1936年5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、阿部定が愛人・石田吉蔵と性交中に絞殺し、局部を切り取った猟奇的殺人事件「阿部定事件」。
この記事では、「阿部定事件」の詳細と阿部定のその後、「美少女」と呼ばれた容姿など現在までの情報について詳しくまとめましたのでご紹介します。
この記事の目次
「阿部定事件」とは
阿部定のプロフィール
阿部定(あべ さだ)
生誕: 1905年5月28日
出身地: 東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田多町)
死没: 没年不明(1974年以降消息不明)
別名: 吉井昌子、田中加代
職業: 芸妓、娼妓
罪名: 殺人罪
刑罰: 懲役6年(未決勾留120日を含む)
親: 阿部重吉、阿部カツ
「阿部定事件」は1905年5月28日の明治38年に起きた芸妓・阿部定による事件で、現在からすればかなり昔の事件ですが、現代まで小説や映画など多くの作品の題材になってきました。
決して結ばれない恋の果てに恋人を絞殺した阿部定は、局部を切り取って大事にしていたことから「純愛」として現在まで語り継がれる一方で、利己愛の猟奇的な殺人事件としての見方もあります。
ここからは阿部定の起こした「阿部定事件」のについてご紹介していきます。
阿部定、愛人と性交中に絞殺し局部を切断
”阿部定パニック”で世間を騒然とさせた
阿部定は江戸時代から続く畳店の名家に末の娘として生まれ、その容姿端麗から近所では評判の美少女でした。
しかし、思春期になる頃に家の跡継ぎ騒動など家庭内の問題や、15歳の頃に親しい大学生から強姦されたことをきっかけとして阿部定は不良少女となり、不良少年らを引き連れて遊郭などで遊びまわるようになり、17歳になる頃に父親に勘当される形で知り合いの女衒に売られ芸妓となりました。
阿部定はその後身を落として娼婦となり、各地を転々としていましたが、東京・中野にある料亭「吉田屋」で”田中加代”の偽名を使って女中として働き始めました。
働き始めて1か月もした頃、阿部定は「吉田屋」の主人である石田吉蔵と惹かれあい、他の関係者に隠れて身分差を超えた禁断の恋を始めました。
しかし、決して結ばれない恋に悲観した阿部定は次第に破局的な考えをするようになり、1936年5月18日に東京市荒川区の待合にて性交中に石田吉蔵を絞殺し、局部を切り取って石田吉蔵のシャツやステテコとともに持ち去りました。
残されたシーツには石田吉蔵の血で「定、石田の吉二人キリ」と書き残しており、石田吉蔵の左腕には「定」と文字を刻みました。
事件が発覚するとこの猟奇的な様子に世間は騒然となり、阿部定が逃亡中ということもあり全国では特徴の似た美人を見ては阿部定かと疑う”阿部定パニック”が発生しました。
しかし、阿部定は2日後に訪ねてきた警察にあっさりと身分を明かして逮捕され、懲役6年の刑に服しましたが、1941年に恩赦により釈放されました。
阿部定、逮捕直後のほほ笑みが話題に
阿部定は逮捕時の報道で笑っていた
通常、逮捕された犯人は世間に晒されることを嫌って顔を隠すか、いかにも犯人らしい仏頂面をしているものですが、阿部定はとても晴れやかな笑顔をしていたことが後々まで深い印象を与えました。
読売新聞では「妖女”阿部定”遂に捕まる 刑事の前にニヤリ笑う」、報知新聞は「稀代の妖婦阿部定 艶然・笑いながら自供」、東京日々新聞は「愛し男を独占して 血に笑ふ魔性の化身」と報じ、世間は阿部定の犯した猟奇的殺人事件について盛り上がりました。
阿部定、裁判で愛人の男性器を「一番かわいい大事なもの」と表現
独特の価値観を法廷で披露した阿部定
阿部定は法廷の場での供述で、石田吉蔵を殺害した理由について「非常に愛していた、全てが欲しかった」と語り、一方で石田吉蔵とは婚姻関係を結ぶのが難しかったため、他の女性に抱かれたり結婚してしまう可能性を恐れ、誰にも触れさせないために殺したと述べました。
また、なぜ石田吉蔵の局部を切断したかについては阿部定は以下のように答えています。
裁判で「吉蔵を殺して永久に自分のものにするほかないと決心した」と語った定は、「なぜ男性器を切り取ったのか」という質問に「一番かわいい大事なものだから、誰にも触れさせたくない。石田の男性器があれば一緒にいるような気がして淋しくないと思った」と答えたという。
この一途なまでの石田吉蔵に対する阿部定の思いは、世間では「純愛」ともてはやされることにもなり、特に世の男性は女性が男性の性器を求める究極的な姿に阿部定の虜になる人が続出しました。
阿部定事件の模倣事件が相次いでいた
1953年に東京都文京区で「阿部定事件」を模倣したような痴情のもつれの末に男性の局部を女性が切り取る事件が発生しました。
1954年には、大阪府の被差別部落出身の女性教師が婚約者から結婚差別を受けて、局部に硫酸をかける事件が起き「第二のお定事件」と呼ばれました。
また、1972年4月29日にも東京都杉並区荻窪のアパート2階にて、当時予備校生だった旅館の跡取り息子(当時21歳)と、この旅館の仲居として働いていた女性(当時32歳)が別れ話のもつれの末に、女性が男性の局部を包丁で切りつけ、皮一枚を残して切断するという事件が起き「昭和の阿部定事件」と呼ばれました。
阿部定の犯行動機~一方的な利己愛と異常な独占欲の塊だった
阿部定は“究極の純愛”を貫いた?
阿部定と対談した経験がある作家の坂口安吾は、阿部定の犯した猟奇的殺人は理解のできない蛮行ではなく、誰もが同情できる部分がある事件だったと語っています。
本人と対談した作家の坂口安吾は後に「世界もいらない、ただ一人だけ。そのあげく男の一物を斬りとって胸にいだいて出た。外見は奇妙のようでもきわめて当たりまえ。同感同情すべき点が多々あるではないか」と振り返っている。
一途に男を想う”究極の純愛”として語られることもあり、数々の映画や文学作品のモチーフにもなった阿部定事件。1998年には『失楽園』が人気を呼び、再びブームとなった。
阿部定を美化すると「純愛」ということになりますが、冷静に精神分析をすると異常なまでの利己愛と男性に対する根源的な恨みが隠されていたとも言われています。
阿部定、最新心理鑑定で見えた一方的な利己愛
心理学で阿部定を見るとやはり異常者?
現代の心理学で阿部定を冷静に分析したところ、「純愛」どころか阿部定の一方的な利己愛と、大学生に強姦されたことで自暴自棄になり、人生を転落させていった男性への根本的な恨みが隠れていた可能性が指摘されています。
「この2人は知り合って1カ月足らずで、関係していたのは、たかだか2、3週間。昼も夜もセックスをしていたというが、愛しているというよりも性的な関係だけしかなくて、人間としての関係はなかったのではないか。定は”一緒にいたかった””独占したかった”と言っているが、ここにも矛盾がある。殺してしまったら一緒にいることはできない。男性器とは一緒にいたかもしれないが、それは物でしかない。自分のみが尽くして、相手を所有したいという自己中心性が伝わって来る」。
阿部定の証言や鑑定書から伺えるその精神性は異常な独占欲の塊で、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害が感じ取られ、石田吉蔵を愛していたのは全て自分に酔いしれるための独善的なものだった可能性が高いようです。
阿部定の生い立ち~近所でも評判の美少女だった
阿部定、1歳まで近所の家で育つ
阿部定は幼少期は家族と離れて生活していた
阿部定は東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)にある江戸時代から続く名家の畳店「相模屋」を営む父親・阿部重吉と母親・カツの間に末娘として生まれました。
しかし、阿部定は生まれた時に仮死状態であり、その後母親の母乳の出が悪かったことから、1歳になるまで近所の家で育ち、家族とは4歳になるまで話すことができませんでした。
この体験が阿部定の情緒を不安定にさせて癇癪持ちとなり、裁判でもヒステリーと診断される要因だったと言われています。
阿部定、美少女と言われた少女期
近所でも評判の美少女で両親に寵愛された阿部定
阿部定は幼少期から母親の勧めで三味線や常磐津を習っており、その美少女ぶりから「相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)」と呼ばれて近所で評判でした。
母親は阿部定が習い事に行く際には毎回新しい着物を着せて髪の大人のように結い、両親は評判の良い阿部定に鼻が高く、まるで猫のようにかわいがりました。
何不自由なく甘やかされて育った阿部定は次第に高慢で見栄っ張りな性格になっていきました。
両親は学校での学業よりも歌や踊りなど芸能の習い事を優先させていたため、阿部定はいつも大人の世界にいたことから10歳になる頃には性行為の意味を知っていました。
そうした生活から阿部定は高等小学校に進学しましたが、親しい大学生に強姦され人生が転落し始める15歳の時に自主退学しました。
阿部定、強姦され不良となった思春期
阿部定は処女を失って自暴自棄になった
阿部定は15歳(数え年満14歳)の頃に、仲の良かった大学生とふざけあっているうちに強姦され、これが初体験でした。
局部から2日間血が止まらなかったため、母親は大学生と話をつけるために自宅を訪れましたが、出てくることはなく泣き寝入りとなりました。
阿部定は処女を失ったことで「お嫁に行けなくなった」と自暴自棄になり、当時家の跡継ぎ騒動で母親が阿部定に大人の汚い世界を見せないためにお小遣いを渡して遊びに行かせていたこともあり、次第に不良になっていきました。
阿部定は家から数十万円を抜き出しては浅草界隈で不良仲間とつるむようになり、その悪さぶりは浅草の女極道・小桜のお蝶とも張り合うほどになったことから、その名声は地元神田にまで轟いていました。
男遊びに浸る不貞な阿部定に対して父親は激怒して、折檻をしたり家に監禁することもありました。
阿部定、家を勘当されて芸妓になっていた
阿部定は親に売られて芸妓となった
不良時代の阿部定の生活は、昼頃に起きてきて昼食を兼ねた朝食を食べてからお風呂に入り、その後外出して不良少年ら10人程度を引き連れて凌雲閣で映画を鑑賞し、その後居酒屋で夜遅くまで飲むというものでした。
こうした生活を1年ほど続けていた頃、阿部定が16歳の頃に三女の千代の縁談が決まったため、両親は対面を保つために不良娘である阿部定を家から追い出し奉公に出しました。
しかし、阿部定は奉公先で屋敷の娘の着物や宝石類を盗んだことで警察沙汰となり、1ヵ月で送り返されてきました。
それに激怒した父親はそれから一年間、阿部定を自宅に監禁して生活させていましたが、そうした折に長男・新太郎が家のお金全てを持って蒸発したため、畳店「相模屋」は廃業となりました。
一家は埼玉県入間郡坂戸町(現在の坂戸市)に引っ越し、都内にいくつか不動産を持っていたため生活に困ることはありませんでしたが、阿部定の男漁りが目に余った父親と兄の堪忍袋の緒が切れて、長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫で、女衒をしている秋葉正義に売り渡してしまいました。
勘当されて芸妓となった阿部定は、前述のように身を落とし続ける中で石田吉蔵と出会い、「阿部定事件」を起こすことになりました。
「阿部定事件」のその後と現在~死ぬまで愛人の供養をしていた
阿部定、愛人・石田吉蔵の命日に毎年墓参りしていた【晩年の画像あり】
阿部定は死ぬまで毎年石田吉蔵のお墓を訪れていた?
暗黒舞踏の創始者・土方巽と晩年の阿部定
阿部定は釈放後、「吉井昌子」と名前を変えて生活していましたが、戦後に乱刷された「阿部定事件」関連本のひとつ『昭和好色一代女 お定色ざんげ』について名誉棄損の裁判を起こし、”阿部定”であることを再び世に周知しました。
この時阿部定は一般人男性と事実婚状態でしたが、これがきっかけで破局しました。
その後阿部定は割烹「星菊水」で名物女中として働くなどしていましたが、1971年に手紙を残して失踪してからは所在が不明となっていました。
しかし、阿部定は事件後寺へ石田吉蔵の永代供養をしており、1987年頃まで毎年命日には花を供えていたことから、阿部定が亡くなったのは1987年だと言われています。
阿部定事件が元になった作品は大人気に
「阿部定事件」が元になった作品群
阿部定事件を題材にした小説や映画は今も人気のようです。
【小説】
1997年(平成9年)・・・「失楽園」渡辺淳一
【映画】
1973年(昭和48年)・・・「四畳半襖の裏張り」
1975年(昭和50年)・・・「実録 阿部定」
1976年(昭和51年)・・・「愛のコリーダ」
1997年(平成9年)・・・「失楽園」
1998年(平成10年)・・・「SADA」
1999年(平成11年)・・・「平成版・阿部定 あんたが、欲しい」
2000年(平成12年)・・・「愛のコリーダ2000」 1976年公開のノーカット版
2008年(平成20年)・・・「JOHNEN 定の愛」
2011年(平成23年)・・・「阿部定 最後の七日間」
阿部定事件後にマスコミの切断部位の表現が生まれた
現代までの報道の性器部の表現の元になった
「阿部定事件」後、報道において阿部定が石田吉蔵の性器を切断したことをどう世間に表現するかで議論となっていました。
「男根」など直球な表現では報道としての品位がなく、「男性器」や「生殖器」では生々しいことから、「局所」「局部」「下腹部」と表現されるようになり、これは現在までに定着してきました。
旦那のことを好き過ぎて好き過ぎて殺してしまったみたいな?この間新宿であったホストの殺人未遂事件みたいな?愛人のちんこ切って殺しちゃった阿部定事件みたいな?サイコパスだな…(小声)
— ꪔϙꪔϙ【そば飯のお世話枠2号】🍑三途の川で埋没🌞 (@gl_ky_momo) October 17, 2019
「阿部定事件」についてまとめると…
・阿部定は近所で話題の美少女だったが、15歳で強姦されたことが原因で自暴自棄となり生活は荒れ果てた
・阿部定は1987年に死亡したとみられ、生前は愛人・石田吉蔵の命日に毎年墓参りをかかさなかった
”究極の純愛”とも言われてきた「阿部定事件」についてご紹介してきました。
「阿部定事件」は話題性が先行するあまり石田吉蔵とその遺族の気持ちが無視され続けてきましたが、本質的には身勝手な猟奇殺人事件であり、肯定されるべきものではないでしょう。