プラム麻里子は日本プロレス史上初めて試合中の事故で死去した女子プロレスラーです。
今回はプラム麻里子のプロフィールや経歴、死亡事故の詳細や最後の試合動画の有無、死因、尾崎魔弓のその後と命日、墓などをまとめました。
この記事の目次
プラム麻里子はリング禍の事故で死去した女子プロレスラー
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プラム麻里子
本名:梅田 麻里子
生年月日:1967年11月1日
没年月日:1997年8月16日
出身:東京都大田区
身長:160cm
所属:ジャパン女子プロレス→JWP女子プロレス
活動:プロレスラー
プラム麻里子は、JWP女子プロレス所属だった女子プロレスラーです。
1997年8月15日に広島市で行われた試合で、対戦相手の尾崎魔弓からライガーボムを受けて、意識不明の重体となり、救急搬送されたものの、翌日に死亡しました。
プラム麻里子は、日本のプロレス史上で初めてリング禍で死去したレスラーとなりました。
プラム麻里子の経歴 【ケガが多い選手だった】
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プラム麻里子は1986年、ジャパン女子プロレスの1期生として、プロレス界に足を踏み入れます。
「プラム麻里子」というリングネームは、本名の「梅田麻里子」の「梅」を英語に変えて「プラム麻里子」としました。
もともとは、ジャパン女子プロレスをプロデュースしていた秋元康が「コマ梅田」と命名したようですが、そこから「プラム麻里子」に変えたようです。
第6代JWP認定ジュニアチャンピオン、第4代UWA女子インターナショナル王座などになり、人気レスラーになります。
しかし、1992年にジャパン女子プロレスは経営不安や神取忍の反発などで解散することになり、解散後はJWP女子プロレスに移籍します。
JWPに移籍以降のプラム麻里子は、技術が高いレスラーとして知られていましたが、骨折などのケガが多くなり、ケガから復帰してはまたケガで長期療養を繰り返していました。
プラム麻里子は事故前の頃には、引退を考えていたのかもしれません。
復帰したときの身体を見て、これは引退が近いと感じた。筋肉が落ち、贅肉がだいぶついていた。でも、面倒見がよさそうだし、技はうまいから、いいコーチになるだろうと思っていた。
プラムの家族は家に帰るたび、「もう辞めなさい!!」言うてたみたいです。
プラムも結婚したら足洗う言うてたみたいです。
そんな状態の時に、あの1997年8月15日のタッグマッチでの事故が起こってしまったのです。
プラム麻里子は試合中に事故で死去
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プラム麻里子は、試合中の事故で死去しました。
1997年8月15日、広島県広島市のアステールプラザでJWP女子プロレスのタッグマッチが行われました。
VS
尾崎魔弓・天野理恵子(OZアカデミー)
この試合中にプラム麻里子は尾崎魔弓からライガーボムを受け、ピンフォール負けとなります。
そして、直後にプラム麻里子は意識不明の重体となり、緞帳が下りて救急車が呼ばれました。
病院に救急搬送されて、緊急開頭手術が行われましたが、翌日の8月16日に容体が急変して死亡しています。
プラム麻里子の最後の試合の動画はない
プラム麻里子の最後の試合の動画はありません。
1997年当時、女子プロレスの人気は下火になっていて、この試合のテレビ中継等はありませんでした。
また、当時は今のように携帯電話・スマートフォンがありませんでしたので、動画を撮っている観客もいなかったのです。
そのため、試合中の事故が起こった動画はないのです。
現在残っているのは、プロレス雑誌のカメラマンがとらえたプラム麻里子が救急搬送される時の写真のみになります。
プラム麻里子の死因は急性硬膜下出血・脳挫傷
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プラム麻里子の死因は、急性硬膜下出血と脳挫傷です。
脳を覆う硬膜下に出血が起こったことで、脳を圧迫するのが「急性硬膜下血腫」です。脳そのものが傷つくことが「脳挫傷」ですね。
プラム麻里子は、尾崎魔弓のライガーボムを受けた際、マットに頭を強打したことで、急性硬膜下出血と脳挫傷を負いました。
緊急開頭手術で血腫等を取り除いたと思われますが、手術では対応できないほど脳のダメージは深刻だったのでしょう。
プラム麻里子の事故は尾崎魔弓のライガーボムのせい?
プラム麻里子は、対戦相手の尾崎魔弓からライガーボムという技をかけられ、後頭部を強打して死去しました。
では、尾崎魔弓が危険な技をかけたことが原因で、プラム麻里子は死亡したのでしょうか?
ごく普通の技だった
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ライガーボムは豪快で見栄えが良いライガーボムは、プロレスラーの獣神サンダーライガーの技で、相手を持ち上げて落とす技です。
相手を落とす時には自分はジャンプして開脚して尻もちをついて着地します。そして、空中で相手の腕を自分の足に絡める(相手の腕に自分の脚を乗せる感じ)ことが特徴です。
動画を見るとわかるように、後頭部を打ち付ける技ではなく、最初に背中がマットにつきます。
ライガーボムは特に危険な技というわけではなく、ごく一般的なプロレス技であり、もっと危険なプロレス技はたくさんあります。
最後の試合でも特に、危険な角度で落下したというわけではないようです。
Yahoo!知恵袋で「プラム麻里子が受けた技は危険だったのか?」という質問に対し、次のような回答が寄せられました。
普通に見えたけどなぁ
あれなら堀田のピラミッドドライバーのがエグい
そんなに急角度な落とし方ではなく普通のつなぎ技程度の落とし方でした。
このことからも、尾崎魔弓のライガーボムは特に危険な技だったというわけではないようです。
コンディション不良による受け損ないの可能性あり
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プラム麻里子はコンディション不良で技を受け損なったために、頭から落ちてしまい、事故が起こって死去したと思われます。
あのライガーボムは普通でしたよ。ただJWPは全女と違い、喰ったり飲んだりドンチャン騒ぎ好きで、当時の記憶ですが・・亡くなる前も飲みに行ってたそうです。
プロレスは技をかける方もプロであり、技を受ける方もプロだから、一見危険に見える試合も成立するのです。
だから、一瞬の気のゆるみが出て、ライガーボムを受けきれなかったのかもしれません。
プラム麻里子の最後の試合でタッグを組んでいたコマンド・ボリショイは、次のように語っています。
大空を即復帰としなかったのは、準備不足や体調不良の選手をリングに上げてはならないという、プラムさんから得た教訓の一つである。
おそらく、プラム麻里子はあの事故の日はコンディション不良だったのでしょう。
でも、試合に穴をあけるわけにはいかないから、試合に出て、あのような事故になってしまったのだと思われます。
このコンディション不良での事故は、三沢光晴と同じですね。
プラム麻里子の死後も尾崎魔弓はプロレスを続けている
プラム麻里子にライガーボムをかけて死亡させてしまった尾崎魔弓は、ジャパン女子プロレス時代からのプラム麻里子の同期であり、親友でした。
試合中の事故であり、悪意はない偶発的な事故で、技のかけ方には全く問題はありませんでした。
尾崎魔弓の責任はなかったとしても、自分がかけた技で親友が死亡してしまったことで、精神的なショックはとても大きかったとのことです。
ただ、尾崎魔弓は事故の後もプロレスラーを辞めることはありませんでした。
1997年にフリーに転向後は主にGAEA JAPANで試合を行い、2006年にはOZアカデミー女子プロレスを立ち上げて社長に就任し、現役レスラーとしても活躍しています。
さらに、マネージャーのポリスと交際していたことでTBSの「夜な夜なラブ子さん」に出演していました。
ポリスとは破局しましたが、この番組が縁で格闘家・砂辺光久(ミッチー)と交際を始めたことも明かしています。
プラム麻里子の命日には追悼試合が開催
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プラム麻里子の1周忌前である1998年8月13日には、「プラム追悼興行」と称してJWP女子プロレスやほかの女子プロレス団体共催で追悼イベントが開催されました。
また、対戦相手だった尾崎魔弓がOZアカデミー女子プロレスを立ち上げてからは、OZ主催で毎年命日前後に「プラムの花咲くOZの国」という追悼イベントを開催しています。
もちろん2021年も開催され、この「プラムの花咲くOZの国」には尾崎魔弓はもちろん、アジャコングや倉垣翼、AKINOなどトップ選手・人気選手も参戦しています。
尾崎魔弓はこの「プラムの花咲くOZの国」以外にも、東日本大震災を機に「プラムズハート女子プロレスの会」というチャリティー組織を立ち上げています。
プラム麻里子のお墓に墓参りする人が多い
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プラム麻里子のお墓には、毎年命日になるとたくさんの女子プロレスラーがお参りに来ています。
プラム麻里子最後の試合でタッグを組んでいたコマンド・ボリショイは、「PURE-J」という団体を立ち上げていますが、命日には毎年選手全員でお墓参りをしています。
そのほか、井上貴子もお墓参りに行っていますし、命日前後には沢山の女子プロレス関係者がお参りに来る場所となっています。
プラム麻里子のまとめ
プラム麻里子のプロフィールや経歴、事故での死去と最後の試合の動画の有無、死因や対戦相手だった尾崎魔弓のその後や命日のイベント、お墓などをまとめました。
プラム麻里子はプロレス史上初めてリング禍で死去したレスラーです。
プラム麻里子の事故を教訓に、少しでも安全な状態で試合をしてもらいたいですね。