長野五輪金メダリストで北京五輪日本選手団総監督の原田雅彦さんが話題です。
この記事では原田雅彦さんの若い頃のスキージャンプ選手としての活躍や名言、リレハンメルでの失速ジャンプ、嫁の原田恵子夫人との馴れ初めと結婚や離婚の噂、2人の子供、現在についてまとめました。
この記事の目次
- 原田雅彦のプロフィール
- 原田雅彦の若い頃の経歴① 小3でスキージャンプをはじめ学生時代から活躍
- 原田雅彦の若い頃の経歴② 雪印乳業スキー部で世界を舞台に活躍
- 原田雅彦の若い頃の経歴③ リレハンメルオリンピックでは失速ジャンプの失敗
- 原田雅彦の若い頃の経歴④ 長野オリンピックで団体金メダル
- 原田雅彦の名言集
- 原田雅彦の嫁は原田恵子夫人
- 原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の馴れ初めと結婚
- 原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の子供は2人(娘・息子)
- 原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の離婚の噂はデマ
- 原田雅彦の現在① 全日本スキー連盟理事
- 原田雅彦の現在② 雪印メグミルクスキー部総監督
- 原田雅彦の現在③ 北京オリンピックでは日本選手団総監督に就任
- 原田雅彦の現在④ スキージャンプ解説者としても活躍
- まとめ
原田雅彦のプロフィール
原田雅彦のプロフィール
生年月日:1968年5月9日
出身地 :北海道上川郡上川町
身長 :173cm
血液型 :A型
原田雅彦さんは、1994年リレハンメルオリンピックスキージャンプ団体銀メダリスト、1998年長野オリンピックスキージャンプ団体金メダリスト、ラージヒル個人同メダリスで、1992年から2006年までの冬季オリンピック5大会連続で出場した国内を代表する元スキージャンプ選手で、世界選手権と合わせて合計で9個のメダルを獲得。スキージャンプ界のレジェンドの1人です。
1994年に出場したリレハンメルオリンピックの団体戦では、金メダルほぼ確実な状況で飛んだジャンプで踏切に失敗しまさかの失速をしてしまい金メダルを逃した戦犯として批判されましたが、その次の1998年長野オリンピックでは最長不倒の大ジャンプを決めて団体金メダルの立役者となり、そのドラマティックな展開が感動を呼びました。
明るい性格で知られ、海外でも「ハッピー・ハラダ」の愛称で親しまれていました。
2006年のトリノオリンピック出場後、37歳で現役を引退し、長年選手として所属した雪印メグミルクスキー部(2011年までは雪印乳業スキー部)のコーチに就任、2014年の監督就任を経て、2021年4月からは同部総監督を務めています。また、2015年からは全日本スキー連盟理事を務められています。
2022年に開催された北京冬季オリンピックでは日本代表選手団の総監督を務め話題になりました。
今回はそんな原田雅彦さんについてまとめていきます。
原田雅彦の若い頃の経歴① 小3でスキージャンプをはじめ学生時代から活躍
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原田雅彦さんは、北海道の中でも豪雪地帯として知られる上川郡上川町で、建設会社経営の両親と6歳上の兄のいる4人家族の次男として生まれました。実家近くにスキー場があったため、幼い頃から「生活の一部」のように、毎日スキーに明け暮れて育ったのだそうです。
原田雅彦さんがスキージャンプを始めたのは小学校3年生の時で、当時国鉄で働いていた知り合いのジャンプ経験者に声をかけられて地元のジャンプ少年団に入団。上川町にあったという次世代のジャンプ選手を育成する目的で整備されていた子供のジャンプ施設(20m級と40m級)で練習に打ち込んだそうです。
原田雅彦さんの最初のジャンプの飛距離は7メートルほどだったそうですが、まるで大空を飛んだような感覚になりとても気持ちがいいと感じ、「もっと飛びたい」と思いスキージャンプ競技にのめり込んで行ったのだとか。原田雅彦さんは引退時に、最も印象に残ったジャンプを聞かれて、この人生最初の7メートルのジャンプだと答えられています。
原田雅彦さんはこの頃から才能を示し、少年団だけの大会で1位になっています。小学校卒業後は、町立の上川中学校に進んでジャンプを続け、全国中学選手権で2度優勝に輝き、海外遠征も経験するなど世代のトップ選手として活躍。
高校は札幌の東海大学付属第四高等学校(現在の東海大学付属札幌高等学校)へと進学しインターハイを制覇しています。
原田雅彦の若い頃の経歴② 雪印乳業スキー部で世界を舞台に活躍
高校卒業後、原田雅彦さんは、北海道拓殖銀行や日本大学などの多数の誘いを受けた中から、雪印乳業(現在の雪印メグミルク)へと進みました。アイスクリーム課に配属されたそうですが、スポーツで入ってきた社員にはほとんど仕事がなかったそうで、入社翌年からはほとんどスキージャンプの練習に専念されていたそうです。
原田雅彦さんは雪印に入社後、会社の意向で、強化選手としてスキージャンプ強豪国のフィンランドに単身4ヶ月の武者修行に行っています。
帰国後の1991年、原田雅彦さんは世界選手権に初出場しています。原田雅彦さんはこの頃から、板を開いて飛ぶ「V字ジャンプ」に先駆者として取り組み頭角を表しました。これをきっかけにして、他の日本人選手たちもV字ジャンプに取り組むようになり、これが日本のスキージャンプの黄金時代へとつながる事になりました。
翌1992年のアルベールビル大会で、原田雅彦さんはオリンピック初出場を果たしました。この大会で原田雅彦さんはラージヒル個人で4位、団体でもラージヒル4位に貢献し次世代エースとして注目を集めました。
さらに、翌1993年の世界選手権(スウェーデン・ファールン)で、原田雅彦さんは個人ノーマルヒルで金メダルを獲得し、自身初の世界一に輝きました。
原田雅彦の若い頃の経歴③ リレハンメルオリンピックでは失速ジャンプの失敗
原田雅彦さんは1994年のリレハンメルオリンピックに出場。
原田雅彦さん他、岡部孝信さんと西方仁也さん、葛西紀明さんが出場し、4人全員がワールドカップ総合順位15位以内におり、団体戦での金メダルに期待が高まっていました。
ところが、このリレハンメル五輪で原田雅彦さんの調子は上がりませんでした。ラージヒル個人では4位のジャンプを見せたものの、2本目で悪条件もあって13位という結果に終わります。個人ノーマルヒルでも2回目のジャンプで失速し結果を残せませんでした。
そうして、挑んだラージヒル団体戦。日本代表チームは4人全員の1本目のジャンプが終わった時点で首位ドイツに0.8ポイント差の2位につけました。
そして2本目のジャンプで日本チームはドイツを逆転し、4番手の原田雅彦さんを残して、2位のドイツに55.2点差をつけます。飛距離換算で30.5メートルの差があり、日本の金メダルはほぼ確実と言って良い状況となりました。
原田雅彦さんの1本前に飛んだ、2位ドイツの4番手、イェンス・バイスフロクはこの試合最長不倒距離の135.5メートルの大ジャンプを見せましたが、それでも原田雅彦さんが最低105メートルを飛べば金メダルという圧倒的に優位な状況でした。
ところが、原田雅彦さんはこのジャンプで踏切に失敗して空中で失速。97.5メートルという結果に終わり、日本チームは獲得目前であった金メダルを逃しました。
この失速ジャンプで、原田雅彦さんは「世紀の失速」、「失敗ジャンプ」などとメディアに叩かれ、一部の一般人からの批判や誹謗中傷も受けて、帰国後には自宅への嫌がらせまであったそうです。
リレハンメル後、原田雅彦さんは、この失速ジャンプを引きずってスランプに陥りますが、嫁の原田恵子夫人の「自分らしく飛べばいいんじゃない?」という言葉をきっかけに本来の自分のジャンプを取り戻し復活。
1997年の世界選手権で個人ラージヒル金メダル、ノーマルヒル銀メダル、ラージヒル団体銀メダルと出場した種目全てでメダルを獲得しました。この時の原田雅彦さんの世界選手権でのラージヒル個人優勝は日本人史上初の快挙でした。
原田雅彦の若い頃の経歴④ 長野オリンピックで団体金メダル
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原田雅彦さんは、リレハンメルでの失速ジャンプ後に一時はスランプに陥りましたが、復活を遂げ、1998年の長野オリンピックの代表に選ばれました。
原田雅彦さんはこの長野オリンピックで、ラージヒル個人で銅メダルを獲得。そして、団体戦では2本目のジャンプで1最長不倒の137メートルの大ジャンプを決め、日本チーム金メダル獲得の立役者となりました。原田雅彦さんはリレハンメルの雪辱を晴らした形になり、ドラマティックな展開が感動を呼びました。
その後、原田雅彦さんはソルトレイクシティとトリノの2度の冬季オリンピックにも日本代表として出場しましたが、ルールの変更や年齢的な衰えもありメダル獲得には届きませんでした。(トリノではノーマルヒルで大ジャンプを見せるも、スキー板の規定違反で失格)
原田雅彦さんはトリノ五輪から帰国後、札幌・大倉山ジャンプ場で最後の大会に出場しました。会場には、原田雅彦さんの引退ジャンプを見ようと5000人もの観客が詰め掛けました。
原田雅彦の名言集
原田雅彦さんの名言を紹介します。
俺じゃないよ、みんななんだ!
上は、長野オリンピックで金メダルが確定した時の原田雅彦さんの名言です。原田雅彦さんが言った「みんな」というのは、団体戦4人のメンバーだけでなく25名のテストジャンパー達を含めた言葉でした。
これ以外にも原田雅彦さんは数々の名言を残されています。
競技をやめてしまったら、課題を乗り越える楽しみなんか味わえないんだから。
笑顔で接すれば、笑顔が返ってくる。
今の自分ができる最高のことをやれ、それが一番なんだから。
世界で羽ばたきたいという熱い思いもわかるのですが、その前に一つひとつ結果を積み上げていかないことには、次のステップにつながっていかない。
逃げてはいけないと思っているんです
リレハンメルの失敗後、多くのバッシングを受け、それを乗り越えて長野で金メダルを獲得した原田雅彦さんが発言するからこそ伝わる名言ばかりです。
原田雅彦の嫁は原田恵子夫人
原田雅彦さんは、1993年10月に一般女性の恵子さんと結婚されています。原田雅彦さんの嫁の原田恵子さんは、1969年の生まれで、原田雅彦さんと同じく北海道の出身です。
2018年には、原田雅彦さんとの結婚エピソードなども綴ったエッセイ「今を積み重ねて未来を創る 年齢を言い訳にしない自分の育て方」を発表し、その年に札幌の芸能事務所「Jeepers」に所属してミセスモデルとしてデビューした事も話題になりました。
原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の馴れ初めと結婚
原田雅彦さんと嫁の原田恵子さんの馴れ初めについては詳しい事は明かされていませんが、原田恵子さんは、最初に知り合った時は原田雅彦さんは「全然タイプじゃなかった」のだそうです。
しかし、それから約1年後に2回目に会った時、「なんて素敵な人なんだろう」と魅力を感じ、交際を経て結婚したそうです。
1994年2月のリレハンメルオリンピックで、原田雅彦さんの失速ジャンプで日本チームが金メダルを逃した時は、まだ結婚したばかりでしたが、嫁の原田恵子さんに対する批判まで巻き起こりますが、恵子さんはそんな中でも原田雅彦さんを支えました。
失速ジャンプを引きずり、スランプに陥った原田雅彦さんが復活するきっかけになったのは、この嫁・原田恵子さんの「自分にできないことをやろうとしてもダメなんじゃない?自分らしく飛べばそれでいいじゃない。」という言葉だったそうです。
原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の子供は2人(娘・息子)
原田雅彦さんは嫁の原田恵子さんとの間に2人の子供がいます。
原田雅彦さんの上の子供は長女の愛菜さんで、2013年3月に北海高校を卒業されているので、2022年の現在は26歳か27歳のはずです。
原田雅彦さんの下の子供は、1997年に誕生した長男の優雅さんで、2022年の現在は24歳でアパレル関連の会社で働かれているようです。
原田雅彦と嫁の原田恵子夫人の離婚の噂はデマ
原田雅彦さんはリレハンメルでの失速ジャンプ後スランプを陥りますが、その時期を支えたのが嫁の原田恵子さんで、その夫婦の絆の強さはよく知られており、現在も原田恵子さんは「原田雅彦の妻」としてメディアで紹介されています。
しかしどういうわけか、原田雅彦さんと嫁の原田恵子さんが離婚しているという噂がネット上で広まっているようです。
この離婚の噂は2014年頃から既にあったようですが、嫁の原田恵子さんは2018年の時に原田雅彦さんとの馴れ初めや結婚エピソードなども綴ったエッセイを発表していますし、原田雅彦の妻という立場での講演なども行っていました。
また、原田雅彦さんも2019年にテレビ出演した際に、失速ジャンプ後に嫁の原田恵子さんに支えられたエピソードを明かしていました。
さらに、原田恵子さんのオフィシャルウェブサイトは現在も原田雅彦さんの嫁という立場から運営されています。
以上から、原田雅彦さんが嫁の原田恵子さんと離婚しているという噂はデマ情報と見て間違いなさそうです。
原田雅彦の現在① 全日本スキー連盟理事
原田雅彦さんは現役引退後の2015年10月に全日本スキー連盟の理事に就任し、現在も務められています。
全日本スキー連盟は18日、東京都内で評議員会を開いて役員を改選し、1998年長野冬季五輪ノルディックスキー・ジャンプ団体金メダリストで雪印メグミルク監督の原田雅彦氏(47)や、日本オリンピック委員会(JOC)選手強化本部長で日本スケート連盟会長を務める橋本聖子参院議員(51)らを新理事に選んだ。
就任時は総務担当理事という事でしたが、現在は競技本部担当で、選手の育成強化や国際大会の日本代表の選考などにも関わられているようです。
原田雅彦の現在② 雪印メグミルクスキー部総監督
原田雅彦さんは現役を引退後は、長年選手として所属していた雪印メグミルクスキー部(2011年までは雪印乳業スキー部)のコーチに就任し、2014年からは同スキー部監督に就任。
2021年4月からは総監督に就任し、2022年現在も務められています。原田雅彦さんが総監督になった事で同部監督にはそれまでコーチを務めていた岡部孝信さんが就任しています。岡部孝信さんは1998年の長野オリンピックで原田雅彦さんと共に金メダルを取ったメンバーの1人でした。
雪印メグミルクスキー部は来季の新体制を発表し、原田監督が総監督、岡部コーチが監督、OBの坂野氏がコーチに就任すると発表しました!!
— 道新スポーツ (@doshinsports) March 20, 2021
岡部新監督は #北京五輪 の代表独占を目標に掲げました!!#スキージャンプ #雪印メグミルク #原田雅彦 #岡部孝信 #坂野幸夫 pic.twitter.com/HNVzSd1Ek8
2022年北京オリンピックには、雪印メグミルクスキー部からは、伊東大貴さん、佐藤幸椰さん、小林潤志郎さん(ノーマルヒル金メダルの小林陵侑さんの兄)が代表に選ばれています。
原田雅彦の現在③ 北京オリンピックでは日本選手団総監督に就任
出典:https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/
原田雅彦さんは2022年の北京冬季オリンピックの日本選手団の総監督も務められていました。
日本オリンピック委員会(JOC)は7日、臨時の評議員会と理事会を都内で開き、来年2月の北京オリンピック(五輪)の日本選手団総監督に、98年長野五輪スキージャンプ男子団体金メダリストの原田雅彦氏(53)を充てることを決めた。
北京オリンピックのテレビ中継では、観客席で日の丸の旗を掲げて選手を応援する原田雅彦さんの姿が度々映し出され、これがネット上でかなり話題になっていました。
そんな後輩たちの活躍を会場で熱心に応援しているのが、スキージャンプの金メダリスト、原田雅彦・日本選手団総監督だ。競技の中継で日の丸を振りながら応援する姿が映され、ツイッターなどのSNSでは「原田さんの祝福姿に泣いた」など、その姿に昔を思い出したという投稿が相次いでいる。
原田雅彦の現在④ スキージャンプ解説者としても活躍
原田雅彦さんは現在はスキージャンプの解説者として活躍されています。ネット上でも原田雅彦さんの解説は人気が高いようです。
解説の原田雅彦さんが、
— ふる(どうでしょう藩士) (@moonkiba) February 12, 2018
『伊藤有希もメダルとる力のある選手なんですよ・・・うぅぅ』
と。
原田雅彦さんが無念さを交えて言っているのが印象的です。
原田雅彦さんも色々あった方ですから。#平昌オリンピック #スキージャンプ #スキージャンプ女子
NHK総合平昌五輪、ジャンプ女子ノーマルヒル、高梨沙羅銅メダルおめでとう!この悪天候のなか、冷静さを失わず、素晴らしかったなあ。それにしても、解説の原田雅彦さんのキャラ好きだなあ(笑)
— shinichi A BE-AR (@purissima_bear) February 12, 2018
解説が原田雅彦さんだったんだけど、他国選手であっても
— サラリ医マン (@saraly_man) January 12, 2020
『これは失敗ジャンプですか?』のアナの問いには直接答えず、
その中で良かった所とかその国の競技環境とかを説明していて、立派だなぁと感じた。https://t.co/2zXk1ULOcj
まとめ
今回は、1998年の長野オリンピックでの団体金メダルで知られる元スキージャンプ選手の原田雅彦さんについてまとめてみました。
原田雅彦さんは若い頃は、中学生時代から世代のトップ選手として活躍し、高校を卒業後は雪印スキー部で世界トップクラスの選手として活躍しました。
1994年のリレハンメルオリンピックの団体戦では金メダルがほぼ確実という状況でまさかの失敗ジャンプで失速して距離を伸ばせず、金メダルを逃す原因となり、大会後も批判を受けました。しかし、1998年の長野オリンピックでは、その雪辱を晴らすかのように大ジャンプを決め、団体戦金メダルの立役者となりました。
そんな原田雅彦さんは1993年に原田恵子さんという方と結婚されています。リレハンメルでの失敗から原田雅彦さんが復活できたのはこの嫁の恵子さんの「自分らしく飛べばそれでいいじゃない。」という名言がきっかけだったそうです。
原田雅彦さんと嫁の恵子さんとの間には長女と長男の2人の子供がおり、現在は2人とも既に成人されています。原田雅彦さんの子供2人はスキージャンプやスキー競技はやっていません。
原田雅彦さんと嫁の恵子さんには、なぜか離婚の噂もありますがこれは事実ではなくデマです。
現在、原田雅彦さんは全日本スキー連盟の理事、雪印メグミルクスキー部総監督、スキー解説者として活躍されている他、2022年の北京オリンピックでは日本選手団の総監督を務め話題になりました。