夏目雅子さんは1970年代終わりからから1980年代にかけて活躍し、27歳でこの世を去った伝説的女優で現在もその美しさは話題です。
ここでは夏目雅子さんの死因や、父や母、兄弟姪などの家族、不倫結婚の夫の伊集院静や子供を複数回堕胎した噂、最後の写真の存在やその真相などについてまとめました。
この記事の目次
夏目雅子のプロフィール
夏目雅子のプロフィール
本名 :西山雅子(旧姓・小達)
生年月日:1957年12月17日
没年月日:1985年9月11日(享年27歳)
出生地 :東京都渋谷区宮代町
出身地 :神奈川県横浜市中区山手
身長 :164cm
血液型 :B型
夏目雅子さんは1978年と1979年に放送されたドラマ「西遊記」の三蔵法師役や、1982年公開映画「鬼龍院花子の生涯」でのブルーリボン賞・主演女優賞受賞などで知られる女優です。
1970年代後半から1980年代前半まで女優として活躍し国民的な人気を獲得しましたが、急性骨髄性白血病を患い、27歳の若さで亡くなりました。わずか9年の女優人生でしたが、その圧倒的な魅力は人々を強く惹きつけ、現在も伝説的女優として人々に愛され続ける存在です。
夏目雅子の経歴
夏目雅子さんは東京女学館小学校3年生の時、テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優に憧れ子役になろうとしますが、芸能界を嫌っていた母親に猛反対され、この時はその夢は叶いませんでした。
夏目雅子さんは東京女学館中学校から東京女学館高等学校へ進学し17歳になった夏目雅子さんは、イタリア・フランス・ソ連の合作映画「ひまわり」を鑑賞し、ヒロイン役を演じたイタリア人女優のソフィア・ローレンに憧れて再び本格的に女優を志しました。
1976年、高校を卒業した夏目雅子さんは東京女学館短期大学へとエスカレーター式に進学し、その入学直後に父親の伝手でタオルメーカー「内野株式会社」のテレビコマーシャルに出演。これが夏目雅子さんの芸能界入りの第一歩となりました。
同年、夏目雅子さんは日本テレビの当時の昼ドラ枠「愛のサスペンス劇場」で放送予定のドラマ「愛が見えますか…」のオーディションに挑戦し、486名もの応募者の中から見事ヒロイン役に選ばれて本名の小達雅子で女優デビューし、盲目のヒロイン役を演じました。
このドラマ出演をきっかけにして、夏目雅子さんは翌1977年にカネボウ化粧品の「Oh!クッキフェイス」のキャンペーンガールに抜擢され注目を集めます。
この当時、夏目雅子さんの水着姿を写した広告ポスターの盗難騒ぎが全国で発生するほどの人気となりました。CMソング「Oh!クッキーフェイス」を日本語でカバーし歌手デビューも果たしています。
この年には、TBSの連続ドラマ「すぐやる一家青春記」のヒロイン・宮田紀子役を演じて2度目の連続ドラマ出演をし、映画「トラック野郎・男一匹桃次郎」でヒロイン・小早川雅子役で映画初出演も果たしています。
1978年には、夏目雅子さんの出世作にもなった日本テレビの大ヒットドラマ「西遊記」に三蔵法師役として出演。坊主頭にして好演し、その美しい顔立ちと綺麗な頭の形、神々しい雰囲気が話題になり、人気を急上昇させ、バラエティ番組などへも多く出演するようになります。
その後は、本格派女優を志向して事務所をP&M事務所から其田事務所に移籍。1980年12月から1981年3月にかけて放送されたドラマ「虹子の冒険」で初主演を果たし同作での迫真の演技は話題になりました。
さらに、1980年12月に全4回で放送されたNHKのスペシャルドラマ「ザ・商社」ではヒロインのピアニスト・松山真紀役に抜擢され、上半身ヌードのシーンなども熱演。これまでの「お嬢さん女優」といったイメージを払拭し、新たな「大人の女優」という雰囲気を確立することに成功します。
また、同年には日露戦争の旅順要塞攻略戦をテーマにした大作映画「二百三高地」のヒロイン役に抜擢され、戦争によって最愛の男性と引き裂かれる女性の悲しみを見事に演じて話題になりました。
1981年には連続ドラマ「野々村病院物語」、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」にそれぞれメインキャストとして出演。
そして、翌1982年には映画「鬼龍院花子の生涯」に主役の松恵役で出演し過激なヌードシーンを熱演し、作中での「なめたらあかんぜよ!」のセリフは流行語にもなりました。この作品での夏目雅子さんの演技は高く評価され、その年のブルーリボン賞・主演女優賞を受賞しています。
1983年にNHK大河「徳川家康」や同年公開の映画「小説吉田学校」などに出演し、若手の大物女優としての地位を確かなものとしました。
1984年には映画「瀬戸内少年野球団」への出演など活躍を続けました。
大物女優への階段を着実に登り、これからのさらなる活躍が期待されていた夏目雅子さんでしたが、1985年、舞台「愚かな女」の公演の最中に急性骨髄性白血病に倒れ、同年9月11日に27歳の若さでこの世を去りました。
夏目雅子の死因は急性骨髄性白血病ではなく免疫力低下による肺炎
夏目雅子さんは、急性骨髄性白血病を発症後、7ヶ月に渡る闘病生活を送り、新薬を使用したことなどから一時は順調に回復し、病状は寛解を迎え退院間近とも報じられました。
しかし、1985年8月に抗がん剤の副作用で免疫力が低下しているタイミングで、風邪をこじらせ、肺炎を併発して高熱が続いて9月9日に意識不明の重体になりました。
そして、それからわずか3日後の9月11日、夏目雅子さんはそのままこの世を去っています。
夏目雅子さんの死因は白血病ではなく肺炎でした。
2019年11月に放送された「直撃!シンソウ坂上」にて、夏目雅子さんの兄が「死因は白血病ではない」と語っています。ネット上では、この発言から自殺や暗殺?とも噂されましたが、真相は先述の通り肺炎による死でした。
夏目雅子の家系は徳川将軍家の御典医を代々務めた名家
夏目雅子さんの家系である「小達家」は、徳川将軍家の御典医(将軍家に直接仕える医師)を代々務めたという、名家中の名家です。
この小達家は明治時代に「赤門堂」という薬草問屋を開業し、昭和期に入っても株式会社・亀甲屋として商売を続け戦後は輸入雑貨屋として成長しました。
次の見出しからは、そんな名家の一族である夏目雅子さんの家族について見ていきます。
夏目雅子の家族① 父・小達宗一
夏目雅子さん父は小達宗一という人物で、家業の「亀甲屋」を経営して大きくし、東京オリンピックに合わせて店舗をビル(亀甲ビル)にし、貸しビル業でも成功をおさめました。
夏目雅子さんが芸能界入りを望んだ時、母は猛反対しましたが父の宗一さんが友人のツテでテレビCMに出演させるなどして応援したため、夏目雅子さんは芸能界入りの夢を果たす事ができました。
その後も父・宗一さんは家族の中で夏目雅子さんの一番の支援者であり続けましたが、夏目雅子さんが芸能界での成功をおさめ始めていた1979年、父の小達宗一さんはスキルス性胃癌に倒れ手術を受ける事になりました。
この時、夏目雅子さんは最愛の父の手術に立ち会う事を希望し、「気絶してしまうからやめなさい」と医師が止めるのも聞かず父の手術を見届けました。
父・宗一さんの手術自体は成功しましたが、既に宗一さんの癌は末期であり、1980年に47歳の若さで亡くなられています。
夏目雅子さんの父の小達宗一さんはゴルフが趣味で、シングルプレイヤーだったそうです。
夏目雅子の家族② 母・小達スエ
夏目雅子さんの母は小達スエという方で、1933年8月3日に群馬県沼田市で、野村一郎・ミキ夫妻の末っ子として生まれました。若い頃はスキーや水泳などを愛好する活発な女性だったそうです。
夏目雅子さんの父の小達宗一さんとは、共に在家だった日蓮浄風会の講習会で知り合い、1953年、20歳の時に結婚しています。
翌1954年には夏目雅子さんの兄の小達一雄さんを出産。1957年に夏目雅子さんを出産しました。
夏目雅子さんは幼少期から芸能界に憧れ、子役になりたいと夢見ますが、母のスエさんは元々芸能界への不信感が強かったためこれに猛反対し、夏目雅子さんの子役になる夢は叶いませんでした。
夏目雅子さんは生まれたから11年後の1968年に、次男の小達敏昭さんを出産。
1976年に夏目雅子さんが女優として芸能界デビューを果たしますが、母のスエさんはこれに猛反対して本名である小達雅子の使用を許さなかったため「夏目雅子」の芸名で活動する事になっています。
その後も、母のスエさんは女優としての夏目雅子さんを認めず、出演作も一切見なかったそうです。ある時、夏目雅子さんが時間がなく仕事用のメイク姿のままで家に戻ると「小達雅子に戻ってから帰って来なさい」と激怒した事もあったのだそうです。
しかし、1985年に夏目雅子さんが急性骨髄性白血病に倒れると、母のスエさんの心境が変化し、「娘が最も求めている女優の世界を認めてあげなければ、命を助けることはできない」という思いから、夏目雅子さんのこれまでの出演作を食い入るように見るようになったのだそうです。
母のスエさんは病床の夏目雅子さんと一緒に出演作を見て、それについて話すこともあったそうで、夏目雅子さんはそれをとても嬉しそうにしていたと言います。
夏目雅子さんは死が迫る病床の中で、母のスエさんと一緒にひまわりの刺繍を作るなどもしていました。それまでの確執を埋めるように母娘の時間を大切にされていたようです。
母のスエさんは、夏目雅子さんの死後の1993年、がん患者への支援のために設立された「夏目雅子ひまわり基金」の代表に就任されています。
その後の1997年、母・スエさんは夏目雅子さんとの葛藤の日々を綴った手記「ふたりの雅子」を出版し、娘との日々や想いを明かされました。
夏目雅子さんの母のスエさんは、晩年は難病指定されている「進行性核上性まひ」を患い、2008年5月に74歳の生涯を閉じられています。家族や友人に見守られての安らかな最期だったそうです。
夏目雅子の家族③ 兄・小達一雄
出典:https://www.sponichi.co.jp/
夏目雅子さんの兄の小達一雄さんは、芸能プロダクションや映像ソフト制作を手がける「スイート・ベイジル・エンタテインメント」の元社長で、現在は「夏目雅子ひまわり基金」の代表事務局長を務められています。
また、この夏目雅子さんの兄、小達一雄さんは、夏目雅子さんの親友だった女優の田中好子さん(故人)の夫でした。
実は、小達一雄さんは田中好子さんと結婚する前に別の女性と結婚されており子供も生まれています。田中好子さんとは再婚で、一部週刊誌は不倫の果ての略奪婚だったと報じています。
夏目雅子の家族④ 弟・小達敏昭(プロゴルファー)
夏目雅子さんの11歳年下の弟の小達敏昭さんは、10歳でゴルフを始め、高校生の頃に姉の夏目雅子さんにプロゴルファーになるよう勧められ、1991年にプロに転向。その後ツアーで2勝をあげました。
2004年には「小達敏昭銀座ゴルフクリニック」を設立し、少人数制のゴルフスクールで指導されています。
夏目雅子の家族⑤ 姪・風間柚乃(宝塚男役スター)
小達敏昭さんの娘で、夏目雅子さんの姪にあたる風間柚乃さんは、宝塚歌劇団の100期生で、現在も宝塚歌劇団月組の男役スターとして活躍されています。
夏目雅子の家族⑥ 姪・楯真由子(女優・歌手)
1997年のNHK朝ドラ「あぐり」への出演などで知られる女優で歌手の楯真由子さんは、夏目雅子さんの姪に当たります。父は、夏目雅子さんの兄の小達一雄さんで、母親はその前妻です。
楯真由子さんは、叔母にあたる夏目雅子さんの出演作を見て、「自分にもこういう演技ができたら」と憧れ7歳の頃に女優を志したそうです。
夏目雅子の姪として注目を集め、新人時代から多数の作品に出演しますが、伝説的女優の姪と見られる事からの重圧により、パーソナリティ障害を発症し、一時芸能界から離れています。
その後は、「Mayuli」の名義で歌手として芸能活動を再開し、2018年3月には舞台「男の星座」にて女優にも復帰しています。
2019年に放送された「爆報!THEフライデー」で取り上げられ、東京都大田区蒲田のキャバクラ店で働きながら実母の元で子育てをしているという内容が報じられました。
夏目雅子の夫は作家の伊集院静で不倫の果てに結婚している
夏目雅子さんの夫は、1984年に不倫の果てに結婚した作家の伊集院静です。夏目雅子さんの元夫の伊集院静は、夏目雅子さんのブレイクのきっかけとなったテレビCM、カネボウ化粧品「クッキーフェイス 」のCMディレクターをしており、それが二人の出会いでした。
伊集院静は当時結婚しており2人の子供がいましたが、夏目雅子さんと不倫交際をはじめ、1980年に最初の妻と離婚し、その後の1984年8月27日に夏目雅子さんと再婚しています。
なお、伊集院静は夏目雅子さんと結婚するまで、女優の桃井かおりさんとも二股交際をされていたと言われています。
伊集院静が2011年に出版したエッセイ「大人の流儀」に「愛する人との別れ〜妻・夏目雅子と暮らした日々」が収録されています。
夏目雅子は伊集院静との不倫中複数回子供を妊娠し堕胎している
夏目雅子さんは伊集院静との結婚後、すぐに急性骨髄性白血病を患い闘病生活に入ったため、二人の間に子供はいません。
しかし、伊集院静が夏目雅子さんとの関係をモデルにして書いた小説「乳房」の中で、実は夏目雅子さんが不倫していた期間中に何度も子供を作りその度に子供を堕ろしていたという衝撃の内容を暴露しています。
この夏目雅子さんが伊集院静の子供を何度も堕胎していたという話は秘密にされていましたが、上で触れた伊集院静の「乳房」での暴露や、母親のスエさんが手記「ふたりの雅子」の中でこの夏目雅子さんが子供を堕した話に触れている事などから、この話は事実で間違いないようです。
この話の詳細は明らかにされていませんが、現在は当時よりも不倫に対する嫌悪感が世間で強くなっている事もあり、不倫関係の中で何度も夏目雅子さんを妊娠させ子供を堕させたという当時の伊集院静の傍若無人な振る舞いに嫌悪感を抱いている人も増えているようです。
夏目雅子の最後の写真の噂やその真相とは
2018年3月23日に放送された「爆報!THEフライデー」で、夏目雅子さんの死の3週間前に撮影されたという「生前最後の写真」が公開され話題になりました。
この「生前最後の写真」は、夏目雅子さんが死の3週間前に病室の中で撮影されたもので、夏目雅子さんが赤い襦袢を着て、「所詮、人は死ぬ。馬鹿野郎」というと、自分の病状を書いたカルテをビリビリに引き裂いてフッと息で吹き飛ばしている瞬間を捉えたものだとして伝説化していました。
出典:https://livedoor.blogimg.jp/
この写真の存在を最初に明かしたのは、夏目雅子さんの代表作である映画「鬼龍院花子の生涯」の監督・五社英雄さんの娘の五社巴さんで、2017年に「鬼龍院花子の生涯」リバイバル上映イベントに出席した際にこの最後の写真の存在について話されたようです。
ただ、「爆報!THEフライデー」ではこの夏目雅子さんの「最後の写真」の全く違う真相が明かされています。番組がこの「最後の写真」を撮影した写真家の岩田省三さんを直撃取材したところ、これは夏目雅子さんの死の3週間前に撮影されたものではなく、数年前に撮影されたものだと判明しました。
当然、夏目雅子さんが吹き飛ばしているのはカルテでもなんでもなく、ただ単に夏目雅子さんと展覧会を開いてはどうだろうと相談しながら撮影した芸術的な作品というだけだったようです。
この写真は夏目雅子さんの最後の写真でもなんでもありませんでしたが、五社英雄監督の娘の五社巴さんが嘘をついていたというわけではなく、本当に父・五社英雄監督さんからそのように伝えられていたようです。
写真を撮影した岩田省三さんは、五社英雄監督は夏目雅子さんを伝説化するためにそのように演出したのではないか?と推測されていました。
まとめ
今回は、1970年代後半から1980年代半ばまで活躍し、人気絶頂の中27歳という若さでこの世をさった伝説的女優・夏目雅子さんについてまとめてみました。
夏目雅子さんは、1977年にカネボウ化粧品の「クッキフェイス」のテレビCMで注目を集めると、連続ドラマ「すぐやる一家青春記」のヒロインを演じて人気を上昇させ、翌1978年に大ヒットドラマ「西遊記」の三蔵法師役で瞬く間に大ブレイクを果たしました。
その後、ドラマ「THE商社」でヌードにも果敢に挑戦し、大人の女優への脱却を果たすと、1982年公開の映画「鬼龍院花子の生涯」にてブルーリボン賞・主演女優賞を受賞し、大物女優の座を確かなものとしました。
そんな夏目雅子さんの家族には有名人が多く、11歳下の弟にプロゴルファーの小達敏昭さん。姪には、宝塚の男役スター・風間柚乃さんや、女優で歌手の楯真由子さんがいます。
夏目雅子さんは、作家の伊集院静と不倫の果てに1984年に結婚しますが、伊集院静との不倫期間中に何度も子供を妊娠しその度に堕ろしていた事が、伊集院静の小説「乳房」や、母・スエさんの手記「ふたりの雅子」などの中で明かされています。
夏目雅子さんは伊集院静との結婚から約1年後の1985年に急性骨髄性白血病を患い同年9月11日に亡くなられています。死因は抗がん剤の副作用で免疫力が低下した事による肺炎でした。
夏目雅子さんの死後、その死の3週間前に撮影されたという「最後の写真」の存在が明かされ話題になりましたが、実はその真相は数年前に撮影された単なる芸術写真で、特に最後の写真というわけではありませんでした。
最後になりましたが、夏目雅子さんのご冥福を祈りたいと思います。