伝説の空手家・大山倍達さんは、ビール瓶の素手割りや熊殺しなど超人的な伝説が多数あります。
今回は大山倍達の経歴や身長、名言と強さがわかる伝説の真実、家族や孫、力道山・木村政彦・芦原英幸との関係、死因やその後をまとめました。
この記事の目次
- 大山倍達は極真空手を創設した伝説の空手家
- 大山倍達の生い立ちや経歴
- 大山倍達の身長とは?
- 大山倍達は空手バカ一代のモデル
- 大山倍達の名言集20選
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実①:10円玉を指で曲げる
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実②:牛殺し
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実③:ビール瓶割り
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実④:黒帯は子供のようなもの
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実⑤:熊殺し
- 大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実⑥:元力士と柔道家を瞬殺
- 大山倍達の家族:実家
- 大山倍達の家族:結婚した嫁と子供
- 大山倍達は重婚&二重国籍だった?噂と真相
- 大山倍達の孫は覚せい剤&大麻で逮捕されている
- 大山倍達と力道山の因縁エピソード
- 大山倍達と木村政彦は力道山事件により絶縁している
- 大山倍達が芦原英幸を破門した理由とは?
- 大山倍達の死因とは?
- 大山倍達のまとめ
大山倍達は極真空手を創設した伝説の空手家
大山倍達
生年月日:1923年6月4日
没年月日:1994年4月26日
出身:朝鮮全羅北道金堤市(韓国の中西部)
国籍:日本→朝鮮籍→日本
活動:空手家、武闘家
大山倍達は韓国(出生時は日本領)出身の空手家です。
日本で空手を極め、フルコンタクトの空手を作り出し、1964年に空手団体「極真会館」を設立しました。
大山倍達は空手を世界に広めた立役者の1人であり、漫画「空手バカ一代」の主人公のモデルとして、少年たちの憧れの的でした。
若い頃からから空手を極め、その強さ・エピソードから様々な伝説を残している人物でもあります。
大山倍達の生い立ちや経歴
大山倍達の生い立ちや経歴を見ていきましょう。
韓国での生い立ち
大山倍達は、1923年に日本占領下の韓国(朝鮮全羅北道金堤市)で生まれました。1922年生まれという説もあります。
韓国名は「崔永宜(최 영의・チェ・ヨンウィ)」です。
実家は大きな農家であり、使用人を雇うような比較的裕福な家でした。
その使用人の中にボクシング経験者がいたことがきっかけでボクシングを始め、ガキ大将のような存在だったそうです。
ただ、大山倍達は少年時代は吃音を持っていたことで、周囲の人からバカにされたこともありました。
大山倍達の兄は、吃音について次のように述べています。
「大山は子どもの頃、なかなか思ったように言葉が出ないところがあった。思ったことを簡単に言葉に出来ないもどかしさが、大山を手の早い乱暴者にしたのかもしれません」
引用:大山倍達正伝
中学生になると、地元を離れてソウルの中学校に入学します。そして、そのころに本格的にボクシングを習い始め、市民大会で優勝したこともありました。
学生時代は暴力事件を起こして、学校を退学処分になり、親にも勘当されています。
日本への密航と終戦
1939年、17歳だった大山倍達は兄が留学していた日本へ行くことを決心します。
大山倍達が日本に行くには、「密航」という手段しかありませんでした。そこで、大山倍達は働いたお金を貯めて準備をし、日本に密航します。
大山倍達は日本軍人を志しますが、その年度の士官学校の入学試験はすでに終わっていました。
そのため、まずは山梨県の山梨航空技術学校に入学し、そこで学びながら、士官学校入学のための受験勉強をし、さらに肉体労働をして学費等を稼ぎます。
しかし、残念ながら士官学校の受験には失敗したようで、その後の大山倍達の動きはいろいろな説があります。
・政治の道を志した
・特攻隊を志願した
・朝鮮半島の民族運動に参加した
ただ、これらのことはあくまでも「説」で、真実かどうかはわかっていません。
その中でも確かなことは、1943年ごろから武術の道に進み始めたということです。
まずは松濤館流の船越義珍に師事して本格的に空手を始め、1年3ヶ月で初段に昇進。その後、密航前からの知り合いである曺寧柱や山口剛玄に空手の剛柔流を学びました。
また、早稲田大学高等師範部体育科を中退しています。
空手日本一と極真空手の創設
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戦後の大山倍達は、暴力団の用心棒をしたり、アメリカ兵に暴行を加えたことで逮捕されたこともありました。
逮捕後は脱走して、衆議院議員の手引きで身延山に身を隠し、その後は清澄山で山籠もりの修行をしています。
そして1947年に空手道選手権で優勝、1952年に柔道家の遠藤幸吉とアメリカに渡り、空手のデモンストレーションをしたり、プロレスラーやプロボクサーと闘ったりして、約1年後に帰国。
それからは、目白に建てた自宅を道場にして(野天道場)、空手の指導を行い、1954年には極真空手の前身となる大山道場を1954年に設立しました。
それと同時に、ボクシングや合気道、沖縄空手、柔道など幅広い武術を学び、それらのトップと親交を深めていきます。また、政治家とも親交がありました。
そして1964年、国際空手道連盟極真会館を設立し、世界的に広がっていく極真空手を誕生させたのです。
この極真会館の初代会長は、佐藤栄作衆議院議員(会長就任の3ヶ月後に総理大臣になった)が務めています。
極真会館設立後の大山倍達は、極真空手の普及に努めます。
生涯「一空手家」として修業に励み続けますが、それと同時にメディア戦略などに成功し、極真空手は日本全国に、そして全世界に広がっていきます。
最盛期の1990年代前半には、極真会館は世界123ヶ国に公認支部が1000以上、さらに会員は1200万人にもなっています。
大山倍達の身長とは?
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伝説であり最強の空手家と言われていた大山倍達ですから、なんとなく「巨人」のイメージがありますが、実は身長はごく平均的な173cmです。
当時の日本人男性の平均身長よりは少し大きかったかもしれませんが、「最強の空手家」で思い描く巨体よりかは小さいですよね。
さらに、大山倍達は身長のさばを読んでいたという説もあります。実際の身長は165~167cm程度という噂があるんです。
田中角栄氏との2ショット。田中角栄氏の身長は164cm(実際はもっと小さいと言われている)。
大山倍達は田中角栄氏よりも数センチしか高くありません。これを見てしまうと、確かに大山倍達の身長は173cmはなさそうですね。
ただ、筋肉はすごかったんです。
若い頃からウエイトトレーニングに力を入れていた大山倍達は、全身の筋肉が発達していました。
そして、大胸筋と背筋があまりにも発達していたために、胸部レントゲンを撮った時にはうっすらと影ができるほどだったと言われています。
大山倍達は、身長は高くないけれど、全身筋肉の鎧を身にまとっていた空手家なのです。
大山倍達は空手バカ一代のモデル
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大山倍達は空手バカ一代の主人公のモデルでした。
空手バカ一代とは、1971年から1977年まで少年マガジンで連載されていた空手漫画で、大山倍達の半生を基にに脚色を加えたストーリー展開になっています。
・第二部 無限血闘編
・第三部 悲願熱涙編
・第四部 昭和武蔵編
・第五部 空手巌流島編
・第六部 世界制覇編
この空手バカ一代が、大山倍達と極真空手を有名にした最大の立役者と言って良いでしょう。
大山倍達と梶原一騎は義兄弟の契りを結ぶほど交流を深めますが、映画の利益配分などでトラブルが起こり、疎遠になっています。
大山倍達の名言集20選
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大山倍達は名言をたくさん残した人物としても知られています。
ここからは、大山倍達の名言を紹介します。
・常に多人数を想定して稽古に励め!即ち前後、左右、上下に強くなれ。
・宇宙があって、地球があって、人類があって、世界があっての日本だ。
・空手に先手あり。されど私闘なし。
・武道とは自己鍛練、向上の武道なり。ゆえに心ある若者は武道を志向する。
・この地上において 自分より強い人間が存在することを絶対に許さない。
・余裕がないと目の前の物さえ見えぬ。余裕があれば人の心まで視えてくる。
・実践なければ証明されない。証明なければ信用されない。信用なければ尊敬されない。
・我 以外 皆 師なり
・口下手は聞き上手になれば良い。不器用な努力家になることだよ。
・相手の気持ちを察して発言する、それが本当の意味での敬語だ。
・受けた恩は忘れるな。受けた恨みは忘れてしまえ。
・鏡の前で毎朝一度みせる笑顔で、その日一日の性格が明るくなるよ。
・若いうちに1つ泉を掘っておけ!そこから無数の興味が湧いてくる。
・不言実行、有言有責任、自負自尊この三原則に反する男は男じゃない
・金脈ではなく 人脈である。
・一芸一能を身に付けておけば、ビジネス社会でも心に余裕がもてる。
・死中に活を求める覚悟で事に当たる。それが理想を実現する決め手だ。
・心にゆとりを持って人に対すれば、笑顔一つで味方がつき、敵を呑む。
・自分なりの行動や考えのない者に自分の言葉があるはずないよ
素晴らしい言葉の数々です。
これらの名言を見ると、大山倍達はただの「格闘技バカ」ではなく、空手に人生をかけて向き合っていたことがわかります。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実①:10円玉を指で曲げる
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大山倍達の強さを物語る伝説はいろいろありますが、真実かどうか疑わしいものもたくさんありますので、ここからは、大山倍達の伝説と真実について見ていきましょう。
まずは「10円玉を指で曲げる」です。
大山倍達は、親指・人差し指・中指の3本の指で10円玉硬貨を曲げることができたと言われています。
常識の範囲内で考えると、この強さ伝説は嘘っぽく感じますが、大山倍達は10円玉を指で曲げるところを見た人がたくさんいますので、この伝説は真実です。
大山倍達の全盛期の握力は、120~130kgとされています。成人男性の平均は50kgですので、いかに大山倍達の握力がすごいかがわかりますね。
また、空手家の山口剛史や南本一郎は実際に大山倍達が10円玉を指で曲げるところを見たと証言しています。
さらに、大山倍達の死後に自宅からは曲がった10円玉が出てきたそうです。
10円玉を指3本で挟んで曲げるなんて、とんでもないパワーですね。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実②:牛殺し
大山倍達の強さがわかる伝説と真実、次は「牛殺し」です。大山倍達は牛を瞬殺できる強さを持っているという伝説があるんです。
この「牛殺し」の強さ伝説は本当です!
その後、昭和29年に千葉で牛と対決し角を折り勝利、そしてその2年後に田園調布でも「空手家vs猛牛」は行われたのだった。主催は日本空手普及協会で大山氏が当時所属した剛柔流をはじめとした空手流派、日本拳法空手道などが協力した。TBSテレビ(当時KRテレビ)では夜7時から生中継された。牛は150貫=562kgある猛牛”雷電号”だ。
引用:【ヒストリー】64年前の今日、大山倍達が猛牛に勝利、対決中の悔し涙にも最強への執念を見る – eFight【イーファイト】格闘技情報を毎日配信!
動画では牛に戦意がないように見えるので、牛がかわいそうに思えてきますが、「人間VS牛」をゴールデンタイムに生中継するというのもなかなかすごい試みですね。
ちなみに、大山倍達は牛を合計47頭(うち4頭は即死)倒し、その様子は1954年公開の「猛牛と戦う空手」として公開されたそうです。
牛殺しの大山倍達の強さ伝説は真実だったんですね。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実③:ビール瓶割り
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大山倍達の強さ伝説、次はビール瓶割りです。大山倍達は手刀でビール瓶を水平に割ることができたと言われています。
空手家の山口剛史は実際にビール瓶を手刀で割るところを目撃したと証言しています。そのため、この強さ伝説も真実と言えますが、これにはトリックがあるかもしれません。
手刀によるビール瓶の切断なども正道会館の宗師、石井和義により、あらかじめ温めていれば容易にできると暴露されてしまった。
ちなみに、とんねるずの石橋貴明さんが高校時代にバイトをしていた中華料理屋に、大山倍達が来ていたそうです。
栓抜きを持っていかなければ、手刀でビールの栓を抜いてくれるかと思って期待していたら、普通に「栓抜きは?」と言われてガッカリした、と話していました。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実④:黒帯は子供のようなもの
大山倍達の強さ伝説、次は極真会館の最古参である郷田師範の証言です。大山倍達は最強の空手家と言われていますが、本当に強かったのでしょうか?
その問いに対し、郷田師範は次のように答えています。
・黒帯が誰も折れなかった太い角材があり、総裁でも絶対ムリだろと思ったが手刀で折ってビックリした
実際に、大山倍達の近くにいて、極真空手を極めた人の証言は信ぴょう性があります。
黒帯の空手家との実力差は、大人と子供ほどあったという大山倍達。恐るべしです。
また、「33誰も折れない角材を手刀で大山倍達は折ってしまう」ということを考えると、ビール瓶もトリックなしで手刀で割れていた気がします。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実⑤:熊殺し
大山倍達の強さがわかる伝説、次は「熊殺し」です。大山倍達は牛殺しに続き、熊殺しの噂もあるんです。
ただ、これは残念ながら真実ではありません。
「熊殺し」の異名を持っているのは、大山倍達ではなく、ウィリー・ウィリアムスというアメリカの空手家です。
ウィリー・ウィリアムスは極真会館出身ですので、大山倍達の門下生になります。
このウィリー・ウィリアムスは『地上最強のカラテPART2』という番組の中で、熊と素手で戦っているので、「熊殺し」の異名が付きました。
大山倍達は「牛殺し」の異名があり、さらに極真出身の空手家であるウィリー・ウィリアムスなので、聞いた人が混同して「大山倍達は熊殺し」という噂が出てしまったのでしょう。
ただ、全盛期の大山倍達であれば、熊殺しをしても何らおかしくはありませんが。
大山倍達の強さがわかる伝説エピソードと真実⑥:元力士と柔道家を瞬殺
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大山倍達の強さがわかる伝説、次は元力士と柔道家を瞬殺したという伝説です。
これは、大山倍達が柔道家の木村政彦らと昭和26~28年ごろ、地方巡業をしていた時のエピソードで、真実です!。
プロレスの試合が終わった後、「誰か挑戦する人はいませんか?」と観客に呼び掛けたところ、元大相撲力士が大山倍達に挑戦してきました。大山倍達はこの元力士を瞬殺します。
次に挑戦してきたのは、全日本クラスの柔道家でした。この柔道家も、大山倍達は瞬殺しました。
そして、「2人同時で良いですよ」と大山倍達が挑発したため、元力士と柔道家が一緒に襲い掛かりましたが、大山倍達は2人を一撃ずつで倒してしてしまったのです。
そして、2人はすぐに病院送りになり、元力士はろっ骨が2本も折れていたそうです。
大山倍達、恐るべしです!
大山倍達の家族:実家
大山倍達は、日本統治下の朝鮮半島(現在の韓国)で生まれています。
・母親
・7人兄弟の4番目が大山倍達
実家は農家でしたが、裕福だったため、中学は実家を離れてソウルにある中学に進学しています。
また、学生時代の暴力事件で親からは勘当されています。
大山倍達の家族:結婚した嫁と子供
大山倍達の家族、次は結婚した嫁と子供を見ていきましょう。
嫁は藤巻智弥子
大山倍達は1946年に6月、藤巻智弥子さんと結婚しています。
藤巻智弥子さんは、俳優の藤巻潤さんの実の姉です。
また、媒酌人は日本のフィクサーだった田中清玄でしたので、このころから大山倍達は人脈が広かったのでしょう。
子供は3人
大山倍達は、藤巻智弥子さんとの間に3人の娘をもうけました。
・次女:恵喜
・三女:喜久子
三女の喜久子さんは、ずっと海外で生活していましたが、大山倍達の死後に国際空手道連盟大山倍達極真会館の代表理事に就任し、事実上跡を継いだ形になっています。
大山倍達は重婚&二重国籍だった?噂と真相
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大山倍達は韓国にも妻子がいたと言われています。
日本での結婚は両親に反対されたため、1970年ごろに韓国で韓国人女性と結婚式を挙げているようです。そして、3人の息子が生まれました。
3人の息子は、『我が父、チェ・ペダル―息子が語る大山倍達の真実』という本を出版しています。
また、大山倍達は1ヶ月のうち1週間は韓国で過ごすという習慣がありました。
このことからも、韓国にも家族がいたことはほぼ間違いないでしょう。ただ、Wikipediaには次のように記載されています。
「韓国にも戸籍があり妻と3人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は生年が違う事から、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。
昔のいざこざで戸籍の生年月日が異なっていたようですが、実際は韓国でも日本でも結婚していて、重婚だったというわけです。
それどころか、大山倍達は「韓国にも戸籍がある」と書かれています。
大山倍達は戦後は朝鮮籍でしたが、1968年に日本に帰化していますが、日本は二重国籍を認めていません。
日本国籍を取得した後も、韓国籍を残していたということになるので、二重国籍だった可能性が高いようです。
大山倍達の孫は覚せい剤&大麻で逮捕されている
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大山倍達には孫がいます。大山倍達の三女の喜久子さんの息子である大山照羅は、2018年に覚せい剤使用で逮捕されています。
この時は、同棲女性に暴行を加えたことで警察沙汰になり、そこから覚せい剤使用が発覚しました。
罪状は「覚せい剤取締法違反(使用)」。グレーのスーツ姿で法廷に現れた照羅氏は、覚せい剤の使用について「間違いありません」、「14歳で初めて覚せい剤を使用した」と容疑を認めている。判決は、懲役1年6ヵ月(執行猶予3年)が下された。
また、この大山倍達の孫逮捕を報じたFRIDAYは、「MAS OYAMA COIN(大山倍達の仮想通貨」詐欺の疑いも報じています。
これが報じられたのは2019年ですが、2021年9月時点でこの「MAS OYAMA COIN」のWebサイトは閲覧することができない状態で、すでに取扱いが終了しているのでしょう。
この「MAS OYAMA COIN」の終了は、孫の大山照羅の再逮捕に関係があるかもしれません。
2019年2月27日に、大山照羅は大麻所持で再逮捕されているのです。
1ヶ月前に覚せい剤使用で執行猶予判決が出たばかりでの再逮捕ですから、今回は執行猶予が取り消され、実刑判決が下されることは間違いありません。
大山照羅は「MAS OYAMA COIN」の最高統括責任者でしたから、最高統括責任者が刑務所に収監されたら、仮想通貨も終了ですよね。
大山倍達と力道山の因縁エピソード
大山倍達は、昭和の大スターの力道山と深い因縁がありました。
腕相撲で力道山が奇襲
因縁のそもそもの始まりは腕相撲でした。
これは雑誌の取材で、大山倍達は力道山と腕相撲をすることになりました。
ただ、これは真剣勝負ではなく取材でしたから、お互いの顔を立てるために、「結局引き分け」という結論ありきの腕相撲のはずでした。
しかし、力道山はカメラのシャッターが切られる瞬間に力を入れて、大山倍達を腕相撲で負かしてしまったのです。
大山倍達は思わぬ奇襲に、なす術がありませんでした。
木村政彦にも力道山が奇襲
出典:youtube.com
腕相撲の件があり、力道山のことを良く思っていなかった矢先の昭和29年、今度は大山倍達の盟友である木村政彦と力道山がプロレスで試合をすることになりました。
このプロレスも「あらかじめ勝敗が決まっていて、台本があった」試合でした。
しかし、力道山は木村政彦に奇襲を仕掛け、ボッコボコにしたのです。
大山倍達が力道山に挑戦表明
出典:ameblo.jp
このプロレスをリングサイドで見ていた大山倍達は、自分も食らった力道山の奇襲攻撃に腹を立てリングに上がろうとしましたが、周りがそれを必死で止めました。
この時の様子は、「空手バカ一代」にも描かれています。
そして、その数日後、大山倍達は力道山に挑戦することを表明しましたが、力道山はその挑戦を受けることはなく、この2人の試合は実現しませんでした。
ナイトクラブで一触即発
自分の挑戦を受けてくれない力道山に、大山倍達はイライラし、力道山が出没しそうな場所に出向くようになります。
そして、赤坂のナイトクラブでとうとう力道山に遭遇しました。
この時、力道山はケガをしたふりをしたり、マイクを掴み振り上げたりなど、「プロレス王者」とは思えないようなみっともない振る舞いをしたようです。
そのため、大山倍達は戦意を喪失してしまったというエピソードがあります。
力道山も本気で恐れる男が、大山倍達だったということですね。
大山倍達と木村政彦は力道山事件により絶縁している
若い頃からの盟友
大山倍達が力道山に本気で怒った原因になった木村政彦は、もともと柔道家でした。
15年間無敗を誇り、天覧試合でも優勝するなど、大山倍達が本気で感動するほど無敵の柔道家だったのです。
大山倍達は木村政彦のことを「木村政彦とは血の繋がった兄弟以上に親しい間柄だった」と表現するほど2人の関係性は良く、昭和26~28年の地方巡業の一緒に回っています。
力道山の件で袂を分かつ
そして、木村政彦に対する力道山のだまし討ち事件が起こりました。
大山倍達は力道山に対して、当事者の木村政彦以上に激怒し、力道山への挑戦を表明して、力道山が立ち寄りそうな場所を探すほどに執念を燃やしていました。
しかし、木村政彦は力道山の形だけの謝罪・手打ちを受け入れてしまったのです。
そのことに大山倍達は怒り、盟友だった木村政彦に絶縁を言い渡します。
「先輩、バカじゃないか。こちらはね、命を賭けて力道を追っかけてるのに、先輩なあーにやってるんですか」
それ以降、大山倍達と木村政彦は会うことはなかったと言います。
大山倍達が芦原英幸を破門した理由とは?
空手バカ一代の二代目主人公
出典:ameblo.jp
大山倍達は芦原英幸ともトラブルを起こしています。
芦原英幸とは、大山道場時代から大山倍達の弟子で、「ケンカ十段」の異名を持つ空手家です。
「空手バカ一代」では後半から準主役級の扱いになり、読者からの人気も大山倍達と芦原英幸で二分するほどになったため、「二代目主人公」とも言われています。
暴力事件で無期禁足処分
芦原英幸は暴力事件を起こして、極真会館を無期禁足処分になったことがありました。さすが「ケンカ十段」と言われるだけあって、けんかっ早いのかもしれません。
「空手バカ一代」では、この事件で芦原英幸は破門となっていますが、実際は無期禁足処分だったようです。
ただ、大山倍達はこの時点で芦原英幸を破門にするつもりだったとされています。
対立後に永久除名
禁足処分が解かれた後、芦原英幸は四国で道場の支部長となり、門下生が増えていきます。
このことから、大山倍達と芦原英幸は対立するようになり、1980年に芦原英幸は大山倍達から永久除名処分を言い渡されました。
この対立は、芦原英幸が大きな力を持つようになったこと、さらに空手バカ一代で人気を博すようになったことで、大山倍達が嫉妬したことが原因では?と言われています。
この破門の2年後、大山倍達は芦原英幸のもとに刺客(北海道支部長・高木薫)を送りましたが、刺客は芦原英幸に返り討ちに遭っています。
芦原本人が語る事件の詳細から、現場にいた弟子の証言、襲撃しようとした当事者・高木の言葉に、そして大山倍達の弁明まで……。高木は、大山から指示されて仕方なくやったと言い、大山は、高木がどうしてもやるといって聞かなかったと語っている。
刺客を送って失敗し、言い訳をしているなんて、ちょっとカッコ悪いですね。
大山倍達の死因とは?
大山倍達は1994年4月26日に、東京都中央区にある聖路加国際病院で死亡しました。
死因は肺がんによる呼吸不全です。
1994年1月から風邪をこじらせたような症状が続き、1994年3月に人間ドッグで検査したところ、肺がんが見つかりました。この時点ですでに末期の状態でした。
手術をする方法も一時は検討されたが、総裁自身が「私はサムライだから、自分の体にメスを入れてまで生きたくはない」と言ってこれを拒否したという。
死の前日の4月25日まで意識ははっきりし、自分でトイレに行き、痛み止めの薬を使うこともなかったそうです。
遺言書でもめる
大山倍達は遺言書を残していました。
しかし、この遺言書は公証役人がいなく、妻の智弥子さんも遺言書の存在を知りませんでした。
また、遺言書の作成には遺言書による利益関係者がいたため、裁判で遺言書が有効かどうかを確認することになります。
そして、1995年にこの遺言書は無効であるという判決が出ました。
さらに、極真会館は法人化されていなかったので、大山倍達の財産分与・「極真」という商標利用で裁判沙汰になりました。
また、大山倍達というカリスマを失った極真会館は空中分裂し、極真会館だけでも20以上の団体が存在し、独立も含めると数えきれないほどになってしまいました。
大山倍達のまとめ
大山倍達の生い立ちや経歴、身長や体格、名言集と伝説の真実、家族や嫁・子供、重婚&二重国籍の噂、孫の逮捕、力道山・木村政彦・芦原英幸との関係、死因とその後をまとめました。
伝説の空手家・大山倍達。フルコンタクトの極真空手を作ったことで、空手の地位が世界的に向上したことは間違いないでしょう。