の活躍をしながら、「自分らしい投球ができない」事を理由としてキッパリと引退しました。
村田兆治さんは引退後、何度もプロ野球の始球式に登場していますが、その度に131km/h〜135km/hという60代だとは信じられないような球速のストレートを投げ込んで観客の度肝を抜いています。
村田兆治さんは1973年に2歳年上の淑子さんと結婚されています。嫁の淑子さんとの間には2人の子供がいて息子さんは電通勤務、娘さんはテレビ雑誌「テレビブロス」の編集部で働いているとの情報がネットに書き込まれています。
村田兆治さんの自宅は東京都世田谷区成城の高級住宅街に建つ豪邸で、晩年はここで1人で暮らされていたとの事です。
そんな村田兆治さんですが、2022年9月23日に羽田空港で女性職員に暴行を働いた容疑で警視庁に逮捕されました。その後釈放されたものの、同年11月11日には自宅の火災により72歳で亡くなられています。村田兆治さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。