プロレスラーであり、区議会議員としても活動していた西村修さんは53歳の若さで亡くなりました。西村修さんのプロフィールや若い頃からの経歴、藤波辰爾との確執と絶縁、長州力との関係、結婚した嫁や子供、死去と死因のがん、ワクチンの噂をまとめました。
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西村修はプロレスラー&政治家
西村修
生年月日:1971年9月23日
出身:東京都文京区
身長:186cm
所属:フリーランス・無所属
血液型:A型
活動:プロレスラー、政治家
西村修さんはプロレスラーであり、2011年からは文京区議会議員として政治活動をするようになり、2023年には4選を果たしています。
プロレスラーと政治家としての活動を両立していましたが、2025年2月に53歳の若さで亡くなりました。
西村修の若い頃からの経歴
1971年に文京区で生まれた西村修さんは、慶應義塾の関連校である錦城学園高校に進学し、高校在学中にプロレス養成所である新日本プロレス学校に入学しました。卒業後の1990年4月には新日本プロレスに入門します。
1993年からはアメリカに武者修行に行き、翌1994年11月には新日本プロレスから帰国命令が出るもそれを拒否して、海外遠征を自費で続けます。1995年10月にようやく帰国しましたが、1997年5月には異例となる2度目の海外修行に出かけ、1998年1月に帰国しました。
その後、がんにより長期欠場しましたが、2000年に復帰します。しかし、2006年には新日本プロレスを退団して、師匠である藤波辰爾さんとリングアナの田中秀和と共に新団体「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げしました。
しかし、2007年後半には無我ワールド・プロレスリングを離脱し、全日本プロレスに合流します。
2010年3月には政治家になるための準備期間のためにプロレスラーを休養することを宣言しました。しかし、同年夏の参議院議員選挙に国民新党から出馬するも落選。2011年には全日本プロレスとの契約を解除し、4月には文京区議会議員選挙に出馬して初当選を果たします。
以降は、フリーランスとしてプロレスに参戦しながら、区会議員として政治活動もしていました。
西村修と藤波辰爾の確執と絶縁
西村修さんは、プロレス界のレジェンドである藤波辰爾さんと確執があり、絶縁状態になっていました。なぜ、藤波辰爾さんと確執・絶縁になったのでしょうか。
師弟関係だった
西村修さんと藤波辰爾さんは、元々は師弟関係でした。
西村修さんはアメリカに武者修行に行き、1994年に新日本プロレスから帰国命令が出たものの、それを拒否しています。
その時、新日本プロレスの社長だった坂口征二さんは藤波辰爾さんに「西村修の身柄を預かってくれ」と依頼し、藤波さんと西村修さんは師弟関係になりました。
2000年のがん闘病からの長期休養明けの復帰戦は、師匠である藤波辰爾さんが対戦相手を務めましたし、タッグを組んでIWGPタッグ王座を獲得したこともありました。
無我を立ち上げるも全日に亡命して絶縁
師弟関係だった藤波辰爾さんと西村修さんは、新日本プロレスの中で「1800年代の伝統あるプロレスを蘇らせる」というコンセプトで、「無我」と興行を行っていました。
2006年に西村修さんは方向性の違いから新日本プロレスとの契約を更新せずに退団しました。
また、ヒロ斎藤さんやリングアナウンサーの田中秀和さんも西村修さんらと共に、無我を共に運営していた藤波辰爾さんを新しいプロレス団体の旗揚げに勧誘します。
2006年6月に藤波さんは新日本プロレスを退団して、西村修さんらと無我ワールド・プロレスリングを立ち上げました。
しかし、徐々に積極路線の西村修さんと堅実路線の藤波さんの間に溝が生じるようになります。
この無我ワールド・プロレスリングは藤波さん中心の団体だったこともあり、西村修さんは不満を溜めていき、全日本プロレスの武藤敬司からの誘いに応じて、無我ワールドを退団し、全日本プロレスに突然移籍しました。
この移籍は藤波辰爾さんにとっては寝耳に水。2007年10月18日に後楽園ホールでの無我の試合を終えた後、無言で会場を後にし、同日に代々木第二体育館で行われた全日本プロレスの試合に登場したのです。この移籍を西村修さんは「言わば無我からの亡命」と表現し、西村修さんと藤波辰爾さんの間には確執が生まれました。
家族への批判コメントも
藤波辰爾さんの無我ワールド・プロレスリングの運営方針に不満を持って全日本プロレスに移籍した西村修さんは藤波辰爾さんを批判しただけでなく、無我の運営に参加していた藤波夫人も批判したり、「無我」の商標も持ち出したことで、「無我」の生みの親である藤波辰爾さんが「無我」というワードを使えなくしました。
家族を批判された藤波さんは西村修さんと絶縁します。さらに、「無我」というワードを使えなくなったため、団体名を「無我ワールド・プロレスリング」から「ドラディション」に変更しなければなりませんでした。
2025年に和解するも対面は叶わず
2007年に西村修さんと藤波辰爾さんが絶縁した後は交流が一切ありませんでしたが、2025年1月に西村修さんの代打でジャイアント馬場追善興行出場を決める時に、藤波夫人や長男のLEONAさんから言葉を掛けられて、藤波辰爾さんは西村修さんを許す形になり、2人は和解しました。
西村修さんの「入院している姿を見られたくない」という理由で生前の対面は叶いませんでしたが、西村修さんは嫁の恵さんを通じて感謝と謝罪の意を伝えていました。
その際、たもとを分かった詳しい経緯を聞いた上で「藤波さんにありがとうと、謝罪の旨を伝えてほしい」と言づかった。
引用:なぜ藤波辰爾の西村修さんへの弔辞が涙を誘ったのか 18年間もの絶縁から2人を師弟関係に戻した「無我」の2文字(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
西村修さんの告別式では藤波辰爾さんが「君に無我を捧げます」と弔辞を読みました。
「もう何も(過去を)気にせず安心して休んでください。最後まで誇り高く生き抜いた君に“無我”をささげます。お疲れさま」。
引用:なぜ藤波辰爾の西村修さんへの弔辞が涙を誘ったのか 18年間もの絶縁から2人を師弟関係に戻した「無我」の2文字(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
対面は叶わなかったものの、生前の確執を清算して和解できたのはせめてもの救いですね。
西村修は長州力を嫌っていたが…
西村修さんは、レジェンドプロレスラーの長州力さんと仲が悪く、長州力さんのことを嫌っていました。
西村 さすがにそれはないですけど。みーんな長州力のイエスマンでしたから。
――西村さんは当時から長州さんを「独裁主義者」として徹底的に批判されてましたね(笑)。
引用:【無我17000字】西村修ロングインタビュー「独裁者・長州力に逆らうってエネルギーが必要なんです」:Dropkick
西村修さんを1993年に海外遠征に行かせたのも、1994年に帰国命令(西村さんは拒否)を出したのも、長州力さんです。長州力さんと西村修さんは考え方が合わなかったこともあり、西村さんは事あるごとに長州力さんを批判していました。
2009年には西村修さんは長州力さんのことを「やっぱり憎い。これからも全否定したい」と語ったこともありました。
しかし、西村修さんのプロレスの基礎を作り、プロレスができる環境を整えたのは、長州力さんであり、そのことに関しては西村修さんは長州力さんに感謝していました。
そのころから口調は強くても、長州は辛抱強く成長を見守ってくれた。そのことへの恩義を西村さんは誰よりも感じていた。
引用:西村修さん、生前に語っていた長州力への感謝 帰国命令拒否で「大げんか」も…鳴かず飛ばずの日々を救ったひと言 | ENCOUNT
2023年には2人で食事をしている時の写真をインスタグラムにアップしていました。
西村修は2011年に結婚…嫁は16歳年下
西村修さんは2011年6月12日に16歳年下の齋藤恵さんと結婚しました。
恵さんは広島県出身で、短大を卒業後に上京して都内の百貨店で働いている女性です。
入籍したのは2011年6月ですが、結婚披露宴は同年12月にホテル椿山荘で行われました。嫁の恵さん、とてもきれいですね。
2人の出会いは、結婚の4年前の2007年12月。全日本プロレス広島大会の打ち上げの食事会に恵さんも参加していて、その時に恵さんは西村修さんにサインを求めました。その時、西村さんはサイン色紙の裏に自分の連絡先を書いたそうです。しかし、恵さんは連絡することはありませんでした。
その後月日は流れ、2009年に恵さんは短大を卒業して、上京しました。そんな時に恵さんはふと西村さんのことを思い出してメールを送ると、渋谷でデートすることになり、交際に発展しました。その後、同棲して、西村さんからプロポーズ。そして、入籍となりました。
西村修の子供は1人
西村修さんには子供が1人います。
2025年4月で小学生になる息子さんです。西村修さんは息子さんを溺愛していました。一緒にスノーボードに行ったり旅行をしたりしていたようです。
息子さんは2025年3月18日が卒園式で4月7日が入学式で、西村修さんはそれに向けて退院を計画していました。
6歳になる息子は3月18日が卒園式。4月7日が小学校の入学式だった。「それに向けて退院していく…と頑張っていたので一番悔しいのはそこだと思います」と声を震わせた。
引用:53歳で亡くなったプロレスラー西村修さん…妻が明かした壮絶な闘病生活…「30分に一度、痛み止めの注射…弱音を吐かず我慢強い人」 – スポーツ報知
しかし、容体が急変したことで、息子さんの晴れ姿を見ることは叶いませんでした。
西村修は若い頃にがんを患っていた
西村修さんは若い頃にがんを患っていました。
1998年に26歳の若さで後腹膜腫瘍というがんが発覚し、手術をすることになりました。
手術後は治療・リハビリを経て2000年6月の日本武道館大会で藤波辰爾さんとの試合で復帰しました。
西村修さんは、この時の後腹膜腫瘍は長州力さんからのストレスが原因という旨の発言をしていました。
また、手術後はインドに行っていました。インドのガンジス川で沐浴をして、穢れを祓おうと思ったのか、免疫を高めようと思ったのか…。
柴田:ガンジス川で沐浴していましたね。あの川は、生活排水や工業廃水、水葬などにより、水質汚染が問題になっていた。普通の人が入ったら病気になってしまうことも多いだろうし、実際に、ガンジス川に一緒に入った友人は短時間で体調を崩してしまった。西村さんは免疫力が高かったんでしょうね。
引用:幻に終わったアントニオ猪木との「シルクロード決戦」プランも 西村修のプロレスラー人生を元東スポ記者が振り返る (3ページ目) | web Sportiva (スポルティーバ)
そして、ガンジス川の沐浴のおかげなのか、2000年に無事プロレスに復帰したのです。
西村修が死去!死因は食道がん
西村修さんは2025年2月28日に都内の病院で53歳の若さで亡くなりました。
死因は食道がんです。
がんの発覚
2024年1月から体調不良が続いていた西村さんは同年4月に検査を受けると、食道がんであることが発覚しました。この時、すでに食道から左側上半身全体に転移していて、ステージ4にまで進行していました。
その後、7月にはがんが脳に転移して、痙攣を起こしてICUに搬送されました。それまで行っていた抗がん剤治療は一時中断し、放射線治療をスタートさせています。この痙攣を起こしたのは、病院で化学療法を行っていた時だったので、対処も早く的確だったので、不幸中の幸いと言えるでしょう。
この痙攣の1ヶ月半後には大仁田厚さんらと電流爆破デスマッチで対戦しました。すごい執念です。
10月19日にも緊急搬送され、10月28日には転移した脳の主要を取り除く手術を受けています。そして、術後41日で主治医などの強い反対を押し切って、「ノーロープ有刺鉄線+ジャイアント電流爆破バットデスマッチ」に出場します。
急変で死去
2025年1月には体調不良で脳腫瘍が転移していることが発覚したため、入院することになりました。
息子さんの卒園式・入学式に合わせて3月4日に退院する予定でしたが、2月28日に急変して亡くなりました。
午前4時くらいまではトイレに行けるくらいには動けていたのに、その2時間後には呼吸が止まったとのことです。
「それで次の日朝、(病院から)朝6時ぐらい電話があって、急変したんで、もう呼吸が止まりましたけど、心臓マッサージをしておりますっていうことで…それで向かった次第です」と明かした。
引用:53歳で亡くなったプロレスラー西村修さん…妻が明かした壮絶な闘病生活…「30分に一度、痛み止めの注射…弱音を吐かず我慢強い人」 – スポーツ報知
死因は食道がんでしたが、転移していた肝臓が原因で急変したと嫁の恵さんは話していました。
西村修の死因はワクチンではない
インターネット上では、西村修さんの死因はワクチンではないかと噂されています。
「食道がん」というのは嘘で、がんではなく新型コロナウイルスのワクチンが原因ではないかと一部の反ワクチンの人たちは考えているようです。
コロナワクチンの可能性がある。
— アイデンティティ再構築中 (@CwgHwe12056) February 28, 2025
いつまで国は逃げるんだろうね?
いつまでメディアは口をつぐむんだろうね?
プロレスラー西村修さん、53歳で死去 近く退院予定も体調急変…昨年春から食道がんステージ4で闘病(ENCOUNT)#Yahooニュースhttps://t.co/ER6sE79FPj
{コロナワクチン後遺症s/o
— もえねこたんのアヴァンギャルドな♪おま~じゅ♪ (@SWe3j) March 1, 2025
藤波辰爾、西村修さん死去に絶句「うそだ」 面会模索もかなわず 訃報に悲痛「会えなかったのは悔いが残る」(ENCOUNT)#Yahooニュースhttps://t.co/KA06jPfAL0
西村修さんもプロレスラー、区会議員という立場だからワクチン何回も打ってるだろうな。プロレスは直接肌にコンタクトするから打たなきゃ試合に出してはもらえない。お気の毒だけど癌サバイバーがワクチン打つと眠っていた癌細胞が活性化して急激に増殖、あっという間にステージ4…。
— 龍華 霊長類最強は打たない (@sUfXVp1dHPLyro0) March 9, 2025
ただ、西村修さんはワクチンは2~3回は打っているものの、基本的にはワクチン反対派だったとのことです。また、食道がんで全身・脳に転移していて、化学療法や放射線療法、手術を受けていたことは事実ですので、西村修さんの死因はワクチンというのはデマで、食道がんが死因というのは間違いありません。
新型コロナウイルスの流行以降、若い人が亡くなると、「死因はワクチン」と考える人は一定数いるんですね。
西村修のまとめ
プロレスラーで文京区議会議員だった西村修さんのプロフィールや若い頃からの経歴、藤波辰爾との確執や絶縁、長州力を嫌いな理由、結婚した嫁や子供、死因のがんとワクチンの噂をまとめました。
西村修さんのご冥福をお祈りします。