昭和を代表する名プロレスラー・坂口征二さんが話題です。
この記事では坂口征二さんの身長などのプロフィール、若い頃の経歴、日本人最強の噂や人間不信のエピソード、引退試合や、嫁や息子現在などについてまとめました。
この記事の目次
坂口征二の身長などのプロフィール
坂口征二のプロフィール
生年月日:1942年2月17日
出身地 :福岡県久留米市
身長 :196cm
体重 :125kg〜130kg(現役時代のデータ)
坂口征二さんは昭和の時代を代表する名プロレスラーの1人で、「世界の荒鷲」の異名で人気を集めました。
新日本プロレス移籍後のアントニオ猪木さんとのタッグは「黄金コンビ」と呼ばれ、経営に苦しんでいた新日本プロレスを救うほどの人気を獲得しました。
坂口征二さんの身長は196cmと日本人離れしたもので、その高身長を武器にジャイアント馬場さんとタッグチーム「東京タワーズ」などでも活躍されました。
坂口征二の若い頃の経歴① プロレス転向前は柔道家として活躍
坂口征二さんは若い頃は柔道家として活躍しており、久留米市立南筑高校では柔道三段を取得し、その後進学した明治大学でも柔道部に所属して伝説的柔道家の神永昭夫さんの指導を受けています。
大学卒業後は旭化成工業に就職して柔道部に所属し、1965年の全日本柔道選手権で優勝を飾り、同年リオで開催された世界柔道選手権大会に日本代表として出場しています。
しかし、1966年、1968年開催のメキシコオリンピックで柔道が競技種目から除外される事が決まり、その年の全日本選手権での優勝も逃したことから柔道の道を諦めプロレスへの転向を決めています。
坂口征二の若い頃の経歴② 日本プロレスに入団し海外修行後スター選手に
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坂口征二さんは、1967年に日本プロレスに入団し、入団発表の日の夜にはそのままハワイへの特訓に出発。それから程なくしてアメリカへの海外武者修行へと向かっています。
コーチを務めたのは有名レスラーのカール・ゴッチで、彼を相手にしたデビュー戦では時間切れ引き分けの熱戦を見せ本場アメリカの観客を沸かせました。その後も「ビッグ・サカ」のリングネームでアメリカ各地を転戦し、アメリカのスター選手らと試合をしています。
アメリカ武者修行からの帰国後は、ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんに次ぐ日本プロレスのスター選手となり、1971年にはアントニオ猪木さんとタッグを組み、「第2回NWAタッグ・リーグ戦」で優勝を決めています。
1972年には「UNヘビー級王座」を獲得しました。その後、ジャイアント馬場さんとのタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、アメリカ・ロサンゼルスにて「ザ・ファンクス」の所持していた「インターナショナル・タッグ王座」を奪取するなど輝かしい戦績を残しています。
坂口征二の若い頃の経歴③ 猪木・馬場の脱退後の日本プロレスを支える
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1971年12月、アントニオ猪木さんは、日本プロレス経営陣の経理の不透明さなどから、上層部と対立し、団体乗っ取りのクーデターを計画した結果、日本プロレスから追放処分になってしまいます。
1972年7月にはジャイアント馬場さんも日本プロレスを脱退し、新たに「全日本プロレス」を立ち上げました。
坂口征二さんはジャイアント馬場さんを兄貴分として慕っていたため、馬場さんについて行こうとしたそうですが、馬場さんから「日本プロレスを守れ」と命じられたため、そのまま日本プロレスに残っています。
その後は、大木金太郎さんと共に馬場・猪木という2大看板が抜けた後の日本プロレスを支えました。
坂口征二の若い頃の経歴④ アントニオ猪木の新日本プロレスに合流
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日本プロレスを看板選手として支えた坂口征二さんでしたが、国民的スターであったジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんの抜けた穴は大きく、観客動員数は激減し、テレビ中継の視聴率も大きく低下してしまいました。
坂口征二さんは危機感を抱いて、アントニオ猪木さんが追放後に設立した新日本プロレスと日本プロレスとの合併交渉を猪木さんと水面下で行うなどしていました。
しかし、この計画は日本プロレスの選手らの反対にあって実現せず、1973年4月に、坂口征二さんは若手選手ら数名を引き連れて新日本プロレスへと合流します。
新日本プロレスはそれまで、契約の関係からテレビ中継がされず、観客動員も伸びずに経営危機に陥っていましたが、坂口征二さんの移籍をきっかけにテレビ中継が開始され、坂口征二さんとアントニオ猪木さんとのタッグは「黄金コンビ」と呼ばれて人気を集めた事で経営が持ち直し、坂口征二さんは新日本プロレスの救世主となりました。
1974年にはアントニオ猪木さんとのタッグチームでNWA北米タッグ王座を獲得。
その後も新日本プロレスで活躍し、1979年1月には「NWF北米ヘビー級王座」、「WWF北米ヘビー級王座」を獲得。
1986年のIWGP公式戦では、アントニオ猪木さんと対戦して初勝利を収めています。
1989年にアントニオ猪木さんが政界に進出するために社長を退くと、後任として坂口征二さんが新日本プロレスの社長に就任し、1990年3月に経営に専念するために現役を引退されました。
坂口征二が日本人最強との声も多い
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坂口征二さんは、ジャイアント馬場さんやアントニア猪木さんら伝説的プロレスラー達と同じ時代に活躍したプロレスラーですが、本気を出せば坂口征二さんがそんなレジェンド達の中でも最強だったとの声が多くあります。
当時のプロレスファンの間でも「本気を出せば坂口征二が最強」との説が多く上がっていたそうです。
坂口征二さんは柔道日本一の実績を持つ最強の柔道家でありながら、謙虚な性格だったため、スターであるアントニオ猪木さんを立てるために、あえてナンバー2の地位にいるとの噂が当時のファンの間で実しやかに囁かれた事もあったという事でした。
また、新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋こと高橋輝男さんは、自著の中で「日本人では坂口さんが最強」と何度も書いて話題になっています。
ただしこれは、プロレスを興行として観客に見せ場を作る技術はアントニオ猪木さんには叶わないが、純粋にプロレスの強さにおいては坂口征二さんが最強という意味でした。
坂口征二は「人間不信」と書いた紙を残して失踪した事がある
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「プロレス界世界最強の男を決める」というコンセプトで開催された第1回IWGPの決勝戦が1983年6月2日に行われました。この決勝戦を戦ったのはアントニオ猪木さんとハルク・ホーガンで、試合はハルク・ホーガンのアックスボンバーをまともに食らったアントニオ猪木さんが失神してのKO負けでした。
そして、坂口征二さんはこの試合の後「人間不信」というメモを残して数日間の間失踪しています。
実は、この決勝戦はアントニオ猪木さんが勝つという筋書きになっており、その展開を提案したのが坂口征二さんでした。しかし、アントニオ猪木さんが試合の直前に坂口征二さんに黙って筋書きを変えてしまったのです。
坂口征二さんはそれとは知らず、アントニオ猪木さんが本当に技を食らって失神して予定外の展開になってしまったと思い、アントニオ猪木さんが運び込まれた病院の病室の前で翌朝までずっと心配して待っていました。
しかし、翌朝になってアントニオ猪木さんの様子を見に病室に入ったところ、なぜかそこにはアントニオ猪木さんはおらず、替え玉としてアントニオ猪木さんの弟がベッドで寝ていたのです。
実は、アントニオ猪木さんは技を食らって失神したフリをしていただけで、深夜に周囲の目を盗んでこっそりと病室を抜け出していたのです。
坂口征二さんはこれに「こんな話があるか」と激怒し、「人間不信」というメモを残して失踪してしまったのでした。
坂口征二の人柄が滲み出るような引退試合も話題
常にアントニオ猪木さんを立てようとしていた事や、「人間不信」のエピソードなどから、坂口征二さんの誠実かつ真面目な性格が伝わりますが、その引退試合でもそんな人柄が滲み出ていたと話題になっています。
坂口征二さんの引退試合は、1990年3月15日に、地元の福岡県久留米市で開催されました。
坂口征二さんはかつて付き人を務めた木村健吾さんとタッグを組み、スコット・ホールとコーポラル・マイク・カーシュナーのタッグチームと引退試合を戦いました。
試合は坂口征二さんのチームが勝利しましたが、坂口征二さんは自分の引退試合であるにも関わらず、木村健吾さんや対戦相手に華を持たせ、最後には木村健吾さんいフォールを取らせて勝利するという展開を演出したのでした。
自分の引退試合なのにパートナーのフォローに徹して最後は木村にフォールを取らせてやると言う坂口さんに人柄が滲み出たような試合でしたね。 世界の荒鷲は最後まで謙虚でした。
坂口征二の嫁は元東宝女優の木村利子さん(旧姓表記)
坂口征二さんは1972年に結婚されています。坂口征二さんの嫁は元東宝女優の木村利子さんという方で、結婚発表以前から交際が噂されていました。
この嫁の利子さんと、ジャイアント馬場さんの嫁の馬場元子さんとの間に確執があり、これが坂口征二さんが全日本プロレスではなく新日本プロレスに合流する理由のひとつだったとも言われています。
坂口征二さんは嫁の利子さんととても仲が良いのだそうで、現在もよく夫婦で出掛けられたりされているという事です。
坂口征二の息子① 次男は人気俳優の坂口憲二
坂口憲二のプロフィール
生年月日:1975年11月8日
出身地 :東京都世田谷区
身長 :185cm
血液型 :A型
坂口征二さんには息子が2人います。坂口征二さんの次男は大人気俳優の坂口憲二さんです。
息子・坂口憲二さんは坂口征二さんゆずりの長身と、母親の利子さんゆずりの整ったルックスを持ち、1999年にモデルとしてデビューしました。
その後、俳優としての活動も開始し、ドラマや映画などで活躍し、多くの作品で主演するなど国内を代表する人気俳優となりました。
しかし、2018年に「特発性大腿骨頭壊死症」という病気を患っている事を発表し、治療に専念するために芸能活動の無期限休止を発表されています。
2019年10月、珈琲焙煎士として「The Rising Sun Coffee」というブランドを立ち上げ、焙煎所や店舗経営もされているという事です。
坂口征二の息子② 長男は総合格闘家・プロレスラーの坂口征夫
坂口征夫のプロフィール
生年月日:1973年7月26日
出身地 :東京都世田谷区
身長 :177cm
坂口征二さんの息子ふたり目は長男の坂口征夫さんです。
坂口征夫さんは、中学高校と柔道に取り組み、高校卒業後は建築関係の会社に就職しましたが、30歳の頃に総合格闘家としてデビューし、総合格闘技団体「パンクラス」などで活躍。
2012年からプロレス団体「DDTプロレスリング」に所属しプロレスラーとしてもデビューしています。
坂口征二の現在
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坂口征二さんは2020年の現在は78歳を迎えられています。
現在は新日本プロレスの相談役を務められています。
坂口征二さんは2017年2月に現役時代の古傷の右肘尺骨の手術を受けましたが、その患部に細菌が入ってしまい、40度の高熱が出て体の震えが止まらなくなり、4週間の入院を余儀なくされたそうです。
坂口征二さんはこの入院で123キロあった体重が110キロまで下がるなど、場合によっては命の危険すらある大変な状態だったそうですが、見事復活され、現在は元気に過ごされているようです。
まとめ
今回は、昭和の時代を代表する名レスラー・坂口征二さんについてまとめてみました。
坂口征二さんは、若い頃はアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんに次ぐスターとして、日本プロレスや新日本プロレスで活躍しました。
ファンの間では、坂口征二さんが日本人では最強との噂も多く上がっていました。また、真面目で誠実な人柄でも知られ、アントニオ猪木さんが自分に黙って試合の筋書きを変えた時には「人間不信」というメモを残して失踪したエピソードなども伝説的に語られています。
坂口征二さんの嫁は元東宝女優の木村利子さんで、2人の息子に恵まれています。長男は総合格闘家やプロレスラーとして活躍する坂口征夫さん、次男は人気俳優の坂口憲二さんです。
現在、坂口征二さんは新日本プロレスの相談役を務められ、元気に過ごされているようです。