現在も高い人気を集める歌手で俳優の美輪明宏さんの若い頃が美少年すぎると話題です。
この記事では美輪明宏さんのハーフ説の真相や、若い頃の生い立ちと歌手や俳優としての経歴、数々の美少年伝説、結婚歴や豪奢な自宅、資産、現在の活躍などについてまとめました。
この記事の目次
- 美輪明宏のプロフィール
- 美輪明宏はハーフではなく日本人
- 美輪明宏の若い頃① 長崎で生まれ育ち原爆投下も経験
- 美輪明宏の若い頃② オペラ歌手を目指し国立音楽高等学校へ進学
- 美輪明宏の若い頃③ シャンソン喫茶で歌い始め文化人からの支持を得る
- 美輪明宏の若い頃④ 「メケ・メケ」が大ヒットしブームに
- 美輪明宏の若い頃⑤ 俳優として数々の作品に主演
- 美輪明宏の美少年伝説① 神武以来の美少年と称される
- 美輪明宏の美少年伝説② 江戸川乱歩もお気に入りだった
- 美輪明宏の美少年伝説③ 三島由紀夫も好意を抱いていた
- 美輪明宏には結婚歴はない
- 美輪明宏の自宅
- 美輪明宏の資産
- 美輪明宏の現在① NHK「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」
- 美輪明宏の現在② どん兵衛のテレビCMに出演し話題に
- まとめ
美輪明宏のプロフィール
美輪明宏のプロフィール
出生名 :丸山臣吾
生年月日:1935年5月15日
出身地 :長崎県長崎市
身長 :161cm
血液型 :A型
美輪明宏(みわ・あきひろ)さんは、1950年代から歌手、俳優として活躍を続けられている方です。若い頃は世紀の美少年と称され、当時のエピソードは現在も伝説的に語られています。
また、この数年では、美輪明宏さんの「ジェンダーを超えた生き方」にも注目が集まっています。
今回はそんな美輪明宏さんの若い頃の経歴や数々の美少年伝説などを中心に紹介していきます。
美輪明宏はハーフではなく日本人
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美輪明宏さんはその目鼻立ちのはっきりした顔立ちから、若い頃からハーフの噂がありました。
しかし、美輪明宏さんの父親の丸山作一さんも、母親のヌメさんも日本人なので、ハーフではありません。
また、両親ともに純粋な日本人なので、美輪明宏さんはクォーターでもありません。
美輪明宏の若い頃① 長崎で生まれ育ち原爆投下も経験
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美輪明宏さんは1935年に長崎県長崎市で生まれています。
10人兄弟で、兄1人を除いて全員が腹違いという、当時においても特殊な家庭でしたが、父親は「世界」という名前のカフェー(キャバレーの前身)や、料亭を経営して成功をおさめており、経済的にかなり裕福だったという事です。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、欧米文化であったカフェーの経営は時世にそぐわないという圧力を受けて廃業せざるを得なくなり、実家は金融業へと転身しています。
そして、1945年8月9日、美輪明宏さんが10歳の時に長崎県に原爆が投下されます。美輪明宏さんはその時夏休み中で、爆心地から約3.9km離れた長崎市本石灰町の自宅にいました。美輪明宏さんは後に、その瞬間について「何千ものマグネシウムを焚いたような白い光を見た」と話されています。
その後、美輪明宏さんはミッション系の中学へ進学しています。中学1年生の時には先輩の男子と初体験をされています。(美輪明宏さんは同性愛者である事を公表している)
また、中学時代にはピアノと声楽のレッスンを受け始めています。
美輪明宏の若い頃② オペラ歌手を目指し国立音楽高等学校へ進学
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1951年春、中学校を卒業した美輪明宏さんは、オペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、上京して国立音楽高等学校(現在の国立音楽大学付属高等学校)へと進学しています。
その後、休みに帰郷した美輪明宏さんは、父親が生活苦に陥った親戚を見捨てる姿を見て激怒し、大喧嘩をした末に絶縁を言い渡され、そのまま実家を飛び出してしまいます。
実家からの仕送りも止まり、美輪明宏さんは1人で生活していくために国立音楽高等学校を中退して働かざるを得なくなりました。
美輪明宏さんは進駐軍のキャンプで歌を披露したり、バーテンやゲイバーで働いたりして生活費を稼ぎましたが食うや食わずの生活で、一時は新宿駅で寝泊まりした時期もあったそうです。
美輪明宏の若い頃③ シャンソン喫茶で歌い始め文化人からの支持を得る
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そんな生活の中で、美輪明宏さんは銀座7丁目にあったシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」のオーディションに合格し、専属のシャンソン歌手として歌い始めました。
美輪明宏さんは国籍、年齢、性別不詳で売り出されると、その妖艶な美貌と歌唱力が話題を呼びました。当時は、三島由紀夫さん、野坂昭如さん、三浦朱門さん、岡本太郎さん、吉行淳之介さん、大江健三郎さん、遠藤周作さん、寺山修司さん、なかにし礼さんなど、当時の著名な文化人からの絶大な支持を集めました。
ただ、この頃に実家の商売が傾き、縁を切られたはずの父親が美輪明宏さんの元に金の無心に訪れます。美輪明宏さんは兄弟らの生活を守るために、「銀巴里」での歌手活動とは別にキャバレーや米軍キャンプを回って歌い、その稼ぎで家族の面倒を見ていました。
美輪明宏の若い頃④ 「メケ・メケ」が大ヒットしブームに
そして1957年9月10日、22歳の時に美輪明宏さんは、フランスのシャンソン「メケ・メケ」を和訳詞でカバーして発表。これが大ヒットを記録し、そのセルフプロデュースによる妖艶な風貌と当時は斬新であったユニセックスなファッションセンスは話題を呼び絶大な人気を獲得しました。
当時のマスコミも美輪明宏さんを「絶世の美少年」、「シスターボーイ」と絶賛し、一躍時の人となりました。
「メケ・メケ」が大ヒットする中、美輪明宏さんは週刊誌インタビューで自身が同性愛者である事を公表します。当時は同性愛者に対する理解が全くない時代だったため、猛烈な誹謗中傷を受けて人気は急落してしまいます。
また、美輪明宏さんが自ら和訳したシャンソンの歌詞が、当時の価値観の中では過激と受け取られるような内容だったため、これも反発を呼びました。
そうした逆風の中でも美輪明宏さんは信念を曲げずに歌手活動を続け、自ら作詞作曲も開始し、「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」など、現在も美輪明宏さんの代表曲となっている多くの名曲を生み出しています。
そして、1966年、自身の楽曲である「ヨイトマケの唄」が話題を呼び、再び人気を集めるようになりました。
美輪明宏の若い頃⑤ 俳優として数々の作品に主演
美輪明宏さんは、「メケ・メケ」がヒットした1957年頃から俳優としても活動を開始し、多数の映画に歌手の役などで出演されています。
そして、1967年には、「銀巴里」で歌い始めた頃から美輪明宏さんのファンだったという寺山修司が、美輪明宏さんのために脚本を書き下ろした舞台「青森県のせむし男」、「毛皮のマリー」に主演し、これをきっかけに俳優としても注目されるようになりました。
1968年には江戸川乱歩原作で、三島由紀夫が戯曲化した「黒蜥蜴」に主演し、これが美輪明宏さんの俳優としての出世作となりました。美輪明宏さん主演の「黒蜥蜴」は深作欣二監督で映画化もされて大ヒットを記録し、舞台はその後も何度も再演されています。
ちなみに、江戸川乱歩も三島由紀夫も、「銀巴里」の頃からの美輪明宏さんのファンだったそうです。
以降、美輪明宏さんは俳優としても人気を博するようになり、舞台では「椿姫」、「双頭の鷲」、「マタ・ハリ」に主演。テレビドラマや映画にも活躍の場を広げ、1969年公開の映画「黒薔薇の館」、1970年放送の時代劇ドラマ「雪之丞変化」に主演しています。
美輪明宏さんはこの1970年からは、TBSラジオの聴取者からの電話相談番組「ラジオ身の上相談」のパーソナリティを務めています。美輪明宏さんは同番組を1996年まで25年間にわたって担当されました。
1971年には、寺山修司が監督・製作・脚本を手がけ当時大きな話題を呼んだ映画「書を捨てよ町へ出よう」に地獄のマヤ役で出演しています。
この1971年には、それまで名乗っていた芸名「丸山明宏」から現在の「美輪明宏」に改名しています。
美輪明宏の美少年伝説① 神武以来の美少年と称される
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美輪明宏さんは、若い頃の「美少年伝説」が現在も度々話題になっているので紹介していきます。
美輪明宏さんが世間一般にも広く知られるようになったのは、22歳だった1957年にフランスのシャンソンのカバー曲「メケ・メケ」でブレイクしたのがきっかけでした。
当時のマスコミは、彗星の如く現れた新進気鋭の歌手であった美輪明宏さん(当時は丸山明宏名義)を「神武以来の美少年」などと、その美貌を盛んに褒め称えました。
美輪明宏さんは同性愛者である事を公表されていますが、男性にもかなりモテていたようで、当時、雑誌の取材を受けた美輪明宏さんは「今、つきあってるのは20〜30人」だと語っています。
「神武(じんむ)以来の美少年」と称された美輪だが、その美貌で10代から“ボーイフレンド”には不自由しなかったというのである。
「中学3年時にはすでに“とっかえひっかえ状態”だったそうで、20代前半に受けた雑誌のインタビュー記事でも、『今、つきあってるのは20〜30人』と豪語していたほどモテ続けていました」(前出・ベテラン芸能記者)
ちなみにこの「神武以来の美少年」という言い回しは、初代の天皇である神武天皇以来の史上最高の美少年であるといった意味合いです。
そんな「神武以来の美少年」とまで言われた美輪明宏さんを一目見ようと、若い頃の黒柳徹子さんも、当時美輪明宏さんが歌っていた銀座の「銀巴里」に足を運んだ事があるそうです。
昭和30年代、世間の注目の的だったシャンソン喫茶”銀巴里”で専属歌手として歌っていた美輪。ユニセックスなあやしい魅力と美しさで、最も人気を集める存在だった。
黒柳徹子も当時、”神武以来の美少年”と呼ばれるほどのその美貌を「ぜひこの目で見てみたい」と銀座へ足を運んだという。
美輪明宏の美少年伝説② 江戸川乱歩もお気に入りだった
明智探偵シリーズが有名な推理小説家の江戸川乱歩も美少年と呼ばれていた頃の美輪明宏さんを大層気に入っていたという逸話がよく知られています。
江戸川乱歩は、臣吾少年の容姿を大正ロマンの画家・高畠華宵を引き合いに出して、会うたびに「キミはどう見ても、華宵描くところの美少年だね」と褒め、加えて、会話の節々に感じる「頭の回転が速くて物おじしない」態度も大変気に入り、臣吾少年をひいきしたといいます。
美輪明宏さんは「銀巴里」の専属歌手として歌い始める前の16歳の頃、銀座4丁目にあった「ブランスウィック」という同性愛者が集まる喫茶店で働いていました。その店に美少年の噂を聞きつけた江戸川乱歩が訪れたそうです。
美輪明宏さんは江戸川乱歩が生み出したキャラクターである明智小五郎が大好きだったそうで、「(明智小五郎というのは)どんな人?」と尋ねたところ、江戸川乱歩は自分の腕を差し「ここを切ったら青い血が流れるような人だよ」と返したそうです。
それを聞いた美輪明宏さんが楽しそうに「ロマンチックじゃない」と返すと、江戸川乱歩は「おっ、君そんなことがわかるのかい。じゃあ、君の腕を切ったらどんな色が出るんだい?」と訊ね返し、さらに美輪明宏さんが「七色の血が出ますよ」と切り返したとの事。
江戸川乱歩はこの返しを面白がり、「面白い。じゃあ、切ってみようか。おい、包丁持ってこい!」とカウンターの店員に声をかけたのだそうです。美輪明宏さんは「この爺さん、本当に切りかねないな」と思ったそうで、「およしなさいまし。ここを切ったら七色の虹が出て、あなたの目が潰れますよ」と返して見せたのだとか。
江戸川乱歩は少し驚いた様子で「16でこのセリフかい。生意気だけど面白い」と言って感心し、それ以来、美輪明宏さんを大変可愛がるようになったのだそうです。
美輪明宏の美少年伝説③ 三島由紀夫も好意を抱いていた
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当時若手の天才作家として注目を集めていた三島由紀夫も、絶世の美少年であった美輪明宏さんに好意を抱いていたようです。
美輪明宏さんと三島由紀夫が出会ったのも、上でも触れた銀座の喫茶店「ブランスウィック」だったそうです。
三島由紀夫さんはその時、2階のサロンを訪れていたそうなのですが、1階の喫茶店でボーイとして働いていた美輪明宏さんを気に入り、「あの子を呼んでくれ」と言ってきたそうです。しかし、美輪明宏さんは「ホステスでも女給でもないので」と言ってそれを断りました。
それでも三島由紀夫は「チップを弾むからお願いだから来てほしい」と頼み込んできたので、美輪明宏さんは席へ向かい「丸山です」と自己紹介すると、三島由紀夫に「何か飲むかい?」と尋ねられますが、これも美輪明宏さんは「いえ、私は芸者じゃないから結構です」と突き放すような感じで断ってしまったそうです。
その態度に三島由紀夫が「可愛くない子だな」というと、美輪明宏さんは「綺麗だから可愛くなくていいんです」と返したところ、三島由紀夫は「こんなナルシストは見た事がない、たまげたもんだ」と言って、そのまま帰ってしまったのだとか。
それから約1年後、美輪明宏さんが銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手としてデビューすると、再び三島由紀夫さんが店に訪れました。
最初の出会いの事もあったので、美輪明宏さんは少し緊張しながら「僕の歌、どうでしたか?」と三島由紀夫に尋ねると、三島由紀夫は真剣な表情で「君は大物になる」とその歌声を絶賛してくれたのだそうです。
それ以来、三島由紀夫は美輪明宏さんに好意を抱くようになり、その美少年さを「天上界の美」と評してアピールし、レコードデビューや俳優としての成功につながるように間接的にサポートされています。
美輪明宏さんと三島由紀夫さんは強い絆で結ばれるようになり、2人が恋人同士という噂も出ました。
ある時、三島由紀夫が美輪明宏さんに「君の唯一の短所は俺に惚れない事だ」と言ったというエピソードは現在でも伝説的に語られています。
あるとき、三島さんに「君には95%の長所があって、あとの5%が最悪だ。95%の長所を吹き飛ばすだけの短所がある」と言われたんです。「95%の長所を吹き飛ばすなんて素晴らしいじゃないの。それはなんですか」と聞いたら、「俺にほれないことだ」って。
美輪明宏には結婚歴はない
同性愛者である事を公表されている美輪明宏さんはこれまでに1度も結婚された事はありません。
美輪明宏さんは、人生相談などで結婚の相談もよく受けていて、そのハッとさせられるような結婚観がよく話題になっています。
お笑いタレントの明石家さんまさんは、過去に美輪明宏さんに「自分を愛しすぎているから結婚できない」と指摘された事が心に残っている事を番組で明かされた事がありました。
さんまさんは、美輪さんから指摘されたことが今でも胸に突き刺さっているそうだ。「自分自身を愛しすぎているから結婚できないし、幸せになれない」という事だそうだ。
美輪明宏の自宅
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美輪明宏さんの自宅は東京都世田谷区駒沢の閑静な住宅街に建つ豪邸です。
2017年1月8日に放送されたバラエティ番組「誰だって波瀾爆笑」で、美輪明宏さんの36歳当時の自宅内部の貴重な映像(1971年当時の映像)が公開されて話題になりました。
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内装も洋風の豪奢な作りです。美輪明宏さんは現在もこの自宅に住われているようです。
美輪明宏の資産
美輪明宏さんの資産にも興味があるという人が多いようです。
美輪明宏さんは自宅が豪邸である事からもわかりますがかなりの資産を保有されているのは間違いないようです。
2000年代には、愛車が限定モデルのトヨタ・クラシックである事も話題になっていました。この車も当時の価格で800万円ほどと、国産車としては破格の高級車です。
資産も年収も公表されているわけではありませんが、現在もテレビ出演の他、講演会や著作がかなり人気があるという事なので、年収は少なくとも数千万円はあるのではと見られています。
美輪明宏の現在① NHK「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」
美輪明宏さんは2022年の誕生日で87歳を迎えますが、現在も幅広く活躍を続けられています。
2022年3月31日からは、NHKEテレで「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」がスタートしています。毎月最終金曜日22時からのレギュラー放送となっています。
視聴者からの悩みに美輪明宏さんが答えてくれるという内容で、専用のフォームから悩み相談の応募ができるという事です。
美輪明宏の現在② どん兵衛のテレビCMに出演し話題に
2022年3月から放送がスタートした日清の新製品「最強どん兵衛」のテレビCMに美輪明宏さんが出演し話題を呼んでいます。
美輪明宏さんは、黄金色に輝く「九尾のどんぎつね」に扮し、新商品「最強どん兵衛」のイメージを体現しています。
まとめ
今回は、若い頃は絶世の美少年として数々の伝説を残した歌手で俳優でタレントの美輪明宏さんについてまとめてみました。
美輪明宏さんはそのオリエンタルな顔立ちから若い頃からハーフではと噂されていますが、純粋な日本人です。
若い頃は、17歳の時にシャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手としてデビューし、三島由紀夫や江戸川乱歩、寺山修司といった当時の文化人からの絶大な支持を受けました。
その後は俳優としても人気になり「神武以来の美少年」などと、そのユニセックスなルックスを絶賛されるなど話題を呼び、数々の美少年伝説を残されています。
美輪明宏さんは同性愛者である事を公表されていて、これまでに結婚歴はありません。
自宅は、東京都世田谷区駒沢にある洋風の豪邸です。資産については公表されていませんが、かなりの資産を保有されているとみられています。
現在も芸能界で活躍されていて、NHKの「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」や、どん兵衛の新CM出演などで話題を呼んでいます。